中学一年で転校した岩鳶町。そこで出会った水泳が大好きな友人たちと過ごした六年間は、晶にとってあっという間だった。特に、高校に上がり、二年生になった後の日々は語り尽くせないほど濃密だった。
 水がないと生きていけない、とまで言われる七瀬遙。幼馴染で遙と同じ、水泳が大好きな橘真琴。旭を通して友人となった二人が、水泳部をつくる、と聞き、面食らったことは記憶に新しい。「お前も手伝え」と何故か新聞部の自分まで部室から引きずられてプール清掃をした。悔しかったので、一部始終をカメラに収めて校内新聞のネタ枠に仕立て上げ、抗議の声を散々食らったが素知らぬ顔で掲示していった。
 嵐の中の離島合宿。チームがひとつになった県大会。
 誰かと一緒につなぐ≠アとの奇跡が見えた、地方大会。
 彼らが織り成した日々を、晶は記録してきた。幸い、設立間もなく大会を勝ち進んだ水泳部は注目の的だったため、部活で撮影に入ることも度々あった。
『──晶は、進路どうするの?』
 そして三年の夏。休み時間に進路指導室から出てきた真琴に問いかけられた言葉に、晶はいよいよ現実を見ないといけないと悟った。
 漠然と、なんとなく、自分の進路だというのに曖昧な未来しか見えなくて。だから、スカウトが来ても晴れない顔の遙の気持ちは、少しは理解できた。
 自分はただ、撮りたいだけ。
 見える世界の一端を、長方形の形に切り取りたいだけ。
 その先に何があるわけでもない。誰かに喜んでほしいとか、誰かのためにとか、そんなことを考えて撮影なんてしていなかった。部活で写真大会に応募したことはあったし、賞を貰ったこともあるけれど、それはただの結果で、何かに結びつくわけでもない。
 写真を通して、何かが変わるなんてことは、ないのだと思って。
『どうしよう、分かんないや』
 だから、はぐらかして、背を向けた。
 たくさん撮影して、たくさん人に渡して。
 たくさん、たくさん、見える世界を、一瞬を切り取った。ただ、それだけで良いと。これは、ただの趣味だと思っていた──けれど。

 ──きれい。

 きらきらが、舞った。
 全国大会の舞台で、四人で泳いだメドレーリレーで見えた、きらきら。六年の月日の中で、一等煌めきを放つきらきらが──笑顔が、晶の網膜に焼き付いた。
 無意識に、シャッターを切る。何枚も、世界をコマ送りで留めるように、ボタンを押した。一瞬でも逃したら惜しいと思えるほど、そのきらきらは輝いていた。
 その日、晶の進路は決まった。
 まだ、見たい。たくさんのきらきらが集まって、弾けるこの場所で、最高の景色を撮りたい。
 この手で、最高の景色を、写したい。
 だから、晶は岩鳶を出た。大海原に飛び出すイルカとシャチと一緒に、外へと飛び出した。

「──そういや、白崎は真琴と大学違うんだな」
 カウンター越しにエプロン姿の旭に話しかけられて、晶は手を止めた。木製のテーブルの上にはノートパソコン。次の講義で提出するレポートを作成していたところだ。テーブル席の向かいでは真琴も同じように課題に取り組んでいる。
 互いに視線を合わせて、次いで旭に向き直った。
「うん。行きたい学部あるところで国公立を選んだからね」
「行きたい学部?」
「社会学。情報系の学科とか幅広く勉強できるとこに行きたかったの」
「俺の大学はスポーツ系の学部ばかりだから、ちょっと違ったんだよね」
 答える真琴が通う学部はスポーツ教育系統。水泳の楽しさを伝え、選手をサポートしたい真琴に最適の学部だ。
 晶が選んだのは、撮影について学べる学部ではなく、社会学部。凡そどの大学でも似たような学部はありそうだが、金銭面も考えて国公立に絞った。
「撮影の専門校に行く気はなかったのか?」
 喫茶『まろん』自慢のイチゴタルトを切り分け、二人の前にそれぞれ差し出した旭は首を傾げる。礼を言いながら、晶は苦笑した。
「写真家になりたいわけじゃないしね」
「へえ……てっきり親父さんの後でも継ぐのかと思ってた」
「別に、親が写真家だから『私も!』てならないでしょ」
 言いながら、小さく肩を竦める。
 確かに親の影響で撮影は好きだが、その道で生計を立てるのは並大抵の技術では不可能だ。それは、側で父親の背中を見て育った晶が一番よく知っていた。
「こっちに来たのは撮りたい景色がたくさんあるからだけど、それが夢につながるかは別でしょ。将来なんてまだ分からないけど。でも分からないからこそ、選択肢を増やすために勉強はしたいんだ」
 五年後、十年後に自分がどんな大人になっているのか、何の仕事をしているのか、どこにいるのか。未来を描こうにも手にしているカードが少ないと、自然と道は狭まってしまう。子どもの頃、「なんで勉強しないといけないの?」と尋ねた晶に母親は「いろんな道が選び放題になるからよ」なんてからりと笑って答えたが、その通りだと思った。
 スポーツだって同じだ。強くあればあるほど道は開ける。可能性は広がる。何を選ぶか、そして何を捨てるかすら、強いからこそ取捨選択ができる。
 逆に言えばそれは、強くないと──

