「千空、君は奇跡を信じるかい?」
目の前の男の問いに、千空はフリーズした。あまりにも荒唐無稽、頓珍漢、無意味、そう形容できる問いかけで、且つ男には似つかわしくない単語があったためだ。
奇跡。人知を超えた不可思議な現象。現代科学では説明しきれない事象であり、時代によっては妖術や魔法などと呼ばれたモノ。
焚き火の焔に照らされた相貌を見据え、千空は、ハッと鼻で嗤った。
「奇跡が起きてりゃ、石化はとっくの昔に天のカミサマが直してるだろうよ」
目の見えない病人の視力が回復した。歩けなかった人間が外を出歩くようになった。数々の奇跡を記した聖書が本物ならこの状況をどうにかくらいするだろう。
しかし、現実は現在が証明している。
司は、千空のにべもない発言にからりと笑った。
「はは。そうだね。君に聞くのが無粋だったよ」
「霊長類最強は奇跡を信じてんのか? ロマンチックなことだな」
揶揄する口調の千空に、司は一度閉口すると、思案するように黙した。
「…信じているか…いや、うん。信じているというより、願っているのかもね」
「ア?」
どう言う意味だ、と片眉を上げた千空に、司は微笑んだ。一抹の侘しさを感じさせる微笑みに千空は閉口し、目を見開く。
司は、夜の帳が下り、無数の光が燦然と輝く空を見上げた。
「僕はね、ずっと願い続けてることがあるんだ。叶わないかも分からないけれど、願い続けてしまう。いつかの…奇跡を」
それは、懇願とも取れる声音だった。霊長類最強と謳われ、向かう所敵なしと評される男の切なる願いに、しかし千空が何かを応えることはなかった。
「──奇跡が起きてりゃ、苦労しねーんだよ」
吐露した声は、流水音にかき消される。滝の裏側の洞窟内に造られた水力式の冷凍庫、もとい棺桶の前で、石神千空はかつて棺桶の中にいる彼と交わした会話に想いを馳せた。
奇跡を願う。あの時、その言葉に秘められた万感の想いに自分は気付いていなかった。気付く方が無理ではあるが、それでも、ただならぬ想いを感じながら、それを深く聞くことはしなかった。
あの時、司の抱える闇の一端を知り、理由を聞く選択を取っていれば、変わったのだろうか。たらればの話は合理的ではないと理解しつつ、その問いはずっと千空の胸の中で燻り続けてきた。
後悔などしていない。逃げ口上を述べるつもりもない。ただ、考えてしまうのだ。
「未来、か」
自分の選択が紡ぐ明日の先を、その未来を。
合理的で確実な方法を選んでいる自身の選び取った先の、可能性を。
*
文明が崩壊したストーンワールドであっても旧世界と変わらない。#名前は、目の前で華を咲かせる女児達に目線を合わせながら、強く感じた。
「なになに! なんて書いてあるん?」
「スイカも見たいんだよ〜」
「え〜、恥ずかしいって〜」
古今東西、人類は意中の相手へのメッセージをしたためてきた。手紙、石板、木の葉、エトセトラ。言葉にできずとも文字なら伝えられる。ともすれば直接伝えるより深く、的確に自身の想いを伝えられるかもしれない。
そういえば、学生の頃に見たことがある。残念ながら自分自身には縁がなかったが、と#名前は春なき過去に苦笑しながら三人に話しかけた。
「こらこら。そういうのは本人だけが見るものだよ」
スイカを含む女児複数人に苦言を呈せば、手紙の受け取り人の未来はほっと顔を綻ばせ、あと数名は若干のブーイングを寄越す。他人の恋バナほど楽しいものはないが、当の本人が乗り気でないのなら突くのは無粋というものだ。
「つまんない」「見たかったんだよ」と口を窄める子ども達を宥め、#名前は、濃い蒼が続く空を見上げた。
旧司帝国跡地の科学学園、青空教室への出張も三日目を過ぎていた。現代人、即ちストーンワールドで生きてきた住民の読み書きなど、全体を含めた教育指導のため復活した彼女の職場は基本、村近くの学園なので司帝国跡地に出向いて、旧世界人を含めた広範囲の人間に授業をすることは珍しい。
