彼女が初めてそれに触れたのは、物心つく前だった。
 大人なら片手で扱えるけれど、幼児の手には少しばかり大きいインスタントカメラ。二十七枚撮ったらおしまいで、現像するまで撮影した写真がどうなっているのか分からないため今ではあまり使われないが、幼い頃の彼女はそれが何かも分からずにシャッターボタンを押した。おかげで出来上がったのは、ブレて被写体も不明瞭な、訳がわからない写真。それでも、両親は初めての撮影だとネガも大事に保存した。
 父親が写真家、母親が医療機器メーカーの営業。大学時代の写真サークルで知り合った二人の娘として生を受けた運命なのか、幼い頃から、彼女──白崎晶は写真に惹かれていた。長方形の中に、たった一瞬の世界を永遠に閉じ込めてしまう、その儚さと美しさ。永遠の過去を一枚に収めて、それでも計り知れない感動と興奮を見る人に届ける魔法の創造物。それが、写真だった。
 保育園の頃から、晶はインスタントカメラ片手に世界を切り取った。野に咲く花から足元の小さな虫、近所の犬や野良猫。子どもの目線から見える世界に大人たちはいたく感動していた。
「晶が見ている世界は楽しいね」
 上を向けば視線の先、父親は口許を綻ばせていた。「そうだ、晶の写真も交えた個展にしよう」「良いわね。世界観が広がるわ」。二人が話す内容は晶には難しくて、けれど何か、楽しいことということだけは理解ができた。
 数日後、彼女は近所のギャラリーに両親と足を運んだ。扉を開くと、老齢の店主は目元を緩めて晶の前に屈んだ。「ああ、君が小さな写真家さんだね」と、晶の手を取ると、弱々しいと思えた体のどこにそんな力があるのか。よいしょ、と彼女を抱えて、世界を変えさせた。
「ほら、見覚えあるだろう?」
 大人の目線から晶は額縁の中を眺めた。白亜に睡蓮の花が縁取られた優美な額の中に、小さな写真がひとつ。
 彼女は、指を指した。
「これ、わたしの」
 そこにあったのは、彼女の世界。彼女の目線で見える、彼女だけの世界。
 大人たちは微笑む。「そうだね、晶ちゃんの撮った写真だ」「本当にセンスの塊ね」「さすが俺の娘」「あら、貴方じゃあこれは撮れないわよ?」。大人たちの談笑に、さらに多くの客が混じる。「すてきな写真ですね」「ええ、娘が撮影したんです」「それはそれは、良い構図だ」「この角度は斬新だわ」。
 晶の視線の先で、大人達は笑っていた。誰もが晶の写真を、そして父親の写真を見て、頬を緩め、目を細めて魅入る。写真が放つ魅力が、余すところなく放出される。

