「一緒に泳ぎたい奴がいるんだ」
河川敷沿いの帰り道。茜色を全身に受けた楓は、快活な笑顔でそう言った。夕焼けに負けない燦然とした光を瞳に宿して、真っ直ぐ前を見据える。何があるわけでもないけれど、その視線は誰かを捉えていた。
一緒に泳ぎたい奴とは誰だろう。どこの子だろう。
それを聞けば、楓は、待ってましたと言わんばかりに口の端を吊り上げた。興味津々の晶に、過去の思い出話を口にする。
「俺さ、昔は泳ぐのが……というか水に飛び込むことが怖かったんだ。けど、そいつと泳ぐために従兄弟の兄ちゃんに飛び込み方とか教えてもらって、必死に練習した。やっと水に入れるようになった時、一緒に泳げるんだ、て張り切ったけど、その時にはそいつは引っ越ししていなくなっちゃったんだ」
なら、一緒に泳ぐのは難しいのではないか。校区が違えば、会うのは難しい。
すると、楓は首を振る。
「強くなれば、一緒に泳げるだろ?」
天真爛漫な瞳に、勝利への渇望が映った。闘志をたぎらせた目が、どこかを見つめる。
「いろんな大会に出れば会えるから、だから強くならなきゃいけない。何でも泳げて、速い選手になるんだ」
晶には向けられない面差しだった。好敵手を見つけたというべきか。晶には分からない感情だが、確かに楓はそれを感じているのだろう。
同時に、彼は晶に振り返って、きらきらと笑った。
「それでいつか──あいつと一緒にリレーを泳ぎたいんだ」
幼い彼は、まるでそれが可能だと言わんばかりの声音で、想いを口にした。いつか、きっといつか叶うと信じるように。
「──ばかみたい」
重い瞼を上げる。閉じたカーテンの隙間から見える景色はどんよりとした灰色だった。
耳朶を打ち続ける雨音に起き上がる気になれずに寝返りを打つ。ワンルームの室内は、陽が登っているけれど薄暗かった。
話しかけて、訊いて、いったい自分は何がしたかったんだろう。何を訊いたところで、過去の自分に戻れるわけでもないのに。
遠野日和とのたった数分の邂逅を思い起こして陰鬱な気分になり、晶はひとつ大きく息を吐いた。思った以上に堪えているのか、頭の中は彼の言葉でいっぱいだった。
「……余計なお世話か」
口にして、胸が締め上げられる。
確かに事実だから、図星だからこそ何一つ言い返せなかった。彼と遠野日和の関係を自分は何一つ知らない。好敵手のように話し、目を爛々と輝かせていたことしか知らないのだ。遠野日和という名前だけが自分の中を一人歩きして、勝手に彼の親友だと位置付けていた。
余計なお世話。関係ない。
その通りで、だからこそ、苦しい。
どうして、と。
理不尽にも、遠野日和に心の中で叫んでしまった自分が、情けなかった。
*
七瀬遙は、他人からの干渉をひどく嫌った。他人は自分を変質させるから。水を受け入れ、感じる、ただそれだけで満足な七瀬遙という人間を変えてしまうから。
だから、遙は彼女を、白崎晶を疎ましく思わなかった。
彼女はまるで、水なのだ。ただそこに在って、自らの意思で他者を変えようとしない。水が己の領分を弁えて自ら人間の陣地に入らないように、彼女は、他者に必要以上に関わろうとしなかった。
けれど、そんな彼女が中一の冬に、遙を呼び止めた。仲間達すら目を逸らし、進行方向を変えた中、彼女は遙の前に立った。どうして。なんで。眉尻を下げて必死に訴えて。
──関係ない。
告げた言葉の残酷さを、遙は理解していなかった。
それでも、胸には不快感が残る。いつも通り過ごす彼女に、居心地が悪くなる。口から溢れてしまった言の葉は無かったことにはできないから。
だから、高二の春、清掃のために渚や真琴、江とプールへ向かう足が止まった。「どうしたの、ハル」と目を丸くした真琴に一言断って、回れ右をして向かったのは新聞部の部室。部室の前で扉に手をかけて、けれどその手が震えたことを覚えている。
