麗かな春の陽気を多分に含んだ風が肌を撫ぜる。街灯もなくなり、月明かりをふんだんに受け取ることができるストーンワールドの夜は存外明るい。
 村はずれの丘陵地帯。森には入らないギリギリのラインにぽっかりとできた空き地は彼女のお気に入りの場所だ。原始の世界での生活は規則正しいため多くの村民は今は眠りの中で、故に一人寝床を抜け出しても咎めるものはいない。
 開けた大地に一人立ち、風のささめきを聴く。虫の音を受け、ひとつ目を閉じた彼女はゆったりと両の手を合わせ、指を組んだ。
 月光降り注ぐ場でのその姿勢(ポーズ)はまるで──

「何に祈ってんだ」

 凛と、静寂を裂いたのは彼の─石神千空のぶっきらぼうな声だった。
 寂寞が支配していた空気を揺らした声に、彼女は目を開くと緩慢に振り向く。

「そりゃ、カミサマだよ」
「三千七百年前に神は科学にとって代わられたろ。祈ったところで結果を変えるのは科学だ」
「不可知の存在を否定する論拠だって存在していないのに、随分な言い草なこと」
「神に祈って餓えは凌げねぇし、天災は防げねぇ。…この世界も、元には戻らねぇ」

 やけに神妙な声音に彼女は彼を見つめた。物言いたげな瞳が彼女に向けられ、彼女は両の眼でしっかりと見つめ返す。静寂の中、鼓膜を揺らすのはそよぐ風の音だけだった。

「現代科学だって限界はあるよ」

 ふい、と視線を落として彼女が淡く笑む。諦念を落とし込んだ声音に彼は眉を顰めた。
 辺りの地面にめり込んだ無数の石像を見遣り、近づいた彼女はそっとその頬に触れる。無機質な冷たさを肌に感じて、石像はその無情さを彼女に伝えた。
 このストーンワールドを作り出したのは神の怒りではない。明確な意思を持った何か≠ノより、意図的に人類は石化させられた。無慈悲に、無情に、何の宣告もなくただ、突然に。
 これは、最後の審判ではない。しかし、かといって打開策が今あるわけではない。理解できない事象のルールを探すのが科学だが、道のりはあまりにも遠かった。先の見えないロードマップを前に、人はあまりにも無力だ。

「科学にできないことがたくさんあるから。だから、人は祈るんだよ」

 縋るような瞳を虚空に向けたまま時が止まった石像達は、きっと願ったことだろう。誰か、誰か──神様、と。特定の宗教を持たずとも、人智を超えた何かに縋りたくなるのだ。あの時、彼を神と称した自分然り。

「分からねぇことに規則性を見つけるのが科学だろ」
「なら、分かるまでは神の領域だね」

 不満を滲ませる声音は彼にしては珍しい。それに、にべもなくさらりと答えれば、彼は不満を押し込めるように閉口した。
 嗚呼、こうしてみればまだ年相応の面立ちになるというのに。全人類の命運をその双肩に乗せた神様、その立場の彼を見慣れてしまっていた彼女は、彼の相貌にどこか安堵し、苦笑する。

「ごめんね。意地悪とかじゃないけど、でもやっぱり祈りは救いになるんだよ」
「…んなモン。現実逃避と思い込みのセットなだけじゃねぇか」
「うん…そうなんだけどね。でも、自分の手持ちのカードを使い果たした時に、人は祈りに縋るから。いるかいないかわからないカミサマでも縋りたくなるの」

 ──人は弱いから。
 言葉にした声はか細く、小さい。吹けば飛ぶような儚さがあった。

「それともあれかな。この世界の神様たるイシガミ様に祈れば、何とかなるかな?」

 戯けた調子で語りかければ、「誰が石神様だ」と短く吐き捨てられる。不満を露わにしてくれる彼の幼さに、やはり彼女はどこか安堵した。
 木の葉が風を受けて騒めき、薄雲が月光を隠す。光が落ちていた彼の相貌が陰り、隠微さを孕んだ瞳が彼女に向けられた。深淵を見つめるような瞳に、彼女は彼から視線を逸らす。
 彼女は、そこらかしこに散らばる石像をぐるりと見渡し、彼に徐に問いかけた。

