「話がある」と秋口が彼女、千歳を呼び出したのは年が明けたその日、正月のことだった。生徒達はD機関に入校したその時から過去の経歴の一切を闇へと消しているため、誰も彼もが故郷へ帰郷する気配を見せず、帰る場所など初めから存在しないと言わんばかりに普段通りに講義を受け、同輩との話に華を咲かせていた。
初詣、などというものに特別な思い入れをしているようには見えない生徒達の様子は秋口にとっては寧ろ好都合であった。
秋口の言葉に千歳は黙って頷くと彼の後をついてきた。
秋口が向かったのは、町外れの小さな社だった。衆人で賑わう神社から離れたその場所には、夕刻前ということもあり人影はあまり見られない。
寒空の下、境内へと足を運ぶと秋口は千歳に向き直った。「寒い中すまないな」と軽い口調で話し始めた秋口に千歳は眉ひとつ動かさずに答える。

「ご用件は何でしょうか、少佐」

生真面目な女だと思った。出会った当初から感じてはいたが、千歳は凡(およ)そ世の女性が心躍らせる娯楽に欠片も心を砕くことはない。俗世の瑣末ごとに関心を寄せないその姿はまさに人形のようだった。
漆黒に茶が混じる瞳が秋口を見据える。己を見透かすかのような視線に乱れる心音を整えながら、秋口はかねてより抱いていた疑問をまずは彼女にぶつけた。

「何故、君はあの男に従うんだ」

あの男、即ち彼女の雇い人、否、主従の関係ではないのかもしれない。このひと月ほど、秋口はさまざまな憶測を巡らせては答えの出ない問いに首を振っていた。
陸軍内部に秘密裏に創設されたスパイ養成学校。そこを率いる謎多き陸軍中佐。そしてその男が子飼いにするひとりの女。彼女は何故、何のために、いつから、その答えを秋口は探していた。
それを探すことには、意味があった。

「何故、それを聞かれるのですか」

秋口の問いに動じる素振りを露ほども見せない彼女は、秋口に問いの意味を訪ねる。
理知的な女だと感じた。決して秋口の問いの裏側を探るような視線を寄越さず、逆に秋口に凛とした声音で問い返す。軍人である秋口に気圧される様子は見せない、且つ出過ぎた態度もとりはしない。
だからこそ、秋口は知ることを切望していた。

知ることで、彼は──

「君のような女性は、あのような場所にいるべきじゃない」

手に入れたかった。

「君は馬鹿じゃない。いや、むしろとても知的な女性だ。己の分を弁えながら献身的な働きをすることはそうできることではない。だからこそ、君はもっと…もっと、誇ることのできる場所で働くべきだ」
「誇ることのできる場所とはどのような場所ですか」
「それは…」

千歳の問いに秋口は開いた口を噤んだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込み、きつく瞼を閉じる。

それは、紡いではいけない言葉だ。

「……少なくとも、武士道に反するあのような、スパイを養成する場所にいるべきではないんだ」

それは、綴ってはいけない想いだ。

そう己に言い聞かせ、瞼を開いて彼女を見つめる。心の奥底にしまい込んだ劣情を隠すように秋口は強い口調で言い放った。
慕情を寄せた相手は、人形だった。ひどく精巧な作りの生きた人形。ひとりの男の手で操られる人形だった。
初めて出会った時からその玲瓏さに惹かれた。稀代の女優、絶世の美女ではないただの女はしかし秋口の心を捉えて離さない。献身的な働きぶり、凛とした佇まい、しかし時折、外で見せる女性らしい微笑みは、秋口の求める女像だ。
秋口は己の稚拙な思いを理解していた。理解しているからこそ口に出すことは憚られた。
冷気が肌を撫ぜる。澄んだ空気に相応しい相貌が、噤んでいた秋口の口を緩くして、思わず言葉が漏れた。