『強くない奴に、何の価値があるんだよ』

 ふと、脳裏によぎった相貌に、思考が止まって。ぎゅっ、と胸が締め付けられる感覚に無意識に拳を握った。
「白崎? どうかしたか?」
 隣に座った旭が顔を覗き込んできて、ハッ、と意識を戻す。呆けすぎたと自戒して、「なんでもないよ」と笑い、タルトにフォークを刺して口に運んだ。少し酸味の効いたイチゴと生地の甘さが絶妙なバランスで、ゆっくりと咀嚼して味わう。
「……そういえば、新人戦どうだったの? 私は結局見に行けなかったからさ」
 脳裏を掠めた幼い頃の記憶を振り払うように、晶は気を取り直して二人に尋ねた。
 都合が合えば見に行こうと思っていた大学対抗の新人戦はつい先日終わったばかりだった。好タイムが出ても全日本選抜への出場資格が得られるわけではないが、大学生スイマーにとっては一番初めの公式戦だ。
「あー……まあ、試合自体は、普通に終わったな」
 質問に、旭が歯切れ悪く答える。眉根を寄せて真琴に視線を移せば、同じように答えづらそうな表情を浮かべていた。
「え、なに。何があったの? まさか、ハルと泳いだから旭がまた泳げなくなったとか?」
「誰がなるか! てか、六年前の話だろ、蒸し返すな!」
 くわっ、と噛み付く旭に「ごめんごめん」と軽く手を振る。気まずそうな顔から一転、くすくすと微笑んだ真琴が、ひとつ息をついて答えた。
「なにって、いうわけでもないんだけどね。試合に……郁弥が出てたんだ」
「郁弥って……あ、桐嶋くん? 中学の時の」
 ぱっ、とは思い出せなかったものの、聞き覚えのある名前に晶の脳裏に中学一年の記憶が蘇った。幼さが多分に残る顔つきの、少しつんけんとした男の子。二歳年上の兄が部長を務める水泳部に入部した小柄な彼、桐嶋郁弥の輪郭が浮かび上がる。
 確か、中二の時にアメリカに水泳留学へ行ったはずだ。その前に、遙は水泳をやめて旭は転校した。全員の進む道が違えたあの時を、晶も鮮明に覚えている。一緒だった、同じ未来を見ていた四人が別々の方向へと歩き出した、苦い思い出。
 ああ、だからか、と納得して。二人の気まずさが少しだけ理解できたから、「なんだか、懐かしいね」と当たり障りのない反応をしてしまう。
 晶の心情を知ってか知らずか、旭は「そうなんだけどさ」とわざとらしく肩を竦めた。
「郁弥に会おうとしたら、なんか親友って奴が邪魔してくるんだよ。今は忙しいとか、疲れてるとかそれらしい理由並べて門前払い」
「……なにそれ。彼女の間違いじゃないの?」
 彼女でもなかなかに恐い。昔の男友達と会おうとするのを阻止するなんて、突き抜けたメンヘラなのか。私の郁弥くんに近づかないで、といった感じか。
「いや、そいつ女みたいな名前だけど男」
「……ますますわけがわからないんだけど」
 眉根を顰めた晶に旭が「俺だってわけわかんねぇよ」と口を尖らせる。聞けば、会おうとすれば、郁弥は今大事な時期、迷惑だ、挙句の果てには友達である資格とやらの話になったということで、話を聞いていた晶の相貌が険しくなった。
「その親友様はいったい何がしたいの……」
「だから俺に聞くなって。俺が聞きたいほうだから」
 盛大な溜息を吐いた旭が目の前のケーキを頬張った。不満の二文字を顔に張り付けながら、しかしケーキは美味しいのか、満足そうななんとも奇妙な顔を見せる旭に苦笑して、晶は真琴に視線を移す。
「で、真琴はその親友さんと友達の資格をかけた試合をするんだ?」
 珈琲に口を付けていた真琴は問いかけに頷くと、ソーサーにカップを置き、「流れ的に、そういう感じになっちゃったね」と微笑んだ。苦笑混じりだが、本気で嫌がっていない、むしろ望んでいるかのような口振りだった。
 真琴は人の心の機微に敏感だ。相手が悩んでいる時、躓いた時、声色や視線、一挙手一投足を無意識レベルで観察して、必要なら手を差し伸べる。他人に対しておおらかで、物腰柔らかで丁寧なのは人の悪意に鈍感だからとかではなく、接する相手の胸の内を表情や仕草からそれとなく感じ取れるからだろう。
 その真琴が、自分から、側から見れば馬鹿げた戦いに応じたというのだ。それはきっと、相手が純粋な悪人ではないという証左だった。
「強くないと友達の資格がない、なんて、その親友さんはけっこう強いんだね」
 どんな自信家だと笑いつつ、けれど確かに、水泳の強豪、霜学に在籍するのだから確かにそれなりの実力者だろう。でないと水泳で勝負と遙に言われて応じるはずもない。遙の泳ぎを見たことあるスイマーが、おいそれと勝負などできないだろう。
 そう、軽い調子で尋ねて。
「うん、バックが専門でね。確か名前は」

