長く深い暗闇の中で幾日、幾月、はては幾年か、意識がなくなる時まで編み続けていたのは、自分がこの果てのない暗闇から解放された時に綴る物語の一端。眩い閃光が視界に入った刹那、数十メートル先の人間が動かなくなり、そして自身の体も意識も持っていかれた感覚を綴らなければという一種の使命感が、彼女の意識を常人より生かした。幾年、もはや数えることすら億劫になるほどの時間。
いつか、いつか、と願い続けた先だった。
そうして、目覚めたその時、太陽光を受けてその身を輝かせていた彼を見た彼女は言った。
「……神様?」
*
遠く蒼が広がる晴天の日は全てが捗る。男達が力仕事に、女達は炊事洗濯に、日差しの恩恵を受けて村民全員が各々の仕事に従事する中、石神村の外れに位置するほったて小屋では、子ども達の元気の良い声が響いていた。
「千歳せんせぇー! これなんて読むの?」
「せんせー! 書き順がわかんない!」
「千歳、この文字の意味はなんだ」
一名ほど声変わりがとっくに終わった青年が混じってはいたが、小屋の中では所狭しと置かれた長机に座った子ども達が、紙を片手に次々に手を上げていた。
「はいはい、次に行くから待っててね。金狼はそのあと」
教室の真ん中で別の子どもに読み方を指導していた女はそう言うと、一時たりとも静かにならない室内に苦笑する。学びに興味を持ってくれるのはありがたいが、あいにくとこのストーンワールドでは三千七百年前のカリキュラムなど無意味なため、授業計画も立てずに求められるがままに指導をしている。仮にも教員という職業だったというのにこれで良いのかと自問しながら、しかし彼女は首を振った。
そもそも、自分のような若輩者に白羽の矢が当たったのが間違いとしか言いようがない。だいたい、自分はこの世代の子ども達を相手にしたことがないのだ。さらに言えば、全ての教材が今や塵芥となってしまった今、幾ら脳内に教科書を広げたところで目の前の子ども達に見えるのは自分が記述した文字だけ。教える、という己の土俵すら、整備がままなっていない状況だった。
「おー、捗ってんな。センセイ」
立て付けの悪い扉がギィと開く。部屋に入ってきた主に子ども達が歓声をあげた。「千空だ!」「お仕事終わったの?」「今度は何作ったのー?」質問攻めにあう齢十八の少年ともとれる面立ちの男は「あー、いっぺんに喋んな」と気怠げに答えつつ、その瞳の奥には幼い子どもらに対する慈愛が見え隠れした。
素直じゃない、と彼より年上の女は苦笑する。
「…さぁ、みんな。ちょっと休憩しようか。外で遊んでおいで」
勉学が嫌いな子ども達が多くないにせよ、体を動かすというのもまた大切なことだ。人の集中力というものは大して持ちはしない。
きゃー!と、ほとんどの子ども達が外へと飛び出す背を見送った彼女は、ひとつ嘆息すると千空に向き直った。
「石神君。私、まだ先生って言われるほど働いたことないんだけどなぁ」
「教師、て括りじゃ同じだろ。それに、既存のカリキュラムなんざ意味ねぇんだ。イチから教育課程考え放題じゃねぇか」
「逆に大変だから、それ」
ニタリと口角を不敵に上げる彼、石神千空に彼女は大きく肩を落とした。
彼女が目覚めたのは、ひと月ほど前だった。
光が一筋も射さない漆黒に塗り潰された世界で、無窮ともとれる時を刻み続けていた彼女は、突如去来した外光を背にした彼を見た。全身の感覚がつぶさに蘇っていく中、ハッキリと視界に現れた影を認識し、刹那、思わず言葉を漏らした。神々しいほどのソレを、神様、と。
しかし、幸か不幸か、それは神様でもなんでもなく、ただの自分と同じ人間…どころか自分より歳下の子どもだった。それも、自分が教鞭を取る高校の生徒の一人というものだから、彼女の驚嘆は計り知れないもので。
《よぉ、センセイ。目覚めの気分はどうだ?》
神様と見紛った相手の輪郭がはっきりとした瞬間、不遜な態度で宣われたことは、生涯忘れはしないだろう。
