人にはそれぞれ役割がある。産まれたての赤子も、小さな児童も、大人へと階段を登る生徒も、学びに勤しむ学生も、経済を回す社会人も、リタイアした老人も、全ての人間には役割がある。社会的な生産性という目に見えて分かる役割から、例えば、誰かの心の支えになるというものまで、兎にも角にも生きている限り役割を与えられて人は生きていく。
ストーンワールドで目覚めた千歳はまず自分の役割を確認した。目を覚まして世界を認識し、集団の構成員を把握する。王国を歩き、人に聞きながら彼女は頭の中でそれぞれの位置付けをしていた。科学王国においては、ロードマップを基に知力を以て計画を立てるメンバーと純粋な労働力として作業に従事するメンバーに分かれている。全員を適材適所で役割分担し、各々が与えられた仕事をこなすのが基本的な日々の過ごし方だ。
中でも、復活者のメンバーは基本的に何かに秀でた者となっている。故に彼女は確認した。
自分は、この中で何ができるのか。
初期は悩んだ。何故、彼が自分を復活させたのか理解に苦しんだ。自分には秀でたものがない。科学的知見に乏しく、手先が器用なわけでもなく、武闘派でもない。凡夫と呼ばれても仕方のない、ただの新米教諭。ただの人間。ならば、自分の価値をどこに見出して、どう生きるべきか。非常に彼女悩んだ。
けれど、彼女は少しずつ自分の役割を認識し始めていた。
*
いつだって、村の皆はなにがしかの役に立っていた。炊事、洗濯から狩り、門番までさまざまな役割を担っていた。皆で生活する中で、役立つ、というのは大切だ。役に立たなければ、自分の足元が覚束なくなる。役に立たない人間はひどく惨めなのだ。誰になんと言われなくても、周りを見て自分を見れば卑屈な気持ちになる。どうして、自分はこうなんだろう、と。
だから、スイカは役に立つためにいつだって周りをよく観察していた。観察して、思考して、自分に何ができるのかをいつも考えていた。特に人を観察することには長けていて、千空が村と打ち解けるために奔走したことだってあった。
そのスイカだからこそ、他人の感情に人一倍敏感な彼女だからこそ、違和感に直ぐに気づくことができる。
「──大丈夫なんだよ?」
スイカは視線の先の男に尋ねた。名は知らない。司帝国出身の復活者で、体力自慢の男ということしかスイカは知らない。話したこともない、ただ顔を見たことがあるだけの男だったが、しかしスイカが話しかけたのには理由があった。
「なんだか、疲れてるみたいなんだよ。体調が悪いなら休めば良いんだよ」
男はやつれていた。頬が少しばかり痩け、眼下にはくっきりと隈が見える。これは、連日眠れていない顔だ。スイカは以前、休みなしで作業を進めていた千空を見たことがあるから分かる。
だというのに、男は木材を運んでいる。やつれたその姿で。
スイカは、他人をよく見ている故に彼に声をかけた。純粋な親切心から、彼女は声をかけた。
「休んだって誰も文句は言わないんだよ。千空だって言ってたんだよ、休むのも仕事のうちだって。また明日から頑張れば良いから、今は休めば」
良い、と。繋げようとした言葉はしかし。
突如、耳朶を打った怒声にかき消された。
「っ、ざけんじゃねぇぞ!! クソガキ!!」
響き渡った怒号。腹の底がビリビリするほどの声量にスイカの小さな体が飛び跳ねる。伝播する怒気が、スイカを覆う。
見れば、先ほどまでやつれた相貌で幽霊のように歩いていた男が、血走らせた眼をスイカに向けていた。
何が起きたのか理解が追いつかない彼女に、男からは続けざまに言葉の暴力が投げつけられる。
