関係性は、変容するものだ。年月をかけて紡いで、織り成して、絡まって、時折、解けて、切れる。感情と行動によって形を変えて、次にどうなるかは誰にも分からない。昨日までは上手く紡いでいたはずなのに、明日には無くなってしまうことだってある。唐突に、無情に終わって、先を紡ぎたくても手が届かなくなることは、ある。
けれど、失ったと思っていた関係性がまた紡がれて、希望を織り成す瞬間も、あると知った。すれ違って、ぶつかって、それでも断ち切れなかった関係性が少しずつ修復される姿を、見た。
水が繋いだ軌跡が奇跡を手繰り寄せ、解けていた関係性が再び紡がれて、新しい未来をつくる。
その光景に、私は──希望を見た。
*
林立する大小、新旧さまざまなビル群を尻目に足速に進む。老若男女、青目、黄目、黒目、金髪、茶髪、ドレッドヘア、人種の坩堝の大都会で肩がぶつかり合わないように進み、スマホを改札口でかざす。ホームに音もなく着いたモノレールに乗り込めば、ゆったりと車両が発進してすぐに視界は開けた。陽光煌めく海原が、瞳に映る。十数分後、到着したのは臨海副都心。広大な土地を埋め立てて造られた、大都会、東京において開放感を味わえる場所だった。本日は晴天なり。広い空が視界を蒼く染め上げる。
大きく息を吸って、吐いて、ひとつ瞑目してあたりを見渡し、白崎晶はバッグの中から《相棒》を取り出した。女性の手に馴染むミラーレス一眼を手に取り、ファインダーを覗き込む。
「んー……うん、これで良いかな」
カチカチと親指でメモリを回す。ISO感度、シャッタースピード、絞りを調節。陽の光は天然のライトだが、その分、扱いが難しい。
数枚、試し撮りをする。その度に全ての値を調節する。写真は、一瞬だ。一瞬を切り取る技術が必要とされる。
設定を終えると、今度はひたすら歩く作業。目に見える景色を一番、綺麗に切り取る場所を探す。一瞬のためには最適な場所が必要で、プロのカメラマンは場所取りが命ならしい。場所と時間が重ならないといけない場合は何日でも待つと聞く。
歩いて、歩いて。ちょうど良いポイントを見つける。手前には季節の色とりどりの花、バックに青空、そして海向こうには林立するビル群と、それを見つめ、笑い合う観光客。
──完璧。
この一枚、この一瞬。
今、その時にしか出会えない瞬間に、彼女はシャッターを切った。
大都会、東京で迎える一度目の春。芽吹きの季節、出会いの季節、そんな季節に白崎晶は東京にいた。何故かといえば当然、進学したからだ。
「──精が出るね、晶」
海辺のベンチで撮影した写真の確認をしていると、聞き慣れた声が耳朶を打った。久しぶりというほどではないが、ほぼ毎日聞いていたこの声を聞くのはニ週間ぶりか。大学は違うため、なかなか会う機会が減った友人の声。
晶は、顔を上げた。
「久しぶり……は違うか。ちょっと前ぶり、真琴」
にこりと、手を上げて挨拶をすれば、橘真琴は「ちょっと前ぶりってなに」と微笑む。くすりと可愛らしい微笑み方は、昔から変わらない。
自然と隣に座った真琴が、晶のカメラを覗き込む。「いいのは撮れた?」「それなりに」。昔から幾度なくしてきた会話は、ここにきても変わらない。
「晶は、本当に人を撮るのが好きだよね。それに、構図が上手だな、て思う」
晶からカメラを受け取り、写真を見ていた真琴が感心したように呟いた。真琴の言う通り、晶の写真にはアップのピン以外は大概人がいる。人と風景が一体となった写真がほとんどだ。
真琴から視線を外した晶は、緩慢に前を向いた。視界いっぱいに広がる蒼穹と背後のビル、時折、散歩をする親子連れを網膜に投影する。
「……風景の中にね、人がいるのが好き。自然の営みの中で人が生きてるって分かるから」
虹彩モニターが映す世界の中で、ふと、小さな子ども達が視界に入った。鬼ごっこでもしているのか、笑い声を上げてはしゃいでいる。純真無垢な、その表情に。
「けど、撮ってて一番好きなのはね、」
思い出す、鮮やかな過去の幻影。幼い頃の、彩りある日々──眩しい笑顔。
「おーい! 真琴ー!」
