久々の外仕事だった。工業製品の部品一覧を南が撮影した写真と共にまとめ、使い方と修理方法を書き留める作業から一転、籠に虫を捕まえに行く仕事を任された千歳は、るんるん気分で前を歩くスイカに眩しげに目を細める。いつも中の仕事じゃつまらない、とスイカに手を引かれた結果だった。
仕事内容は、蚕の先祖、クワゴを集めることで、水中作業のための水着製作の一環だという。シルクの水着を水中作業に使うなんて贅沢すぎないか。いや、貴商品という意識はさしてないのか。物の価値なんてこの世界では反転しているのか。
夏の日差しが容赦なく三人を等しく焼き、無意味な思考を遊ばせる中。
「──んせ、せんせ……千歳先生!」
二つのレンズが千歳に向けられ、掛けられた幼い声に鼓膜が揺れる。ポタリとこめかみを伝って落ちた雫のひとつが口の端にかかり、塩味が舌に広がった。
「大丈夫? なんだかボーッとしてたんだよ」
「あ…あぁ、うん。大丈夫だよ」
「本当に? 無茶はしたらいけないんだよ?」
レンズに隠れていても分かる案じる声音に、彼女は微笑むとその被り物を優しく撫でた。
夏山は多少の涼が取れるとはいえ、やはり暑いものは暑い。山道を歩くことは学生時代以来で久しく、思った以上に体力を消耗したのか確かに熱っぽさを感じながら歩いていた。
とはいえ、幼い声に心配されるのは大人として立つ背がない。
何でもない、と勇み足で一歩踏み出そうとした、刹那。
「具合が悪くなったら言ってね。おぶって帰るくらいできるから」
涼しげな声をかけられて、千歳の足が止まる。振り返れば、ベビーフェイスが息一つ乱すことなく、更には三人分の分の飲料水を背負っていた。
爽やかな笑顔に、千歳は視線を外して返す。
「……大丈夫ですぅ…」
元自衛官とはいえ何となく、なんとなくだが体力も筋力も自分と同じくらいと、いや実際のところ性差としてはそれはありえないと頭では理解しつつ、しかし彼と自分は体力的な差はそうないのではないか。そんな安直な考えを打ち砕くベビーフェイスに、どことなく負けた気がして千歳の口は窄められた。
「可愛い顔してるくせに」
「聞こえてるよ」
「聞かせてるから」
大人気なくそっぽ向いてみるのは、彼が大人だからだ。
わざとらしく視線を逸らせば、羽京は瞬き、眉尻を下げて破顔した。おかしげに笑う姿に千歳が「なに?」と尋ねれば。
「いや、なんだか拗ねてるみたいで」
幼い子どもに話すような、柔らかなその口調に千歳の頬に一気に朱が入る。罰が悪そうに顔を背けて大きく息を吐くと、大股で彼を追い抜いた。
「千歳先生は、羽京と一緒にいるといつもと違うんだよ」
スイカが弾んだ声音で千歳の横を歩く。したり顔で口角を上げ、ちょっとばかり大人っぽく両手を後ろに組んだ彼女は、千歳にニッ、と歯を見せた。
「スイカ達と一緒にいる時より、可愛い感じなんだよ」
「かわ、いいかぁ…」
幼女に可愛いと言われる心境はこんなにも複雑なものか。おそらく、年頃の男女が会話をしていればそう′ゥえてしまうお年頃なのだろうが、千歳はえも言えない感情に苦笑した。
「スイカの方が百億倍可愛いよ」と、彼女の被り物をスポンと外す。ブロンドと丸い瞳、あと十年したらリリアン顔負けの美少女になるであろうその顔は、千歳の謝辞に「恥ずかしいんだよっ」とはにかむと、サッ、と被り直して先へと進んだ。
クワゴは桑の葉を好物とする虫だ。どこにいるのか分からない、と唸っていたスイカに説明したのが小一時間前。この時期であれば、桑の木は赤や黒紫の実を付けているため、森に詳しいスイカならば分かるだろう、と説明すれば、直ぐに二人を先導すると走り出した。