「テメエらがやれって言ってこうなったんだろうが!! 勝手に外へ行くだとほざいて働けと命令しといて、休むのは仕事のうちだァ!? 舐めたこと言ってんじゃねぇぞ!!」
拳は降ってこないとはいえ、至近距離からの怒声は暴力と遜色ない。大柄の男からぶつけられる怒気に、スイカの目尻に自然と涙が浮かぶ。
しかし、男にそれは見えない。
「クソみてぇなこんな世界で! 勝手にやること決められて朝から晩まで死ぬような労働して! 誰がこんなとこで目覚めたいなんて言ったんだよ!! テメエらみたいな原始人と! 誰がっ!!」
「……っ、スイカは…そんな、つもりじゃ」
「ァア!?」
「ひっ、」
一瞬、男の拳が握り締められて上がったため、スイカの身が竦む。何故、彼が怒っているのか。何が彼を怒らせたのか。何を言えば落ち着いてくれるのか。分からない。
全てが分からずに困惑するスイカを他所に、男は感情を暴発させる。叫ぶ内容は些か不明瞭で、内容も的を射ない。それでも、持て余したエネルギーは話しかけたスイカへと向けられた。
罵声が、怒声が、憎悪とも呼べる感情がスイカの縮こまった体に向けられて。
「っ、…ご、ごめんなさ…」
きゅっ、とスイカは拳を握り締める。役に立ちたかったのに、逆効果だった。千空だったら、ゲンだったら、龍水や羽京だったら上手く返せたのか。自分は子どもだから、神経を逆撫でることを言ってしまったのかと、自身を責める。
人間、何一つとして悪くないにしても、強者から怒声を浴びせられると正常な思考は奪われてしまう。現状の回避へと思考がシフトし、言葉の論理性に意識が向かない。特に、子どもであれば。
逃げたい。けれど逃げられない。八方塞がりのスイカはただ黙して嵐が過ぎるのを待つしかなくて、周りの復活者達に視線を向けても誰もが陰鬱な顔で俯いたままだった。コハクもクロムも、石神村の友人達は皆、どこかへ行ってしまっている。
こわい。こわい。
誰か。
「──スイカ」
お先真っ暗な状況に涙が溢れそうになったその時、スイカの鼓膜を聞き知った声が揺らした。スイカが面を上げるより早く、凛と、銀鈴のようにその声はよく通り、男とスイカの間に割って入る。
「どうしたの」
くい、と腕を引かれてあっという間にスイカは彼女の躰の陰に入った。物理的な距離が男との間にできて、無意識にほっと息を吐く。
「ァア? んだテメエ!」
しかし直ぐに響いた男の怒声に再び身を竦めた。びくんと体が震え、きゅっと唇を結んだスイカはもう男と目も合わせられない。どうしたの、て言われたんだから説明しなきゃと思っても、恐怖で言葉は喉奥に引っ込んでしまって。
焦るスイカに、しかし彼女は違った。
「…暑いね」
「あ?」
「今日、暑いね」
耳を疑った。その声音にも内容にも。
スイカは目を丸くして彼女を見上げる。その横顔は至って普通で、常日頃の彼女の微笑みそのものだった。視線を転じた先の男も虚をつかれたように、口を開けてフリーズしている。
「暑いと苛々しちゃうからさ、ちょっと木陰に行こうか。ちょうどお昼前だし」
淡々と、友人に話をするかのような滑らかさで彼女は話す。微笑んで、促して、目の前の男の感情を汲まずにただ、提案する。
男は数秒固まっていたが、我に帰ったのか唐突に叫んだ。
「このっ、キチガイかよクソアマッ!」
あ、これはまずい。
神経を逆撫でられたのか、男は怒髪天をつく勢いで彼女に迫った。鬼の形相が、血走った眼が彼女を射殺さんばかりに睨みつけて、その拳が握られる。
刹那。
(せん、せい?)