あの日、関係ないと隔意を示して、心の扉を閉めた。閉ざされた扉の向こうで彼女がどんな表情をしたのかを見ないまま、遙は彼女から逃げた。仮面を貼り付けて、いつも通りに振る舞う彼女の心内を覗くことをしなかった。
だから、その扉を開けた。
「──晶」
どんより曇り空を貼り付けた顔は久々だ。プールサイドでカメラ片手に見学する晶に、遙は声を掛けた。
晶は時折、遙の泳ぎを見に来る。名目としては水泳風景の撮影で、確かにいつもシャッターを切っているから傍から見たらただ水泳が好きな女子だ。
けれど、遙は知っていた。
晶が一人で来る時は、大抵、何か悩みを抱えている。深い水底に落ちて、もがいて、自分ではどうしようもない感情に支配された時、晶はふらりと一人で遙の練習を見にくるのだ。
プールから上がり、佇立していた彼女に声をかければ「なに?」と微笑まれる。心許ないその笑顔に、遙は素直に告げた。
「浮かない顔をしてる」
ぴくりと晶が反応して、瞳が揺れる。ばつが悪そうに視線を逸らして口を噤んだ彼女は「何でもないよ」と苦笑したが、じっと見つめる遙に数秒、閉口して。
「……いろいろ、あったの。けど、ハルの泳ぎを見ると落ち着くんだ。本当に楽しそうに、自由に泳いでるから、なんか私もフリーになれる気がする」
観念したように肩を竦めた。
晶はいつも、何かあっても仔細を話すことはない。心の奥底に穿たれた楔を隠すように、偽る。笑って、全部を覆い隠してしまう。水面に広がる僅かな波紋も、なかったことにしてしまう。
「晶は俺の泳ぎを見る時、時々、どこか別の場所を見ている。俺は、誰かと似ているのか?」
確信をつく問いかけにすら、彼女は眉尻を下げるだけだ。
「……さあ、どうだろうね」
困ったように微笑んで、はぐらかして。閉ざされた扉を開けた先で、今度は彼女が規制線を引いてるようだった。自分の心の奥底を覗かないでくれと言っているようで、それはかつて、踏み込まれたくなくて他人と距離を置いていた自分を思い起こさせた。
かける言葉を見失って、口を開こうとしながらまごつく。閉口してしまった遙に、晶は「邪魔してごめん。もう行くね」と告げると、くるりと背を向けた。
逃げるように走り去る後ろ姿を、遙は見つめることしかできなかった。
*
自他は鏡合わせのような存在だ。自分を認識するために人は他人を介する。他人が見る自分を分析して、自分の在りようを俯瞰し、理解していく。
自分をつくるのは、他人だ。他人が自分を見つめて、自分の輪郭を認識していく。誰かと関係性を築いて、繋がって、互いを補うことで自分を保つのが人だ。その関係性が紡いだ軌跡の先、高校二年、三年の大会での奇跡を、晶は見た。
やっぱり、水泳はすごい。特にリレーは、個人が待つ力が倍増されて、選手も見る人も心を熱くする。
きっと、彼も──
「……何考えてんの、私」
ぼそりと、低く独りごちた言の葉は、寂れた住宅街に消えた。今、自分はひどく感傷的になっているのだろう。
市民プールから帰る道すがら、ひとり嘆息する。空を見上げれば自分の心内を表したかのように灰色で、分厚い雲が泣いているように、大粒の雨が降っていた。
遙は、不調になった郁弥のためにフリー以外も泳ぎ始めた。フリーだけにこだわっていた遙が、一緒に泳ぐために自らを変えた。水が、人を受け入れたり牙を剥いて変容するように、彼もまた他者と共に在るために自分を変えている。元来、お人好しで他人を放っておけない遙らしい選択だと思った。
人は、変わる。良い方向にも悪い方向にも、さまざまな人と出会い、思考して変質していく。遙の選択がどんな影響をもたらすのかは定かではないが、ただ一つ言えるのは、それは確実に、変化をもたらすということだ。
桃色に蒼の線が入った晶の傘の上に、雫が降り注ぐ。光を全て覆い隠すような雲に覆われた空だ。
