参謀本部、武藤大佐の元から派遣されている佐久間中尉とは別に、秋口は上官への報告を逐一行なっていた。
師走も半ばを過ぎている。凍てつく空気が街を包む時節だった。

「それで、尻尾は掴めたのか」

上官は背広姿に髪を撫で付けた秋口を下から上まで眺めて、「随分とサマになったな」と嘲笑すると、吐き捨てるように問うた。
秋口は直立不動の姿勢を崩さず、腹から声を出す。

「申し訳ありません!試みてはいるのですが、五分も透かない連中で…」

秋口の応えに、上官は憤怒の形相で机を蹴り上げた。

「その報告は先日も聞いた!貴様、その格好だから腑抜けているのではないか!」

秋口の着姿で参謀本部まで来るということが、上官にとっては気に入らないのだろう。苦々しく秋口を睨み付ける上官に、秋口は冷や汗を垂らしたが、苦虫を噛むような想いは秋口とて同じだった。

《*機関の面子を潰せ》

秋口に与えられた本来の任務は、国体学の講師として生徒を教育することではない。この学校の存在を白日の下に晒すことで陸軍内でのこの学校の立場を苦しくすることだった。その為に、わざわざ国体学で教鞭を振るえる程度の左官である秋口が抜擢されて赴任したのだ。ハリネズミの要塞に手を突っ込む真似をしたのも、すべてはその為だった。
打字手(タイピスト)の女性達がいるのも、上官が上に打診したからと聞く。スパイを養成する学校なら、一般人の目など容易に騙せるだろう、とのことだったが、事実このひと月、同じ屋根の下で《仕事》をしているにもかかわらず、彼女達に彼らの素性はいっさい知られていない。
機関から送られる、また送られてくる郵便物に不審なものはないか彼女達が抱えていた手紙群をそれとなく貰い受けて調べたこともある。欧米各国の領事館を経由して届くものには細心の注意を払っていた。軍機密の漏洩はないか、など綻びが僅かでも見つかればそこから奴らの化けの皮を剥ごうかと矯(た)めつ眇(すが)めつ注視していたというのに、秋口の前にその綻びの一端も現れはしなかった。

「クソ!地方人の分際でコケにしおって…!」

怒髪天を衝(つ)く勢いで、上官は握りしめた拳を机に叩きつけた。外気は冷え込んでいるというのに、室内は上官の怒気で温度が上がっているかのようだった。
*機関は参謀本部の上の人間にとって目の上のたんこぶだ。そもそも、軍内部にスパイ養成学校が設立されるということだけでも忌々しい思いを抱くものは少ないというのに、加えて、生徒の多くは地方人、さらに生徒達を指導する結城中佐は軍内部でも一匹狼的性格で知られている。はぐれ者、ならず者、誇り高き帝国陸軍軍人とは対極の位置にいる人間達は否が応でも悪目立ちをした。

「いいか、確実にウチが奴らを潰すんだ。他の連中に先を越される前に言い逃れできないような証拠を掴め。帝国陸軍にスパイなどは必要ないことを知らしめてやるのだ!」

もはや執念だ。血走った目が秋口に向けられ、腸(はらわた)が煮えくりかえるような上官の憤りが秋口を刺す。
手柄を立てろ、それだけの単純な命令だった。たとえそれが、他の部隊に手柄を上げさせたくないただの私欲が入り混じっているとしても、それは確かに命令だ。上官の命令は、絶対。それが、軍というものだ。
忿怒の形相の上官に、秋口の脳裏には、ふと対象的に彼女の相貌が浮かび上がった。
無駄に話さず、しかしひとつ声を発すればその玲瓏さに荒波に飲まれていた心は静かに凪いだ。彼女の存在に胸のむかつきは吸い寄せられ、穏やかなさざ波となる。
愛想笑いなど向けられたことはない。それでも不快に思うことが決してないのは彼女が凛と佇んでいるせいだろう。
無性に、彼女の姿を恋しく思ったのは、きっとこの扱い辛い上官の前から一刻も早く立ち去りたいからだ。
秋口は短く一礼すると、革靴の音を響かせながら室内を後にした。

報告から数日経っても、秋口の任務に芳しい成果はなにひとつなかった。
そもそも、証拠というものが本当にあるのか。
上官の話によると、*機関の設立者、結城中佐は生粋のイギリス好きということだ。在英日本国大使館の駐在武官と旧知の仲とか、駐日英国大使館の一等書記官と密談を繰り返しているとか、そんな黒い噂が囁かれている。しかし、真偽のほどは不明で、噂の域を出てはいない。どこからの情報も人づてでそれを聞いたに過ぎない曖昧模糊なもので、真相を辿ろうにも誰もが口を揃えて「詳しいことは分からない」と肩を竦めるのだ。
秋口は空を掴むような任務に疲弊していた。