「水着を作るためにクワゴ探しなんて、現代なら考えられないけど面白いね」
「陽じゃないけど、クワガタなら昔よく捕まえたな。あと、セミも」
「セミはよく捕まえたね。クマゼミ見つけたらテンション上がったもん。昔はレアだったし」
雑談を交えながら、クワゴ探しは順調に進んだ。物覚えの良いスイカが桑の木か自生している場所まで案内して、三人で捕獲していく。
「養蚕業が盛んだっただけあって、山の中にはかなり自生してるね」
ぽい、と籠にクワゴを放り込んだ千歳がくるりと辺りを見渡す。密集した森林地帯ではなく、少しばかり空き地のような開けた土地になっているそこは、おそらくかつては養蚕業のための桑畑が広がっていた場所だろう。安価な輸入糸、生糸価格の低迷、そして戦災も重なり、隆盛だった明治期と比べて養蚕業はほぼ壊滅状態になった。
「ようさんぎょう、てなんなんだよ?」
栄枯盛衰をしみじみ感じていた千歳に、スイカが小首を傾げた。聞き馴染みのない単語は常に尋ねる彼女に、千歳は作業の手を止めてクワゴを手に取る。
「クワゴを飼い慣らして、糸を作る産業が日本の一大産業だった時期があるんだよ。飼い慣らされたクワゴは、カイコ、て言ってこんな字を書くの」
天が授けた虫とも呼ばれた、蚕。
「蚕を養って糸を作る。だから養蚕業、ね」
「なるほどなんだよ! 漢字で書くと、意味が分かりやすいんだよ!」
勉強になったんだよー!、とひとつ知識を増やしたことに満足したのか、飛び跳ねながらスイカは一帯の桑の木にクワゴを探しに行った。
はしゃぐ姿に目を細めた千歳の隣に羽京が立つ。
「いつでもどこでも先生だね、千歳は」
かけられた言葉に、千歳は瞬く。自身を見つめる柔らかな瞳に、同じように微笑んだ。
「それ言ったら、いつでもどこでも自衛官だよ、羽京は」
「…僕が?」
「うん。いつだって、羽京は守ることを考えてるでしょ。私と同じ、職業病を患った大人だ」
千歳から見た西園寺羽京は、可愛らしい顔をしながらその実、科学王国の中では大人の部類に入る。聡くて、鋭くて、けれど時折、ひどく意地悪な、そんな大人。鋭敏な聴覚で皆を助けながら、けれどそれによる弊害は口にしない、大人。
そして、自衛官として他者を守る意識が強い、大人だ。
守る者が多い故にしがらみも多い彼に、千歳はスイカを見つめながら紡ぐ。
「目の届くところに私達を置かなくても良いよ。スイカが道は覚えてくれてるから迷わないし、猛獣のエリアじゃないから荒事にはならないしさ」
羽京の瞳が僅かに見開かれた。意表を突かれた相貌に千歳がいたずらっぽく笑う。
「ひ弱な現代人と子どもの組み合わせは不安?」
「……そういうわけじゃないよ。職業病なだけ」
ふい、と顔を背けた羽京が、帽子を被り直す。やけに素っ気ない回答が彼らしくなくて。
疑問に思いながら、しかしクワゴ探しを再開した彼に倣って、彼女も木の影から陽光の下へと足を踏み出した。
(──けっこう、体力使ったなぁ)
司帝国を出てはや三時間。適宜、休憩と水分補給をしながらも夏の日差しは容赦なく体力を奪う。外仕事ではない職種だった千歳にとって、この日差しは堪えるものがあった。
夕刻までには帰って食事の支度もある。いつまでもクワゴ探しをするわけにもいかない一行は、スイカ先導の元、来た道を戻っていた。「スイカはお役に立つんだよ!」と、道案内を任せれば目をキラキラさせて彼女は二人の前を歩いていく。
元気よいスイカの体力に苦笑しながら、ふと、千歳は視線を辺りに向けた。
「……ここら辺、石像多いね」
至る所にある石像だが、妙に多い。三千七百年も経てばある程度バラバラの配置になるはずが、狭い空間に石像が密集していた。
