弟は、私より三歳年下だった。幼少期はそれはもう可愛くて、可愛くて、可愛くて仕方がなかったことを未だに覚えている。触れたら壊れそうなほど繊細で、けれど可愛らしい掌も、自分の後ろをくっついてきて笑う、愛らしい表情も。

《おねえちゃん》

 自分のことを慕う、鳥の根のような声も。
 全部、全部愛おしかった。
 
 ──いつからだろう、世界をそのまま受け入れなくなったのは。

 父も母も多忙な人だった。医師として国立の再生医療専門の研究センターに勤務する父、難関国立大学で教鞭を取る母。親族は、世界的な機構で働く人も多く、私の家系は所謂、できる人間、の集まりだった。
 親戚一同の集まりはまるで政財界のパーティーのようで、情報交換と折衝、人脈作りの場のような空気に居心地が悪かった。
 全員が、どこを向いているか分からなくて。血族という縛りだけで結ばれた他人の集まりにさえ思えた。

《おねえちゃん》

 だけど、この子は違うと。不安げに見上げる二つの瞳に笑いかけて、囁いた。大丈夫、大丈夫。おねえちゃんがそばにいるよ、と。
 異種族のような親族達の中で、この子だけは自分と同じ血が流れているのだから、だから、私がしっかりしなくちゃ。だって、だって──私はおねえちゃんなんだから。

 けれど、歯車は最初から狂っていた。

 最初から、私というコマは、きちんと回ることのない部品だった。
 あの世界では、私は、ただの人間で。

《どうして──》

 だから、私は──ずるい大人になった。

     *

 雲ひとつない青空からの陽光降り注ぐ昼下がり。浅霧ゲンは青空教室の前を通り掛かり、懐かしいフレーズに思わず足を止めた。

「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は」
「…ものや思ふと人の問ふまで」
「正解! 金狼凄いね、覚えが早い」

 小中学生の頃に特に学校で習ったことのあるそれを、まさかストーンワールドで聴くとは思ってもみなかった。

「なになに〜、千歳ちゃん百人一首してんの?」

 ひょっこりと顔を出したゲンが見たのは、木板に描かれた文字と可愛らしいイラストを手に上の句を詠む彼女とそれを待つ生徒数人。どうやら、授業自体は終わっているようだったが、自主的に何人か残っていた。
 ゲンの問いかけに彼女は手にした木版を脇に置いていた束の中に戻す。

「木工得意な復活者の子に頼んで作ってもらったの。厚紙作るより早いし、丈夫だし」
「へぇ。百人一首ってゴイスーに懐かしいね。全部覚えてるの?」
「一応ね、実習で子ども達に教えることもあったし。遊びながら文字を覚えるにも役立つから、カルタも作ろうと思ってるよ」
「机に向かった勉強だけじゃ、飽きる子も出てくるもんね〜」

 彼女なりの工夫が伺える。
 文字の授業が始まって以降、覚えの良いタイプとそうではないタイプは明確に分かれていて、誰しもが学ばずとも良いとは言え、今後文明復興や科学グッズを扱うことを考えると文字は必須となる。学び習得する人間は多いに越したことはないのだ、彼女は千空に聞きながら各種の科学道具のマニュアル本を作っているのだから。

「にしても、頑張るね。機織りの手伝いとか給仕とか、時々、ラボの手伝いもしてるでしょ。ちゃんと休んでる?」

 加えて、文学の復活だと、記憶している範囲の図書まで作っていると言う。凡そ、文字、に関わる仕事は彼女が一手に引き受けていた。

「これくらいしか、役に立てないから」

 彼女はへらりと笑んで眉尻を下げると、百人一首木版を生徒達に渡した。勝負だ、と燃える彼らを、目尻を緩めて見守る。

「航海に必要な技術的なところが理解できてればもっと役に立てたんだろうけど、私はそっちらへんはからっきしなの。ゲンみたいに交渉術もないしね。だから、できることはやらないと」

 できること、の範囲が広すぎやしないか。いや、できるけれども根詰めてやる必要がないことを引き受けすぎではないか。

「いやいや。それでも体は休めないと、ね?」
「休んでるよ。むしろ、石化前よりずっと」

 自嘲が漏れた声音にゲンが言葉に詰まった。
 教職の労働環境の劣悪さはゲンも知っている。昨今は時間外の電話対応を取り止める高校も出てきているものの、未だ教師を神聖視している大人も少なからずいる。特に地方ほど教職と課外活動の指導範囲が曖昧で、休みがない職員も多い。
 広末高校がどのような勤務形態だったかは知らないが、千空曰くワーカーホリック気味だったとのことで、ゲン自身もその兆候をこのストーンワールドで見てとっていた。

