初めて目にした時、その玲瓏さに目を瞠ったことを覚えている。
女は、講義室の角に立ちただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。陽が反射して揺れる瞳の色は黒鹿毛(ダークブラウン)。艶やかな髪は若さを象徴していて、女の儚さを一層引き立てた。無表情な顔からは彼女の考えは露ほども読み取れなくて、しかしそれ故に、不純物などが一切含まれない、まるで人形のように完成された相貌だった。
──美しい。
それが、秋口が彼女に抱いた最初の印象だった。
「貴様、国体学を専攻していたそうだな」
秋口が上官からそう問われたのは夏のことだった。盛夏を迎えていた時節、蝉がけたたましく鳴く声が街中に響き、夏特有の熱気が窓を開けていても室内に充満するような時だった。
襟まで詰めた軍服に顔をつたる汗粒がシミを作る中、秋口は眉根を寄せた。
いったいなんだって、今そんな話を持ち出すのか。
確かに秋口は陸大で国体学を専攻していた。穂積八束先生、筧克彦先生による欧米とは一線を画した国家論には爛々と目を輝かせたものだ。
国家は天皇陛下と相対するものではない。その講義内容に学徒一同は高揚を露わにした。
臣民としてこれほどの名誉があろうか。
現人神であらせられる天皇陛下は、皇国と共にあるのだ。故に我ら臣民は、その天皇様と共にある。
秋口は講義を聞きながら、陸士時代に見聞を広めるために読んだ西洋の書物を思い出した。
神が人と共に歩む。
聖書にも同様の記述があり、それを欧米人が後生大事に心に留めるように、古今東西、神を迎え入れる事象は尊ばれるものなのだ。
秋口は非常に勤勉な学徒だった。成績も優を収め、同期生の中では五本の指に入る程度には優秀であった自負もある。多くの同輩に日中受けた講義内容を夜な夜な懇々と説き、その明瞭さに誰もが唸ったほどだった。
だが、その事実をなぜ今一度この場で確認されるのか。秋口は疑問に思った。
「で、どうなんだ」
「は!確かに自分は陸大で国体学を学んでおりました」
不審に眉をひそめながらも答えた秋口に上官は苛立たしげに煙草をふかした。灰皿に先端を押し付けて
「貴様に極秘任務を与える」
極秘、その単語に秋口はさらに眉間に皺を寄せた。上官は彼のその表情を一瞥すると肩をすくめた。
「そうイヤな顔をするな。貴様ほどの適任を俺は思いつかんのだ」
「……と、いいますと?」
「国体学を学んだだけではない。その中でも成績上位者でないと務まらん。加えて、左官でないと話にならないときた。まったく、ふざけやがって」
上官の言葉にますます秋口は首を捻った。確かに、秋口の階級は少佐(メイジャー)だ。しかしそれがなんだというのか。国体学に見識のある左官が必要な極秘任務とはいったいどのようなものなのか、秋口には皆目見当もつかなかった。
こめかみから頬を伝う汗がぽたりと襟を濡らす。油蝉の合唱に掻き消されるような声音で上官が低く呟いた言葉に秋口は瞠目した。
「……スパイの教育だ」
「……は?」
「貴様には、新しくできたスパイ養成機関の講師として赴任してもらう」
鬱屈とした面持ちの上官はデスクに置いてあったグラスを掴むと苛立ちをぶつけるように中の水を一気に飲み干した。音を立てて喉を通るその様を見つめながら、秋口は呆然とした。
──スパイだって?