   *


そんな折、秋口に転機がやって来た。
それは、秋口がまたもや実のない情報を掴まされ意気銷沈に協曾に帰ってきた日のことだった。
肩を落として協曾へと戻った秋口はひどい喉の渇きに食堂へと足を進めた。外では夕陽が既に空の彼方に沈みかけていて、打字手(タイピスト)の女性達も仕事を終えて帰宅していた。
食堂のドアを開ける寸前、秋口は内部に数人の生徒がいることを確認した。軍人たるものは人の気配に鈍感ではならない。戦場ではいついかなる時に敵の攻撃を受けるか分からない以上、常に気を引き締め、周りに注意を払うことは最低限の勤めともいえた。
何の会話を交わしているのか。秋口は聞き耳を立てて中の様子を伺った。

「……貴様、本気で言っているのか」

低い唸り声を放ったのは確か波多野という男だ。小柄な体躯の割に、体術の授業では好成績を収めていた生徒だった。
声音からして何か揉めているのか。秋口は耳をそばだてた。

「アメリカが日本の大陸侵出に過剰な危機感を抱いている現状で、イギリスに喧嘩をふっかけようって?女に振られ過ぎて気でも触れたか、神永」
「俺は至極まともだ。ワシントンでの同盟破棄の段階で既にイギリスと日本は互いを友人(パートナー)と呼べる間柄ではなくなった。向こうが何を思っていようとな。形骸化した関係になっているのは貴様らとて理解しているだろう。天皇はたいそうお気に入りな様子だが、遅かれ早かれアメリカと結託して戦争を引き起こす可能性はなきにしもあらずだ」
「何故そこで対英感情を逆撫でするようなことをしでかそうと思うんだ。逆だろう。アメリカを牽制するのなら、イギリスを切るのは得策じゃない」

二人の会話に入ってきたのは小田切だ。小田切の発言に同意を示す声を発したのが数人。今、部屋の中にはおそらく生徒全員がいる。
話の内容からして日本の対外政策について論じていることは理解できた。そして、珍しいことにその内容で揉めているのだ。
生徒達は常日頃から国際情勢、国内経済のほか、文学考察や思想史など講義で学んだことを元に議論を交わしている。大概、大凡の解釈と路線は一致するので相手を駁する機会はそうそうないのだが、この日は違った。
イギリスとの協調路線を主張する生徒に対して、神永は真逆の路線を主張しているらしい。
そして、そこにさらに一人加わった。

「アメリカとイギリスは結託するだろう。こちらがイギリスを使うには遅過ぎた」

少しばかり声の高い、しかし整然としたこの声は三好だ。

「東亜権益の維持に対してイギリスは神経を尖らせている。これ以上、黄色人種(イエローモンキー)が幅を効かせるくらいなら、自由主義圏のアメリカと手を組むさ」

「上には別の厄介な奴らがいるからな」と鼻を鳴らした三好に神永が続く。
上、とは即ち共産主義圏のソ連のことだろう。さらに言えば、目下、イギリスが注視しているのはドイツだ。厄介ごとが横に転がっている中で、なるほど、確かに両国が手を組むというのはあながち与太話でもないのかもしれない。
しかしながら、波多野が彼らに異を唱えた。

「ならば、手を引けばいい。そもそも戦争利権の吊り上げなんぞに固執するから目を付けられる。だいたい、結託すると仮定しているというのに、貴様らは反英主義にでも毒されたのか?」

「馬鹿馬鹿しい」と波多野が吐き捨てる。そこにさらに三好と神永が何かを言い返していたが、秋口の耳にはもう届いていなかった。
秋口は聞き耳を立てていたその場から二、三歩足を動かすと壁に背を預けてひとつ息を吐くと天井を仰いだ。


──好機だ。


抑えきれない興奮に秋口は口元を歪めた。心臓の音がはっきりと聞こえるほどの胸の高鳴りだった。全身の血が騒ぎ立つ。掌を瞼に当てて、くっくと喉を鳴らした。

反英主義。その単語に秋口の脳裏には須臾に計画が策定された。
*機関の設立者、結城中佐は軍の中でも親英派だ。その生徒達が彼の思想に傾倒するのは理解ができた、が、それでもすべての生徒を取り込むことには限界があったようだ。少人数ではあるが、綻びが生まれていることを秋口は確認した。