物思いに耽っていた思考が快活な声で現実に浮上した。
振り返ると、階段を降りてくる青年が二人。一人は友人の七瀬遙、もう一人は。
「……椎名君?」
人懐っこい笑み、やたらツンツンした頭。背は伸び、精悍な顔つきになったが面影は色濃く残っている。
晶の前に現れたのは、椎名旭。岩鳶中一年一組に在籍していた、元クラスメイトだった。
「おー! 本当に白崎だ。久しぶりだな」
ぱちぱちと目を瞬かせる晶に、旭は快活な笑みを向けた。目の前に来ると余計分かる、六年前と変わらない相貌。
呆けていた晶は驚きの声をあげる。
「久しぶりすぎてびっくりだよ。というか、真琴、知ってたなら教えてよ」
「ごめんごめん。言わない方が驚くって旭が」
「真琴! テメェそれ言うなよな!」
軽快な会話は、あの時のまま。勝ち気で、ちょっと悪戯好きで、けど熱い想いを滾らせた熱血漢。小さな椎名旭をそのまま大きくしたような姿に、晶が思わず吹き出した。
「椎名君、全然変わってなくて笑っちゃう」
「おい、それどういう意味だよ」
「純真無垢な感じってこと。でも本当に、久しぶりで嬉しい」
互いにくすくすと笑みを零す。同時に、真琴は立ち上がり、代わりによいしょと旭がベンチに座った。
四人は、ただの井戸端会議のために臨海副都心にまで来たわけではない。晶は被写体が多いこの場所に来たいと思っていたが、人混みを好まない遙には理由があった。
「で、ハルのお目当てはそれ?」
立ち上がった真琴の横で、熱心にチラシを見つめる遙に問い掛ければ、こくりと首肯し、彼はチラシの表面をずいっと見せる。
「各地のサバ料理が一堂に会する。行かない道理はない」
「行かなくても普通の人は困らないけど。うん、行ってらっしゃい」
「ああ、分かった」
「あ、ちょ! ハル、そんな急がなくても! ごめん、晶」
「いいよ。ここにいるから、また連絡して」
「俺も待っとくわ」
「うん! ありがとう、二人とも!」
ずんずん進んでいってしまった遙を慌てて真琴が追いかける。あっという間に二人の背中は見えなくなった。
何年経っても変わらない構図に、お互い顔を見合わせて笑い合う。
「相変わらずあいつはサバ狂いだな」
「ほんとね。でも今回は岩鳶の養殖サバも来てるらしいよ。名前は確か……お嬢サバ? だっけ?」
「なんだよ、そのネーミング」
「養殖だから寄生虫のアニサキスが少ないんだって。で、箱入りで大事に育てられたから、お嬢サバ」
お嬢様ならぬお嬢サバとはなんとも粋なネーミングだ。刺身で食べられると、地元ではちょっとした有名人ならぬ有名サバで、関西圏や県内出荷がメインらしいが、首都圏でも専門店では食べられるらしい。近いうちに行きたい、と上京前からぼやく遙を晶は見ていた。
「へえ。転校した後は岩鳶の話題が出ることなんてなかったから、なんだか新鮮だな」
浦島太郎の気分、と旭が苦笑する。中学一年の冬に九州へと引っ越したため、一年足らずで岩鳶を離れた旭にとってはなるほど、町の話題は珍しく、また同時に懐かしくあるのだろう。
互いに思い出話に話を咲かせる。水泳部がなかった高校で水泳部を設立し、プール掃除から始めた旭の話を聞きながら、晶は懐かしさに目を細めた。
饒舌に思い出を話す旭は、快活で前向きで真っ直ぐで、太陽のような眩しさがある。嗚呼、中身もちっとも変わっていないと、どこか安堵した。
「──なんか、安心した。白崎も元気そうで」
ひとしきり話した後、ふと、旭が徐に口にした言葉に、晶は首を傾げる。「安心?」と瞬いた彼女に、旭は首肯した。
「中学に入学したての頃、お前いっつも暗い顔してたじゃん。新聞部でうちの撮影来た時なんて特にどんよりしててさ」
「あー……そういえばそうだっけ」
「おう。割と新しい環境に慣れるのが苦手なんだろうなとか思ってたから、そういう意味で安心した」
人の良い笑みに、晶の眉尻が下がった。
椎名旭は無鉄砲で、直情的だけれど意外と人の表情に敏感だ。だから、悩み苦しむ相手を見たら、声を掛ける。昔から変わらない。
旭の言葉に、晶の脳裏に六年前の光景が浮かぶ。それは自分が、岩鳶へと移り住んだ時の、記憶。
