きらきらが、舞った。いつか見た、快活で純粋な、何にも臆さない笑顔が、晶の心に刺さった。
最高の景色で撮れる写真は、いったいどんなものになるだろう。
わくわくが、止まらなかった。
「──楓、緊張してる?」
「なわけねーだろ」
「でも顔が強張ってるよ」
「これは! その、武者震いってやつだ」
腕を組んで胸を突き出した楓だが、けれど声の上擦りは隠せていない。どうあがいても、やはり緊張するものはするのだ。
地区大会のためのリレー選抜で、楓は上級生を抑えて選手に選ばれた。専門はバッタで百メートルでも出場する。
地区大会は、楓にとって初の大きな大会だった。普段泳ぐスイミングプールより設備の大きい、収容人数も桁違いの施設での大会。県内の水泳関係者も集まるため、子どもだけでなく大人にとっても緊張する試合だ。
「おい、金城行くぞ」
「は、はい!」
チームコーチに呼ばれた楓がひっくり返ったような声を出す。若干の震えが入った、甲高い声音で反射的に返事をして、弾かれたように地面を蹴った。
「っ、楓!」
瞬間、晶の手が咄嗟に伸びて、彼の手首を掴む。唐突に呼ばれ、止められた彼は眉根を寄せ「んだよ」と怪訝な顔を見せた。
睨め付けた双眸を、晶はしっかりと見つめた。不安に揺れるその瞳を見て、ひとつ瞑目すると、ふっと微笑みを浮かべる。
自分は、水泳をしていない。
だから、選手の気持ちは分からない。
けれど──伝えられる気持ちはある。
「いってらっしゃい」
とびっきり優しい声音と視線で、彼女は紡いだ。
大丈夫、心配しないで。
貴方の努力は、確かに写真に刻まれている。
心の声は届くだろうか。届いたところで何がどうなるわけでもない。けれど、届くといいと思う。
楓が、僅かに目を瞠った。片眉を上げていた相貌に、柔らかさが戻る。
「ああ、行ってくる」
頷いたその瞳に、もう不安はなかった。
*
スタートブロックに立って水面を見つめる。歓声と声援が耳朶を打ち、喧騒の中に横並びで選手は立つ。頑張れ、あと少し、負けるな。応援の言葉は飛び交い、その中で一人、姿勢を低く構える。帰ってくる仲間に掛けられる声援、自分を送り出す仲間からの応援、全てを背に受けて、タッチした瞬間に、ブロックを蹴った。着水し、窓から差し込む陽光を透過する水中を、蹴る。聴こえていた喧騒は、この中には響かない。
水の中では、一人だ。
泳いでる最中に誰も助けてくれやしない。誰かに頼ることはできない。自分で水をかいて、前に進んで、ゴールに辿り着くしかない。
水の中での選手は、孤独だ。それは誰にも、どうしようもない。一人前に進んでも、一人取り残されても、孤独と戦わなければいけない。
速く、速く、もっと速く。他の追随を許さないほどの圧倒的な速さが欲しい。
だって、あいつは信じてくれている。自分の速さを、自分の努力を、強さを、ずっとずっと信じてくれていた。
水の中は孤独だ。一人だけだ。
けれど──
「楓ぇええええ!」
両腕を大きく回し、空中で息継ぎの瞬間、聴こえた声。普段は物静かで、大声を出すことなんてないくせにこんな時だけしっかりと聴こえた、声。もしかしたら他の声援の方が大きかったかもしれないけれど、楓の耳は彼女の声を拾った。
水の中は孤独で、一人だけ。
それでも、つながりが、力になる。
だから、進める。速く、速く。誰よりも速く。
まだ見ぬ景色を、見せるために──
*
水泳は、個人競技だと聞いていた。己と相手との意地のぶつかり合い。ただ速い奴が勝つ世界で、仲間という意識は希薄だと。
けれど、晶のその認識は覆された。
最後の選手がタッチした瞬間、歓声が沸き起こる。周りの大人達が飛び上がって抱きしめ合っていた。初の快挙、というフレーズがあちらこちらで聴こえる。
視線の先、四人の少年が満面の笑みでハイタッチをした。泣きながら笑う子も、嗚咽をあげている子もいる。その中で、楓はきらきらと、瞳を輝かせて笑っていた。