足を止めた千歳に、スイカが答える。
「此処は、若い石像がたくさんあるんだよ。時々、ちょっとお爺ちゃんとかのもあるけど」
へぇ、とスイカの説明を聞きながら、千歳は石像に目を向ける。若い石像の多くは私服、そして顔立ちからして学生か。それが辺り一帯に広がっているとなると。
「近くに大学でもあったのかな」
羽京の言葉に千歳は「かもね」と相槌を打つ。国立私立含め、特にこの圏域だと無数の大学があるから珍しいことではないだろう。ストーンワールドではありふれた、見慣れてしまった石像達。あまりにも日常の中にそれらはあるため、時折、人ではなく物のような感覚に囚われる、石の人々。見慣れてしまったそれらを、彼女は何気なく眺めていた。
そうして、偶然というのは唐突に訪れた。
「………あ」
それを見つけたのは彼女にとって本当に偶然だった。目覚めてからの日常で目にしてきた石像の一体。数百、数千、数万の中の一体を目敏く見つけてしまった。
目を僅かに見開き、挙動が止まった彼女にスイカが近寄る。「どうしたんだよ」と見上げる瞳に、彼女はひとつ息を吐くと首を振った。「何でもないよ」と力なさげに笑い、その場を立ち去ろうとした彼女は、しかし足がもつれてその場にへたり込む。
「先生!?」
「千歳っ」
二人が焦慮に駆られた声をあげたが、彼女は、へらりと笑う。
「あー…、えっと…ごめんね。ちょっと、暑さにやられたみたい」
「た、大変なんだよ! 大丈夫なんだよ!?」
「うん、平気平気。ただの立ちくらみだよ」
事実、ちょっと暑さに体がついていってなかったことは否めない。すいすいと進むスイカの背中を必死に追いかけてはいたが、体力が劣る現代人のしかも外作業ではない職種だ。必然的に、気力で労働をカバーしていたのだろう。
ただ、ふらついた理由は、別にあった。
けれど、理由を悟られるわけにはいかなくて。
「先に帰っててくれるかな。ある程度の方角なら私も分かるし、帰る時に木に目印でも付けてくれたら大丈夫だから」
苦笑しながら言えば、言下に二人が抗議する。
「けど、心配なんだよ。そんなに離れてないけど」
「僕も同感だ。一人ではぐれたら危険だよ」
ごもっともな意見だ。至極当然の提案だろう。自分でもそうするし、仮に生徒に言われれば、梃子でも動かない。
しかし、千歳はやんわりと申し出を断った。
「大丈夫。これでも私、先生なんだから自分で何とかできるよ。羽京はスイカと先に帰ってあげて。ね?」
頑なに彼女は二人を返そうとした。口調は穏やかだが、ただならぬ意思を示す声音だ。
有無を言わせない、そんな様相にスイカは「けど…」とそれでも食い下がったが。
「……此処から動かないでくれるのを約束してくれる?」
隣の羽京は、難しい顔になりつつも妥協案を提示した。その案に、スイカがバッと羽京を向くが、彼は千歳に視線を留めたままだ。
周りを見ることのできる冷静さを持つ彼は、スイカを先に返し、ついでに荷物も持って帰った後、再び彼女を迎えにくることが最善と判断したのだろう。
守る側、の顔に千歳は微笑み、彼は硬い声音で告げる。
「荷物持ってスイカと先に行くけど、すぐに戻るから」
「大袈裟だなぁ。追いかけるよ?」
「駄目。此処にいて」
そちらの願いを聞いたのだから、こちらの提案は呑めと促す視線に、千歳はへらりと笑う。
嗚呼、やっぱり彼は職業病を患っている。
結局、スイカは暫く抗議したが、最終的には羽京と共に戻る選択をとった。「ちゃんと待ってるんだよ」と声を震わせる彼女を、千歳は安心させるように優しく撫でる。そうして、心配そうに彼女を振り返りながら進むスイカが見えなくなるまで、彼女は手を振り続けた。