「……確かにあの時、いろいろあってメンタル的に参ってたから、椎名君の能天気さには確かに助けられたかな」
「おま、能天気ってなんだ能天気って!」
「そのまんまの意味だけど?」
「辛辣!」
がくりと肩を落とし、何事かを呻く旭にくすくすと笑みを零す。いつもやかましく、けれど人一倍、他人を本気で気に掛ける椎名旭に、晶は確かに救われた。
「ほんとうに、懐かしいね」
細めた眼に僅かに佗しさを孕んで、彼女は眼前に広がる海原と、水面を見つめた。
*
──暗い顔した奴だな。
それが、白崎晶に対して椎名旭が抱いた第一印象だった。自己紹介で、とりあえず県外から親の都合で転校してきたということだけは分かったが、必要以上に喋らず、彼女は旭の後ろに座った。
出席番号順に座った中学一年の初めてのクラス。真後ろの席だったため、旭は必然的に彼女の顔をよく顔を見るようになった。けれど、視線が合うことはほとんどなかった。プリントを後ろに配る際、言葉は発せずともアイコンタクトというか、はいどうぞ、という感じで渡すものだが、彼女と自分のそれは交錯しない。無理に笑顔をつくれとまでは思わないが、それでも会釈とか、どうもとか、何かあるだろうと思ったけれど彼女は無愛想を通り越して、どこか心配になるレベルで無口だった。
そんな彼女と初めてまともに会話をしたのは、たまたま、彼女が水泳部に顔を出した時のことだ。彼女に加えて数人の上級生が来ていて、夏也先輩と話をしていた時のこと。離れた場所で佇んでいた彼女に、思わず声をかけた。
「何やってんだ、白崎」
びくりと肩を揺らした彼女は、おずおずと旭を見た。なんで話しかけてくるの、と言わんばかりに瞠られた眼が旭を見つめる。
揺れる瞳に、旭は悟った。
──ああ、不安なのか、こいつ。
薄暗い闇を纏ったような表情だからか、彼女はいつも一人だった。元々、小学校からの持ち上がりが多い学校なこともありグループもできている。好き好んで、暗い無愛想な女子に話しかける生徒はいない。
けれど、彼女は特段、それを悲しむ様子もなかった。
ただ、いつもどこか遠くを見つめて、侘しげに細められた眼が印象的だった。
「……何って、なに?」
不審に塗れた瞳で晶は旭に逆に問い返す。いつもプリントを回す前の先の男子、くらいの印象しかないのだろう。旭のことは認識しているようだが、話しかけられるとは思っていなかったという顔だ。
確かに、用があって話しかけたわけでもないので、旭も少し目を逸らして頭を掻く。
「あー、えっと。部外の奴がここにくるの珍しいからさ、何しに来たのかな、て」
努めて笑顔を保つ。椎名旭の取り柄は底抜けの明るさだ、と己に言い聞かせて旭が返すと、彼女は少しだけ警戒の目を緩めて答えた。
「今度、水泳部で記録会あるでしょ? それの取材だって」
「取材?」
「新聞部。週一で校内新聞作ってるの」
新聞、という単語に旭の脳内に記憶が蘇る。確か、職員室脇のボードと図書室の廊下に貼ってあった。いつも流し見をしているからしっかりと見たことはなかったが、新聞部が作っているとは聞いたことがあった。
「というか、白崎は新聞部なのか」
新聞部という単語と目の前の彼女が結び付かなくて、思わず口にすると、彼女は首を傾げる。
「なに? 変?」
「んー、正直意外だった。どっかの部活の幽霊部員で半帰宅部かと思ってたし」
学校として必ず部活に入ることが義務付けられているため帰宅部というのは存在しないが、名ばかりで文化部に登録してさっさと下校する生徒はいる。彼女もその部類だと思っていた。
旭の返しに、彼女は、ぱちぱちと目を瞬かせると。
「……椎名君、正直すぎ」
ふっと、微笑んだ。くすくすと、おかしそうに笑う。コロコロと、鈴の音のような声音だった。
初めて見る笑顔に、旭は目を奪われた。暗い顔をして、闇を纏って、いつも侘しげにしている彼女は、存外、普通なのだと。
そして、ひとつ気付きを覚える。
「てか、俺の名前、覚えてくれてたのか」
驚嘆の声を上げた旭に、彼女は肩を竦めた。
「目の前の席のクラスメイトくらい覚えるでしょ。ちなみに水泳部ってことも知ってるよ」