「教師として復活したんだから、役割は果たしたいの」

 彼女は、大人として、とか、教師として、とか、そのような言葉をたびたび使う。自身に付随する社会的立場を再確認するように、何度も。
 まるで、それが自分の価値と思い込もうとしているように思えて。

「千歳ちゃんさ、なんでそんなに不安そうなの?」

 故に、ゲンは少しだけ踏み込んだ。ぴくりと眉を動かした彼女の横顔を見つめる。

「大人だから役に立たないと、とか。なんか自分に自信ないから気を張ってるように見えてサ。何でそんなに不安なのかなって」

 僅かに目を細め、様子を伺うゲンに彼女は一瞥を寄越す。感情を読ませたい無機質な瞳にゲンの心臓がひとつ大きく鳴った。

「ゲンは、聡いし頭の回転早いし人の心読むの上手いけどね……ダメだよ」

 ゆったりと、百人一首に励む子ども達を眩しげに見つめながら、彼女は薄く笑みを作った。

「踏み込みすぎるのは、人によっては拒絶に繋がるから」

 ね?、と。向けられた酷薄の笑み。
 ひどく美しい笑顔で彼女はゲンに同意を促した。柔らかく、穏やかな、花のような笑みはしかしその裏に棘を仕込んでいる。摘めば掌に刺さり、毒を流し込む棘。ここから先はお前の領分じゃないと明確に伝える拒絶がそこにはあった。

(メンタリストにそれ言っちゃうかー…)

 悟られない自信はあるが、自覚された瞬間に彼女との信頼関係は瓦解する。穏やかで、誰をも受け入れるような雰囲気を醸し出す彼女の冷めた対応に、ゲンは驚きを通り越して恐怖すら覚えた。そこにいるのに、どこか遠くにいる。そんな感覚を覚える。

「千歳ちゃんはさ、それでいいの?」

 案じるゲンに、彼女は、微笑むだけで何も答えなかった。有無を言わせない、明確な一線の先を踏み越えさせない、微笑み。

(踏み込むくせに、踏み込ませないんだよね)

 心中で嘆息する。どうしようもない事実に。
 彼女は人の心の機微に敏感で、だからこそあの千空も彼女には年相応の反応を見せる。大人とか教師という立場の彼女に、吐露した想いもあったろう。
 ゲンだって同じだ。不安、焦慮、疲労、重なる重荷を吐き出したくて、そんな時に彼女に愚痴を溢した事があった。といっても、旧世界の懐古というオブラートに包んだ回想としてだが。
 それでも、彼女はゲンの話を黙って聞いて、そして頷いてくれた。微笑みながら耳を傾けて。
 故にその微睡の中にいるような傾聴に弱さを曝け出してしまった。

『頑張ったね』

 たいして歳も変わらないというのに、彼女の声は麻薬のようにゲンに作用した。しまったと思った時には遅くて、直ぐに露悪的に取り繕ってもそれすら彼女は肯定するのだから、ゲンの完敗だった。
 子ども達に呼ばれ、去りゆく背中を見つめながら、ゲンは心中で独りごつ。
 どうすれば、あの子は自分を肯定するのだろうか。
 或いは、自分以外の誰かならそれが可能なのか。


「──てことなの羽京ちゃーん」
「うん、なんでそれを僕にいうかな」

 夕食後のささやかな自由時間にめいめいがすることといえば、夜の井戸端会議か漫画本の貸し出しか。なにせ娯楽が旧世界に比べて圧倒的に少ないため、やることは限られてくる。
 ゲンの日課は大概、ラボの千空の手伝いやら話し相手といったところだが、今日彼が向かったのは科学学園の生徒達の宿題をチェックしている羽京の元だった。
 昼間の千歳との会話を一から十まで詳らかに説明し、最後に、──ということだ、と質問にも何もなっていないただの事実の垂れ流しに、羽京は、うんうん、と下げていた面を苦笑と共にあげた。
 眦(まなじり)がわずかに上がっていることを確認して、ゲンはさらりと宣う。

「え、だってやんごとなき仲でしょ? 夜這いされるくらいは」
「──っ! ちょ、何言ってるの!」
「違うの?」
「違うよ! いろいろと相談に乗ってもらったりとか……」

