10

『食事が終わったら、千歳の小屋へ来い』
 夕食時の喧騒をいつも通り聞き流していたら、唐突に真後ろで囁きが聞こえた。それは、周りの声にかき消されるほどの声量で、しかし羽京の耳には拾える、それを見越した声だった。
 真後ろの彼は自分の動揺も見越していたのだろう。勢いよく振り返ってしまった自分を、彼は──龍水は視線を置いたまま横目で流して、そして、薄く笑った。しまった、と悪手に頭を抱えても時すでに遅し。龍水は羽京のその苦々しい表情に満足した様子でゆったりと歩き去った。向かう先は、彼女の元だろう。
 はぁ、と小さくため息を吐く。食事はもう終えていて今日もフランソワと料理番の復活者達の夕飯は美味だった。ストーンワールドとは思えないほど、ここ最近食事がおいしい。けれど、桑の味の甘味を食べても、もはや何も味がしなかった。
 あの後から、千歳は自分を避けている。明らかに意図的に接触の機会を減らされていることは嫌でも分かった。目が合えば逸らされ、青空教室でも必要最低限の会話。「じゃあ、また」と足早に帰られたことが何度あったか。
 不都合かと言えばそうではない。必要最低限さえあれば日常生活に支障はないため、放っておいても良いといえば良いのだが。
(駄目だなぁ)
 もう一度、今度は大きくため息が漏れる。
 声を、聞きたい。外行きの、線引きされた大人としての声ではなく、彼女の本心からの、声が。凛としていて、けれど淡く柔らかくて、落ち着く声だけではない、彼女のそれ。
 先日、彼女はスイカを助けたと聞いた。あの彼女が、大の男を組み伏せたと聞いた時、羽京は驚嘆を覚えつつ、しかし心の奥底ではひどく、残念に思ったのだ。
 自分が近くにいたら、声を掛けてくれたのか。
 答えはきっとノーだろう。それでも、近くにいたら或いは。すぐに駆けつけていれば、或いは。そんな無意味な思考を展開させたところで意味はないが、分かっていても頭の片隅に彼女の相貌がいやでも思い浮かぶ。
 自分を拒絶したその顔は、隔意を明確に示していて。
 けれど、どこか泣き出しそうな子どものようだった。拒絶と哀しみに塗れながらも、必死にそれに耐えている子どものようだった。
 きゅう、と胸が締め付けられる。過ぎ去った龍水の横顔を思い出して、羽京は荒々しく席を立った。