雨は当分止みそうにないとため息を吐いて、晶は視線を前へと向けた。
――その時だった。
「……遠野君?」
人通りの少ない住宅街の一角。雨の公園なんて子どもどころか人っ子一人いないものなのに、不審者のように佇む人影があった。
ぎょっと目を瞠り、思わず後ずさった直後に、しかし見覚えのある風体で目を凝らす。背格好に加えて特徴的な眼鏡を統合して、晶は気付いた。視線の先にいる男は、先日、真琴と勝負をした彼、遠野日和だった。
体が緊縮したのには理由があって、何せ大粒の雨が降りしきる中、何故か彼は傘もささずに佇立していたのだ。物憂げに瞼は伏せられており、一目で普通ではないと気づくほど、彼は憔悴していた。
ゆらりと、彼の視線が晶へ向けられる。交錯したそれに、晶は反射的に彼へと詰め寄った。
「何してんの、風邪引くでしょ! 大会近いのに体冷やしちゃ駄目!」
カメラレンズを吹く用に常備しているハンドタオルを頭に被せ、傘に彼の体躯を招き入れる。思った以上に素直に入ってきた彼は、片手で髪を拭く晶に黙していたが、徐にその手を掴んだ。
「――んで」
「……遠野君?」
「なんで、みんな七瀬に惹かれるんだよ。なんで、いつもあいつの名前が出てくるんだよ」
なんで、と。譫言のように呟く。晶に聞いているわけではなく、ただ自身の中のやり切れない感情を吐露しているかのような声音だった。
震える彼の手に、晶は僅かに目を細める。
「……私の家近いから、とりあえずそこで体拭こう? 冷えたら駄目だよ」
努めて柔らかな声の提案に、日和は黙したまま、しかし自身の手を掴んだ晶を振り払うこともなかった。
「──はい。カップスープくらいしかないけど、我慢してね」
コトリとマグカップをローテーブルに置けば、彼は一言礼を言って口を付けた。
よく知りもしない男性を部屋に上げる、に加えて、あんまりにも体が冷え切っていたから脱衣所に彼の体を突っ込んでしまったのが三十分ほど前。引越しの際に父親が忘れて置いて行った部屋着を放り込んで有無を言わさずに扉を閉めたことに多少、文句の一つでも出ると思えば、彼は大人しくソファに座ったので、少しだけ面食らった。それだけ、今の彼は心が弱っているということだろう。
彼のことはよく知らないどころか、話したのは真琴との勝負の後が初めてだが、なんとなく、放っておけない危うさがあった。笑いながら、当てこすりのように嫌味を混ぜるやり方から晶は感じたのだ。
彼はきっと、想いを素直に吐露できないタイプだ、と。
笑顔の奥に自身の想いを閉じ込めて、隠してしまう。相手の顔色を伺って、本音を紡ぐことができない。たぶん、優しい子なのだろうと直感が告げた。
ちびちびと、大人しくポタージュスープに口付ける彼に、晶も同じように一口飲んで、息を吐くと問い掛ける。
「少しは落ち着いた?」
「……多少は」
「そ。なら良かった」
微笑んで、もう一口スープを飲む。無言空間が広がり、何処となく彼が所在なさげに視線を彷徨わせたところで、晶はカップをテーブルに置いた。
「何かあったの?」
遠慮がちに問いかける。けれど、彼は視線を合わさずにただ黙した。
「……言いたくないなら無理には聞かないから、服が乾くまで適当にしといて」
自分は大して彼の事を知らない。話せないというのなら、仕方がない。気にはなるが、聞かなければいけないわけではなかった。
敢えて淡々と伝え、夕飯の準備でもしようかと折っていた膝を伸ばそうとした──刹那。
「七瀬のせいで郁弥の調子が狂ってる」
唐突に、日和の口からぼそりと、低い声が漏れた。ぴたりと晶の動きが止まって、彼を見遣る。
「七瀬さえいなければ、あいつと会わなければ郁弥は、あんな風にならなかったのに。あいつのせいで、郁弥は変わっちゃったんだっ、」