彼女の目から、温かみが消えた。口元が薄く引き結ばれ、能面を被った彼女にスイカは息を呑む。
自分より上背があり、筋肉質な大の男を前に怯まずむしろその正気を失った視線を真正面から受ける姿。「んだよ、テメエッ!」と恫喝する男を前に半身だけ引く、その横顔の凛々しいことに、スイカは目を奪われた。
綺麗、なんだよ。
玲瓏で高潔な、凛々しいの一言に集約される、美。単なる容姿ではなく佇まいと気品に圧倒されたスイカを尻目に捉えた彼女は、その形の良い唇を、にっ、と緩めた。
だいじょうぶ。
下がってて。
まるで、呪文だ。ストンと耳に入り、心の芯まで落ちた声音にスイカはポカンと彼女を眺めた。大丈夫、と言われたから大丈夫なんだと、言われた通りに彼女から少しばかり離れる。
そこから先は、まるで妖術みたいだった。それは科学ではない謎めいた術だった。
男の怒号が響く。彼女は無言で男を見据える。周りは喧騒に気付いて怪訝に眉を顰めるが、一人として割って入ろうとはしなかった。当たり前だ、揉め事は誰だって好きではない。
男が咆哮をあげた。獣じみた、何を言っているか不明瞭な言葉の羅列と同時に彼女に振り下ろされる暴力。握った右の拳を振りかぶり、彼女にまっすぐ向かう。危ない、と誰もが目を覆い、さしものギャラリーの何人かも走り出した。
けれど、拳は彼女に届くことはなかった。
振りかぶり、落とされた拳は、彼女が半身を引いたことで空を切る。運動エネルギーはそのまま彼を地面へと誘い、そして彼女もまた、転身。彼を払って地面へと押さえ付けた。
その鮮やかな、まるで手品のような挙動にスイカは目を瞬かせた。一瞬の攻防過ぎて理解が追いつかず、ただ口を半開きにして彼女を見つめる。
凄いんだよ。
純粋な感想だった。いつも笑顔で、それでいて時折ちょっぴり怖い。そんな穏やかな先生でいる千崎千歳の、まるで猛獣を手懐けるかのような鮮やかな体術には目を見張るものがあった。
スイカとて、数多くの武人を見てきた。女だてらに短刀、長剣を振るうコハク。村随一の槍使いの金狼。力自慢のマグマ。最強の獅子、司。司を追い詰めた、氷月。その誰にも劣ることは明白だけれど、それでも自分より力もあり、背も高い男を彼女は沈黙させた。非戦闘員にしか見えなかった、彼女が。
呆気に取られるその他大勢をよそに、彼女は周りを見渡すと邪気のない笑みを向ける。「お騒がせしました。大丈夫だよ」「ほらほら、作業に戻って」と、気の抜けた声に眼下の男は呻いた。クソが、退けよ、と苛立たしげにジタバタする男からあっさりと身を引くと、彼女はその手を掴む。転瞬、怒りから困惑に変化した男の相貌を無視して、彼女は林の中へと男を連れて行った。
唖然呆然。たかが数分のことのため理解も追いつかない。追いつかせないための怒涛の展開なのかとも思えた。下がれと言われたスイカは下がったまま佇立していたが、慌てて彼女の背を追う。
草をかき分けた後を辿ること数分。草木があまり生い茂っていない、地面が剥き出しになった開けた場に彼らはいた。
茂みにささっと隠れて、スイカは二人の様子を伺う。木の根に男を座らせ、自分はその前に屈んだ彼女は何事かを彼に言っていた。音を拾うには距離がありすぎて、耳をそば立ててみるけれどなかなか聴こえない。「うるせぇよ」とか「クソが」と、汚い言葉を吐き捨てる男にぎくりと体が硬直したが、彼女の目色に釘付けになった。
彼女は、先程の怜悧な、凛々しい姿から一転、淡い微笑みを浮かべて男と話していた。スラングを撒き散らしていた男からそれらが徐々に薄れていき、並行して鬼気迫る形相だった顔が悲壮感に支配されていく。肩を落とし、体を震わせる男に、彼女はただ、語り掛けていた。
そのうちの一つの言葉を、かろうじてスイカは聞き取った。
「──つらいね」
それはひどく、優しい声音で。直接言われたわけではないスイカにさえ届く、仄かで淡く、暖かい声だった。身体の芯から冷え切っている人間を温めるには充分な声色。