そんな新旧の生徒達が入り混じった教室が始まる前、女児三人が僅かに色めきだち、歩々を紅潮させていた。なんでも、未来が手紙を貰ったというのだ、しかもラブレターを。
(恋愛話はみんな好きだよねぇ)
年頃の男女にとって、特にこのストーンワールドでは恋愛話も娯楽のタネだ。手紙にしたためられていたのはどんな想いだったのか。誰かの想いは人々と関心ごとと言っても過言ではなくて。
懲りずに未来の口を割ろうと攻撃する二人に再度苦言を呈した#名前は、彼女が手にした紙切れに視線を向ける。
「…手紙か」
ふと、彼女の脳裏に新たな授業のツールが生まれた。
「──今日は、手紙を書きます」
紙と鉛筆を片手に微笑む#名前に、一堂が目を丸くした。新旧の人類が入り混じっている授業での発言に、ぴっ、といち早く手を挙げたのは未来。
「えっと、なんで?」
至極もっともな、おそらく全員が真っ先に考えた質問だった。
「字は使わないと覚えなくなるものだから、手紙を書くのは復習にも丁度いいんだよ。それに、いつも堅苦しいお勉強ばかりもつまらないから、趣向を変えてみようと思ってね」
質問に笑顔で答えた#名前は、変わらず呆けている面々を見渡す。
「お世話になってる人とか、大切な人を思い浮かべて、その人宛に手紙を書いて下さい。できた手紙は、誰か他の人に送ってもらうように。…あ、ちなみにラブレターでも構わないよ」
悪戯っぽく口元を緩めた彼女に瞬時に反応したのは未来で、続いて女性陣が色めき立つ。ついでに男性陣も何やらソワソワと女性陣を気にかけるなど、一気に手紙を書くことへの期待値が跳ね上がった。
「友達と話し合っても、一人で書いても構いません。制限時間は一時間。それでは、初めてください」
号令と同時に、女性は友人同士で固まり、男性は各々が鉛筆片手に一人睨めっこをしだす。構図は違えど、しかしどちらも変わらないのは各々が思い浮かべた相手への想いで。柔らかな、真剣な、多種多様な表情が連なった。
「──せんせー、これできたらもう送っていいの?」
十五分ほどもすれば、早々と書き終えた子ども達が次々に手を挙げた。さっそく送ってもらっても良いか尋ねた彼らに#名前は頷く。できた手紙は当人が直接渡すのではなく、誰かがポストマンとなって送るため、子ども達の多くは互いが友人の分を担当する振り分けとなったようだった。
一時間に満たないくらいのところになると、ほぼ全員が手紙を書き終え、ポストマン役の相手に手紙を預け終える。授業は全て終わり、各自が散開する中で、しかしその、ほぼ、の中に当てはまらなかった子どもが一人いた。
「未来ちゃん」
手に握りしめた鉛筆は遅々として進まない。獅子王未来の手紙は、授業開始時からほぼ白紙状態だった。
ラブレター騒動の時とは打って変わってひどく神妙な眼差しに、#名前は彼女に視線を合わせる。面を上げた未来は眉尻を下げて#名前を見つめた。
「先生、あのね…何書けばいいか、分からんの」
「何をかぁ…。ちなみに、誰宛てに書きたいのか聞いてもいい?」
「…兄さん」
僅かに、#名前の目が見開かれる。あ、と出かけた吐息はすんでのところで呑み込んだ。
獅子王司は、現在、冷凍保存されている。胸をひと突きされた彼は、石化による修復機能を頼みに、千空により冷凍された。いつかのミライに、必ず彼が蘇らせると信じて。
「いつか兄さんが目を覚ました時に読んでもらいたくてな。でも、何書けばいいか分からんの。何を、伝えればいいんやろ…」
いつか、彼女は言っていた。兄さんは絶対に目を覚ます、と。その声に込められていたのは悲嘆でも絶望でもなく、確かな未来(あした)への希望と信頼だった。千空は科学に嘘はつかない。だから大丈夫、と彼女は笑顔で言った。
目を覚ますと信じているけれど、伝えたいことは分からない。それは、幼い彼女が文字化するには想いの量が多すぎるからだろう。