「──さて、と」
視界から二人が完全に消えてから、ぽたりと一雫の汗を拭って、彼女は進路から逸れた右手の林へと視線を向ける。行きしには気付かなかったそれをしばらく遠目から、ぼう、と眺めていた。数分、いや十数分はそうやって、遠目から見続ける。
ある程度見たら、帰ろうと思っていた。別段、それに執着があるわけでもない。ただ、少しだけ見ておきたくて。
動くなと言われていたが、誰かに手伝ってもらわなければいけないほどまで体力が削られているわけではなく、ただ、人払いをしたかっただけだ。
一歩一歩、土を踏みしめてそれと距離を縮める。虚空を見つめる石の瞳と視線を合わせて、彼女は、ふと、薄く口元に線を引いて笑んだ。
「ねぇ、今どんな気持ち?」
──母さん。
恬淡とした声が、静寂を揺らした。
母は、大学で教鞭を取っていた。たいそう優秀で、各地で講演会を開き、賞を授与される常連だった。自他ともに認める才女。それが彼女の母親だった。
オフィスカジュアルのスタイルで、生徒に指導していたであろう姿勢のまま、母親は石化していた。何が起こったか分からないまま石化して、そうして三千七百年経って見つけたのが自分とは。
(皮肉ね)
コツン、とその額に千歳はデコピンを入れる。石はもちろん硬く、逆に指が痛くなった。
石化の瞬間まで、彼女は何を思っていたんだろうか。生徒指導、論文作成、学会運営、はたまた、出来の良かった子ども≠フことか。
少なくとも、自分ではないだろう。
「ごめんね、あの子じゃなくて」
口元が自然と歪む。
心底、同情した。皮肉でも恨み節でもなく、ただ心の底からそう思った。石化する瞬間も、最初に見つけられたこの時さえ、最愛の子どもは遠い地の果てにいるなんて、本当に哀れだった。
けれど、憐憫の眼差しを向けながら、彼女は酷薄の笑みを湛えていた。
「来て欲しかったよね、爽太に。けどごめんね。日本(ここ)にいるのは私なんだ」
滔々と、返されることのないと知りながら紡ぐ。
「出来損ないの私が教師として復活して、母さんがこのままなんておかしな話だよね。プラチナがあったらすぐに復活できるけど、手に入れたら進言しようか、有能な人材がいるって。あぁ、でも大人すぎるから駄目かな」
ひどく、大人が嫌いな子だと聞いたのだ、彼は。特に既得権益に塗れた、近しい大人は。
劇調にひたすら語り掛けるその眼は、ひどく仄暗い。微笑みを湛えながら、なにひとつ面白くないと語る唇。
「ねぇ、いま、どんな夢を見てるの」
ぺしんと、もう一度軽く小突いて、反応が何一つない石像に彼女は数秒、止まる。そして、突如くっくと押し殺した笑いを溢し始めた。肩を震わせて、心底、おかしいと体現するように。
ひとしきり、彼女は笑った。嗤笑とすら取れるそれは、彼女らしからぬ相貌だった。或いは諦念も混じっていたかもしれない。何もかも無気力に諦めた大人の、乾いた笑いが響く。人里離れた森の中で、ただ一人、虚しい叫びが。
「ごめんね」
母さん、と。
泣きそうな声が、寂寞に溢れた。
*
今まで見たことない目と、聞いたことのない声だった。羽京が出会い、共に過ごしてきた彼女とは違う、まるでそう、子どものような。
子ども達がはしゃいではぐれそうになったら笑いながら呼び戻し、長く苦労の絶えない科学王国の労働に陰鬱な表情をしている青年がいれば声を掛け、子ども達の良き理解者たる大人として振る舞っていた彼女の、その顔は羽京にとって初めてだった。憐憫と悲哀、嗤笑と諦念、感情の行き場がぐちゃぐちゃで、整理しきれない姿はまるで子どもだ。
こんな顔、するんだ。
こんな声を、出すんだ。