 あ、と硬直した羽京にゲンの目が薄らと細められる。「へぇ?」と、含意ある視線を受け、彼は深く、深く嘆息した。

「……本当に、君は謀るのが上手いね」
「人聞き悪いな〜。俺はただ、羽京ちゃんもなんだ、て安心しただけだよ」
「僕も…?」
「千歳ちゃんに弱音吐いたことある人って意味」

 ぴくりと再び僅かに上がった眦に、ゲンは心中で大いに苦笑する。
 西園寺羽京は鋭い洞察力と的確な判断力、有事に動じない冷静さが強みの復活者だ。元海上自衛隊、更には鉄の棺桶とまで揶揄されたこともある潜水艦の隊員となると、非常時に対応するための相応の訓練を受けてきている。物事に動じない、それを悟らせない能力の高さはゲンのようなメンタリストとしては一番やりにくい相手だ。
 その彼が、こうもあっさりと口を滑らす程度には。

(入れ込んでる、てことかねぇ)

 本人に確認したところで秒で否定されるだろうが。
 ゲンは軽薄な笑みを貼り付けたまま、羽京に肩を竦めた。

「いや〜あのね。俺、人の相談は職業柄よーく受けてたの。この世界でもそれは普通だったけど、千歳ちゃんだけはどうもあんまり効かなくてさ。ちょっと自信なくしちゃうよねー」

 三日月に歪めていた瞳を開いて羽京の表情を確認する。
 ゲンの言葉に羽京はゆっくり視線を前に据えると、思案するように瞼を伏せた。

「明確に分けてるんだろうね。子どもと大人。守る側と守られる側を」

 ぽつりと、物憂げに紡ぐ。

「生徒だった千空達は勿論だけど、ゲンだって元は未成年でしょ? 石神村の人々は自分の"生徒"だし。物理的、知識的に頼ることはあっても、立場を超えて寄りかかるとかは苦手、というか…」

 ひとつ、間が置かれて。

「自分を──許せないんだろうね」

 重苦しい声音が吐かれた。瞼を伏せた羽京から視線を外して、ゲンは脳裏に彼女を思い浮かべる。
 羽京の推測はゲンのそれと一致していた。千崎千歳にとって世界とは常に二分することができるのだ。大人と子ども、教師と生徒、守る者と守られる者。
 そうして、彼女自身は常に庇護を受ける側とならない。年齢など関係なく、ただ全てに一線を引いて、明確に自分と他人を線引きして、そうしていつだって、あるべき自分であり続けるのだ。大人として、教師として、復活者として、そんな貼り紙(レッテル)を自分に課して。
 それこそが、自分の価値だといわんばかりで。

「こうあるべき、て自制は呪いだよ」

 自嘲の滲む声音が羽京から漏れた。

「誰かに、助けて、の一言を言えないのは、呪いでしかないよ」

 憂いた声音が洞穴内に木霊する。
 自戒とも取れるような、どこか自分にさえ向けられているような、そんな面差しに見えたゲンは苦笑して肩を竦めた。

「まぁ、羽京ちゃんも人のこと言えないけどさ。抱え込むこと多いでしょ?」
「それ言うならゲンもだよ。君、露悪的に振る舞うのが癖になってなかなか助け求めないんだから」

 一瞬、深淵を見透かすような視線を向けてきた羽京にゲンの背中に冷や汗が流れる。「何言ってんの〜」と軽薄の二文字を前面に出したところで羽京には効かないみたいで、その眼はどこか、彼女に似ていた。駆け引きの通じない。否、それすら呑み込んで受け入れてしまう。
 それは、ゲンが得意としない、瞳だった。

「というか、千歳ちゃんのことほんとよく見てるよね、羽京ちゃん。なになに、やっぱり気になるの?」

 気を取り直すためにわざジェスチャーを大きく見せて、ゲンは戯けた調子で羽京に尋ねた。ペラペラの言葉が、軽薄な声音が紡がれる。
 そしてそれは──

「……どうだろうね」

 西園寺羽京の胸に、刺さった。

     *

『西園寺って、珍しい苗字だね』

 そんな平凡な会話から、西園寺羽京と彼女の世界は広がった。

 石神千空お墨付きの教師が復活した。そんな一報を聞いた時、羽京は耳を疑った。科学学園の授業が全て終わった昼下がり、ゲンから告げられた羽京は「なんて?」と思わず聞き返したくらいだ。なんて、と、なんで、を掛け合わせたいくらいだった。
 教師という職はなるほど確かに現代には必要不可欠な職業だった。教育は国の根幹であり、ここが揺らげば国力低下に繋がるほどだ。長時間労働の是正、効率的な学習指導が叫ばれ、労働環境を是正しろと言われるくらいだ。
 教師は、多くを求められる。
 しかし、石神千空にとってはどうだろう。彼は教師に多くを求めたろうか。出色の高校生、科学の寵児、まさに神童ともいえる彼にとって、教師とは詰め込まれたカリキュラムを淡々とこなす、ただのマシーンと変わりないのではないのか。
 その千空が、わざわざ見つけ出して、復活させた教師。