千歳は彼に寄り添っていた。つらいね、頑張ったね、偉いね。大人が子どもに寄り添うようなその声と表情。粗暴な態度そのものの奥にある心の病を癒すかのように、彼女は彼を突き放すことなく慰めた。
打ちひしがれた様子の男は次第に唇をきつく引き結び、そして、大粒の涙を流した。嗚咽を漏らし、膝をつき、身も世もなく泣く姿にスイカは何故だか胸が締め付けられる。罵声を浴びせられ、暴力を振りかざされたのは自分だというのに。
目の前の光景を呆然と見ていたスイカの注意は散漫になっていて、ひとつ、息を吐いたと同時にパキリと枝が鳴った。あ、と気付いても時すでに遅し。音に釣られて四つの目はスイカへと向けられる。被り物にレンズという見た目は直ぐに見つかった。
「ごめんなさい…なんだよ」と、しおらしくスイカが俯き茂みを出れば、同じように男は肩を落として。スイカをちらりと一瞥して、しかし逡巡したように視線を右往左往させる男に、千歳が彼の肩を叩いた。
「謝りたいでしょ? 君が一番」
励ます声音に男はハッと目を見開く。ぐっ、と唇を引き結ぶと、スイカの前に膝をついた。
「悪かった…その…いろいろ、いっぱいいっぱいだった。けど、そんなの関係ねぇよな…悪い」
眉尻を下げて謝罪する男に、スイカは言下に首を振る。
「気にしなくて良いんだよ! スイカも、無神経だったんだよ」
「いや、お前は悪くないだろっ。お前みたいな子どもに、俺は」
互いに謝罪合戦になりかけたところで、千歳が「はい、そこまで」と二人の間に割って入る。
「二人とも、もう大丈夫だね? なら、これでおしまい。戻ろう」
からりとした、晴れ渡る空のような清々しい声。まだ申し訳なさが残るのか、けど、と口にした男の肩を叩いた彼女は「謝りすぎるのは逆に負担だよ」と声をかける。男はその言葉にしばし思案しすると、もう一度スイカに謝罪してその場を後にした。
時間にしたら三十分にも満たないだろう。諍いが発生して、その場を収めて、関係の修復までの時間の短さにスイカはぽかんと口を半開きにしていたが、彼女の一言に現実へと意識を戻す。
「スイカは、強いね」
「……へ?」
「悪意を向けられたのに、その人の断罪を望まないなんて」
えらいえらい、と。柔らかな手先がスイカに触れる。
スイカは、うん、と唸った。
「…スイカは難しいことはよく分かんないけど、あの人、哀しそうだったんだよ」
罰したいとか、そんな気持ちはハナからなくて。ただ、ひどくやつれて、疲れて、哀しげに見えた彼が気になっただけだ。
「誰かを傷つけたいとか、そんな感じに見えなかったんだよ」
ただそう、本当に疲れていた。彼はきっと、何に対しても余裕がないほど、ひどく憔悴していた。そして、そんな彼をスイカは放っておくことができなかったのだ。
スイカの言葉に彼女は僅かに目を瞠り、そして目元を緩める。「優しいね、スイカは」と微笑んで、そして彼が去った方角に眼を向けた。
「…復活してだいぶ経って慣れたと思ってても、環境の変化に加えて家族や友達がいないのはね、やっぱり負担なんだよね」
「だからといって、スイカにしたことは百億パーセントアウトだけど」と、苦笑しつつ、彼女は眉尻を下げた。
「ただ、本来なら、友達と遊んで学校に通ってた子達が、何もない世界で目覚めるなんて、不安で仕方ないだろうな、て」
「…不安…」
彼女の言葉にスイカも思案する。
スイカが千空から聞いた昔の話は、まるで別世界のことのようだった。何百、何千、何万、何億。地球上に人類は繁栄していて、科学の力でスイカ達のいる日本は豊かな生活を送っていた。寒さで死ぬことも、飢えることも、病で死人も劇的に減り、教育を受ける機会も与えられた世界。
そこから、その全てが奪われて、且つ大切な人がいない世界に放り込まれたらと思うと、スイカだってどうしたらいいか分からない。苛立ちが募るだろう。
「それに、前の司帝国だっけ? そこにいたときは獅子王君に見込まれて復活したけれど、ここだとただの一労働力になるから、余計ね」