「──貴様に関係があるのか?」
 羽京の問いかけに、眉ひとつ動かさず龍水は怜悧に問い返した。向けられた挑戦的な視線を受け、羽京は彼を見据える。壁際に追いやられた小柄な体躯、両腕を突き出して彼の肩を押し返している彼女の相貌は虚をつかれたように固まってしまっていて、しかし直ぐにその顔はそらされた。
「関係はないけど、合意とは思えないから」
 その様に、ひどく心が掻き乱される。ぐるぐるとおもしろくない感情が巡った。
 来いと言われたからには何か密談じみたことがあると思っていたが、性能の良い耳は扉の外から彼らの声を拾っていて。話の内容を立ち聞きするのは無粋と思いつつ羽京は扉を押すことを躊躇った。
『羽京ならすぐに駆けつけたろうな』
 自分に来いと言った彼は、まるでそれを自分に聞かせるように宣った。挑発と受け取られかねない声音だったが、事実そうなのだろう。目の前の光景が証明している。
 沈黙の帷が下りて、羽京の冷徹な視線と龍水の感情を読ませないそれが絡み合う。唇を引き結び、睨め付ける羽京に龍水は動じない。常とは違う鋭くそれでいて静かな視線が羽京に向けられている。
 黙した二人の間に流れる緊張は──
「七海君」
 しかし彼女の声によって絶たれた。
「おいたがすぎる」
 凛と、緊迫した空気を割く涼やかな声に次いで、大人が子どもを咎めるように、彼女はピンっと中指をはねて龍水の額に当てた。
 思わぬ小さな反撃を受けた龍水は瞬き、羽京もまた同様の表情を浮かべる。随分と可愛らしい行動で、龍水の口元が緩みかけたのが確認できたが、しかし向けられた視線の鋭さに直ぐに真一文字に結び直された。
「明日までには説明書完成させるから、待っときなさい。今日はもう帰る。いいね?」
 ピシャリと言い放たれた言葉。不穏な空気を取り払い、且つ子どもの悪質な悪戯を諌める対応。虚をつかれて狼狽えた彼女から一転、状況把握した大人として、彼女は龍水を鋭く見据えていた。
「……ああ、分かった」
 ひとつ、龍水は目を瞑り、息を吐くと大人しく従う。神妙な顔つきで頷いた彼は、俯き気味に彼女に背を向けた。
「──っ」
 去り際の横顔に羽京は僅かに目を見開く。
 にぃ、と。釣り上げられた口の端と意味深な瞳。横目で自分に向けられた愉悦たっぷりの相貌に、羽京はぐっと拳を握りしめた。
 最初から狙いは"コレ"か。
 ぐるぐると不快感が臓腑を巡る。苛立ちを払うように首を振り、羽京は彼女に近寄った。
「何もされてない?」
「……うん」
「本当に? 嘘ついてない?」
 詰問みたいな口調は、らしくないと自分でも思う。それでも、焦慮に駆られた声は隠し通せなくて。
 彼女は、怒気を孕んでいた声音から一転、肩を竦めて羽京に微笑んだ。
「大丈夫だよ、声聞いたら分かるでしょ? 嘘かそうじゃないかくらい」
「分かるけど…千歳は信用ならないから」
「…どういう意味なの、それ」
 苦笑した彼女は僅かに瞼を伏せる。腕を摩り、どこか居心地悪そうにする彼女に、羽京は思わず呟いた。
「千歳は、いつも心配させてくれないから」
 まるで子どもじみていると分かっていても、続けてしまう。
「この前も、呼んだら聞こえたかもしれなかったのに」
「いやだって、そんな余裕なかったというか、叫んだら逆上しちゃったろうし」
「どちらにせよ手を出されたじゃないか」
「そう、だけど」
 退路を塞いだって意味はないことは理解している。言葉に詰まる姿が見たいわけでもない。
 それでも、羽京は言いたかった。
「千歳は、もっと他人を頼るべきだよ」
 抱え込まずに、人に寄りかかってほしい。
 せめて、自分には──
「…いつも、頼りっきりだよ。私ができることは少ないからそれくらい」
 耳朶を打ったか細い声。きゅ、と握られた拳に、羽京は言下に返した。
「それだよ」
「……え」
「そうやって、自分を過小評価するから無理をする。大人のくせにできることがない、て自分を縛って」
 ハッ、と彼女の目が見開かれる。羽京を見上げた彼女はしかしすぐに視線を逸らした。自覚があるのか、口を噤んでしまった彼女に羽京は一度瞑目して、ゆっくりと瞼を上げる。
「…子どもみたい、て言った時の君は、哀しそうだった。まるで、自分を否定されたみたいに。それをすごく、怖がってるようにも見えた。……けどさ、千歳」
 羽京の脳裏にその時の彼女の相貌が浮かぶ。不安と悲嘆と怒り、負の感情が綯い交ぜになった顔。寄る辺がないと立ち尽くす子どものように、泣き出しそうな──

「僕を、頼ってよ」

 その姿に手を差し伸べる。
 拒絶されたらとか、隔意を示されたらとか、過去の間違いから学んだ、不必要なことは言わないという経験則は頭になかった。
 ただ、自分の心のままに、羽京は告げた。

     *

 七海龍水にとって、千崎千歳はつまらない女だった。
 千空が入れ込んでいる女教師が復活したなんて話題を聞き、さっそく見に行ってみればどこにでもいる普通の、それどころか何の取り柄もない新米教諭ときたからひどく落胆したことは記憶に新しい。これが、千空肝いり、という前評判がなかったら落胆もしなかったろうが、残念なことに龍水にはその情報があった。
 加えて、龍水が彼女をつまらないと感じた理由は、彼女の"何にも"惹かれなかったからだ。
 世の女は系統は違えど皆美人だ。龍水が惹かれる何某かを持っている。人間が持つ欲望が、彼女達を色鮮やかに彩るのだ。富、名声、美、から恋、愛、など人間関係まで、凡ゆる人間が持つ欲望が人間を人間たらしめる。欲のない人間ほど信用ならないものはない。そのような輩は善意という欺瞞で自身の欲を隠す、龍水の最も忌み嫌う人種だった。
 龍水は千崎千歳に、欲、を感じなかった。常に他者に意識を向け、自身の胸の内を吐露せず、望みを口にしない。龍水が惹かれない、女だった──

