初夏の日差しが差し込む屋内プールは盛況に満ちている。水面に落ちる陽の光が乱反射して、水中を泳ぐ男女を輝かせた。
 それぞれがコースを区切って練習に精を出す中、一番端のレーンでたった一人、男は泳いでいた。他のレーンで泳ぐチームメイトの波の力をものともせず、均整の取れた筋肉質な体をしならせて、美しいストリームラインを保ちながら泳ぐ。雄々しく水を掻く姿は肉食動物を連想させた。サメ、シャチとも違う、圧倒的な強さを持った何か。
 水の抵抗を抑えつけて己が力を誇示するかのように真っ直ぐ、力強く泳ぎ切り、最後に壁に手が触れた瞬間、男は全身を駆け巡る高揚感のままキャップを水面に叩き付けた。

「さすがの泳ぎだな、金城」

 泳ぎ切った余韻に浸っていた男の頭上に声が降ってきて、緩慢に面を上げる。目の前には、所属する水泳部の部長が笑みを浮かべて立っていた。
 男は、声と共に差し出された手を握った。そのまま水面から体を上げる。初夏の日差しが男の肌の上に落ちて、皮膚が弾いた水が光の粒になって体を伝った。惜しげもなく晒される鍛え上げられた体躯は、男が積み重ねてきた練習の証だ。

「お前がウチに入って、格段にレベルが上がったよ。上の奴らにもいい刺激になってる」
「……ありがとうございます」

 照れるなよ、と自信の背中を叩く彼に僅かに片眉が上がる。無愛想で他人を寄せ付けない男だが、彼はいつも構うことなく男に接した。その応対がどこかむず痒くて、男は彼が苦手だった。
 少しばかり男の泳ぎについてのアドバイス、兼雑談を交えた彼は、硬質な表情を崩さない男にふと、神妙な眼差しを向ける。

「なぁ金城、リレー泳がないか」

 一瞬、男の目が瞠られた。ほんの僅かな、瞬きの間だったが、変化を目敏く見抜いた彼はさらに続ける。

「今年は霜学にも燈鷹にも速い奴が多くて粒揃いだ。当然、リレーもハイレベルな戦いが予想される。お前がメンバーに入れば」
「俺は、個人以外やらないっす」

 ぴしゃりと、男の声がプールサイドに木霊した。刹那、彼の相貌に翳りが映る。水を掻き、飛沫を上げる、独特の喧騒は続いていたが、二人の間に見えない緊張の糸が張り巡らされた。
 近くにいたチームメイトが不安げに二人を見遣る。少し離れた場所ではマネージャーが怪訝な表情を浮かべていた。
 男の中に、不快感が渦巻く。

「……すみません」
「あ、おい。金城」

 口だけの謝罪をして、男は彼の横を歩き去った。これ以上、話すことは何もないと背中で伝える歩みに、三、四年の部員たちの眦が僅かに上がる。
 睨めつける視線をものともせず、男はプールサイドを後にした。

 ──水泳は、孤独だ。

 水の中では常に一人で、誰の助けも得られない。ただ周りより速く泳いで、その先にある勝利だけが自身の満足を優しく抱いてくれる。充足感を得るのは勝利という麻薬だけで、努力という良薬は自分には苦すぎる。
 男は──金城楓は、自分のためだけに泳いだ。他者と協力し、掴み取る栄光に興味はない。弱者が群れるだけの競技を彼は好まない。
 誰に、何が起きても揺るがない精神力と他に比肩する者がいない速さがあれば、自分の勝利は盤石だ。温い水泳ごっこをする奴らに負けるわけがなかった。
「アイツ、生意気だよな」「おっかねえ」「調子乗ってんなよ」。
 どれだけ陰口を叩かれようと、圧倒的な速さで踏みつければ誰もが口を噤んだ。振り返ることのない自分に向けられた恨みがましい視線は背中で跳ね除けた。
 弱者に興味はない。群れる弱者に割く時間もありはしない。
 強くならないといけないのだ。自分は、強く、速くならないと。
 全てを、捨てたのだから──