「一緒に、来ないか」


瑞々しい彼女の手を握り、秋口は早口に続ける。

「あそこは軍の上の人間にはよく思われていない。遅かれ早かれ解体されることは目に見えている…だから、君があの場所にいては危険なんだ。君は、…君はもっと普通に生きるべきだ」

言葉に熱が込もり、動悸が激しくなる。
彼女の身を案じながら、しかし裏に秘めるのはただの劣情だ。邪な感情と謗られても言い訳はできない。
それでも、秋口は彼女の手を離すことはなかった。
脳裏に浮かぶ彼女の全てが秋口に訴えかける。話す言葉は清らかな水のように口から流れ、蓄えている知識は幅広く、識見の高さには頭が下がる思いだった。男に媚びず、しかし何気ない素振りで男を立てて己の分を弁える。学び舎の外で見せる華のような笑みは、可憐な少女のようだった。

「君のような女性は、あの男に囚われてはいけない」

「いけないんだ」とか細く紡いだ秋口は彼女を腕の中に閉じ込めた。華奢な体躯だと感じていたが、柔らかな肢体を全身で感じると一層彼女が女性であることを実感する。ひと気がないのを良いことに秋口は深く彼女を抱き締める。

「一緒に来てくれ、千歳さん。俺と、俺と共に」

共に生きてくれ。冷たさを孕む空気を保ってもいい。時折、隣であの花弁のような笑みを向けてくれればそれだけで幸甚に包まれる。
上官の形相が脳裏に浮かんで、消えた。


「俺は、君を──」


胸を支配する感情に任せて綴られかけた言の葉はしかし遮られた。


「いけません」


凛とした声が秋口の腕から聞こえた。

「いけません、少佐」

控えめながら強い口調だった。意思をはっきりと乗せた声音に秋口は息を呑んだ。

「それ以上は言わないで下さい」

それは、彼女から溢れた、彼女の意思が確かに込められた声だった。
無機質で無感動な、平静から一歩も外れないはずの声音が震えていることに秋口は気がつき、動揺した。心音が腕の中の彼女に届きやしないかと思い、努めてその音を鎮めようとするが、目の前の彼女にそれは叶わなくなった。
秋口が視線を下げると、至近距離にあった彼女の相貌が視界に入る。
そこで再度、秋口の心は跳ねた。

「言っては、いけません」

彼女の瞳は揺らいでいた。観察眼が人よりも多少は優れている秋口には理解ができる。眉が僅かに下がり、揺れる瞳が悲哀を孕んでいで、薔薇色の唇はただひたすら秋口を拒みながらも震えていた。
そこにいたのは、ただひとりの、女性だった。

「少佐、わたしは」

しょうさ、と紡いだ彼女の唇に秋口は吸い寄せられ、無意識に塞いでいた。柔らかな女性特有の感触と彼女の相貌が繋がり、尚深く秋口は口付ける。微かな抵抗すら抱き込んで、秋口はひたすら彼女の唇を食んだ。

情動が抑えきれない。
高揚が身体を支配する。
警鐘は彼方へと消えていった。


──これほど、心が揺れることがあるか。


ありはしない、と自問自答する。秋口が生きてきた僅かな時間の中でそのようなことはありはしなかった。
彼女が己を曝け出している事実は秋口の軍人としての体面や自負を崩すには充分だった。手に入れたかった彼女の人としての柔らかさが此処にある。
己が手の中にある彼女の存在に秋口は夢中になった。緊縮する肢体を抱いて、艶やかな髪を梳いて首筋に吸い付けば「しょうさ」とか細い声が秋口を呼んだ。

「いけないの、です…少佐」
「何がいけないんだ」
「私は、行けません。少佐と共に行くことはできません」
「何故」

はしりと彼女を見据えて問う秋口に、千歳は逡巡した視線を落として重い口を開いた。

「私は、人形です」

ひとつ瞬いた彼女の瞼の裏に見えたのは、何だろう。思い描いたのは彼の漆黒の魔王と呼ばれる化け物か。
消え入りそうな声で己を呼ぶ彼女は、しかし瞼を開いたその時には既に──