侘しげな千歳の声にスイカは「…どういうことなんだよ?」と眉を顰める。
彼女は、スイカの頭を撫でた。
「科学王国の肝は、石神君や七海君、クロム君やゲンみたいに、人類復活の目的のために先のロードマップを描ける人達でしょ? 獅子王君が復活させたのは、純粋なパワータイプの子達でしかもほぼ子ども」
「あ」とスイカは声を上げた。
覚えがある。その感覚は、スイカにも。
「労働力は必要。けれど先を決めるのは知力がある人達、換えが効かないのもその人達。司帝国みたいに一人一人に気を払えるような人数でもないと自分の立ち位置とか、役割とかに不安を覚えちゃうんだよ」
「…お役に立てないと、不安になる…」
それは、いつも自分が抱いていた焦燥だ。役に立ちたい、けれど立てない。だから、自分の立ち位置が分からなくて、不安になる。
彼女は頷くと、静かに呟いた。
「どうしようもないことだけど、けどどうしようもないからってほっぽりだすのは、違うんだ。メンタルケアはとっても大事。環境が違うからこそ特にね」
「スイカも、お役に立つか分からない状況が延々と続くのは怖いでしょう?」と、尋ねる彼女にスイカは頷く。
役に立てない、その不安に悩んだことはスイカにもあった。ボヤボヤ病のせいで村では役に立てず、自信が持てなかった。誰かのために何かしたくても、結局自分以外の誰かの方が適任で、だから自分は、たいして必要とされていなかった。
それは、すごく、すごくつらいことだった。
「家族も友達もいないから自分自身の足で立たなきゃと思う気持ちも分かるし、かといって役に立たたなきゃ、て強迫観念に駆られるのは不安しか生まない。だから、都度に吐き出す場がないとね、みんな潰れちゃうの。それを乗り越えられるほど強い人間なんてそうそういないんだから」
不安と孤独、それを吐き出す場は大切だと語る彼女にスイカは瞬いた。
そこまで、この先生は見ているんだ。単純な勉強だけではなく、王国で暮らす多くの復活者の子どもたちのことまで。
あぁ、やっぱり千歳先生は凄いんだよ、と憧憬の眼差しを向ける。
「さっきみたいなの、千歳先生はいつも聞いてるんだよ?」
「いつもじゃないよ。仕事もあるし、時間がある時だけ」
「時間って…スイカ知ってるんだよ。千歳先生、ぜんぜん休まないから困るって、ゲンが言ってたんだよ」
わーかーほりっく、とゲンはボヤいていた。意味を聞けば、仕事に取り憑かれてる人だとか。
千歳は小さく嘆息すると「あの子は…余計なことを」とボソリと吐き出した。
そんな彼女の横顔を見つめながら、スイカは気づきを覚える。
先生は、みんなの不安を受けとめて、話を聞いて──
「けど……なら、千歳先生の不安は、誰が聞くんだよ?」
強い人間なんてそういない。どこかで吐き出す場所が必要なら、それなら先生だってそうじゃないか。
スイカの問いかけに千歳は硬直した。固まった相貌はしかし、直ぐに崩される。
「私は大人だから…先生だから大丈夫なんだよ」
細い指先が、スイカを撫でて。
「大人はずる賢く生きてるから大丈夫なの」
優しく──しかしどこか寂しげな声音が紡がれた。
その声にスイカは直感する。
──そんなはずないんだよ。
そんなはずないじゃないか。大人だから、先生だから溜め込んでも大丈夫なんて、そんな…神様みたいなことができるわけない。
言下にスイカは彼女の言葉を否定する。けれど、何故だかそれを言葉にするのは憚られた。
心内で否定しながらも、スイカはなるべく、言葉を選んだ。
「…誰だって、泣きたい時はあるんだよ」
自分にだって、村のみんなにだって、それこそ千空や復活者のみんなにも。
「みんな子どもみたいになりたい時があるなら、先生にもあるんだよ」
懇願するような声が出た。伝えたくて、伝わってほしくて。
頑張らなくていい。そんなに、頑張らなくてもいい。
大人であり続けなくてもいいんだと、スイカの縋るような声に彼女は瞬いて、そして。
「ありがとう、スイカ」
哀しげに、笑った。
*