『七海君は、みんなをよく見てるね』

 そんな言葉を吐かれるまでは。
 ペルセウスの艦内図と注意事項を必要分作成する。そんな事務作業を依頼した日、彼女は龍水に微笑んだ。小屋の中で村の子どもの課題を添削していた彼女は、龍水の依頼にいやな顔一つせずにそう宣った。
『船に乗るメンバーのことを考えて依頼してくれたんでしょう? 自分だけじゃなくて、周りの人の進捗とか理解度とか、そういうのをきちんと分析できるのは、ちゃんと見てる証拠だよ』
 眉を顰めた龍水に彼女はそう続けた。虚を突かれて呆けていた龍水は、我に帰って笑みを溢す。
『…ハッ。親類にはついぞ言われることのなかったセリフだな』
 思い返すのは、過去に浴びせられた言葉の圧力だ。
『いい加減その欲しがるのをやめろと言われるばかりだった。欲しいは正義だと言ったところで、資本主義の塊だと揶揄されて終わりだったな』
 欲しいは正義だ。手に入れるために思考し、交渉し、互いの利益を掴むプロセスのどこが悪というのか。欲しい、を正当な交渉のもと実現させるのは、不当な行為で搾取を繰り返す世界よりよっぽど健全ではないか。
 それでも、欲しがりは嫌われた。散財ぶりは自堕落の烙印を押され、一族の恥さらしと。 
『先見の明がない愚か者と思われていたのだろうな』
 特段、それを悲観することもなかった。が、やはり気分が良いものではなかった。
 龍水はなにも、自分だけのために欲しがるわけではない。否、長期的に見れば全て己がためだが、そこで禍根を残すような手口を取ることはしない。既得権益を否定はしないが、能力ある者を不当に搾取するような非合理的な真似をすることはなかった。
『心理的利己主義、ていうのがあってね』
 ふと、思惟に浸っていた意識を現実に戻す。見れば、彼女はどこか、自分を見守るように微笑んでいた。
『人間の意識的な行動は全て自身の利益追求のために行われている、ていう主張で、私は割とこの考えが好きなんだ。行為の善悪に関係なく人の行動の動機は同じ、て究極の平等に思えてね』
『…平等、か』
『もちろん、自己の決定には外的要因は加わるから正しい理論とは言えないけどね。けど、誰かのためとか、そういった詭弁で自分の欲望を隠す人は存外世の中に多いから』
 知っている。龍水もそういった輩は多く見てきた。お前のためと言いながら子どもに手を振り上げた親類、災害復興のためと会社を立ち上げ、現地で雇用を生み出した会社社長は国費の復興財源を横領していた。
 誰かのためを隠れ蓑に悪事を働く者、誰かのためを盲信して自身の欲を自覚しない愚か者、幼少期から龍水はその手の輩を目にしてきた。 
 だからこそ、欲を隠さないことは、間違ってはいない。
『間違ってないよ、七海君は』
 彼女は、キッパリと言い切った。
『嘘偽りなく欲望を口にして、そのためのケアだってきちんとする七海君は間違ってない。欲しいから大切にできる七海君は、優しい子だよ』
 間違ってない、と目尻を緩めて諭す様は、母のような父のような──
 否、これが彼女が、大人として欲しがられる理由なのだろう。相手の真意、虚飾に塗れた本心、童心に帰らされるような対応力こそ、彼女の真髄なのだと龍水は感じた。
 石神千空ほどの男がただの女教師を復活させるわけはないと思っていたが、認識が改められる。大人として、彼女はひどく眩しい。他人の欲しい言葉を、欲しい対応を察し、与えてくれる母性に触れたくなる。
 故に、龍水は尋ねた。
『……貴様はないのか』
 小首を傾げた彼女を、真っ直ぐ見据えて。