 ──きれい。

 きらきらと、大人たちの周りで光が舞った。瞳の中にある、輝き。
 何人分ものきらきらが、幼い彼女の目に、映った。

「──転校?」
「うん……ごめんね、晶。せっかく友達できたのに」
 きらきらとの邂逅から数年後。眉尻を下げて申し訳なさそうに謝罪する母親は、「ごめんね」ともう一度呟いた。心の底から、彼女を案じている声音は、痛いほど彼女に伝わる。
「……わかった」
 だから、彼女はそれ以上紡げなかった。
 彼女の母親が勤める医療機器メーカーは全国に支店があった。営業担当の母親は全国転勤が当たり前。父親がカメラマンという職種のため転勤について行くことが可能で、故に彼女もまた二人について行かざるをえなかった。
 保育園で二度の転勤。娘が小学校に入学すれば数年はないと思えば、一年経ち、また転勤ときた。不安と期待が綯交ぜの中、入学してそれなりに学校生活に慣れたと同時の転校。
 正直、彼女には不安と不満しかなかった。
 間が悪いことに、父の仕事も重なった。引っ越しを済ませ、始業式を終えて学校生活に慣れなければいけない時期に海外での長期仕事。数週間、家を留守にするためフルタイム勤務の母親は彼女を学童に預けて、ギリギリで帰って来なければいけなかった。
 自分のせいで、忙しない毎日を送る母親に、不安と不満をぶつけることもできずに、彼女は──
「──何してんの、お前」
 耳朶を打ったのは、少し高めの男の子の声。声変わりなんてまだまだ先の、幼い声だった。
 トイカメラを手に振り返る。視線の先、いたのは明るい髪の男の子。彼女と同い年くらいの、快活そうな男の子だった。
 男の子は、訝しげに眉を顰める彼女の手を見る。
「なあ、何やってんの」
 一歩、近づいた彼に、彼女は一歩下がる。また一歩近づけば、もう一歩。
 狭まらない距離に、彼は数秒、黙した。互いに視線を交錯させる。
「……うりゃ!」
「わっ!」
 大股で、一歩。一気に彼女の方へと飛んだ彼に、彼女は驚いて仰け反った。そのまま、背中は木の幹にとんと着いて、逃げ道がなくなる。視線を右往させ、けれど目の前に近づいた彼に、彼女は、トイカメラをぎゅっと抱きしめた。
「それ、カメラだろ? こんなところで何を撮ってんの?」
「……べつに」
 じい、と見つめる瞳に、居心地が悪くなって視線を逸らす。早く帰って、と心内で願うが、彼は止まらない。
「なあ、見せろよ! 撮った写真」
「や……やだよ。全然、上手くないし」
「いいじゃん。俺、写真撮ったことあんまりないんだって! な?」
 きらきらと、輝く瞳に彼女は言葉を詰まらせる。瞳の奥に、好奇と期待、まだ見ぬものへの希望を光らせる、きらきらが見えて。否定と拒絶を紡ごうとしても、舌がうまく回らない。
 代わりに、口をついて出たのは。
「……ちょっとだけだよ」
 ポーチの中から、プリントした写真を撮り出す。彼女の目線から切り取られた、彼女の世界の一端を、差し出した。
 手に取った彼は、じっと、写真を見つめた。トイカメラ特有の、風合いの濃い、少しざらついた写真。両親に入学祝いと貰った時から、まだ他人には撮った写真を一度も見せたことはない彼女が、初めて他人に見せた。
「あ、の……変なら変って言ってくれてもいいから」
 だから、不安な気持ちが胸を支配して、予防線を張る。自分のことを知らない、同い年くらいの子は、大人とは違う"本音"を言うのではと思って、視線をわざと、大きく逸らして地面を見た。
 鬱屈とした気持ちが、溢れて──

「すっげえ綺麗!」

 けれど、きらきらな声が、溢れた。
 思わぬ声に、落としていた視線が上がる。
「お前、すげえじゃん! なんでこんなに上手く撮れんの!?」
 視線の先、写真を手に彼は興奮した様子で彼女に喋りかけた。さらに近づいた距離に、彼女はしどろもどろになる。
「お父さん、写真家だから。真似っこ、しただけ」
 そうだ。父さんも言ってた。『さすが俺の娘』て。だから、自分が特別なわけじゃない。
 自分は、普通なだけで──
「けど、これを撮ったのは、お前だろ? なら、すげえのはお前じゃん」
 闇を晴らすような、曇天を衝く光の柱のような強烈な言葉が、彼女の鼓膜を揺らした。快活な声と、晴れやかな笑顔が眩しく、彼女の心を照らす。
 きらきらが、舞った。
 一等、美しいきらきらが、彼の周りを飛ぶ。
 厚く、暗い雲が取り払われた。心を覆っていた闇が、きらきらで埋め尽くされる。
 彼女の顔が、綻んだ。
「っ、ありがとう」
 迫り上がった情動を飲み込んで、彼女は満面の笑みを彼に向ける。
 心の底から湧き上がる、喜びを表情に乗せた。
「お前、見ない顔だけど最近越してきたの?」
 写真を彼女に渡して、彼は尋ねる。
 彼女は、こくりと頷いてそして、問い返した。
「うん。四月からお母さんの転勤で来た。あ、私ね、白崎晶」

 ──君の名前は?

 一迅の風が、吹く。彼の唇が、その名を紡ぐ。
 芽吹きの春、出会いの季節。
 その日、その時、白崎晶の世界に新たな彩りが生まれた。




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