急いで元来た道を目印をつけながら戻った先。包容力溢れる大人とは違うその姿に、羽京は声を掛けた。
「──千歳」
びくんと、彼女が反応する。大きすぎる動揺が見て取れたが、彼女は直ぐに平静を取り繕って、羽京に振り返った。
「おかえり、早かったね」
「まぁ、急いだからね。でも、ちゃんといてくれて良かったよ」
「そりゃ、入れ違いになっても困るし」
木の根を飛び越えて近づいてきた羽京に、戯けた調子で彼女は肩をすくめる。
「でも平気だよ、ただの立ちくらみだから」
さらりと、息を吐くようにまろびでた、嘘。存外分かりやすいゲンと違って、彼女の嘘はごく普通に混じるタイプだ。
日常的に、自分を偽ることに長けた人間のそれに、羽京は立ち止まって黙然とする。「羽京?」と、訝しげに問いかけてきた彼女に、彼は視線を合わせた。
「それだけじゃないでしょ?」
「……どういうこと?」
一瞬、強張った相好をしかしすぐにふわりと崩す。何を言っているのか分からない。本気でそう感じている声と顔に羽京は続ける。
「声が震えてた」
自身の耳が捉えた揺らぎ。それは、虚飾を剥がす。
「嘘を吐くのが上手い人は結構見てきたけど、みんな声が微妙に震えるんだ。視線も合わさると分かりやすいけど、一番は音。嘘吐いてる、て分かったから早めに戻ってきたんだよ」
伊達に多くの音を聞き分けてきたわけじゃない。人間が発する音から感情を類推する術だって身に付けてきた。
ぱちりと彼女が数度瞬く。驚嘆の一言に尽きる羽京の能力に心底驚いているようで。しかし、すぐに諦念を込めたため息が吐かれる。
「そんなこと、気付かなくていいのに」と呆れ半分、苦笑した彼女に、羽京は言下に応えた。
「気付くよ」
自然と強く、はっきりと。
「千歳の声は、ちゃんと聞いてるから」
誰の声だって聞き逃しやしないというのに、溢れでた言葉は彼女に限定された。しっかりと目を見て、見つめあって…。
(あれ…)
数秒遅れて、羽京は自身が発した言葉に気付く。
──何言ってるんだ、僕!
一気に、気恥ずかしさが天辺まで達する。
君の声は聞いてるよ、なんてそんな。どこかの恋愛小説の常套句みたいな台詞が自分の口から飛び出るとは思っていなかった。しかも、視線が交錯していたから余計気恥ずかしさが増してしまう。
内心、心臓が早鐘を打つ羽京に対して、しかし彼女は呆然と彼を見つめた。ぽかんと呆気に取られた様相で。
「……初めて言われた」
「え」
「聞いてるから、なんて」
戸惑っているような、理解できないような。初めて言われた言葉に、返しを探している幼児のように、訥々と。
「言ったことをちゃんと聞いてる、なんて、はじめてで…、少なくとも私が記憶してる中では、うん、あまり覚えてないだけ…かもだけど、えっと」
錯綜する思考に、あー、とか、えっと、とか無意味な感嘆詞が羅列されて、けれど最終的にまとまった言葉は、ひどく柔らかな相貌で紡がれた。
「ありがとう、羽京」
気恥ずかしい台詞を揶揄することなく、素直に受け取ってはにかむ彼女に、羽京の胸が小さく脈打つ。
気恥ずかしくて、けどそんな台詞を、言葉を伝えてしまったのは彼女の相貌が原因だった。
優しい嘘つきの彼女の、悲哀の色彩を僅かに帯びた目と声に、自分は君を見ている、と伝えたくなった。いつだって、誰かを見て、声を聞いて、受け止める彼女を自分は見ていると、そう伝えたいと感じてしまった。
言葉を失い、黙然とした羽京に、声がかかる。
「……これね、母親の石像なの」
ふと、彼女の視線が横へとスライドして、釣られて羽京のそれも移る。先には、石化していても分かるほどの美麗な婦人がいて、その女性の頬に指をツゥと走らせて彼女は紡いだ。