自分の役割は、大人、であることだ。
千崎千歳は一人、教室の片隅で改めて自身に言い聞かせた。机の上にはもうじき竣工予定の大型機帆船、ペルセウス号の艦内図と、動力部など各船室と機械の説明を記載した図面が書きかけの状態で在る。乗組員のために作成中のそれは航海長である龍水からの依頼だった。図面に加えて、航海中の注意事項などを加えた簡易説明書も鋭意製作中だ。
子ども達への授業と課題作成に加えて追われる作業に、ここ最近の夜は夕飯を食べれば直ぐに部屋に篭っている。周りは労働後の談笑などに華を咲かせる中、一人黙々と。
(まぁ、今はこっちの方が良いか…)
ワーカーホリック気味だと一度ゲンに指摘されたが、千歳にとってはありがたかった。
何かに追われている方が、気が紛れる。
図星だからといって、大人気ない態度を取ってしまった。子どもみたい、とその一言に、その通りの態度が出てしまった。
大人でなくてもいいと子どもに心配された。本来自分が庇護するべき相手に案じられたのは、きっと自分が彼の言葉を引きずっていたからだ。
ふと、手を止めて、彼女は天井を仰ぎ見た。
大人と子どもの境界線なんてものは曖昧だ。何を以て大人となるかなんて明確には分からなくて、けれど──
「私にはこれしかないから」
だって、自分にはこれしかない。
自分に与えられたのは、大人としての役割。それを全うしないととてもじゃないがこの世界で真っ当な気持ちで生きられる自信がない。役に立ちたい、じゃない。立たなければ自分がどうしてここにいるのか分からない。
自分をできた人間だと彼は評したが、それは違う。
自分は、ただ──
「邪魔するぞ」
キィ、と木製の扉が音を立てて開き、訪問者が小屋へと入る。その声に思わず躰をびくりと揺らしてしまった。
彼とはそこまで話したことがない。
「どうしたの、七海君」
千歳の問いかけに彼、七海龍水は「進捗確認だ」と彼女に近づく。
進捗確認など、彼がしたことはこれまで一度もないため、千歳は僅かに不信感を抱いた。幾度か説明書の作成など仕事を請け負ってきたが、納期内で完成させて受け渡しもしていたためか、彼が自分に仕事の進捗を聞いたことはない。
机の上の図面と説明書の束を見た彼は「順調そうだな」と呟く。意図を測りかねる千歳は相槌は打ったものの、戸惑いを隠せない。
そんな彼女に、龍水は明後日の方向に視線を遣って問いかけた。
「……スイカを助けたそうだな。武道の経験者か?」
唐突な質問に千歳が面食らう。誰にも言っていなかったが、当の本人が言ったのか。
千歳は肩を竦める。
「少しだけ空手をやってたけど、直近では元警察官から護身術指導してもらってたの。ほら、不審者が学校に侵入、てケースが全国的にあったから、知り合いに頼んでね」
ニッキーや陽などの有段者、それも実力者から見ればお粗末なものだろうが、一通りの訓練は受けていた。といっても、教員向けの指導では刺股などを持ち、距離を取って複数人で対応、が原則なので、自分が受けた対人格闘に類するものは珍しいだろうが。
「いくら習っていたからとはいえ、戦闘要員ではない貴様が出て行くのは危険だろう」
「危険ってそんな…ナイフ持ってるわけでもあるまいし」
「それこそ、羽京ならすぐに駆けつけたろうな」
ぴしり。なんて擬音が合うほど目に見えて硬化した体。探る視線を向ける龍水は目を細めてさらに逃げ道をなくした。
「貴様、羽京と何かあったな」
「…何が、かな?」
「とぼけるな。お前とクワゴ採集から帰って以降、奴は物思いに耽ることが多くなった。そのくせお前の名前を出せば反応を示す」
「おんなじこと私にしないでくれるかな…」
はぁ、と嘆息した彼女は数秒置いてから口元に綺麗に弧を描いた。
「別に何もないよ。ちょっと私が大人げなかっただけ」
なんてことはないと笑い、へらりとかわす彼女に龍水は僅かに片眉を上げる。しかし、無言の龍水に、彼女は構わず止めていた作業を再開して。
「フゥン」