しかし、何故、数いる教育者の中から有能な人材を選ばず、自分のような若輩者を復活させたのか。疑問を覚えつつも、働かざる者食うべからず、と子どもから大人までの幅広い世代に、主に日本語の読み書きを教える日々を彼女は送っている。
「上手くできてるか非常に不安だよ」
肩を落とした彼女に、労いの声が掛けられた。
「千歳さんの教え方はすごく分かりやすいよ。即席の教科書も、学習の進み具合に合わせて作られてるし」
トントン、と彼女が製作した和装本の教科書を揃えた彼─西園寺羽京が本棚にそれを戻す。教え方が上手い彼もまた、力仕事の合間を縫い、彼女と共に石神村の教育≠ノ従事する一人となっていた。
「ありがとう。西園寺君も忙しいのにごめんね?」
「いや、僕も頭の整理にちょうど良いんだ。教える、て自分で理解してないとできないから」
得た知識を他者に伝えるためには、相手の知識量、理解力に合わせた言語での説明が求められる。自身の頭の中で整理した情報を言語化して伝えるというのは、自分のためにもなることだ。
「確かに、いろいろ整理できるよね」と苦笑した彼女は、ふと気づきを覚えて彼に問いかけた。
「そういえば、西園寺君は英語得意なんだよね?」
「得意…てほどでもないけど、人並みには。どうして?」
きょとんと目を丸くした羽京に、彼女は、パァ、と顔を輝かせた。
「良かったぁ。英語の簡易的な辞書も作ろうと思ってたけど、私一人じゃどうしようもできなくてさ。一般教養レベルの英語くらいはあった方がいいかな、て」
彼女は広末高校の国語教諭だ。担当は現代文。
国語教諭とはいえ英語の知識がないわけではない。が、バリバリに仕事で多用してきた現役自衛隊員にはやはり劣る。
「日本語すら覚束ない連中に詰め込みすぎだろ」と、千空が、ひらがな、カタカナ、漢字などが書かれた年次ごとの学習用にまとめられた和装本を手にぼやいたが、彼女は首を振った。
「むしろ、セットでやるべき一番の教科だよ。既存のカリキュラム的にも、ね」
学習指導要領の改定によって今や小学校高学年さえ英語が教科として導入された。時代の潮流に合わせて、というのをこのストーンワールドで述べるのはあまりにも頓珍漢な具合もあるが、それでも、カリキュラムもゼロになったのなら、新しく要領を改定しても問題はない。
「いつか、人類が復活した時に一番覚えといた方が良い言語でしょ? 教育もゼロからのスタートならさ」
「現代文の教師がソレを言うか」
呆れつつも、どこか満足げな千空の声音に彼女の口元は自然と綻んだ。
彼女が教育≠フ担い手として目覚め、そしてイチから作り出した教科書。ひらがな、カタカナ、漢字のほか、ごんぎつね、などの児童書まで、脳内にある知識だけを基に製作したそれは凡そ教科書と名の付けられるものではなかったが、千空は何一つ注文を付けることなく、彼女のやることを黙認している。
自分の教え子でありながら、しかし他に比肩できない頭脳と探究心を持つ彼、石神千空。自分が持ち得るより多い知識が彼の脳内には広がっていて、子どもながら末恐ろしい頭脳を持つ出色の高校生。それが、石神千空という少年だった。
そんな彼に少なからず認められていることは、教育者として幸か不幸か。うかうかしているとあっという間に置いていかれそうな、背筋が伸びる心持ちにもなった。
とはいえ、年相応の穏やかな一面、そして諧謔を弄しながら面倒見がいい彼を見るのは、やはり大人として微笑ましい。
「ちゃんと専門だって教えるから問題ないの」と、彼女がわざとらしくそっぽ向く。「まぁ、覚えて損はないからね」と羽京も助け舟を出した矢先、三人の耳朶を柔らかな声が打った。
「…ねぇ。言葉、ていろいろあったの?」
「えいご、てなぁに?」
ふと、教室に残って読書に勤しんでいた子ども達が、三人を不思議そうに見上げる。つい最近まで言語≠ノすら触れてこなかった幼子にとって、それが複数あるというのすら不可思議でたまらないのだろう。
会話に割って入ってきた子どもの一人に目線を合わせて、彼女は「えっとね」と説明を始めた。
「いろんな所にいろんな人が住んでるとね、言葉は増えていくの」