「──石神君は、全人類を救いたいんだよね?」

 何の色も載っていない恬淡な口調。しかし、奥底には含意がある。含まれる感情を隠して、彼女は彼に問うた。
 彼女の問いに、彼は後頭部を乱雑にかくと、石像の群を見遣った。

「救いたいんじゃねぇ。救うんだよ」
「どうして」

 彼女の瞳が、彼を捉えて──

「どうして、救いたいの」

 二人の視線が、交錯した。

 石神千空は聡明な高校生だ。他の追随を許さない知性を備えている上に理性的で。
 だからこそ、分からないわけがなかった。

「君のことを善く思わない大人が現れることくらい分かってるでしょう?」
 彼の志す科学の道を善く思わない人間は必ず出てくる。誰もが等しく在ろうと望む世界でないことは、旧人類達の愚行の数々が証明していた。

「神様みたいな君に縋って、後ろ足で蹴り飛ばすような輩だって出てくる。最初から敵意を以って相対する人間だって…それでも君は…」

 全てを救おうとする彼の思考は、危険だ。崇高な思想と評する人間もいるだろう、科学者の鏡と称賛する人間もいるだろう。真っ直ぐに科学に向き合う姿勢は咎める余地がない。
 それでも、大人の立ち位置から社会を垣間見た彼女にとって、あまりにも彼は眩しく、同時に危うかった。
 いつか、その姿勢が命取りになる気がして。
 石神様などと揶揄したが、半分は当たっている。彼はこの世界の神様のように科学の力で聳立する壁を打ち砕き、新旧の人類の希望となってしまった。
 寄り掛かるしか出来ない自分の、なんと、不甲斐ないことか。復活者の中で大人はごく僅か。殆どを子どもである彼に頼る日々に、無力感は収まらない。

「君が、カミサマになる必要なんて、ないのに…」

 拳を握りしめて彼女が重苦しく紡ぐ。吐露された彼女の心情を受け止めた彼は、深く嘆息すると陰る月を見上げた。

「んな高邁な思想なんかじゃねぇよ。ただ出来るからやる。そんだけだ」
「出来てもやる必要なんてないよ。君がやる必要なんて、ないんだよ」
「必要だからじゃねぇ。俺がやりたいから、てだけだっつーの」
「そんなのっ、危ない目に遭ってまで、やることじゃないっ」

 図らずも語気が強まり、ハッと彼女が我に帰る。冷静に状況を俯瞰しなければいけない立場で自分は何を感情的になっているのか。

「ごめんね。咎めたいわけじゃないの。そうじゃなくて…」

 言い訳がましい言葉に声が萎んでいく。自分を見据える瞳に揺らぎはなく、逆にそれが自分という存在の矮小さを表していた。
 気丈に振る舞うしかできなくて。

「…頼りない大人で、ごめんね」

 もっと、きちんとした大人なら、彼を導けたのだろうか。
 へらりと、眉尻を下げて微笑む。自分の醜態を隠すように笑みを貼り付けて。

《笑えば良いと思ってんのか?》

 いつか言われた一言が、脳内にリフレインした。

「……話が平行線だろうから、とりあえずこれだけは言っとくぞ」

 彼女を一瞥し、ひとつ嘆息した彼は、首に手を当てて吐き捨てるように紡いだ。

「一応これでも、優先順位つけて復活させてんだよ、こっちは。全人類っつっても、目に入るやつら平等に順番に、てわけじゃねーし、そんなお優しいタマでもねぇ」

 肩を竦めた彼に、「けど」と、言下に反論しようとした彼女は、ふと違和感に気付いた。

 ──優先順位。

「……なんで、私…」

 呆然と紡いだ言の葉が、虚空に消える。
 そうだ、ならば何故、自分のような半端者を復活させたのだ。お世辞にも、自分は優先順位をつけても度合いが高いとは言えない。自分は、人身掌握に長けているわけでも、優れた話術があるわけでも、力があるわけでもない。突出した何かがあるわけではない。
 なぜ、どうして。錯綜する思考を見透かしたように彼が答えた。