瞬間的に、晶の中に情動が駆け巡る。思いのまま、彼女はカメラを手に走り出した。父親に貰ったばかりの、お下がりのデジタルカメラを握りしめて、走る。運動は得意じゃないけれど、走って走って、途中、靴下を脱ぎ捨てて行き着いたのはプールサイド。「あ、こら君!」と焦る係員を振り切って、彼女はレンズを向けた。
シャッター音が複数回。レンズの向こう側の彼は気付いていない。故の、最高の笑顔。カメラに気付いたから向けられる表情ではない、純粋な、自然な笑顔を捉えた。
大会で、楓の所属するスイミングクラブは優勝した。開設以来の快挙ならしく大人も子どももお祭り騒ぎとなり、会場は大賑わい。熱気は当分、収まる気配がなかった。
大人達の間を縫って、晶は控室に向かう。地区大会とはいえ、大人が多い分、子どもの目線だと余計人は多く感じられる。
階段を一段跳びで降りて、走っていると、控室前で談笑する楓を見つけた。
「お、晶!」
「楓、おつかれ」
微笑み、労を労うと何故か他の選手たちは含み笑いを浮かべて立ち去る。「金城の彼女か?」なんて冷やかす彼らに、楓が「ちっげえよ!」とやたらと大きな声で返した。去りゆく背を見つめながら、小さく吐き捨てる。
「たく、悪ノリしやがって」
「仲良くなったんだね。チームの人と」
「仲良いってか、いやでも一緒にいるからな。それなりに」
口ではつれないことを言っているが、リレーが終わった後の喜びようを見れば、チームとして成り立っていることくらいは晶でも推察できた。
ふと、彼女の目に彼の持つ金色の輝きが映る。
「ね、楓。トロフィー持って、笑って」
カメラを構えれば「おう」と、楓は自然と笑顔を見せた。天邪鬼なところがある彼にしては珍しく、トロフィーを手に喜色満面な、笑み。
シャッター音が一度、二度三度。
液晶画面で撮影画像を確認する。
「楓、嬉しそう」
思わずこちらまで綻ぶような笑顔。心の底からの喜びに溢れた表情に、晶も釣られて頬を緩める。
「あったりまえじゃん。びっくりしたけど、超嬉しいんだから」
「ほんと、いい笑顔だよ。あ、見てみて! これ!」
確認をしている中、先ほど撮影したリレー直後の写真が出てきて、画面を見せる。チームメイトと共に、喜び合う姿。カメラを意識しない、最高の笑顔がそこにはあった。
「な、隠し撮りとは卑怯だぞ!」
「隠してないもん。……て、あ! こら楓!」
「こっちだって撮ってやる! おりゃ!」
こっそり撮られていたことが不満なのか、晶が見せていたカメラを強奪すると、楓は晶にレンズを向けた。撮ることには慣れているが、撮られるとなると途端に気恥ずかしさが勝り、晶は慌てて両腕をクロスさせて顔を隠す。が、させるかと楓は四方八方から晶の表情を写そうと躍起になり、初めは必死に隠していた晶のも思わず吹き出した。
「こら! やめ、やめてって! もうっ……ふ、はは! 何必死になってるのもー!」
「お! ほら、いい笑顔じゃんこれ!」
「ちょっとブレてるよ! 楓の下手っぴー」
「うるせ! こっちは素人だっつーの!」
やいのやいのと二人で笑い合う。
楽しくって。
嬉しくって。
それは二人にとって、最高の時間だった。
胸いっぱいの想いに突き動かされて、晶は改めて、彼を呼ぶ。とびきりの、想いを込めて。
「楓」
ん、と交錯した視線。
目元を緩めて、彼女は微笑みを浮かべた。
「おかえり」
「……ああ、ただいま」
目尻に僅かに浮かんだ雫が、彼の想いを伝える。努力の結実がもたらした栄光を、噛み締めて。
──その日、彼らは最高の景色を目にした。
彼女にとって、彼はヒーローだった。
きらきらと、輝きを放ち自分を導く、ヒーローだった。
彼にとって、彼女はヒーローだった。
己の意志を貫き、支え導く、ヒーローだった。
彼らにとって互いは──確かに《光》だった。
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