──三好、神永は引き込めるか。

対英強硬路線を唱える二人に秋口は任務遂行の可能性を感じていた。
近頃、モスクワに毒される輩のほかにもイギリスとの協調路線を唱える派閥が陸軍内部でもごくわずかだが見受けられる。
モスクワに毒される、即ち共産主義への心酔。連中は、人民間の格差に抗議の声を上げ、理想社会の実現のためには革命が必要との見方を示す危険思想の集団だ。
共産主義者は憲兵も注視している危険団体だが、見過ごされがちになっているのが、欧米の自由主義圏との協調を目指す一派だった。

──協調ではなく、迎合だろう。

幾度となく秋口は吐き捨てた。
生徒達が論じていた通り、イギリスは先のワシントン軍縮会議において約二十年にわたり継続されていた日英同盟に終止符を打った。代わりにできたのが、フランス、アメリカを含めた四国条約だが、事実上アメリカによる日本の南下政策の牽制の意味が強い。
そして、それを理解していながら同盟国日本よりアメリカの脅威に対する体制をイギリスは取ったのだ。
所詮、彼の国において日本の位置など下の下。アメリカにおいては言わずもがな、だ。
自由主義圏、すなわち資本主義経済圏の人間達と手を組もうとする思想は、危険だ。
日本国は現人神であらせられる天皇様を元首として、臣民が長である天皇様をお支えする他に類を見ない国家だ。その伝統は、ぽっとできた異民族国家とは違う。
共産主義も自由主義も秋口にとっては排除すべき思想だった。


後日、協調路線を唱えた生徒に対し、真っ向から反論を述べた二人に秋口は接触を試みた。講義終了後に二人に声を掛けたところ、他の生徒は昼食を取りに食堂へと向かっていった。

「御用件は何でしょうか、先生」

端麗な相貌の三好が顔に見合った声で秋口に問う。赤く丸みのある唇を弧に歪め、見定めるように視線を細めた彼に秋口はひとつ咳払いをすると、二人に向き合った。

「貴様らは、我が国の対外政策におけるこの先の懸案を何だと分析する」

秋口の問いに二人は僅かに眉根を寄せ、質問の意図を図るように互いに視線を合わせた。
直接的な表現を避けた秋口の問いは確かに分かりづらかった。二人を引き止めてまで質問する内容でもない。首を捻る二人に秋口はしかし核心を言わない。
真の意図をそう易々と見せるわけにもいかないのだ。
秋口にとって、これは一世一代の賭けだった。

「貴様らは、俺の講義を一番真面目に聞いていると思うがー」

少しずつ、己が意図を解していく。

「その上で、日本国の今後の在り方を聞きたいと思ってな」

頭の良い人間、さらに言えばー秋口の講義を真面目に聞いている人間ーならば、己が今発した言葉の意味と真意は伝わる。
そしてこの二人は、既に結城の手から溢れている。
あくまで平静を装いながら秋口は口元を歪めた。
そして同じように、目の前の二人の生徒もまた、顔を愉悦に染め上げた。





寒風が吹き荒ぶ港町は内陸より一等気温が低く感じる。体感温度は二、三度は低いだろう。粉雪が舞う町は賑わいを見せていた。
師走も過ぎ、正月気分を日本中が味わっている時節だった。
海風が肌に沁みる港には貿易商社が保有する貨物船が出入りするが、冬の荒波を前にここ二、三日は船出を足踏みしている状態だ。仕方なく、船乗り達は港から近い歓楽街へと足を伸ばして天候が機嫌を良くするまで自分達も羽を伸ばしている。
そのためか、港には船を管理する人間以外にはひと気が見られない。その管理する側の人間でさえ、寒風を避けるために倉庫の中へと避難していた。
港には、諸外国との貿易品が入れられたコンテナが所狭しと並べられている。
その一角で蠢く闇があった。正確には、大の男、三人が厚手のコートを羽織って、顔を突き合わせていた。

「それで、どうしますか」

陶器のような肌をした美青年がポケットから一本煙草を取り出すと、緩慢な動作で火を点けて紫煙を吐き出す。粉雪が舞う空気にそぐわないほど、その声音は涼しげだ。
青年の隣にいる同じ年代ほどの男は、顔をにやつかせながら青年と男を見遣る。