「──何故、彼女だったんだい?」

 故に羽京は尋ねた。復活した彼女はお世辞にも教師としての才覚が飛び抜けているとも言えない、そう感じたためだ。才知に富むわけでもなく、指導力が突出しているわけでもない。言うなれば、平凡。氷月なら凡夫と嗤うか。ひとつ優秀と感じたのは状況把握が早いというくらいで、七海龍水やフランソワのような他で補えないほどの価値は感じなかった。
 子ども達に新しい先生だと紹介され、質問攻めにあう彼女を離れた場所から見守っていた千空が羽京の問いかけに──

「必要だった。それだけだ」

 やけに、そっけなく答えた。口調は常のままだが、明らかに触れられたくないような、これ以上の踏み込みを拒んだ物言い。
 言葉を濁さない明瞭さが鉄板の千空しか知らない羽京にとって、それは初めての顔だった。

 そして、彼女と話をする機会はすぐに訪れた。
 科学学園の他に新たな教育施設を設ける。その準備の為に駆り出された羽京は、出来立ての掘立て小屋で椅子やら机やらを運び込んでいた千歳と初めて会話をした。

「西園寺って、珍しい苗字だね」

 名乗った自分に、彼女は空中に指文字を描きながら思案した。

「お公家様で文庫持ちだっけ? 家の源流は藤原だった気がするけど」
「残念ながら、僕の家は何にも関係ないよ」

 さすが国語教諭と言うべきか。雑学知識もある程度はあるらしい。苦笑した羽京にぱちりと目を瞬かせて、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
 内装を整えながら、羽京は問われるままに自身のことを答えた。海上自衛隊の自衛官だったこと、潜水艦乗りだったこと、復活選定理由は聴力の高さということ。

「潜水艦って窓がないんだよね? かなり気が滅入らない?」
「一応、訓練は積んでるし、馴れたら逆に落ち着くって同僚もいたよ」
「娯楽的なのは…」
「ボードゲームをするチームもいたけど、一人で過ごしたり、あとゲームする人もいたかな」
「意外と賑やかそうだね」
「まぁ、居住空間は限られてるから、割とね」

 一つ答えれば次の質問が飛んできて、会話が繋がっていく。軽快なテンポで繰り広げられる会話に羽京も気を良くして様々なことを語った。
 その中で、彼女はふと、作業の手を止めて紡いだ。

「海上自衛隊かぁ。毎日の訓練も大変そうだけど、西園寺君の耳だと共同生活の方が大変だったのかな」

 ぴくりと、羽京もまた手を止める。
 何気なく紡がれた言葉に、理解に時間を要する。

「……どうして、そう思ったの?」

 間を置いて、羽京は尋ねた。微笑みを崩さなかった羽京に、しかし彼女は僅かに逡巡し、おそるおそる答える。

「え…と、聞きたくないことも聞こえちゃったりすると大変だと思ったんだけど…」

 違った?、と上目遣いに羽京を見上げる双眸に、彼は直ぐに答えを返すことはできなかった。

 ──なんで。

 ひた隠しにしてきた幼い時分の自分が、脳裏に蘇った。


 物心ついた時から、それは日常だった。西園寺羽京にとって世界は、音、だった。まな板の上で野菜が切られ、微塵切りにされる細かな音。新聞紙面がゆったりと捲られる音。車の駆動音に自転車の車輪がカラリカラリと。凡ゆる生活音を大小構わず拾って音で世界を認識する。
 視界よりも聴覚から得られる情報は多かった。母がテーブルに刺身を運び「あ、醤油」とほぼ吐息混じりに紡いだ刹那、冷蔵庫から取り出す。開け放した窓から聞こえた車輪が擦れる音に飛び出して、父を玄関で迎える。
 目で見えずとも音で判断する。異能とも思える鋭敏な聴覚は羽京の世界を人より押し広げ、そして──