「暑さにやられたのも本当なんだけど、立ち止まっちゃったのは、これを見つけたから」
これ、と呼称してしまう彼女の瞳は先ほどまでの穏やかさから一転、ひどく仄暗い。口元に浮かべる微笑は変わらないというのに、そこには歓喜も感動も一切見当たらなかった。
「びっくりだよね。なんの偶然だって。だから、ちょっとびっくりしてさ。ついでに顔を少し拝んでおこうかなぁ、なんて。あ、別になんとも思ってないんだよ。見つけて嬉しいとか、早く助けたいとかそういったのは全然ないからね」
へらりと笑う、その顔は無理やり笑顔を貼り付けたようだった。無感動な心を隠すようにつけられた仮面に、羽京は咄嗟に上手い返しが見つからず「…そっか」と端的に答える。「うん、そうなの」と、彼女もまた、短く返した。
悲哀と諦念と憐憫、感情が入り混じった声。羽京に気づく前の彼女が発していた声を、覆い隠す虚飾の笑顔。内に秘めている感情は膨大だろうに、それを出そうとしない彼女に、羽京はしばし沈思し、そして問いかけた。
「…ねぇ、聞いていいかな」
おそるおそる、踏み込む。こてんと首を傾けて、続きを促した彼女に、もう一歩。
「嫌いなの? お母さんのこと」
存外、直接的な言い方になった。どう思ってる、なんて訊けばよかったかもしれない。
それでも、彼女は嫌な顔ひとつせずに、うん、と唸ると、苦笑しながら答えた。
「……そうなんだと思う。けど、分からないの」
自虐的に薄く口元を歪めて。
「子どもの頃は好きで、高校から大学まではとにかく苦手で、就職する頃には嫌いになって。だから、分からないの。好きなのか、嫌いなのか」
分からない。そうしきりに紡ぐ彼女の横顔は本当に戸惑っていた。自身の感情を見つけられない彼女は、困惑気味に俯く。閉口し、思惟に浸る彼女に、羽京は尋ねた。
「寂しい、ていうのは?」
「さび、しい…」
舌の上で言葉を転がして、そうして彼女は首を振る。
「どうだろ。ざまぁみろ、の方が適当だと思うけど」
自嘲に口元が歪む。ゲンと同じ、どこか露悪的に見えるその笑みに、羽京は薄らと目を細めると、彼女が語り掛けていた石像を見据えた。
「…それは、違うと思うな」
自然と、言葉が紡がれる。脳裏に浮か部のは彼女の相貌だ。
悲哀と憐憫と、感情が錯綜したまま紡がれた、彼女の言葉。
それはまるで。
「あの時の君の声は子どもみたいだった。ようやく自分を見てくれた、そんな目をした子どもみたいで。だから、ざまぁみろは違うんじゃないかな」
幼児が、ようやくお母さんが自分を見てくれたと、悲しいながらも内には安堵を秘めるような。悲哀と諦念、嗤笑の中に見えたのは、まるで子どものような表情だった。こっちを見て、私はいるよ、と幼児が悪いことをして気を引くような。
大人の彼女が見せた、幼さ。
顎に手をやり、思案した羽京は石像から彼女へと視線を移す。
しかし──
「………そう」
彼女を見た刹那、羽京は悟った。
あ。しまった。
これは──
失敗した。
直感的に、思った。
これは、言ってはいけないことだった、と。
仄暗い瞳が石像へ向いていて、感情の読めない横顔に羽京は慄然とする。固まったその横顔には何の感情も見えない。
息を呑んだ羽京に向けられない顔は、その声は、あまりにも無機質で、無感情でそれでいて。
「ありがとう、羽京。そろそろ行こっか」
拒絶の色を帯びていた。
しかしそれも一瞬で、すぐに彼女は仮面を被る。微笑みを浮かべて、いつもの大人≠ニして振る舞う彼女は羽京に促す、さぁ帰ろうと。
けれどそこには見えない一線が、確実にあった。明確で、消せない線が。
穏やかながら有無を言わさないその相貌に、羽京はただ、頷くしかなかった。