暗い顔をする奴が、嫌いだった。じめじめ、うじうじしたって現実は変わらないなら笑った方が得なのに、と何度も思った。
泣きそうで、不安に押し潰されそうな表情を見るのが、彼は──金城楓は大嫌いだった。
だからなのか、逆に暗雲立ち込める相貌が晴れ渡る瞬間が、大好きだった。笑わない奴が笑顔を取り戻す瞬間を、見たいと思った。
「──お前、好きだよな。此処に来るの」
視線の先でガラスの向こう側を眺める彼女に、楓は若干呆れた風に呟いた。
大抵のスイミングプールは待合室が設けられている。楓が通う施設は、利用する子ども達の保護者がプール内を見渡せるように、二階にガラス張りの見学窓を設けた造りだ。
窓に張り付いてプールを見下ろしていた彼女──白崎晶は楓を見ると「おつかれ」と駆け寄った。もはや自分の体の一部となっているようなトイカメラをしっかりと抱えて。
そんな彼女に、楓は呟く。
「何がそんなに楽しいの?」
「……何がって?」
「俺の練習終わるまでずっと見てるじゃん」
怪訝な顔の楓に、晶はぱちぱちと大きな眼を瞬かせると、うん、と視線を逸らして考える素振りを見せた。その視線が、ガラスの向こうのプール内へと向けられる。
「人が人魚みたいに泳ぐのが、見てて面白いっていうのもあるけど……」
しばし、黙して思案した後、彼女はふと、頬を緩めると。
「みんなが楽しそうな感じを見るとね、私も楽しいの」
満面の笑みと共に、声を弾ませた。心の底から、そう思っていると体現する声音に、楓の心臓がちょっとだけ跳ねる。
金城楓から見た白崎晶は、変わった奴だった。一人でふらりと何処かへ行き、何気ない日常を切り取るのが好きな女の子。雄大な自然とか、なかなかお目にかかれない絶景などには興味がなく、ただ自分達の身の回りにある世界を撮ることにこだわっている。ランドセルの中にこっそりトイカメラを忍ばせて、先生の目を盗んで写真を撮る日々。
あの日、トイカメラを片手に桜の木の下に佇んでいた彼女は、ひどく悲しげにカメラを構えていた。鬱屈した感情を内包して、けれどそれをどう扱えばいいのか分からずに、ただ撮影にぶつけているようにも見えた。
だから、思わず声を掛けて。仔猫のように警戒されても、それでも話し続けた。どうにか見せてもらった写真に写っていたのは、公園に遊びに来ていた他のチビと桜の木。舞い散る花びらとのコラボレーションはほんとうに、綺麗だった。
晴れない表情に、体が動いて話しかけたあの日から、楓は彼女と友人になった。家が近所なこともあり、彼女はよくこのプールにも遊びに来る。泳ぐわけでもなく、ただ見るだけのために来て好き勝手にトイカメラで撮影するものだから、大人達は初めは面食らったけれど慣れたらしい。「今日はどんなのが撮れた?」なんて話しかけられたり、記念の一枚を強請る猛者まで現れる始末だけれど、彼女は嫌な顔ひとつすることなく撮影して渡していた。
「──そういえば、近いうちに大会があるんだよね? 楓は出るの?」
二人だけの帰り道。誰もいない河川敷で夕陽とネコを撮っていた晶が振り返る。道草を食いながら帰るのはいつものことで、彼女の撮影になんだかんだ楓が付き合うのも恒例になっていた。
楓は、ふい、と顔を逸らす。
「分かんねえ。上級生に負ける気はねえけど……」
無意識に、拳を握りしめた。
水泳を始めてもう数年は経つ。初めは恐る恐る入っていた水も、今ではすっかり自分の領域テリトリーになった。
下手ではない、と思う。楓にとって水泳は苦ではなくなり、もっと速く、と望む程度には自身に馴染んでいる。自分の生活の一部で、故に誰にも負けたくない気持ちは日に日に膨らんでいった。
けれど、まだ、足りない。
自分にはまだ、圧倒的な強さはない。
上級生に打ち勝ち、レギュラーをもぎ取るまでの実力があるとは、思えない。