「此処に来たのは、俺と三好だけなんでしょう?いったい、どうやって革命を起こす気ですか」

そう肩を竦めた青年、神永に、男、秋口は眉を顰めながら咳払いをした。一等、声を落として鋭い視線を送る。

「誰に聞かれているかも分からん。不要な単語を使うな」
「誰も来やしないですよ、こんな場所」
「万が一を考えろ。この作戦は、日本国の命運の掛かる重要任務だと貴様らには伝えたはずだ」

固い声音で囁けば、二人は一転、口を結び、神妙な面持ちとなった。人を小馬鹿にしたような表情が板に付いていた彼らだが、その彼らでも、これからの任務に対してはその軽薄さが剥がれ落ちるほどの緊張を持っていることが伺える。秋口は、どこかほっとした。

秋口達は東京から離れ、神戸に来ていた。名目としてはハルビンにある陸軍の特務機関に研修とのことだったが、残念なことに冬のこの時期は海が時化る事が多い。過密な授業日程を組んでいるため、数日の足止めを食らうことが判明した時点で秋口は研修そのものを取り止めた。
東京への帰り道は指定していない。各々が勝手に帰れば由、としたため生徒達は互いに背を向けて帰路へと着いた。中にはふらりと何処かへ流れる者もいるかもしれない、が秋口にとってそれは至極どうでも良いことだった。秋口にとって重要なのは、今此処に、三好と神永がいる事実そのものだ。

《神戸にある英国総領事館を襲撃する》

それが、秋口の考案した任務内容だった。
かねてから秋口の頭にこの構想はあった。目的を達成すべく、陸軍内の革新将校や右翼活動家と密に連携を取り機会を伺っていた。
これは、《昭和維新の達成》の為の革命である。
日本国は既に亜細亜の盟主となっている、にも関わらず、列強からの卑怯卑劣な外交政策に弱腰となっているのはひとえに国体の維持を疎かにしているからだ。天皇陛下を長とする日本国の存在を軽視する諸外国に、国体の真の姿を目に焼き付けさせる。
秋口は義憤に駆られていた。
総領事館を襲撃するのは第一段階だ。その後、上京すると同時に在京の同志と合流。英国大使館の占拠を行い、まずは陸軍内部の親英勢力を一掃する。この後、国内世論を排英論へと動かしていく、即ち、我が国の国体を諸外国のみならず国民に等しく見せ付けるのである。
しかし、ただ国体の維持のみを目的として動いたとしても、肝心の天皇陛下の詔勅を仰ぐことは困難だということは秋口も理解していた。世論の動向も、それだけで動くことは難しい。
その為の理由を、秋口は*機関で講師の真似事を行いながら探っていた。
秋口は己を見つめる二つの双眸に内心ほくそ笑む。
秋口にとって好機だったのは、親英派の結城中佐の子飼いを取り込めたことだけではなかった。
仮にもスパイ養成学校で訓練を積む生徒達だ。

餅は餅屋に。

スパイには、スパイを充てがうのが上策だろう。
秋口の思惑通りに二人のスパイの卵は首尾よく動いてくれた。英国大使館を占拠するための口実を二人は快くもぎ取って来た。

《神戸の英国総領事館に五相会議の内容が漏れている》
領事館付職員からの確かな情報だと二人は言った。その内容に秋口は目を剥きながらも不適に笑んだ。
五相、即ち、内閣総理大臣、外務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣の五大臣による日本の基本国策と軍拡について纏(まと)められた機密レポートをイギリス側が入手しているとの情報だった。その証拠として、二人は秋口に領事館職員から英国駐日大使に送られた手紙を見せたが、秋口にとっては手紙の内容は詮なきことだった。
二人を手中に収めた。それは秋口にとって何よりの成果だった。秋口にとってかねてからの使命とも言える目的と、上官の命令を同時に遂行できるまたとない機会。
まさに一石二鳥だった。国体のためにこの身を捧げ、且つD機関の面子を潰し陽の下に晒す。
暴かれたスパイ養成学校など欠片ほどの価値もない。
秋口は己の策謀を悟られまいと表層を取り繕った。あくまで己は誇り高き陸軍軍人、そして愛国の徒となるべく彼らと行動を共にする。演じ切るのだ、最後まで。
そうすれば、上官の悪態を聞くこともなくなる。
悦に顔が染まりかけていた秋口は、ふとその笑みを固めた。取り繕っていた顔貌が僅かに歪む。
醜悪な上官の反対に、清廉な相貌が見えた。
秋口の脳裏に浮かんだのは、儚げな相貌が印象的な彼女の姿だった。

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