『この世界で、欲しいものはないのか』

 龍水の問いかけに、彼女は僅かに目を瞠った。すぐに視線は逸らされ、困ったように眉尻が下がる。思ってもみなかった問いかけを子どもにされたみたいに、彼女は苦笑して、龍水を見つめた。
『……分からないや』
 それは、心の底からの言の葉に思えた。

 ──嗚呼、そうか。

 諦念と悲哀が入り混じった声と瞳に、龍水は気付いた。
(本気で、分からないのか)
 理解した。
 あれは、欲しがることも、欲しがられることもしてこなかった人間の、目だ。本気で分からないのだ。欲しがられなかったから、欲がわからない。分からないから、他人ばかり気にする。自分がどうしたいかの基準が常に他人に置かれている、その歪さに気付いていない。

 なんて、哀れなのだろう。

 おそらく、彼女は自分という存在を勘定に入れていない。役目を己に貸して、それに徹することで彼女は、己自身を守っているのだ。対人関係においても、波風立たせないように振る舞って。
 しかし、であるからこそ、羽京との不和に龍水はピンと来た。己の直感が告げていた。
 これはおもしろいことになる、と。
 欲しがらない彼女が、もしかすると変化するかもしれない。
 自身が用意した舞台で、彼らはどう踊るのか。
 明日の朝が楽しみだと、龍水は心躍らせながら帰路についた。

     *

 彼の言葉は、麻薬のようだった。聡い彼の言葉は、自分の鼓膜を甘く揺らして、胸に染み渡る。
「羽京は、ずるいよ」
 見つめる視線を避けて、俯く。
 何度思ったことだろう、この人はずるい、と。耳聡くて、人の心の機微に敏感で、けれど一歩下がって踏み込んでこない。そう思っていたのに、予想とは裏腹に彼は自分に近づく。
 触れてほしくないのに。
「なんで、いやなこと言うの」
 子どもじみた駄々だ、こんなの。
 分かってる。自分がどうして、こんなにも大人であろうとしたがるのか。大人だからと線引きしたがるのか。その理由はほんとうは、分かっている。だから、あの時、母親の石像を前にした時、自分は子どもじみたことを口走ってしまったのだ。
 下げていた視線を上げて、彼と交錯させる。真摯な瞳にえもいわれない情動がせりあがって、千歳は意を決した。
「……少し長くなるよ」
「…うん」
 羽京の穏やかな声に、千歳はうっすらと目を細めた。
 在りし日の過去を、追想するように。

「私ね…弟がいたの」

     *

 愛くるしい丸い瞳がいつも私を見つめていた。宿題で分からないところがあると、いつだって私のところに来て質問してくるのだ。
『おねえちゃん、教えて』
 たった一人の、私の弟は、甘えん坊だった。
 正直、勉強は得意じゃなかった。難解な方程式も元素記号の配列も知らない国の言葉も、全部やらなければいけないからやっていただけだ。本当は、好きな本を読んで、友達と恋バナして、新しいお店で流行りのお菓子を食べて、そんな日々を夢想していた。
 けれど、丸い瞳は私を捉えて離さない。
 弟が──爽太が求めれば、なんだってあげたいと思った。
 高名な医師と大学教諭の両親の子どもは当たり前のように高い学力を求められた。対人関係においてはいかに自分を低くして、他人を立てるかを懇々と説明される日々。家名に泥を塗るなと言われたのはきっと、親戚一同の中に政財界に顔が効く人間がいるからだ。
 私という個人に求められる資質はただ外からのレッテルばかりで。
 だから、爽太だけは私の希望だった。私という人間を求めて、手を伸ばしてくれる爽太。他の誰でもない私を。
 嫌いな勉強だって、疎ましい親類との付き合いだって、なんだって頑張れた。