《きもちわるい》

 傷つけた。
 人の囁きすら拾う耳は、世界の悪意を容易に思い知らせる。
 幸いなことに両親は羽京の耳を否定しなかった。寧ろべた褒めした。他が比肩できない才能とすら表した両親の愛を目一杯受けた羽京は、明るく快活な幼少期を過ごした。
 羽京にとって、最小単位の社会である家族は、彼らがいる世界は、美しかった。
 天真爛漫な寵児は次の社会、小学校へと上がる。その性状のまま、無邪気で明るく快活な、心優しい少年は、であるからこそ失念していた。
 世界は、広いのだ。
 広がれば広がるほど、拾う情報は多くなる。

『──ちゃん、好きな子がいるんだって』
『この前、──君に告白されたみたいだよ』

 可愛らしい情報から。

『あいつ、──の悪口言ってたよ』
『気持ち悪いよな、──って』

 煮詰められたドス黒い感情まで。

 教室の隅で、廊下の角で、空き教室で、時には"職員室"で。凡ゆる秘事と悪意と好意と、人の感情が渾然一体になって、情報として羽京になだれ込んできた。幼い時分には気に留めなかったことが、意味を理解するにつれて頭の中にこびりつくようになる。
 他人が知らないことを、自分は知っている。
 その事実に、羽京はひどく悩んだ。口を噤めば誰にも悟られないが、ただ、消化しきれない心の靄は大きくなる。
 黙っているのは、卑怯なことがあることを、羽京は知っていた。誠実な両親の元で育った羽京は、純粋だった。
 だから、羽京はこの力を"誰かのため"に使おうと思った。善いことのために役立てれば、きっと良い方向に行く。だって、正義はいつだって"正しい"んだから。
 煩悶する日々も、これで終わる。

 そうして、その日が訪れた。

 その日は、掃除当番をサボって何人かの子どもが教室の隅でたむろしていた。たむろしながら、小声でひそひそと話すその声を、羽京は聴いた。
 気持ち悪い。いい気味。あいつだけにやらせれば良い。
 それは、一人黙々と掃除をしていた男の子に言われた言葉だった。彼は聞こえてないようだったが、それすら見越した女児達は口の端を釣り上げて肩を震わせていた。
 悪意の積み重ねを廊下で聞いていた羽京は、ひとつ決意を胸に。

『やめなよ』

 凛とした声で、抗議した。
 愉悦に歪んでいた女児達の顔は、大股で近づいてきて立ち止まった羽京の言葉に引き攣った。『はぁ?』『なによ、急に』と眉を顰めて睨め付ける彼女達に羽京は、言ってしまったのだ。
 正義を信じた、純真無垢な心で。


『気持ち悪いとか、あいつだけにやらせれば良いとか良くないし。それに、返してあげなよ──あの子のペン』


 純粋な心のまま垂れ流された正義に、心打たれる稀有な人間もいるかもしれない。過ちを正す人間だって現れるかもしれない。
 けれど、それは非常に確率の低い話だった。
 少なくとも、悪意にも純粋な子どもに、届きはしなかった。

『…なんで、知ってるの』

 仁王立ちの羽京に、女児達は大きく目を見開き、絶句した。その瞳は、目の前の同い年の人間を、人間と見做せないと語っていた。同級生のペンを隠したという事実より、それを目の前の羽京が知っていることへの、恐怖がそこにはあった。

『アンタ、あたし達の話聞いたの…?』
『え、でも廊下にいたよ、西園寺君』
『あそこから聞こえてたってこと? あり得ないよ』
『けど、そういうことじゃん』

 ざわりざわりと伝播していく不穏な空気。正しく清いことをした筈の羽京に向けられる異物を見るような目に、羽京はひどく混乱した。なんで、どうしてそんなこと言うの。悪いのは君達じゃないか。そう、訴えたくても羽京の口は縫い付けられたように開かない。
 そのうち、掃除終わりの子ども達が教室へと戻ってきたことで、羽京の異質な力は知れ渡ることになった。情報は雪崩を打って広まり、それに伴い"囁き"は羽京の元へと押し寄せた。

『あり得ない。じゃあ、アイツの悪口も聴こえてたの?』
『うそ! 本人にチクってないよね』
『好きな奴の話とか、秘密にしたいこと全部聞こえてたってことじゃん』
『それ、聞こえてるくせに何も言ってなかったわけ? 性格悪すぎ』
『ほんとひどい。心の中で私達のこと馬鹿にしてたんだよ、きっと』