 ──遠野君、だったかな。

 へらりと笑っていた晶の表情筋が、固まった。耳朶を打った名前に、彼女の思考が停止する。
「そういや、うちの部であいつの新人戦の映像見たけど、けっこうなスピードだったぞ」
「本当? 体格からしてけっこう鍛えてると思ってたけど、やっぱりかあ」
 二人の話し声が、どこか遠くに聞こえる。脳内に反響して、けれど小さくかき消されていく。
 錯綜する思考の中で、情報を統合した。遠野。専門がバック。水泳の強豪──
「あのさっ」
 詰めていた息を、言葉と一緒に吐き出す。いやに早鐘を打つ心臓を落ち着けて、平静を保ちながら晶は二人を見つめた。
「その人って……遠野日和、て名前じゃない?」
 生唾を飲み込んで、問いかける。縋るような、祈るような気持ちで。
 二人は顔を見合わせると、晶に向き直った。
「……確かにそんな名前だったけど。知り合いなのか?」
 眉根を寄せた旭に、晶は息を詰まらせる。数秒黙して、僅かに視線を外した。
「ううん。知り合いとかじゃないけど、その、ちょっとね」
 くるくると、テーブルの下で両手の指を合わせて、苦笑を浮かべる。不審そうに見遣る二つの目に少しばかりの居心地の悪さを感じながらも、在りし日の光景が脳裏に浮かんだ。
 遠野日和。その名前は、知っている。
 何度も聞いた。何度も、きらきらした眼でその名を紡ぐ、彼を見た。だから、覚えていた。それほどその名前は、彼にとってもきっと大切だったと思うから。
 思わぬところで、数年越しに聞いた名前に、晶の心臓は大きく脈打った。
 もしかしたら、彼なら──
「あの……私も付いて行っていいかな? 真琴とその人の勝負」