あり得ない。間髪入れずに秋口は首を振った。
我が大日本帝国陸軍において、スパイなどという卑怯極まりない姑息な手段に手を染める人間がいてはならない。それは帝国陸軍内での共通認識であった。武士道に背く、恥ずべき行為だ。
そんな陸軍内において、スパイを養成する機関などあるわけがない。
秋口としてもこれを同期から聞かされれば鼻で笑うだろう。
冗談にしては、お粗末だ。
だがしかし、それを上官から、さらには心の底から忌み嫌う様子と共に言われてしまえば、与太話と一蹴するわけにもいかなかった。
油蝉の鳴き声が耳につく。こめかみを伝った汗がまた一つ襟にシミを作った。
「それと、その髪も伸ばせ」
終わらない与太話に、目眩がしそうだった。
結局、秋口が件のスパイ養成学校に赴任したのは師走の入りだった。
初めに、秋口は参謀本部、武藤大佐の連絡係として赴任した佐久間中尉から学校の子細を聞いた。
正式名称は、陸軍情報勤務要員養成所。試験をパスして入学したのは十数名の生徒。表向きは、スパイ養成学校とは外部に漏れないよう、生徒も出入りする職員も全て―軍人であろうと―髪を伸ばし、背広を着用することが義務付けられている。
髪を伸ばせ、とはそういうことかと秋口は約半年前の上官の与太話に今さらながら苦笑した。
しかし、そこまでは肯首しながら聞き流すように聞いていた秋口も、その後出てきた情報に目を剥いた。
「地方人だと!」
怒声が屋内に響いた。締め切った空き教室といえど、建物中に響き渡ったかと思うほどの怒鳴り声が空を裂き、説明をしていた佐久間がびくりと肩を震わせた。その姿にバツが悪くなり秋口は猛りを抑えるように低く唸る。
しかし、耳を疑う内容は腹に据えかねるものだった。
佐久間曰く、此処の生徒はほとんどが、地方人、ということだった。地方人、即ち軍人出ではない一般の大学を出た者達。軍内部では侮蔑を込めて地方という言葉を用いていた。
信じられない。あり得ない。
否定の言葉が頭に浮かんでは目の前を通過する生徒を前に霧散する。彼らの存在そのものが秋口を嘲笑っているように思えた。上官の苦虫を噛み潰したような表情が秋口にも貼りついた。
信じられないことは他にもあった。
赴任した直後、講義室に入ったその時、秋口が慣れない革靴を鳴らして教卓の前に立ち、生徒達に軍人たる気概を見せつけようとした時だった。
秋口は顔を上げ、拍子抜けした。
生徒達の姿にではない。生徒はほとんどが地方人で、軍人出の屈強な精神を持つ人間はいないと聞いていた。その生徒達の相貌が、飄々と、或いは澄ました顔であることは予想がついていた。
教卓に立った秋口の視線は、先ず生徒達にそして直ぐに室の後方に向けられた。そしてそこにいた人間に、秋口は目を瞠ったのだ。
室内に降り注ぐ陽光を横顔に受け、艶やかな髪が光を受けて反射する。真白のブラウスは腰の辺りで、膝下までかかる紺青のスカートの内側に入れられていてウエストが締まっている。華奢な体躯だ。さらに言えば、幼さの残る顔立ちだった。
そこにいたのは、ひとりの女だった。
女と呼べば良いのか、少女と呼ぶのが適切なのか秋口には判別がつかなかった。どちらともとれる曖昧な顔立ちだったのだ。が、しかしこの場所にいるという事実からして、彼女が市内の女学校の生徒などということはありえはしない。
──なんのために。
それ故の、困惑。
教壇に立ちながら、秋口の視線は女に向けられた。
だが、釘付けになった視線の理由は、女がいる、という単純な事実だけではなかった。
秋口の無遠慮な視線を受けた彼女は、彼の視線を己のそれと交錯させているにもかかわらず、決して逸らそうとはしなかった。むしろ、真正面から受け止め、そしてその表情筋はぴくりとも動かない。硬質なそれは、まるで彼女が精巧な人形のような印象を抱かせる。男相手に薔薇色に頬を染めることも、口元に微笑みを作ることもなく、ただ真っ直ぐに秋口を見つめていた。
一瞬にして、秋口は彼女に目を奪われた。決して絶世の美女でもない。稀代の大女優でもなければ、目を惹く華やかさもない。ひとりの女のはずの彼女の存在が秋口の中に深く刻まれた。
逸らすこのできない視線に生徒の一人が大きく咳払いをした。
「先生、授業を」
「……あ、ああ。そうだな」
呆けていた秋口は生徒の言葉に我に帰ると、慌てて講義用にまとめた作成資料を教卓の上に置いた。「まず、第一に─」と口を開き、淀みなく己が大学で学んだ内容を紡いでいく。