《楓》

 ガンッ、とロッカーの扉が叩きつけられる。

「今さら、出てくんじゃねえよ」

 もう一度、ガンッ、と右手でロッカーを叩いて、彼は低い声音で吐き捨てた。
 自分は、捨てたのだ。
 誰かのためという想いも、相手も、全部、自分には必要ない。自分には不要だ。そうやって前だけをみて振り返らずにここまで来た。
 だから、今さらいらない。仲間も、応援する誰かも、金城楓に必要なかった。

     *

 厭世的に世の中を見ることが、大人だと思っていた時期があった。他人の行動の凡ゆる部分を否定してかかって、粗を探して食い付かれたら大勝利。ほらみろ、僕の言った通りだからムキになるんだ、とか言って。今思えばなんて幼稚だったんだろう。
 けれど、それが通用しなかったのが、白崎晶だった。

「桐嶋君の泳ぎは伸びやかだね」

 盛夏の日差しがコンクリートブロックを照りつける昼下がり、水面から顔を上げた郁弥に、一眼レフカメラを手にした彼女はプールサイドで涼しげにそう口にした。細い彼女の体躯には不釣り合いな、真っ黒で大きな、望遠が付いたカメラが陽を受けてギラリと光る。
 夏休みの練習にわざわざ来て、写真撮影をする物好きな彼女を一瞥して、郁弥は肩を竦めた。

「意味わかんない。というか、見て分かるの? 水泳したことないんでしょ?」

 若干、小馬鹿にしたように口元を歪める。自分でも思う、感じが悪い、と。旭には随分と注意されたが、もはや性分だ。相手の賛辞を素直に受け取れなくて、変化球で返してしまう。

「やったことないから、素人の感想だよ。桐嶋君は伸びやかで、椎名君は力強い、橘君はダイナミック、七瀬君は水と一緒に泳いでいるみたい。四人とも違っておもしろいね」

 けれど、白崎晶は郁弥の変化球を追いかけて取ってしまう。わあ、びっくりした、と言わんばかりに、きっちり捕球して返してくれる。

「……なんでそんなことを恥ずかしげもなく言えるの? 変なの」

 だから、調子が狂うのだ。
 不貞腐れたように口を尖らせた郁弥に、彼女はきょとんと目を丸くすると、次いで口元を緩める。

「ふふ」
「……なに?」
「んーん。昔、似たようなこと言われたの。馬鹿正直すぎる、て」

 水面を見つめていた彼女の瞳が、ふと一瞬、翳った。僅かに伏せたまつ毛から影が落ちて、目元を暗く染める。

「私ね、リレーを見るのが好き。一人だけじゃない、みんなの力がつながって、てっぺん目指すのが見ていてワクワクするの。写真は、チームで何かをすることはないから」

 だから憧れる、と。花開いたような笑顔を向ける彼女に先ほどの翳りはない。彼女を、馬鹿正直、と評した誰ぞやの言葉通り、純真さを感じさせる笑顔に郁弥は息を呑んで、そしてそっぽ向いた。「あっそ」と、一言置いて、直ぐに水に潜り、逃げるように壁をキックする。
 伸びやかな泳ぎ。それは、いったいどんな泳ぎだろうか。他人に言われても自分ではよく分からない。自分はただ、速く、誰よりも速く泳ぎたいだけで。
 けれど、そう評した彼女の言葉は、嫌いじゃなかった。


「──久しぶり、白崎さん」

 人の数もまばらになった客席で、真っ黒のミラーレスカメラの液晶画面を確認する後ろ姿に声を掛ければ、その肩がぴくりと震えた。振り返った相貌は、記憶の中より少しだけ大人びているけれど、虚をつかれて瞬く瞳も、次いでへらりと破顔する表情も、あの頃とちっとも変わっていない。