「なんで!?」
「いやだって、いつも七瀬君とか桐嶋君と話してるじゃん。さすがにあんな大声で話されてたら内容くらい聴こえてくるよ」
呆れた風に笑う彼女に面食らう。なんだ、意外と他人に興味があるのか。陰鬱な表情でいつも一人でいる割に他人のことをよく見ている。そして自分は若干、いやけっこう彼女に対して失礼な印象を抱いていた。
その日から、椎名旭と白崎晶は友人になった。前後の席のため話すことも多くなり、彼女が写真撮影が得意なことが判明すると記念に練習風景を撮ってもらったりと、頼み事をすることも増えた。「撮ってもらってばかりは悪いよ」と真琴は言ったけれど「好きだし、練習になるから良いよ」と彼女は応じてくれたため、随分と甘えたものだ。
リレーメンバーの遙、真琴、郁弥と話す姿も多く見られ、他の女子生徒もそれを見始めてから彼女への印象が変わったのか。徐々に同性の友人も増え、彼女から《陰気なクラスメイト》の肩書きは消えていった。
「──転校ばかりじゃ可哀想ってね、父方のおばあちゃんちがある岩鳶(こっち)に預けられたの。今はお母さんは単身赴任で県外、お父さんも長期の仕事で沖縄に行ってるんだ。今日はおばあちゃんも地区の会合に行ってるから、家には誰もいないってわけ」
彼女の口からそんな話を聞いたのは、記録会の数日前だった。
部活帰りにばったりと会った彼女は、制服姿にスーパーの食材やら総菜を引っさげていた。制服に着られているような体躯と買い物袋の組み合わせがアンバランスなものだから、思わず尋ねてしまったのだ。何やってんだ、と袋を見つめて。
柔らかな暖色の夕陽が二人を照らして長い影をつくる。岩鳶でも人通りがほとんどない農道を歩きながら、旭はちらりと彼女を横目で見た。確か、住んでる場所は山側の方だったか、とか、ここからどれくらい時間がかかるだろう、とか思案しながら、ふと買い物袋に視線が移る。両手のうち、片手の荷物は洗剤やティッシュペーパーなどの日用品で、細長い指にビニールテープがちょっと食い込んでいた。
「白崎、貸せよ」
「え? ちょ、椎名君」
半ば無理やり奪い取ったビニール袋。ずっしりと中身は重かった。気恥ずかしさが後から来るが、今さら返すなんて真似はできないから前を向いて歩く。じい、と彼女の視線を横から感じて、真正面を向いていた視線を、反対方向にじりじりと逸らした。
「……ありがとね」
くすくすと、耳に心地良い笑い声が聞こえる。「なんだよ」と片眉を上げてぶっきらぼうに言えば、彼女は「別に?」と微笑んだ。
「椎名君、優しいなって思っただけ」
馬鹿正直に気持ちを伝えるものだから、調子が狂う。中学生といえば思春期で、旭含め大概は天邪鬼になるものなのに、晶は真っ直ぐだ。ストレートに、恥ずかしがらずに想いを口にする。特に、相手への賛辞とか感謝は必ず。
けれど時折──
「……夕陽、きれいだね」
柔らかく、温かで、長い影を作る夕焼けを彼女は見つめる。その横顔に、旭は少しばかり瞼を伏せた。
時折、見えるのだ。
その瞳に、深い哀愁が。
ひどく侘しげで、どこか別の景色を見ているような、昏い色が。
「……ああ、そうだな」
彼女が見せるその目に、旭はいつもかける言葉が見つからなかった。その深い憂愁の理由を聞く勇気は、幼かった旭にはなくて。
そのまま、彼女の悲哀の込められた瞳は、旭の脳裏に、深く刻まれた。
「──変わってねえな、白崎も」
水面を見つめる横顔を見遣って、旭はぽつりと呟く。言葉に反応して視線を向けた彼女に、僅かに瞼を伏せた。
同じ景色を見ているのに、違う場所を見つめる、その儚い横顔は何度か見てきた。
変わってないと気付いて少し、哀しいと感じる。
ぱちぱちと瞬いた晶は、ふと苦笑した。「変わらないかぁ」と、徐に呟くと、とん、と立ち上がる。数歩歩き、柵に手を置いた彼女は海向こうのビル群を眺めた。
陽光に照らされながら、その後ろ姿はやはり、どこか、寂しげだった。
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