もっと、もっと強くならないといけない。でないと、アイツに会えない──。
暗雲が立ち込める。自分への不信という分厚い雲が心を覆って。
黙した楓に、晶は「そっか」とだけ返した。余計なことは何も言わず、撮影を終えて帰路に着く。
傍へ避けたネコが、にゃあ、と鳴いた。
それから、週四日の楓の練習に、晶は常についてくるようになった。普段は週一、二回程度しか顔を出さなかった彼女がほぼ毎日来るようになり、大人達は少しだけ驚いた様子を見せたが「写真展に向けた練習かな?」と穏やかに彼女を受け入れる。その優しさに、彼女は少しだけ恥ずかしげにはにかんだが、来ることをやめはしなかった。それどころか、待合室からプールサイドに来て練習風景をレンズに収めるようになる始末で、さしものコーチ達も目を丸くした。
それでも、彼女は撮ることをやめなかった。
そして、事件は起きた。
「──お前、なんなんだよ」
耳朶を打ったのは、ひどく耳障りな声。待合室へ向かう足は、その声にぴたりと、止まった。
地区大会を控えたある日、いつものように待合室で待つ晶を迎えに行った楓は、聞こえてきた声に耳をそば立てた。
「お前、泳がないくせに何で此処にいんの? いつも金城と一緒にいるよな」
「なになに、保護者なわけ? それとも、後ろをちょこちょこついていかないと不安なの? だっせえ」
複数人の声が聴こえる。知っている、これは上級生だ。楓より二つ上の、六年生。僅差のタイムで勝てない相手だった。
けらけらと、不快な声が鼓膜を揺らす。大人達は近くにいないのか、上級生達は好き勝手なことを口にした。「馬鹿みてえ」「気持ち悪い」。嘲笑、侮蔑が入り混じる。だめだ、嫌だ。うるさい黙れ。心の中では言い返せるのに、肝心の足は床にへばりついたように動かなかった。
行かないと。晶がひどいことを言われている。自分が弱いから、自分が遅いから、馬鹿にされて目をつけられた。だから、助けないと。
そう思えば思うほど、けれど楓は、動けなかった。
認めてしまっているから、動けなかった。
「お似合いだよな。弱っちい奴らは群れてないと怖いんだろ」
弱い自分を、他ならぬ自分が、認めてしまっていた。
自分は、本当はすごく臆病で。
本当は、強くなれないかもと不安で。
だから、自信のなさが泳ぎに出てしまって。
認めたくない。けれど、突きつけられる。
勝てなかったらどうしよう。勝てなかったらどうなるだろう。
不安で、怖くて。
そんな自分を、もしかしたら、晶は──。
「だっさいのはそっちじゃん」
凛とした声が、耳朶を打つ。相手を軽んじる空気が、一瞬で凪いだ。
嘲笑が止み、流れた沈黙に被せるように、晶が淡々と紡ぐ。
「下級生に絡むなんて上級生のやることじゃない。暇なの?」
「は、はあ?」
「なにお前、生意気だぞ」
「ださい奴に、ださい、て言って何が悪いの。頭悪いんじゃないの」
晶は、決して勝ち気な性格ではない。どちらかと言うと内気で引っ込み思案だ。物怖じしないけれど、進んで他人と諍いを起こそうとはしないし、争いに発展するなら口を噤むようなタイプだ。
そんな晶が、上級生相手に、一人で物申している。
「私は、一生懸命頑張る楓を見るのが好きなの。邪魔しないで」
一等、声を低くした晶に、上級たちはぐっと言葉を詰まらせた。女に、しかも歳下に反駁されるとは思っていなかったのだろう。
どうしよう。そう思ったが、彼らもさすがに掴みかかるなどの暴挙には出なかったらしい。 「気持ち悪い、行こうぜ」と吐き捨てた声を最後に、バタバタと足音が近づいて、楓は思わず物陰に隠れた。ちらりと覗き見た先、上級生たちはしかめっ面を浮かべて走り去っていった。
「あ、楓。おかえり」
誰もいなくなったことを確認してから顔を出す。意気地なし、と脳裏で勝ち気な自分が嘲笑した。