「…俺がアンタを復活させたのは、ただの気まぐれでも贔屓でもねぇ」

 凛とした声が彼女の鼓膜を揺らす。雲の隙間から溢れでた月光が、二人の間に張られた暗闇を晴らした。

「現代人の中で大人を復活させるなら、アンタは絶対と決めてた」
「…それは、どうして…?」

 影っていた彼の相貌の上に降り注ぐ月の光が、彼の瞳を照らす。
 澄んだ瞳は、真っ直ぐに、彼女を捉えた。真摯に向けられた視線からは目を離すことができない。
 彼と口元が動いて、問いの答えが返ってくる──と、思った矢先…

「教えてやんねーよ」
「なっ…」

 口角を上げて、彼はにべもなく彼女の質問をはねた。思わぬ返しに唖然とした彼女に、彼はくっくと喉を鳴らす。

「せいぜい自分で考えとけ」

 ふっ、と。笑いを溢した彼の双眸が柔らかく細められる。その緩んだ目尻に、彼女が僅かに目を見開いた。
 嗚呼、これは知っている=Bこれは、いつもの彼だ。いつも学校で見ていた、あの同輩と肩を並べる顔だ。カミサマではない、一人の青年としての顔。
 他人を揶揄い、面白がる。その年相応の姿に、どこか胸を撫で下ろす自分がいた。
「…はいはい。足りない頭で考えときますよ」と、彼女は両手を上げて肩を竦める。そのまま、彼の近くまで寄ると、その背を軽く押し出した。

「ほら、もう寝なさい。良い子は寝る時間」
「はぁ? 俺のどこ見てそれ言ってんだよ」
「私の中の君は、十六歳の可愛い高校一年生だよ」
「悪いが、もう高校は卒業してんだよこちとら。あと、テメーと会ったのは十五の時だ」
「細かいわ! てか、そんなことはどうでもいいから寝なさい。頭使うんだから寝ないと仕事になんないでしょ」

 ぐいぐいと背中を押す彼女に、彼は「わーったから、押すな」とその手を払い除ける。雑な手つきで払われたにも関わらず、彼女は村へと帰る彼の後ろ姿に薄らと目を細めた。
 彼女は毎晩、一人抜け出して此処で不可知の存在に祈っていた。特定の宗教に傾倒しているわけではなかったが、寄る辺ないこのストーンワールドでは何故か無性に知覚できない何某かに祈りたくなる。己の不甲斐なさを隠すように、他者の息災を祈りたくなるのだ。

 ──人は、弱いから。

 それは、他でもない自分に向けた言葉だった。
 何者でもない自分の矮小さに怯えて、逃げ出したくなる心内などきっと彼は見抜いていたのだろう。わざわざ此処まで来て、話に付き合うなどという非合理的なことをしたのは、蘇らせたことに対する責任か何かか。

(君は本当に、不器用だね)

 合理性を追及しながら、けれど、ひどく甘くて、優しい。
 視線の先で気怠げに歩く彼を見つめながら、彼女は短く息を吐いた。

「そういやぁ、アンタ」

 ふと、彼が足を止めて緩慢に彼女に振り返る。ぱちりと瞬いた彼女に、彼は問いかけた。

「何を、祈ってたんだよ」

 何に、ではなく、何を。神に対して、何を祈ったのか。
 純粋に問いかける視線に自身のそれを絡めて、彼女は淡く笑う。そうして、ひとつ目を閉じて、脳裏に蘇った光景を思いを馳せた。
 暗闇から一筋の光が漏れ、新たな目覚めとなったその時、陽の光を背景にして、勝気な笑みを浮かべていた、神様のことを。

「──内緒」

 形の良い唇が紡いだ応えに、彼は再度、不満そうに顔を歪めた。
 



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