 けれど、それはきっと私が子どもだったからだった。

 お世辞にも地頭が良いと言えない私がいくら努力したところで、地力の差は如実に現れる。中学三年にもなればいやでもそれは自覚した。
 私は、できた人間じゃない。
 伸び悩む成績、幼少期から続けてきた空手だって県大会止まり、反抗期の心は大人に不恰好な笑みしか向けられない。
 最初からできる人間とは思われていなかったとはいえ、凋落ぶりに両親も頭を抱えた。
 なんでこの子だけ。
 他の子達はこんなことはなかった。
 どうしてこんな。

 ──恥ずかしい。

 両親の会話は"開け放たれた"ドアの向こうから聞こえてきた。ちょうど、私が塾から帰ってくる時間だった。
 私の"凡ゆる"成績不振は、両親の不仲を呼んだ。
 あなたのせいで。お前のせいで。教育方針が悪かった。友達選びが駄目だった。学校が、環境が、塾が──何かに責任を求める両親を見ながら、私と爽太は日々を過ごした。
 小さな頃は確かに褒められたことがあるのに、大きくなるにつれて大人達は私の欠陥部分をよく見るようになった。小さな綻びが徐々に大きくなって見逃せなくなるように。
 その日々の中で六年生になった爽太は、初めは不安そうに私を見つめていた。『おねえちゃん、お母さん達こわい』『なんで喧嘩してるの?』腕を引っ張られて問いかける瞳に、私は、何も返せなかった。
 理由を言ったら、爽太は私をどんな目で見る?
 それがただこわくて、私は逃げた。『大丈夫、大丈夫だよ』『爽太にはお姉ちゃんがいるからね』
 子どもの私は、ただただ──否定されたくなかった。
 そうして、私は高校に入学して、爽太は中学生となった。真新しい紺のブレザーを見に纏い、誇らしげにする爽太は本当に、本当に愛らしく、いくつになっても可愛い弟に変わりないんだと、毎朝その背を見送りながら微笑ましく思っていた。
 けれど、私は、現実を見ていなかった。

 ──爽太、凄いわ!

 そのフレーズは、頻繁に家庭内に木霊するようになった。学力テスト、県総体、全国規模の学生向けの弁論大会、国際的な学生同士の討論会、他と競う大会が終わると家は賛辞の嵐となった。
 爽太は、優秀だった。優秀の二文字がここまで似合う中学生がいるかというほど、優秀だった。成績は常にトップ、部活動ではテニスに打ち込み、一年生でレギュラーを獲得。合間の時間で課外活動にも精を出し、学生向けに開かれた模擬議会では区議会議員が目を剥くほどの政策提言。
 同じヒトの腹から産まれて、ここまで差が出るかというほど、圧倒的な違い。
 自分にはなかったものだった。爽太は、私とは違った。頭の出来も、人格も何もかも全て、爽太は私より遥かに優秀だった。
 そうして、非凡な才を持つ完璧な個体は、両親の不仲を修復し、家庭不和を解決した。爽太の突出した才能によって、歯車は正常に回り始めた。

 ──嗚呼、そうか。

 私は、悟った。かみあわない歯車は、最初からいらなかったのだと。
 安寧が訪れたその中に、出来の悪い個体の存在は、いらなかった。
 高校の三年間、私は息を潜めて過ごした。家の中では言葉を発しない、ただ人目を、家族の目を避ける日々。
 幸いなことに彼らは私を透明人間として扱った。さらに食べるものにも困らず、きちんと用意されている。食事は一人がデフォルトだった。友人とのランチタイムはあったため、人と食卓を囲む楽しみはあった。
 寂しいと言う気持ちがたぶんなかったわけではない。
 それでも、爽太には迷惑をかけられないと思い、会話をしなかった。挨拶だけでも両親は良い顔をしなかったのだ。欠陥品が、何の用だといわんばかりに。
 両親の寵愛を受け、実力をめきめき伸ばす爽太に、こんな姉はもういらない。欠陥品はただのお荷物なだけだ。両親が判断しまえば、私は爽太と疎遠になるしかなくて。