そんなことなんて知らない晶は、楓に気づくとぱっと表情を和らげる。低く、相手を威嚇する声音はどこにもない。楓に向けられるのはいつだって、ひどく淡白だけれど優しい声だ。
どこか後ろめたい気持ちが心の底から湧き上がる。晶が泣き出していたら、自分は出ることができたろうか。助けることができたろうか。
じめじめ、うじうじする奴が嫌いなくせに。
そのくせ、自分はひどく、臆病だ。
自分のことを真っ直ぐ見つめてくれる相手がいるのに。
「……楓、どうかした?」
ハッ、と意識が現実に戻る。見れば、不安に瞳を揺らす晶が見つめていて。
「どうもしない……ほら、帰るぞ」
罰が悪くなって、ぶっきらぼうに言い放つと小さなその手を取る。この場に居たくなくて、なんだか逃げ出したくて、足早に施設を後にした。
二人だけの帰り道は慣れっこなのに、足取りはひどく重い。鉛のような両脚が自分の心を体現しているようだった。河川敷には誰もいなくて、夕陽だけが二人を包む。
その柔らかさが、逆に後ろめたさを助長した。
無言で歩き続ける。何も言わない自分に、晶もまた無言を通した。
ああ、いやだ。うじうじ、じめじめは大嫌いだっていうのに、これじゃあ──
「ねえ、楓」
ふわりと、脇を通り過ぎた晶が、楓の前に立つ。夕陽を背にした彼女は淡い橙色の光を背に湛え、楓と向き合った。
一体なんだと、目を瞬かせた楓に、晶は唐突にポシェットを漁った。ぽかんと、佇立する楓に構わず何かを探して、数秒。
「これ、あげる」
彼女が中から取り出したのは、数十枚の写真だった。ずい、と目の前に差し出されたそれを、楓は呆然と受け取ると、最初の一枚を見る。
「……これ」
息を、呑んだ。
楓の目が、大きく見開かれる。
そこに写っていたのは。
「楓、いっぱい練習してるよ。だから、きっと大丈夫」
何枚もの、自分。一枚一枚、全て自分の練習を切りった写真だった。コーチに指導されている写真、友達と談笑している写真、泳いでいる写真は角度を変えて何枚も。
練習をしている自分を、ありとあらゆる場所から写した写真に、手が震える。
「お前、これを見せるためにずっと来てたわけ?」
ただ、楓に見せるためだけに。自分のカメラの練習とか、ただ面白いからとかそんな理由じゃなくて。
呆然と問いかけた楓に、晶は遠慮がちに答える。
「……私、運動得意じゃないし、アドバイスとかもできないから。せめて、楓が頑張ってるところを撮っておこう、て……迷惑だった?」
不安に揺れる、瞳。楓を伺う、少し気弱な視線に。
「っ、なわけ、ないだろ」
思わず、声に力が入った。びくりと晶は肩を揺らしたが、構わない。心に沸き上がった、言い知れぬ情動に、言葉を詰まらせる。
自分は、いったい何を怖がっていたんだろう。
負けるかもしれない。勝てないかもしれない。それは確かにそうだ。勝つ保証なんて誰もしてくれない。できるわけがない。誰もが勝つために努力して、高みを目指している。
けれど、負けた時のことを考えて、不安に苛まれたところで、意味はないのだ。勝利を裏打ちする練習を確実にやることだけが自分に与えられた、才能だ。
一枚、一枚写真を見る。さまざまな表情の自分が伝える。お前は、確かに高みを目指すために歳月をかけてきたと。
そして、写真の向こう側には、それを伝えるために毎日飽きもせずに通い続けた、相手がいる。
「……なあ、晶」
声が、僅かに弾む。言葉が、自然と口をついつい出ていた。
「今度、大会に来いよ」
「……いいの?」
「あったりまえじゃん」
もう、暗雲は取り払われた。彼女を見つめる瞳に勝ち気さを映して、楓は快活に笑う。
「最高の景色を見せてやるよ!」
晴れ渡る笑顔で言った瞬間。
不安に包まれていた彼女の相貌が、一瞬で晴れ渡った。
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