「…あくまで、私なら、の話だけどね」
隣の椅子を持ってきて座ると、#名前は語りだした。
「未来ちゃんのこれまで、を知りたいかな」
「…これまで?」
「うん、これまで。目覚めてからどんなことがあったのか。どんな気持ちでいたのか」
自分が瀕死の状態にいて、大切な人が目覚めを待っていた。そんな状況を知ったのなら、自分なら、大切な人がどう過ごしていたのかを、知りたい。
「ここでの生活や友達ができたこと。学校に行って、友達と遊んで、石神君たちのお手伝いをして、普通の日常を過ごしてることに加えて、それに対してどんな気持ちなのか。それを知りたいな」
旧世界で、学び舎に行くことが叶わなかった。なら、そんな普通の生活を最愛の妹が送ってくれるだけで、彼は幸せな、多幸感に包まれるはずだ。楽しく、日々を過ごしていた。それだけで。
「でも、手紙やよ? 兄さんのことも書かんと」
「うん、そうだね。だから、自分のことに加えて、お兄さんへの気持ちも書いてみよう」
「…気持ち…なんでもいいん?」
「なんでもいいよ。楽しかったこと、寂しかったこと、なんでもいい。会いたい、て気持ちも全部書いちゃおう」
「…兄さん、起きてからそんなの見たら、悲しくならんかな」
「楽しいだけじゃなくて、寂しいとか悲しいもお兄さんは知りたいと思うよ。未来ちゃんも、お兄さんが悲しい時、それを隠されたら嫌でしょ?」
「そんなん! あたりまえや…」
図らずも語気を強めた未来に、#名前は淡く微笑んだ。
「だから、未来ちゃんも伝えよう。全部、手紙に込めて」
直接言えなくても、手紙なら届けられることもある。その時々の感情、想い、それは生の声となり伝えられる。いつかとなる未来でも、それは必ず、届く。
未来は丸い目を瞬かせた後、シシシと歯を見せ笑った。「そっか。うん、頑張って書いてみる」と、鉛筆を握り直した彼女の頭を#名前は撫でる。「ゆっくりでいいからね。書きたいこと、全部書いちゃおう」幼子を指導する先生の穏やかな瞳に、未来がはにかんだ。
「なんだか先生、お姉ちゃんみたいや」
屈託ない笑顔が見せる純朴な心に、#名前はふと動きを止めた。その瞳が僅かに逡巡する。が、三拍ほど置いた後、何事もなかったかのように、その手は再び彼女の頭を撫で始めた。
ただ、その相貌はどこか昏い。
「ねぇ。先生は、手紙書かんの?」
「私…?」
「うん、先生の大切な人。お母さん? お父さん? あ、お兄ちゃんとかおるん?」
丸い瞳に見つめられ、#名前は視線を地面に落とす。瞳が閉じられ、ゆっくりと開かれた。
「弟が、いるよ」
微笑みを浮かべながら、どこかその声音は寂寞を感じさせた。
*
原始の世界の仕事は多岐に渡る。気球からの測量、小麦畑での農作業、鉱山開発、機帆船造り、それらの作業をバックアップするための家事労働まで、現代器具が不足しているストーンワールドでの作業なのだから労力も倍以上かかってくる。
故に、夕刻に差し掛かる頃には誰もが体力の限界を迎えて、フランソワや炊事担当の人間が作る夕飯の匂いに釣られて食堂へと向かうが、#名前の足が向かったのは別の場所だった。
「──ご飯、食べ損ねちゃうよ」
清涼な空気に満たされた洞窟。直ぐそばで流水音を轟かせる滝から伸びた手作りの管から視線をスライドさせて、奥にいる彼に語り掛ければ、彼は「おー」と生返事を返しただけだった。その手は、石の箱に置かれている。
夕飯の時間になっても食堂に来ず、ラボにもいない千空を探しに行ってくれないかと支度をするコハクに頼まれ、方々を尋ねて辿り着いたのが此処─獅子王司の冷凍保管庫─だった。彼は、定期的にこの保管庫のメンテナンスに来ている。
「メンテは終わった?」と問いかければ「おー」と似たような声が返ってきて。しかし、一向に動こうとしない彼に#名前が眉を顰める。
「石神君?」
どうしたのか。一歩、彼の方に足を踏み出した刹那、彼女は、彼が手を置いていた石の棺桶の上にある物に気が付いた。