      *

 最初の印象は、警戒心の強い仔猫。
 少ししてからの印象は、図太い神経の野良猫。
 橘真琴が白崎晶に抱く印象は、時を経るにつれて変化した。彼女は中一の夏の大会前に新聞部として水泳部を訪れて、その時は話しかけた旭にギョッと目を瞠り、毛を逆立てた猫のように応対していたが直ぐに態度は軟化。元々、人の懐に入り込むのが得意な旭と相性は良かったのか、打ち解けた後は自分や遙、郁弥のほかクラスメイトとも話すようになった。
 写真撮影が好きで、けれど自分の写真を撮られるのは苦手な彼女。一度、旭がカメラを手に撮影しようとしたら全力で嫌がり、最終的には張り倒して奪い返すという強行突破だった。「撮るくせに撮られるのが嫌ってどういうことだ!」と叩かれた頭を押さえて騒ぐ旭に舌を突き出してそっぽ向いた姿は、ふだんの大人しそうな様子からは考えられなくて。あの遙でさえ、若干、笑いを堪えていたくらいだった。
 だから、驚いた。
「それ、晶の写真?」
 放課後、図書委員の仕事でカウンターの貸し出し係をやっていた晶を見かけて、声をかけようと近づいた時だった。晶は返却された本と貸出データを照らし合わせていたが、パソコンの側には彼女の手帳が置かれていた。新聞部の予定や各部の大会スケジュールなど必要なことをメモしていると、以前、真琴は聞いたことがあった。
 その手帳の袖の部分に挟まれていた、写真。どこかの風景とか誰かの笑顔とかではなく、晶自身が恥ずかしげに、けれど、とても幸せそうに苦笑している。ブレて少しばかり不鮮明な写真は彼女の手持ちの中ではかなり珍しい、むしろ一度も見たことがない物だった。
 彼女は、真琴の問いかけに、びくんと肩を揺らした。真琴を見遣った彼女の顔には、しまった、と書かれていて思わず苦笑する。
「ごめん、見えちゃって」
「ううん。真琴のせいじゃないよ。挟んでたのは私だし」
「……誰かに撮ってもらったというか、撮られちゃった感じの写真だよね」
 眉尻を下げた晶に旭を張り倒した勢いはなく、少しほっとして真琴は尋ねた。
 写真を見つめる晶の瞳が揺れる。懐古の色が濃く見える、瞳。
「うん。大切な写真。お守りみたいなものなんだ」
 はにかみ、けれど僅かに見える哀愁。侘しげな、形容し難い感情を真琴は見た。たった一枚の写真には、真琴の知らない白崎晶が詰まっている。
 晶は素直で、真っすぐで。物静かだけど、割と直情的な、ごく普通の女の子だった。おかしなことがあれば笑うし、友達とも真琴達ともよく喋る。
 ただ時折、とても悲しそうな眼をするのもまた、彼女の日常だった。
 だから、あの日も──
 
「ハル、なんで水泳やめるの?」
 彼女は、教室にいた遙に問い掛けた。
 中一の冬、ある日を境に水泳部をやめた遙に、誰もが声をかけた。どうして、なんで。けれど、絶対にリレーで優勝すると、勝つんだと意気込んでいた全員はあまりの唐突さに、言葉を失った。
 教室の入り口で、室内に二人を見かけた真琴は思わず佇立して、直ぐに身を隠した。やましいことはないけれど居心地が悪くて、そっと覗き見る。
 遙は彼女を一瞥すると視線を窓の外へと逸らした。
「別に」
「別にって……」
 そんなわけない。理由もなしに仲間から離れるなどあり得ない。声音に想いが滲んでいた。
 晶は人をよく見ている。いつもカメラを手に人を、その日常を切り取る中で、その人の人となりを彼女なりに感じ取り、分析する。四人が喧嘩したり、不仲になったり、それでも一つのチームとしてまとまったことは肌で感じていたのだろう。それは遙も知っている。
「あんなに楽しそうだったじゃん。リレーだって来年こそはって言ってたのになんで」 
「……俺は、一人で泳ぎたいんだよ」
 縋るような晶に、遙は視線を合わさずに吐き捨てる。明確な拒絶を示し続ける遙に、晶も「でもっ」と、強く食い下がったけれど。
「──お前に! 関係ないだろ!」
 怒声とも言える声が響いた。それは、側から見ていた真琴でさえまずい≠ニ思った言葉だった。空気を裂いた言葉が彼女に隔意を突きつける。
 関係ない。リレーメンバーでもなく、水泳部ですらない晶には何一つ関係なく、口出しなんて無用。そこまで言うつもりはなくとも、遙の言葉は彼女から次の言葉を奪うのに、充分だった。
 言下に、遙は目を見開いた。いつだって言葉少なで、けれど相手のことを考える遙だ。自分の言葉の暴力性は瞬時に理解できたのだろう。その表情がひどく哀しげに、歪む。
 彼は、拳を握り締めると、教室から逃げるように走り去った。
「あ……」
 ドアを乱雑に開け、廊下を駆ける遙を追おうと真琴は一歩踏み出そうとした。が、直ぐに思い直して足を止めると、教室へと視線を戻す。
 今は、こっちだ。
「晶」
 佇む彼女に声をかける。なるべく穏やかに、何ともないといった声色で呼んで、彼女に近付いた。大丈夫、ハルの本心じゃないよ。ちょっとイライラしていただけだから。そうやって笑えば、晶の相貌はきっと安堵に変わる。晶は人をよく見ているのだ。あれが遥の本心じゃないということは理解できるから、大丈夫。
 そう信じていた。
「……晶?」
 けれど、近付いて、横から彼女の顔を見て、真琴は言葉を失った。
 丸い両目が揺れて、貯まった水が決壊するように頬を濡らす涙。大粒のそれは晶の意思とは関係なく流れ出ているようだった。
 彼女は、泣いていた。呆然と佇みながら。
 絶句した真琴に、彼女は肩を揺らすと顔を逸らす。隠せもしないのに腕で、手で目を拭って。
「なんでもっ、ない……なんでもないから」
「でも、泣いて」
「泣いてない!」
 強く否定を叫んだ晶は、はっ、と目を見開く。真琴を見遣って、くしゃりと歪んだ顔を隠すように背を向けた。「泣いてない」ともう一度、まるで己に言い聞かせるように紡いだ彼女の背に、真琴はそれ以上、かける言葉を見つけられなかった。
 