龍水は、目を眇めると近くにあった椅子を片手に引っ掴んで彼女の隣にどかりと腰を下ろした。腕を組み、自分を見据える彼を千歳は怪訝な様子で見返す。
「俺は欲しいものは全て手に入れたい」
「……うん?」
「物だけではなく人も、その縁も須く己が手中に納めんと気が済まんタイプでな」
「……うん、知ってるね」
唐突に語り始めた龍水に千歳は頷く。いまさら自己紹介をしてどうする、目覚めた初日にそんなものは済ませてもらっている、と声音に不信感が滲む彼女に、しかし龍水は構わず続けた。
「このストーンワールドだろうが、俺は欲しいものは手に入れてきた。それはこれからも変わらん。物も人も何もかも、欲しいものは手に入れる」
熱弁をふるう龍水は、意図を読めずに固まっている千歳に目を細めた。
「ただ、貴様だけはどうも違う」
突然、自分に投げられたボールに面食らった千歳は、数秒間を開けて問いを投げ返す。「…気に入らないってこと?」と首を傾げれば、「違う」と言下に否定された。
「貴様は、実体がない、幽霊みたいな女だ。どれだけこちらが掴もうとしても掴みきれない。気弱そうにしている割に、我は強い。バレているくせに隠そうとする。矛盾だらけの大人だ」
若干の不服を声音に滲ませる彼に千歳がパチパチと数度瞬く。自信家で頭のキレる七海龍水にしてはあまり見ないその顔に苦笑した。
「…大人ってのは、カッコつけたがりなの」
「そうだな。だが、気に食わん」
「気に食わんってねぇ…」
「無理に己を取り繕うと、いつか潰れるぞ」
ぎくりと心臓が収縮した。龍水の言葉は嘘偽りなく、またいつも的確なため時折毒だ。
けれど、真実とか正論が、いつも薬になるとは限らない。少なくとも自分にとって、彼の今の言葉はひどく、己を惑わす。
「そっか。ご忠告ありがとうね」
「そういうところだ、阿呆」
かわそうとしても、距離を詰められて。
「羽京と何かあったのだろう? 貴様がここまで隙を見せる程度のことがあったのは推察できる」
真っ直ぐな瞳は彼女を逃さない。下世話に暴こうとするのではなく、純粋な興味からくるのだろう。
七海龍水の長所は強いリーダーシップだが、それは単に人を惹きつける力だけではなく、他人をよく観察し、強みを引き出す力にある。自分だけで突っ走るのではなく、人の長所を生かすその才能はまず、他者への興味関心から始まる。故に、彼は人を知ろうとするのだ。
しかし、千歳は他人に踏み込まれるのは、苦手だ。
「…譲ることのできないものはあるでしょ? 君も、私も」
千歳は、小さく嘆息した。
「少なくとも今回のことは七海君には関係ないことだし、そんなに固執しなくていいじゃない」
誰かに甘えて、弱音を吐いて、寄りかかってしまったら、自分の存在意義が分からなくなってしまう。
私は大人だから大丈夫という不文律は、破られてはいけない。
態度を硬化させ、意固地とも取れる千歳に、龍水は、フゥン、と鼻を鳴らす。
「貴様のその虚飾を剥がすのは容易ではない。だが、興味があるからこそ訊いている」
「…興味?」
「こういうことだ」
言葉が終わると同時に、近づいた陰に千歳は瞬く。詰められた距離、精悍な顔、近づくそれに息を呑む間も無く。
「七海く──」
ガタンッ、と勢いよく立ち上がった椅子が転げ、けれど構うことなく迫る彼にのけ反ればその先は壁だ。力強い双眸から目を離すことができず、壁を背に固まってしまった彼女は己を壁際に追い込んで顔を近付ける彼を呆然と見た。
(なんで)
何が起きているのか分からなくて。けれど、いつもより一回り大きく見える体躯に身が竦んだ。
息を吐くことすら許されない眼光の鋭さに、草食動物よろしく固まって。
──千歳。
けれど、脳裏にリフレインした"彼"の声に躰は反応した。
無意識に、ほぼ無意識のうちに、彼女はハッと目を見開き、彼の肩に己の両手を押し付ける。
駄目だ。
そう、強く思って、願って。
ぐっ、と力を込めた、その矢先。
「何やってるの」
龍水、と冷ややかな声が室内に入ってきたことにより、二人の時間は終わりを告げた。