同輩に教えを請われる程度には学んできた自負が秋口にはあった。
しかしながら、ある者は頬杖をつき、またある者は気怠そうに頭の後ろに腕を回しながら。生徒達は黒板に記述される内容をおもいおもいの態度で聞いていた。ペンをとり、ノートにまとめようという素ぶりなど、誰一人として見せはしない。まるで、物見遊山にでも来ているかのような雰囲気だった。
──馬鹿にしやがって。
その態度に眉根を寄せ、叱責しようと口を開いた秋口は、はっと目を見開く。
視界の端に彼女の姿が捉えられた。
秋口は、思わず口を噤んだ。
女の前で怒鳴り声を上げることが憚られたと言えば聞こえはいい。しかし、秋口の中に過ぎったのは羞恥だった。
ぐっと、怒声を飲み込むと、秋口は平静を装って淡々と授業を進行した。幸い、私語で攻撃してくる生徒はいなかった。
言葉を紡ぎながら、秋口は横目で彼女を確認する。無機質な顔貌が変わらずそこにあり、秋口はほっと胸をなでおろした。
目を奪われた彼女の前で、醜態を晒したくはなかった。
女の名前は、千歳といった。
学校に赴任して数日経った時に、秋口はようやく彼女の名を知った。その数日後には、彼女の立場を知った。
千歳は学校の創設者、結城中佐の下で秘書をしているとのことだった。翻訳作業、書類作成などの打字手(タイピスト)業務のほか、参謀本部への電報送信、さらには食事の手配などの雑務まで仕事は多岐に渡っているようで、働きぶりに秋口は感心した。
良妻賢母。
献身的な女性は昨今好まれる。それが、頭の良い女性なら尚良い。物の通りが分かり、且つ聡明な女性というのは人の目を惹くものだ。
秋口は、自分が彼女という存在を気にかけてしまった理由は、この良妻賢母、の雰囲気が滲み出ているためではないかと感じた。多くを語らず、しかし仕事は迅速かつ丁寧にこなす。淑女という言葉が相応しい佇まいだった。
秋口はたびたび彼女を見かけた。しかしながら、話しかける機会というのはなかなか訪れなかった。というのも、人目を気にしたためだ。
協曾内には生徒のほかにも、打字手(タイピスト)の女性が何人か出入りしている。彼女たちにはここが陸軍内部に秘密裏に設置されたスパイ養成学校だとは知らされておらず、生徒達が語学に堪能なことから、満州で商社を営む企業の研修所だと認識しているようだった。事実、彼女たちの何人かが生徒に接触し、彼らの素性を探ろうとしたが揃いも揃って同じ企業名と職務内容を答えたため、彼女たちはその与太話を信じきっている。
秋口は「秋口先生は特別な先生なのね」と彼女たちのひとりから声をかけられたときは、何事かと思ったがすぐに合点がいった。
講師として派遣されている教師は、秋口以外は数えるほどしかいない。その数えるほどというのも、金庫破りの常習犯やジゴロのプロなど、凡(およ)そまともな思考とは言い難い教師連中だった。それ以外の座学、所謂、薬学、物理学、政治、経済、などの分野のほとんどは学校の創立者、結城中佐が指導していた。
それゆえの、特別な先生、だ。外見だけを見ればどこかの大学の講師ともとれる秋口を見た率直な感想に秋口は形容しがたい感情を抱いた。
──地方人と一緒にされるとは。
軍人刈りを直し、髪を整え、背広を新調して臨んでいる≪任務≫ではあるが、陸軍幼年学校から大学校までを経て左官として参謀本部で勤務している秋口にとって、地方人に見られることは必ずしも喜ばしいことではなかった。
しかしながら、この地方人に見られる秋口の風体が、奇しくも彼女、千歳との会話のきっかけとなる。
「地方人はお嫌いですか」
打字手の女性たちの褒め言葉を頭の中で反芻し、渋面のまま廊下を歩いている時だった。
背後から聞こえた言葉に秋口の心臓は大きく跳ねた。冷や汗が全身から一気に吹き出し、心臓が早鐘を打つ。
表情に出していた自覚はなかった。この学校に出入りする条件として、何人にも軍人であることを悟らせないこと、また地方人になりきることを上官にも―しぶしぶながら―求められていた。
それほど、自分は表情に出していたのか。失態に生唾を呑みこんだ秋口に、声の主は彼の横をすり抜けた。
刹那、はっと秋口は、その横顔に目を奪われた。
ゆっくりと時が過ぎるように、彼女の相貌が秋口の網膜に焼き付けられた。前を向いていた彼女の瞳が須臾に秋口に向けられ、思わず息を呑む。