二つに折られた、一枚の紙。それには見覚えがあって。
「…それ、未来ちゃんの手紙?」
バッ、と千空の目が驚愕に見開かれた。
好きな色とデザインを選んで手紙を書く。全員が何を選んでいたか見ていたわけじゃないが、未来の分は、共に作成に携わったため記憶していた。
ポストマン役にあの子は石神君を選んだのか。合点がいった#名前に対して千空はバツが悪そうにそっぽ向く。
「目を覚ました時に渡してあげるものじゃなかったのかな」
「んなこと、分かってんだよ」
吐き捨てられた言葉にはしかし力が無い。押し殺された葛藤が声音の中に見え隠れした。人は、簡単に死ぬ。簡単にこの世界では命が潰える。潰えて、しまう。それを理解している声音だった。
普段は自身の仕事に邁進し、他者に神妙な顔ひとつ見せない彼の、苦く、痛みを帯びた表情がそこにはあった。
#名前は無言で石の棺桶に近づき、そっと手を触れた。そこから伝わるのは、ただ温度のない冷たさだけで。無機質な感触に彼女はひとつゆっくりと瞬いた。
「司君は死ぬ間際の体を冷凍したんだよね?」
「…そうだな」
「石化の修復力を使うために、冷凍して腐敗を防ぐ。それが可能なら、人が寿命以外で死ぬことはなくなるのかな」
脳死状態だった彼女すら復活した。内臓系の損傷すら修復する超常現象は、人類にとってある種希望かもしれない。
「…まだ成功するか分かんねぇよ」
険しい声音混じりに千空は吐き捨てる。
「分からないから、それを置きにきたの?」
彼女は、曲げることなく真っ直ぐ彼に問い掛けた。
目覚める保証のない冷凍保存。石化修復という未知の領域はまだ神の手の内で、科学に落とし込まれていない。
それでも、そうするしかなかった。それが最善で、最適だった。それは誰もが認めるところだ。
落水音が鼓膜を絶え間なく打つ。それ以外の音は一切が耳に入って来ず、流れる空気はどこか静寂すら思わせた。
「なぁ、センセイ」
その空気を、彼が裂く。ぽつりと侘しげな切り出しで、彼は彼女に問い掛けた。
「未来の証明は、できるもんなのか」
震えた肩に、彼女は彼の背を佗しげに見つめる。彼女と視線を合わさず背中を差し出す彼は、彼女の言葉を待つように黙した。
未来を証明する。確かな未来(あした)があると証明する。それができれば、どれだけ気が楽になるだろう。震える背中と拳に、#名前はそっと瞼を伏せる。せりあがった情動に、唇を噛み締めた。
(平気なわけない)
科学の寵児だとしても、獅子王司が確実に蘇ると証明できるわけじゃない。
「選択が正しいと、どうすれば分かる?」
諦念すら混ざる声音には、彼の懊悩が見えた。
たった一人で目覚め、持ち得る知識で他者を救い、命を危険に晒しながら前に進んできた石神千空は、しかしまだ若い、子どもと言っても差し支えない年齢だ。
石の棺桶に手を置く彼の背中から伝わる付き纏う不安と恐怖。死を体験し、そして実行した彼だからこそ、命の儚さも、暴力の理不尽さも知っている。この歳で、知ってしまっている。
だからこそ、自身が獅子王司を冷凍保存した選択は正しいのか。そして──
「…自分の選択が皆を巻き込んでる、て思ってるの?」
勢いよく、振り返った彼の眼が見開かれ、直ぐに罰が悪そうに逡巡した。「アンタはなんで、あー…」と、後頭部をガシガシとかいて視線を逸らす。
石神千空は人に頼るのが上手い、とは浅霧ゲンの言葉だ。彼は自分の進む道のために人を頼り、使うことを得意としている。ゲンは千空をそう表した。
周りを巻き込む才能。頼ることで当事者とさせる戦略。それは確かに指導者としては有能と言える。
しかし、他人に頼った後の彼の心情を思うと、必ずしもそれが両手(もろて)を上げて喜べることではないと#名前は感じていた。
(ただ、重いだけなのに)