 善意は多くの悪意を呼び寄せて、幼い羽京に突き刺さった。助けたかった筈の男児さえ、その輪の中に取り込まれた。
 容赦のない子どもの純粋すぎる感情に、羽京は為すすべもなく。


『きもちわるい』


 打ちひしがれた。
 耳を塞いだところで、ずっと塞げるわけじゃない。
 目を瞑ったところで、刻まれた光景は脳裏に蘇る。
 西園寺羽京はその時初めて、自分の異質さに──絶望した。
 結局、羽京は転校せざるを得なくなった。事情を知った両親は羽京を勿論攻めなかったし、学校側への抗議すら行ってくれたが、正論が組織を動かすわけではない。ましてや、人の感情なんて言わずもがなで。
 逃げるように去った羽京は、その時、誓った。
 聴こえても、言葉にしてはいけない。
 聴こえても、反応してはいけない。
 これは──傷つけるちからだ。


 海上自衛官の、しかもソナーマンとなることを伝えた時、両親は虚をつかれたような表情を浮かべたが、直ぐに破顔した。力に振り回された自分の境遇を少なからず気に病んでいた両親としては、トラウマを克服したとみてとったのだろう。
 事実、ソナーマンにとって必要なのは音であって、声、ではない。
 鋭敏な聴覚に相応しい進路だと誰もが喜んだ。同時に自分も、人を傷つけ、傷ついた力の有用な使い道だと理解していた。
 これは、非常に有用性の高い力だった。

 けれど、彼女は違った。

 ──聞きたくないことも聞こえちゃうと思って。

 たった一時間程度、たったそれだけの会話の中で、自分を気遣う発言した人間を羽京は知らない。あっけらかんと、何の気もなしに、彼女は彼の境遇を推察した。

「この世界は声大きい人多いし、不満募っていろんなこと言っちゃう人もいるから耳に入るだけで負担だろうなとも思ったの。司帝国の復活者は割とその、結果盛んだから、すぐに聞こえて駆けつけてそうだなぁ、て」
「それは、まぁ」

 彼女の言葉は、的確だった。聴覚過敏とはまた異なるが、必要以上に音を拾う自身の耳の影響は共同生活をすると特に大きくなる。諍いの音を察知する度に出向いていた司帝国では心休まる暇もなかった。
 自身の耳の有用性を買ってくれていることに感謝しつつ、しかしその弊害について羽京は誰かに話したことはなかった。それは無意味なことだと自覚があるからで。

 だって──仕方ないじゃないか。

 疎んだところで生活と切り離せないなら、受け入れるしかない。受け入れた上で、上手く運用するしかない。
 自分は洞察力があるとか、冷静だとか判断されるが、それは結果論だ。
 自分はただ、口にする勇気がなかっただけだ。聴こえてしまった世界を不用意に口にすることは、他者を傷つけて自分を追い込むことだと痛感していただけだ。
 けれど──

「何ができるか分からないけど、困ったことがあったら言ってね。これでもセンセイだから」

 慕う仲間に打ち明けるのは違うと。自制していた自身の虚飾に覆われた内側を、彼女はまるで何もないかのように見透かした。その自覚すら彼女にはなかったろうけど。
 淡く微笑む彼女に「とっくの昔に卒業してるよ」と返しつつ、羽京はくすぐったい気持ちに口元を緩めて、作業を進めた。細い腕で木製の机を持ち上げる彼女に手を貸しながら。

「──気になる、くらいならまだ良いんだけどね」

 石油灯の焔に照らされて、子どもたちの宿題を採点しながら羽京は独りごつ。赤鉛筆が無意味な無数の点を用紙に刻んでいた。
 ゲンの言う通り、西園寺羽京にとって千崎千歳は特別だ。たった一言、されど羽京の懊悩に触れた彼女を羽京は…逆に、知りたい、と思った。他人の領分に土足で入ることはしないが、懐にはスッと入ってくる彼女を、もっと知りたかった。
 それが、恋慕なのかただの好奇心なのかは正直定かではない。その判断を下せるほど羽京に恋愛経験もない。
 ただ、彼女の──

「聴きたいな」

 声を。もっと聴きたい。
 喜怒哀楽、さまざまな声を聴きたい。
 聞こえなければ、聞かなければ。そう願い続けた羽京にとって、もっと──、と望む相手。それが、千崎千歳だった。



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