彼は、苦悶の表情を浮かべて語気を強めた。瞳に見える、明確な怒り。怨嗟とも嫉妬とも取れた。遙に対して彼は敵意を抱いていて、その理由は、彼の親友を苦しめているからという。
変わってしまった。遙のせいだ。うわ言のように呟いた彼から、晶は視線を外してひとつ、瞑目した。
「遠野君は、桐嶋君にどうなってほしいの?」
僅かに瞼を伏せて、交錯しない視線。真正面から見据えず、カップの中の残ったスープに視線を据えたまま、晶は尋ねた。
「別に……どうもこうもないよ」
ぽつりと、小さく吐き捨てるように日和が答える。緩慢に彼を見遣れば、ぎゅっ、とカップを掴む手に力が入った。
「僕はただ、郁弥に過去を振り返らずに前を見てほしいだけ。七瀬たちとの思い出が、郁弥を苦しめるんだ」
やるせ無さを絞り出すように、彼は心内を吐露する。交錯しない彼の視線はどこを見ているのか。七瀬遙への敵意を露わにしながら、けれど遙自身が見ているのは、他でもない郁弥だ。
中学時代の思い出を、晶は色褪せることなく思い出せる。ソリが合わずに喧嘩していた日々、憑き物が落ちたように笑い合い、協力し合い、新たな景色を見た日々。
「……遠野君にとって、桐嶋君の過去は、いらないの?」
だから、晶は静かに尋ねる。そんなはずないだろうと、声音に思いを混ぜて。
「今の桐嶋君があるのは、桐嶋君と出会った全ての人がいるからだよ。ハルや真琴、椎名君、もちろん遠野君も。それは今の桐嶋君と切っても切り離せない」
「っ、僕はっ、本当の郁弥になってほしいだけなんだ!」
言下に晶に声を荒げた彼は、しかし直ぐにハッと息を呑んで視線を逸らした。罰が悪そうに俯いた彼は、前髪をくしゃりと乱雑に掴んで苦しげに紡ぐ。
「七瀬に囚われて、郁弥らしさがなくなっていくのが見てて嫌なだけなのに……郁弥には、本当の郁弥でいてほしいのに」
そこまで口にして、彼は口を噤んだ。歪んだ表情に、晶の視線が横へとスライドする。見つめた先にあるのは自身のカメラバッグだ。
「……いないよ。本当の桐嶋君なんて」
ぽつりと、言葉がこぼれ落ちた。日和の肩が揺れて、ゆらりと彼女へと視線が向く。向けられる眼差しを受けずに、晶は続けた。
「今の桐嶋君だって、桐嶋君の一面だよ。遠野君が知らない桐嶋君も、ハル達が知らない桐嶋君も、全部含めて桐嶋君だから、桐嶋君らしさなんてない。……見えていなかった面が見えただけ」
ふと、自嘲で口元が歪んだ。
自分の見ていた相手が、相手の全てではない。人は多面的で、さまざまな顔を持つ。どうしてこんなことを、と思う方が実はおかしなことなのだ。
人は、他人によって形造られるから。だから、その数だけ見えない側面がある。らしさ、なんてものは都合よく解釈するための言い訳にすぎない。
「どれだけそばにいても、分からないことってあるんだよ」
だから、人はすれ違って、ぶつかるのだ。分かっていると思って接して、けれど理解できていないことに絶望して。それでも、分かり合いたいと願うから。
哀の色に染まる瞳に、しかし彼は唇を引き結んだ。「分かったように話すんだね」と吐き捨てる。
晶は、ひとつ瞼を下げて、ゆっくりと上げた。
「仲が良かった友達に、似たようなことを思った経験が私にもあるから」
哀愁を湛えた表情から一転、彼女は淡く、けれど晴れやかに微笑む。
「だから、桐嶋君らしさとか、本当の桐嶋君とか考えずに、今の桐嶋君の側にいてあげたらいいんじゃないかな。否定せずに、ただ乗り越えようとしてる桐嶋君を支えてあげたらいいと思う。遠野君にとって桐嶋君が大切なように、桐嶋君にとっても遠野君は大切だと思うから」
晶の言に、けれど彼は口を尖らせた。
「……何言ってんの。大体、郁弥にとって僕が大切とか、そんなの、君に分かるわけ」
「分かるよ」
言葉を遮り、晶は、瞬く彼を真っ直ぐ見据えた。
「だって、ハルにはあれだけ失礼なこと言った遠野君がこんなに悩んでるんだもん。想いは、きっと届くよ」