「私は、あの人の物です」

その瞳に彼を宿していた。
控えめながらも真の込もった声に秋口は眉を潜めた。ぎり、と奥歯を噛み締める。

「何故そこまであの男に義理立をする?君をあのような場所に置いている時点で、あの男は君を使い捨ての駒としか考えていないんだぞ」

年頃の娘を手駒に加え、何処にも出さずに飼い殺している男に忠誠を誓う必要が何処にある。
もっと自分を大切にしろ。そう視線で訴える秋口に彼女は首を振る。

「あの人は私の全てなのです」

彼女はそう紡いで秋口を見上げ、秋口と視線を交錯させる。
縋るような瞳だった。秋口に向けられたのは哀感を含んだ視線で。
魔王から離れることのできない女は、ただ彼を慕っていた。

──そこまでなのか。

秋口は胸中に苦々しい思いが広がるのを感じ、唇を噛む。
彼女の心はあの男に捕らえられている。固い意志が言葉に含まれていることを秋口は悟った。悟らざるを得ないほどに彼女の彼への献身は揺るぎないもので、それは忠君愛国の心を持つ秋口にはよく分かった。
譲れないものは、秋口とて同じだ。
己が入り込む隙などないと言わんばかりの態度に、秋口には彼女の背後に魔王の歪んだ笑みが見えた。


未だに秋口には彼女の唇の感触が蘇る。相貌に灯った悲哀の色、歪む顔に今にも崩れ落ちそうに震える身体。全てを抱き込んで肌に感じたことを鮮明に思い出せた。

手に入れたかった。

その想いに嘘偽りはない。上官の醜悪な顔面を塗り潰して、彼の陸軍中佐から彼女を解き放ち、ひとりの女性としての生を過ごして欲しいと切に願ったのは事実だ。
しかし、秋口には為さねばならない使命があった。そのためなら命さえ惜しくないと思うほどだ。
儚げに染められた相貌を振り切り、秋口は二人の生徒に向き直った。

「在京同志に話はつけてある。領事館を制圧後、目的の書類を奪取。その足で東京へと戻る。書類はかねてより俺の思想に共鳴して下さっていた参謀本部の斎藤中将へ渡す予定だ。あとは、近衛公に書類が引き渡されれば、天皇陛下に上奏された後に維新が図られるだろう」

昭和維新の達成はすぐそこだ。しかし、急いては事をし損じる。
今後の動きについて思案していた秋口に、三好が懸念を示した。

「口で言うほど簡単にいきますかね。憲兵はどうします?彼らの動きは早い」

顎に手を当てて唸った彼に、秋口は口の端を上げた。

「心配はいらん、在京同志のひとりが憲兵隊に所属している。尻尾を掴まれるまでの時間稼ぎ程度はやってくれるとのことだ」
「尻尾すら掴まずに野放しにしてくれたらなおのこと良いんですけどね」

けらけらと神永が諧謔を弄する。
秋口の協力者の所属は、陸軍省の左官のほか、右翼運動家から一般の会社勤めの人間まで多岐に渡る。彼ら数十人が在京同志となり、秋口の計画を支援する。神戸にある高等商船学校の兵器庫から武器弾薬を徴収する算段はつけてあった。

「こちらに潜伏している同志と湊川神社にて合流した後に計画を実行する。貴様らは俺とは別に神社へ来い」

万が一を考えての別行動だ。秋口の命令に二人は無言で頷いた。
笑みを深めた神永と神妙な面持ちの三好は、秋口に背を向けると海風を背に受けながら各々散っていく。

ふたつの背を見送りながら、秋口は曇天が広がる空を仰いだ。
抜けるような青空ならば先行きもよく見えたのかもしれない。まるで、己の行く末を体現しているかのような灰色に秋口は自嘲気味に鼻を鳴らした。
澄んだ瞳も、青空に似合う相貌も、未来には置かれることのない幻と化した今の自分に相応しい色だ。
目深に帽子を被り直し、秋口もまた寒風吹き荒れる港町へと姿を消した。

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