 ──爽太。

 それでも、私は、子どもだった。手前勝手で、世間を知らず、他人の痛みに鈍い、子どもだった。
 大学に合格して、家を出て行くその日のことだった。
 私は久しぶりに爽太の部屋の扉をノックした。しばらく会えなくなるのだ、別れの挨拶くらいはさせてもらっても良いだろうと。
「爽太、入るよ」と一言断って入れば、机に向かっている爽太の背が見えて、あぁそういえば今度、考査があったっけ、とぼんやりと父母の会話を思い出す。邪魔しちゃいけないから、と思って私は手短に伝えた。
「あのね、私県外の大学に行くことにしたの。だから、暫く会えなくなるね。あ…そういえば母さんが言ってたよ、また模試で一位だって。やっぱり爽太は凄いね」
 私の言葉に爽太は振り向かない。無言の返しに苦笑しつつ、私は続けた。
「良かったよ。爽太がすごいから、何も心置き無く大学に行ける。全部大丈夫だもんね、爽太なら」
 家庭内の不和も解消し、文武両道で非の打ち所がない爽太。私がいなくたって、きっと最初からこの子なら上手くやっていた。『おねえちゃん』と慕うこの子にいい気になって、姉らしく振る舞わなくたって──

「なにが、大丈夫なわけ」

 けれど、低く、地を這うような声が、空気を振動させた。
 聞いたこともないような声音が響いて、思考がフリーズする。
 ゆらりと、爽太がこちらを振り返った。
 交錯した視線に、全身が凍った。
「……爽太…」
「何を見て、お前は今、大丈夫って言ったの? ねぇ」
 怒り、など生ぬるい。憤怒、憎悪、軽蔑、凡そ人への負の感情が全て入り混じった眼だった。
 向けられる視線に、私は言い訳がましく口を開いて。
「…だって、どんな高校でも受かるって…あの子は大丈夫って母さんが」
「アイツが言っただけだろ!!」
 怒声に、口を噤む。いつも、父母の寵愛を受けて笑顔を絶やさなかった爽太の口から溢れでた"本心"に、耳を疑った。
 階下のあの人に聞こえるかもしれない。
 それでも、爽太は止まらない。
「何が大丈夫だよ。何を見てお前はそう言ったの、なぁ? 今までずぅっと逃げてきた奴が、今さらそれを俺に言うとか、なんの嫌がらせ?」
「逃げて、きた…?」
 呆然と返す私に、爽太は止まれない。
「俺を避けて、アイツらも避けて、何もかも分かってるって顔して逃げてきたお前が、どの口で俺に大丈夫なんて言うだよ」
「そんな…私は、爽太の迷惑になりたくなくて」
「迷惑? 猫撫で声で俺に擦り寄るアイツらの相手をしていた俺を見捨てたくせに?」
「っ、違う! 私はっ」
「違わねぇんだよ!!」
 ガタンッ、と勢いよく立ち上がり、転げた椅子に見向きもせず、爽太は私を睨み付けた。
「自分だけ期待されないから好きに生きて、イイ子ちゃんでいる俺の気も知らないで好きな高校行って大学行って一人暮らしまで始めるなんて、それのどこが迷惑に思ってんだよ!」
 溢れる本心に、私の思考は完全に停止していた。
 爽太の積年の怒りが、憎しみが、自分に向けられていることへの理解が、追いつかなかった。
 どうして。
「爽太…」
「俺だけ努力して、気に入られて、なのに、なのにお前は、お前はっ…どうして!」
 ぐっ、と唇を噛んだ爽太に、目を瞠る。
 くしゃりと顔を歪ませたその両の目に溜まっていたのは、大粒の雫。
 息を飲んだその瞬間、雫が──溢れた。


「…どうして、守ってくれなかったんだよ…」


 私は、愚かな私はそこでようやく悟った。己の過ちを、己の罪を。

 嗚呼、私は間違ってしまった。

 私は、ただ──逃げていただけだ。

 弟に全てを押し付けて、楽な方へと逃げて、手を差し伸べることもせずに、ただそれが最善だと己に言い聞かせていただけだった。
 その方が、楽だから。
 それが、この家の幸せだから。
 たった一人の、自分を慕ってくれた弟に、全ての期待を押しつけた。