ふと、相好を崩して。穏やかに目尻を緩めた。
彼のことはよく知らない。ただ、誰かを想い、悩み苦しみ、心配している、その痛切な想いは伝わる。
無意味な想いなんて、ない。
彼は、晶の言葉に何も返さなかった。適切な返しが分からないかのように、眉尻を僅かに下げて視線を逸らしただけ。
それでも、彼女の言葉を否定することもなかった。
*
お前に何が分かると、酷薄の笑みを向けて罵ることだって出来た筈だ。何も知らない、何も関係ない部外者が郁弥を、自分を語るなど何様のつもりだと。事実、彼女は自分と郁弥の関係なんてほとんど知らない。橘真琴との勝負の日に語った内容しか知らないのだ。
けれど、日和にそれは、できなかった。
あまりにも、彼女の言葉には真に迫るものがあったから。
それらしいことを、したり顔で話す人間はよくいる。それを取り繕った笑みで返す術も、逆に理詰めにして黙らせる術も日和は知っている。
それでも、日和は彼女に対してそれをしなかった。できたのは、小さく悪態をつくことだけ。それすら、彼女は笑って流すのだから、日和の完敗と言えた。
ところどころ、語る中に見えた憂愁が、目に焼きついた。経験がある、との談がきっと本当だと確信したのは、彼女が見せた侘しい、憂いた表情があの日、日和が突き放した日と同じだったからだ。傷ついた人間の眼は、よく知っている。
だから、日和は言い返す事をやめた。想いが届くとか、そんな希望的観測はいらないと否定を紡ぐことは、しなかった。
「──じゃ、気を付けて帰ってね」
玄関先で靴を履く日和の背に彼女が声を掛ける。結局、服が乾くまで少し時間が空いたため、簡単な夕食を一緒に食べることになり、帰りの時間も遅くなった。
付き合ってもいない女性宅に上がって手料理までご馳走になるという、世の男が聞いたら目を剥くか羨ましがるようなシチュエーションだったが、残念ながら彼女から見れば急病人の快方といったところだろう。道端に成人男性が落ちてても拾いかねない、とぼやけば「知り合いじゃないと流石に無理かな」と真顔で返されたため、頭を抱えた。そういう問題ではない。
あまりのお人好し加減にひとつ嘆息して、けれど帰る前に、聞きたいことがあった。
くるりと振り返れば、彼女と視線が交錯する。ぱちぱちと大きな目を瞬かせる彼女を見て、けれど少しだけ視線を外して問い掛けた。
「どうして、君も、誰も彼も七瀬に惹かれるの」
嫌いな相手のことなんて知りたくもない。郁弥を惑わす相手のことなんて、知る必要もない。
だからこそ、何故、と思うのだ。
どうして、七瀬遙は人を惹きつけるのか。
「なんでだろうね」
けれど、彼女から返ってきたのは、なんとも味気ない回答だった。外していた視線を思わず向ければ、彼女は苦笑して頬をかく。
「感覚的なものなんだ。ハルの泳ぎを見てると自由になれるというか、いろんなしがらみを忘れられる。ずっと見ていたくなる魅力があるって感じかな」
「なにそれ。もう少し、現実的な説明してくれない?」
「だから言ったじゃん。感覚的なものだって。……あ、ちょっと待ってて」
言うや否や、彼女はくるりと回れ右をすると、自室へと戻り直ぐに返ってきた。手にしているのは、自身のスマートフォン。
一体なんだと眉を顰めた日和に構わず、指を画面にスライドさせる。何度かそれを繰り返すと「あったあった」と、画面を日和に差し出した。
「これね、中学一年の時の桐嶋君の写真。ハルや真琴、椎名君も一緒に写ったやつなんだ」
「……これを今の僕に見せる君の思考が理解できないんだけど」
「まあまあ」
訝しむ日和に、しかし彼女は微笑みを崩さないため、仕方なく視線を画面に落とす。
何かの大会の直後の写真だった。ツンツン頭の男の子、おそらく椎名旭が郁弥と橘真琴に腕を回して快活に笑っている。二人ともはにかんでいて、特に郁弥は苦笑しているけれど、それ以上にほっと安堵しているような、そして心の底から嬉しそうな表情に見えた。