「増えるの…? どうして?」
「んー、そうだねぇ…」
一説によると、言語が多様になった要因は、共同体によって重要事項が違っていたから、という。日本語で積雪を指すのは一つしかないが、国によっては、湿った雪、積もった雪などを指す独自の言語が存在する。
「昔はね、海を越えた外にもたくさん人が住んでたの。だから、そこに住んでた人達は、そこの人達だけで通じる言葉を作っていったんだよ」
「えー、同じ言葉じゃ、だめだったの?」
「元は同じだったんだけどね。すっごく長く時間が経つと、その土地だけで通じる言葉に変化していくの」
神に近づこうとした人類が天まで届く塔を建てようとした結果、神の怒りに触れ、共通言語を解かれてバラバラの言葉を与えられた。
言語の差異はバベルの塔の崩壊のせいではないものの、言語を統一しようというのは不可能に近い。それぞれの土地で培った文化によって育まれる人の営みの成果が言語といっても差し支えないほど、生活と言語は切り離せない関係だ。
子ども達にも分かるように、地球の地図を描き、言語の種類を伝え、理由を説明する。時折、眉間に皺を寄せて考え込む素振りを見せながらも、飲み込みが良いのかすぐに得心がいった様子で大きく頷いた。「おもしろいね!」「不思議だね!」新たな知識を得て目を輝かせる子らはひどく眩しい。
「ねぇ、えいご、はどんな言葉があるの?」
「クロムが言ってた、すとーん、てなぁに?」
「えっとね、Stoneは石、ていう意味だよ。あと関係する言葉って言ったら、神のGod、村のVillage、とかかな?」
「…では、石神村は、ストーンゴッドヴィレッジなのか?」
「あー、いや。固有名詞だから普通にイシガミヴィレッジになると思うよ」
「こゆうめいし?」
新たな単語に面々が困惑気味に眉を顰める。単語の持つ意味、用法を説明するのは一朝一夕にはいかなくて。
(教える、て難しいなぁ…)
本当に復活したのが自分で良かったのだろうか。小学校教諭の方が良かったのではないか。
羽京と千空が子ども達に捕まり、質問攻めにあっている中、ぐるぐると錯綜する思考に気難しい表情になる。考えても仕方ないが、気にはなった。
何故、少ない復活液を、自分に使ったのか。
「ねぇ、千歳先生」
ふと、服の裾を引っ張られて彼女の意識が浮上する。目線を合わせ、「どうしたの?」と問えば、利発そうな男子は言葉の意味を問いかけた。
「千空とかクロムがよくさ、すとーんわーるど、て言ってるじゃん? わーるど、てなに?」
原始の世界。石像に覆われた地を確かに彼らはそう呼んでいる。
よく聞いている、と彼女は微笑んだ。
「Worldはね、世界、て意味だよ」
「世界かぁ……あ、ならさ!」
パァ、と目にキラキラと光を灯した男子は、快活な笑みで宣った。
「千空は、神様なの?」
「……へ?」
「は?」
「だって、千空のミョージ、て石神なんでしょ?」
「…あ、ほんとだぁ! 石の神様だ! 石の世界の、神様!」
「皆を救う神様だ!」
そばで聞いていた子ども達も便乗して室内は大合唱となった。神様! 神様!、とはしゃぐ子どもらに千空がたいそう顔を歪める。
あながち間違いではないかもしれない、と合唱を聴きながら、彼女はふと感じた。確かに、自分が目覚めた時、無窮の時を暗闇の中で刻んでいた自分を光の下に連れ出した彼は、あの時、神様だった。この石の世界に降り立った、救世主。
改めて彼への認識を確認し、彼女は、困ったように笑った。
「…そうだね。石の神様…うん、そうだね。このストーンワールドの神様。石神様かな?」
「誰が石神様だ、阿保」
「…あー! 千空照れてんだー!」
「ほんとだ! 照れてんだー!」
「イシガミ様って言われて照れてんのー?」
「…うるっせぇな、たく」
呆れ果てた彼を他所に、皆が面白おかしく囃し立てる。キャッキャ、と笑い声を上げる子どもらの真ん中で、彼女は薄らと目を細めた。
(神様、か…)
一抹の侘しさを湛えた瞳が、子どもらに囲まれた彼に、向けられていた。