人を頼り、使うということは自身にも責任が伴う。人類復活のためとはいえ、少なからず多くの命を危険に晒す未来が待ち受けているのは確実で、その選択を彼らに提示しているのは他ならぬ彼自身だ。選び取るのは彼らでも、選ばせているのは、彼で。
その重責を、彼が感じないわけがなかった。彼は、ひどく優しいのだ。悪ぶりながら、その実、決して他者を軽んじないのだから。
幾度となく不安に苛まれ、その度に乗り越えながらもやはりその靄が晴れることはないのだと、彼の背は十分すぎるほど雄弁に語っていた。
「…君が進む道が正しいのか最善なのか、それは結果だけが示すから、私にはその判断はできない。未来の証明は、誰にもできないよ」
彼女は、彼に静かに返した。希望的観測も慰めもいらない。だからこそ、事実に即した答えだけを返す。
それでも、重責を負うその背に、伝えた。
「けど、君がもし、自分の選択で自分自身を許せなくなっても、大丈夫だから」
ぱちりと千空の瞳が瞬く。数度繰り返した後、苦笑が漏れた。
「…どこが大丈夫だよ、それ」
「私達がいるから」
諦観に、彼女は、嘘偽りない想いだと応えた。
「何が起きても、私達はずっと、人類復活のその時まで君のそばにいるから、だから大丈夫」
大丈夫、と。彼女は強く、確信を持った声で彼に伝えた。
根拠のない妄言と受け取られかねない。それでも、本心からの言葉だった。
選ばざるを得ない選択を提示し続ける彼の重責は、彼自身にしか背負えない。
だからこそ、自分達にできることは、ただ彼のそばに居続けることだけなのだ。未来(あした)を証明するためには、現在(いま)を、共に生きることだけ。共に進むことだけしか、ちっぽけな自分にはできない。
「…んなモン、わかんねぇだろ明日死ぬかもしれーし」
「そしたら、石化で助けてくれるでしょ?」
ぶっきらぼうに返した千空に戯けた調子で肩を竦める。面食らった千空がパチパチと瞬き、ひとつ深く嘆息した。呆れた、と語る吐息を身体中から出して、鼻で嗤う。
「復活できなくても恨むなよ」
「えー、それならちょっとは恨むかもよ?」
「…ハッ、我儘な大人だな」
「大人だから我儘なんですー」
からりと、晴れ渡る空を連想させる笑顔で宣う彼女に千空は苦笑する。「ほら、ご飯食べに行くよ」と、彼の肩を叩き、背を向けた彼女は数歩歩いて再度彼を振り返った。
「君の道が間違っていると思ったら止める。だから、振り向かなくていいんだよ」
穏やかな口調。大人が子どもを諭すような、導くような、そんな柔らかな声音に千空はくっくと笑った。
「…んとに、アンタはかわんねぇな」
「それ、褒められてる?」
「自分で考えろ、阿保」
「阿保、てひどいなぁ」
仮にも元教え子に阿保となじられつつ、しかしそのなじりも可愛げあるのだから、仕方がない。
再度彼に背を向け、今度こそ洞窟を出ようとした矢先だった。
「わっ」
前に進もうとした体が後傾する。しかし後ろに倒れることはなかった。彼が、千空がそこには居たから。
いったいどうした、と声を発しかけ、言葉が喉奥に引っ込む。
それは、肩口に彼の額が押し当てられた故だった。同時に、震える手が、服の裾を握ってきて。
#名前は、ゆっくり瞑目した。
「…全部を背負うな、て方が無理なんだろうけど、でも、大丈夫だからね」
「おー…」
「みんな、一緒だから」
「……おー…」
生返事の彼はしばらくそのままだった。退くこともせず、ただそのまま、彼女の肩を借り受ける。彼女は、彼を引き剥がすことはせず、黙って状況を受け入れた。
肩口に感じた、僅かな湿りを気づかないふりをして。
「…アンタは、何でそんなに出来た人間様なんだよ」
ふと、千空がぽつりと声を漏らした。独白のようにも取れる声音に#名前は一瞬言葉に迷ったが、ひとつ瞑目すると答えた。
「…出来た、なんて誤解だよ。私は君が思ってるほど善人じゃない。私は、ただの人間で」
その口元が、歪められて。
「ずるい、大人だよ」
自嘲に塗れた笑みが、溢れた。