 真琴が晶の涙を見たのは、それが最初で最後となった。次の日には、晶は何事もなかったかのように登校し、いつも通りの日常を過ごした。真琴と遙と話す機会もあったが、まるでその日の記憶が抜け落ちているかのように、彼女は笑顔を保ち続けた。
 なぜ、彼女があそこまで泣いていたのか。真琴には、今もその理由は分からない。
 白崎晶は真っ直ぐな性状の持ち主だ。相手への賛辞、感謝を言葉にすることに迷いがない。
 けれど彼女は、自身が抱える重荷を、他者に見せようとしなかった。決して、胸の内に打ち込まれた楔を打ち明けようとはしない。
いつだって他者に対して穏やかで、冷静で。怒りや悲しみで感情が昂ぶることもない。人とコミュニケーションを取るにおいて、確かにそれは美徳であり、利点であるかもしれない。
 けれど、真琴にはそれが、ひどく寂しく思えた。
 ――そんな晶だからこそ、真琴は、驚いた。
「ごめん、真琴! 先に帰ってて!」
 彼との試合の後、彼女が自分達を置いて飛び出した、その姿に。
 
      *
 
 人魚姫は、王子と結ばれた王女のことも愛したという。
王子を救い、浜辺に横たえたのは確かに自分なのに、永遠に勘違いをされたまま泡となった哀れな姫。王子との幸せな日々は泡沫の夢となり、それでも王子と、王子が愛した王女を受け入れた心優しき姫は、風の精霊となった。いつか天国へ行けることを夢見て。
 なんて、虫唾が走るんだろう。
 伝えたいことも伝えられず、無償の愛だけ捧げて消えていく話が、美談として語られることが気に入らなかった。報われない恋は、他人が見ればさぞ美しいのだろう。美しい物語として消費されていく。
 人魚姫は愚かだ。王子に本当の自分を伝えられず、恋も実らず、戻ることもできない。周りの環境に振り回されて、結局欲しかったものも、手にしていたものも全部失った。
 抗えば良かったのだ。
 仮初の救い主となった王女と対峙して、言ってやればよかったのだ。
「──僕は、郁弥の親友だよ」
 王子の隣にいるのは、自分だと。