椎名旭と橘真琴に七瀬遙は挟まれていて、あどけなさが残る相貌は感情の読めない澄ました顔ではなく、少し驚いたような、年相応の表情だった。
そこにあったのは、自分が知らない、郁弥の一面。郁弥の、過去。
「桐嶋君、楽しそうでしょ? でも、これ撮るまでにいろいろあってさ。たくさん喧嘩もしてたし、怒鳴りあってるところも見たことあるんだ」
在りし日の光景が眼前に浮かんでいるかのように、彼女は語る。懐かしさに目を細めて、口の端を緩めながら。
「けど、最後はひとつのチームになったの。その中心で、みんなを水泳に引きつけたのは、ハルだった。みんなね、ハルと泳ぐと普段より力が出せるって言ってたの」
確かに、いかなるスポーツも自分と同じレベル、さらに上の強者と練習する方が強くなれる。
しかし、彼女が話す七瀬遙の人を惹きつける何か≠ヘ、もっと別にある気がした。スイマーとして、人として、他者を魅了する泳ぎ。
「感覚的なものだから口では説明しづらいんだけど、ハルはなんだかんだ人を惹きつけちゃうの。天然の人垂らしってところかな」
──けれど、それ≠体感していない日和には、言葉での説明は理解不能で。
「……いや、意味わかんない」
「あ、はは……ごめん、伝わらないよね」
そっぽ向いてバッサリと切り捨てれば、彼女は困ったように眉尻を下げた。その目に、少しだけ侘しさが映って、日和は引き結んだ唇を解く。
「僕はやっぱり……七瀬のことを好きになれない」
「……うん」
「けど、」
外していた視線を、ゆっくりと上げる。自分を見つめるその双眸を、見据えて。
「君の言うことは、少しは理解したつもり」
一歩、歩み寄る。少しだけ、それでも一歩。隔意の壁ではなく、透明なガラス窓をはめ込んだ。人と人との温度を渡す、相手が見える、透明なガラスをはめ込む。
それが、自分に歩み寄った彼女への礼儀だと思った。
ぱちりと、彼女は数度瞬くと、へらりとはにかんだ。「そっか」と、淡く微笑む。
「服乾かしてくれてありがとう。ただ、よく知らない男を家にあげるの、どうかと思うよ」
「それは、うん。いろいろごめん」
「いや僕に謝らないでよ。あと、戸締まりはきちんとしなよ?」
「分かってるよ。なんかお母さんみたいだね」
「喧嘩売ってるの?」
じとりと睨め付けたけれど、彼女は「ごめんごめん」と全く悪びれずに謝罪するものだから、思わず片眉が上がる。しかし意味はないと須臾に悟った。
もう本当に帰ろうとドアノブに手を掛ける。
けれど、脳裏に思い浮かんだ人物の横顔に、日和は今一度、口を開いた。
「金城のこと」
言いながら、振り返る。ドアノブから手は離さずに、視線を彼女に向けた。
「結構ひどいこと言ったから。それは、ごめん」
明確な悪意を以て、傷つける意図を持って放った言葉だった。鋭利なナイフと分かっていて投げたから、それは謝罪しておきたかった。
「……気にしてないよ」
彼女は、一目で嘘だと分かる、感情を糊塗した笑みを浮かべた。一瞬だけ見えた、深い哀しみの色に、日和はひとつ、息を吐く。
「……君にも、何があったんだろうね」
「え……」
「なんでもないよ、じゃ」
今度こそ本当に、ドアノブを回して外に出る。呟いた言の葉に彼女がどんな反応を見せたのかを見ることなく、日和は彼女の家を離れた。雨は止んでいる。とっくの昔に日は落ちて、けれど空はまったく瞬いていない。この時期にふさわしい曇天が一面を覆い隠している。
晴れ渡る空が互いの心に現れるのは、いつになるのだろう。
「……何を考えてるんだ、僕は」
感傷的な己の心に背を向けるように、日和は大きく首を振った。
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