 私は──子どものままだった。

「……ごめん」 

 それが、私が爽太にかけた、最後の言葉になった。
 怒声を聞きつけた両親が私を部屋から引き剥がし、何かを言いつけてきたけれど、もう覚えていない。爽太に近づくな、とか、余計なことをするな、とかだと思うけれど、今となってはどうだって良い。
 私は大学に進み、教員免許を取った。教員になりたいとか、そんな高尚な思いがあったわけじゃない。

 ただ、私は──贖罪をしたかった。

 子どもは、守られるべきものだ。
 大人は、守るものだ。
 大人は、子どもであってはならない。
 いつ何時いかなる場合でも、必ず、大人は大人であり続けなければいけない。
 だから私は──"大人になった"。
 何があっても子どもを守る、大人になった。
 だから私は、求めてはいけない。
 求めに応じる側でなければいけない。
 私は、大人であり続けないといけない。
 だって、そうでないと。

 なんのために生きているのか、分からない。

     *

「──上の立場の人間は下を守らないといけない。それを痛感して、だからきちんとしなきゃ、て思って。だから、何もできないのは…こわいの」
 滔々と、自身の過去と心情を語る彼女を見つめる。へらりと苦笑して、けれど僅かに震える声音に、羽京は言葉を失った。

 想像より遥かに、彼女の病理は深刻だった。   

 子どもみたい。その言葉は彼女にとって自己否定と同等の意味を持っていたのだ。存在意義を奪われるのと同じ意味。ただ、大人と思われたいとか、その程度のことではない。手の伸ばし方が分からないとか、そんな生温いものでもない。

 彼女は──全て諦めてきたのだ。

 自分の価値を認められずに、自分に役割を課してそれをこなすことで、己の存在を許してきた。
 許されなかったから。
 何かをしないと、何かを為さないと存在を肯定されなかったから。
 だから、求めることを諦めた。
「いろんな人にね、頑張りすぎなくて良いとか、不安を吐き出したら良いとかいろいろ言われるの。けどね、本当に大丈夫なんだよ」
 彼女は朗らかに笑う。まるで、それは当然のことと言わんばかりに。
「わたしが、そうしないと潰れちゃうの。不安に苛まれちゃって、自分を…許せなくなっちゃうの。だから、ね?」
 仕方ないことだと彼女は笑う。自分の選択だと曰う。
 しかし──
「私は、大丈夫」
「なわけないでしょ」
 そんな台詞を、聞きたくなかった。
 故に、羽京は言下に被せた。
「自分は何もできないから、自分には価値がないから。そんな価値判断があっていいわけない」
「羽…京?」
「与えられた役割をこなさないと此処にいる価値はないって、千歳は思ってるの?」
 びくりと彼女と肩が鳴る。図星なのか、視線が僅かに逸らされた。
「それは、他の人にもそう思ってる?」
「っ、そんなわけっ」
「ないよね? なら、自分にはどうしてそう思うの」
 止まらない詰問に、言葉を詰まらせた彼女は泣き出しそうな双眸で羽京を見上げる。
 必死に、言葉を紡いで。
「だって、そう思わないと、わたしは」
 ほんとうは、自分の歪さを分かっているのに、その性を修正できない。自分を守るために、自分を蔑ろにする矛盾に苦しむ。
 彼女も羽京も、理解していた。
「…千歳のその不安は、千歳じゃないと拭い去ることはできない」
 しかしそれは、他でもない彼女自身が克服しなければいけない。他の誰かが許しても、彼女が彼女自身を許せるようにならなければいけない。

「──けど、僕は千歳が此処にいるだけでいい」

 それでも、羽京は伝えることを選んだ。
 憂いを帯びていた彼女の瞳が羽京に向けられる。迷子の子どものように、不安げにに俯いていた彼女に見つめられて、羽京は、微笑んだ。

 そうだ。ただ、それでいい。

 大人だとか、子どもだとか、そんな型にはめられた社会的な位置付けなんて全部どうだって良いのだ。
 自分は、ただ──

「社会的価値とかそんなものなんて関係なしに、千歳に──そばに居てほしいんだ」

 ただ、側で。
 君に、笑ってほしいだけなんだ。

 万感の想いに乗せて、羽京は震える彼女の体躯を、しっかりと抱き締めた。



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