 脱ぎ捨てた競泳水着を乱雑にバッグにしまって、ロッカーを閉じる。思った以上に力をこめてしまい、ひどく大きな音を立ててしまったが、日が暮れた後の市民プールにひと気はない。ただ、余計にそれが自分の荒れた心を体現しているようで、苛立ちが募った。
 言いたいことを言った。
 七瀬遙という過去を振り切った郁弥に必要なのは自己研鑽だけで、追い縋る過去じゃない。捨てたくせに、いなくなったくせに、今さら郁弥の前に現れるなんて虫が良すぎるだろう。過呼吸になるほど自分を追い込んで、一人で戦おうとした郁弥の覚悟を、捨てた側の人間が贖罪のために踏み躙るなんて、見たくもないし見る気もなかった。
 郁弥は郁弥だ。王女に懸想して、追いかけるような王子じゃない。
 そして王子を支えるのは、人魚姫の役目だ。
 バッグを背負って施設を出る。歩いているとスマートフォンが振動したので確認すれば、送信者は郁弥だった。『練習メニューのこと、明日話せる?』と一文だけ。それでも、日和の心は充足感に満たされる。
「大丈夫」
 泡になって、消えてなんかやらない。
 美談になんて、誰がなってやるもんか。自分は──
「──待って! 遠野君!」
 ほっと一息ついた日和の耳朶を、少し高めの声が打った。女性のその声に日和の顔が少し翳ったが、すぐに笑顔の仮面を貼り付けて緩慢に振り返る。
「何か用?」
 慌てた様子で走ってきた彼女に、日和は一言だけ返す。名前は知らないが、訊く必要もない。
 追いついた彼女は、何かを言いさして、けれど言葉が見つからないのか視線を彷徨わせた。「あの、その……」と、追いかけてきたくせに優柔不断な態度に舌打ちをしたい衝動が込み上げたが、すんでのところで自制し、戯けた調子で話す。
「あー、七瀬君に言ったこと気にしてる感じ? 気に障ったならごめんね。本心とはいえ、言い過ぎちゃったかな、なーんてね」
 両手を広げて揶揄する声音は不快だろう。そう聞こえるようにしたし、言外に、さっさと目の前からいなくなってくれ、と伝えたつもりだ。七瀬遙の連れ合いで来たという事実だけで日和が彼女に嫌悪感を抱くには十分だった。ぞろぞろと、多勢に無勢のような構図。
 まるで、王女様と臣下たちだ。
「……それに関してはどうでも良いよ。私が関わることでもないし、それに……ハルなら大丈夫だから」
 嫌味を言ったつもりが、あっさりと返されて逆に日和の片眉が上がる。
「そう? じゃ、なに?」
 自分は、お前に用はない。声音に思いを滲ませたが、彼女はひとつ瞑目すると意を決したように日和を見据えた。
「金城楓を、覚えてる?」
「……金城?」
 どうして、その名前がここで出る?
 もちろん、知っている。覚えているどころではなく、知り合いだ。地区大会で幾度も顔を合わせているし、顔を合わせれば話だってする。会話の雰囲気はさておき。
「一応、知り合いだけど、その程度だよ。それがどうかした?」
 けど、どうして彼女が金城のことを聞いてくるのか。ほんの少しだけ興味が湧いて逆に問い返したけど、彼女は目を瞠った。 
「知り合い程度……なの?」
 そんなはずない、と言いたげな口振りだ。信じられない、と伝える眼差しに、日和はわざとらしく肩を竦める
「よく分からないんだけど、君は彼の友達か何か? あいつにそんな親しい子がいるなんて知らなかったけど」
「本当に、知り合い程度? 友達とかじゃなくて?」
 こちらの質問に答えず、ただ訊くだけの彼女に苛立ちは更に募った。だから、自然と険のある言い方になって。
「……君は何を聞きたいの? 金城とは親友だとか言ってほしいわけ? 残念ながらそうじゃないし。そもそも関係ないでしょ、君」
 女子への言い方としてはきつかったかもしれない。七瀬遙の友人だからといって彼女自身が嫌な奴とかでもないだろうに、それでも日和の心はささくれ立っていた。
 郁弥の前に、お前たちが現れなければ――
「だいたい、君が金城のことを気にしても向こうはそうとは限らないでしょ。余計なお世話なんじゃない?」
 苛立ちを全部ぶつけるように一気に全てを言い切って、そして──日和は、しまった、と気づいた。
 彼女の焦茶の瞳が、大きく見開かれる。水晶体が揺れて、薄い皮膜が張られたことは容易に想像がついた。
 言いすぎた。そう気付く程度に、彼は彼女の表情に固まって。けれど謝るのは違う気がして次の言葉が喉に支えてしまう。
「……ごめんね、引き止めて。じゃ、大学選手権、頑張って」
「あ、まっ……」
 もたつく日和を待たず、彼女は彼の横をすり抜けた。逃げるように走り去る背中を、日和は黙って見送ることしかできず、その場に佇む。
「……なんなんだよ、いったい」
 罰が悪くなってガシガシと頭をかきながら、日和は、ぼそりと独りごちた。
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