澄んだ瞳には、不純物などいっさい含まれていない。それは彼女の問いかけに、侮蔑や落胆といった含意はなにひとつないことを意味していた。
「嫌い、ではない」
向けられた瞳を逃さないように、秋口は思わず声を出した。掠れた声に自嘲する。
嘘だ。誇り高き帝国陸軍軍人としての自負が地方人という蔑称を生み出していることは秋口にも自覚はある。故に、しかめ面を表に出してしまっていたのだ。
それでも、否、それ以上に、自身の澱んだ心内によって彼女の落胆を誘うことはできなかった。
「そうですか」
玲瓏な声は秋口の答えになにひとつ色を添えなかった。無色透明。秋口の心内など最初からどうとでも良いと言わんばかりの、声音だった。その声がひどく心地よくて、秋口の胸はスッと軽くなる。同時に、彼女という存在に対して秋口はひとかたならぬ想いを抱くことになった。
*
千歳は講義の際には常に室内にいた。生徒達が木の机を並べて講義を受ける中、彼女はいつも教室の隅でその光景を眺めていた。
精巧な人形のように物音ひとつたてず、黙ってただじっと目の前の光景を記憶に残すように佇む彼女に秋口はたびたび視線を奪われた。そのたびに、生徒達から含意のある笑みが向けられ咄嗟に顔を引き締めたものだ。そんな秋口の姿は彼女にとってはどうとでも良いことだったのだろう、相変わらずその相貌に感情の起伏はなかった。
変化が現れたのは、赴任して二週間ほど経ったある日だった。
秋口は上官命令により参謀本部に一時的に立ち寄った帰りに買出しをしている彼女を見かけた。
八百屋の店主に語りかけ、籠に少なくはない野菜を入れて銭を渡す彼女の横顔を、秋口は思わず食い入るように見つめてしまった。
下げられた目尻、薄く笑んだ口元、仄かに薔薇色に色付いた頬が店主の顔を和らげている。「また来なよ」と快活に笑いを投げた店主に、淑やかに頭を下げた彼女が歩き去るまでの流れを、秋口は呆然と見つめていた。
──あんな風に笑えるのか。
無感動に表情が変わらない彼女の動的な一面に、心が高鳴ったのを自覚した。奪われた視線は彼女を追いかける。脳が指令を出して、足が付いてくる。視線は囚われたまま、秋口は彼女の後を一定の距離を保ちながら歩いた。その間も、先ほどの彼女の顔貌が頭から離れない。
──見たい。
胸が焦がれるほどの、気持ちだった。
秋口は女に不慣れなわけではない。上官の付き添いで料亭に出入りもしたことがあれば、カフェーの女給と円宿で休んだこともある。女という生き物を買ったことがないわけではないのだ。その度にこのような情動に駆られたわけではない。
で、あるにもかかわらず、この気持ちだ。秋口は年甲斐もない己が慕情に苦笑した。あの笑みを、自分へと向けさせたいという邪ともいえる欲が腹の内から湧き上がるのを感じていた。
千歳という女は麗質で、しかし献身的な《良妻賢母》を見せる。秋口は、己がそこに惹かれる故に千歳という女を特別視していることも自覚していた。
千歳は、秋口が求めている女像だった。
昨今の女の流行りは、自由恋愛だ。地方の農村では貧困に喘ぐ女達が身売りをさせられる一方で、都市部の女達は自由を謳歌する。モダンガールなどと呼ばれる女達が銀座を闊歩する姿に秋口は幾度となく眉をひそめて舌打ちをした。鼻に付く香水も上流階級(ハイソ)を気取る振る舞いも何もかもが秋口を苛立たせた。
古来からの日本国の伝統を尊ばない輩達だ。
日本民族は忠君報国の精神の元、主権者たる天皇陛下に忠節を誓う。そのように在る民族だ。
また、国家は家族である。現人神であらせられる陛下が本家であり、その末族として国民が在るのだ。
欧米かぶれの連中は国体のこの字も理解していない。
秋口はこの風潮に嫌気がさしていた。女を消費しながら、秋口は一方で消費される女を厭っていた。
自由主義的思想をもたらした欧米の文化も、それに絆(ほだ)される若い男女も、秋口にとって嫌悪の対象でしかなかった。醜悪だ、どこを見ても若い連中は痴態を晒している。消費する女達は最たるもので、連中を抱きながら秋口の中には鬱屈とした想いが蠢いていた。
──嗚呼、見たい。
浮世で乱舞する輩とは違う、俗世と隔絶された世界に生きる一輪の花に秋口は囚われていた。
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