「久しぶり、桐嶋君」

 彼女は──白崎晶は、プールサイドで見せたあの笑顔を、数年越しに郁弥に向けた。
 大学選手権の全種目が終了し、遙や真琴、旭と別れて観客席へと戻り、チームメイトの姿を探していたら偶然見つけた背中。数年ぶりの再会だが、彼女は驚くことなく郁弥に微笑んだ。当然か、彼女は三人から話を聞いているし、なんなら日和とも顔見知りになったという。
 人が疎な観客席で、彼女は成果物のチェックをしていたらしい。「相変わらず写真好きだね」と、隣に座れば、彼女は恥ずかしげにはにかんだ。

「ハルとコンメ泳いだ時の桐嶋君の泳ぎを見たらね、嬉しくなって、たくさん撮っちゃった。やっぱり、桐嶋君の泳ぎは伸びやかで、見てて気持ち良いな、て」

 液晶画面に表示される、観客席から撮影された数々の写真。水を掻き分けて悠然と泳ぐ遙と、隣で競うように、ぴったりと同じ動きをする自分の姿に、郁弥は思わず頬を緩めた。
 郁弥の泳ぎを伸びやかだと評した彼女の言葉通り、確かに後半の写真の自分の泳ぎは、静止画でも水泳が好きだという思いが、吹っ切れた感情が伝わってくる。

「へえ、本当によく撮れてるね」

 ふと、二人の上に影がかかって。振り向けば、日和がまじまじと画面を覗き込んでいた。「おつかれ」と互いに声を掛け合い、今度は二人で彼女の撮影写真を眺める。たった一瞬、されど二度と来ることはない最高の一瞬を切り取る才覚はさすがだった。

「……え、これなに」

 ポチポチと、テンポ良く確認していく中、ふと目に入った写真に郁弥は眉根を寄せた。
 彼女はというと、丸い瞳をぱちぱちと瞬かせて小首を傾げる。

「リレー終わった直後の二人だけど?」
「いや、それは分かるよ。何でこんなものを撮ってるのか訊いてるの」

 瞳に映ったのは、リレー直後の自分と日和の姿。観客席からだが望遠で撮っているため、それなりに表情が見える。多幸感に満ちている、といった様相で日和と抱き合う自分に、一瞬で気恥ずかしさが沸点を振り切った。

「良い笑顔だったから、つい」
「消してよ。自分の顔って恥ずかしい」
「そう? すごく良い表情だけど」
「白崎さんだって、自分を撮られるのは恥ずかしいでしょ」

 ツン、と少しだけ拗ねた声音を出す。本気で嫌というわけではないが、諸手を挙げて喜ぶほど撮影されることに慣れているわけではない。

「……確かに、そうかもね」

 一瞬、彼女は目を丸くして、そうして苦笑した。ちょっとだけ伏せられた瞼が、目元に影をつくる。
 嗚呼、昔も見たことがあったっけ。
 いつか見た表情と重なって、それがいつのことだったかを思い出そうとした矢先。彼女は唐突に立ち上がると自分達に振り返った。

「二人とも並んで。記念撮影」
「え……え!?」
「ほら。大学生活初の公式大会の記録だよ? 写真の一枚や二枚あってもいいんじゃないかな?」

 ね、と。楽しげにカメラを構えられたら断るのも気が引けて。眉をハの字にした郁弥は助けを求めるように日和を見遣ったが、「良いんじゃない?」と逆に郁弥に肩を回してしまい、逃げられなくなる。
 笑って笑って、と構える彼女に、ぎこちなく笑みを作って、バシャリと数度、シャッター音が響いた。
 響いた音に、郁弥は再び思い出す。

「……なんだか、あの時もこんな感じで撮ってもらったね」
「え?」
「旭と真琴に無理矢理引っ張られて、四人で撮った時あったでしょ」

 懐かしい、と。口にすれば鮮明に脳裏に蘇る。中一の夏、煌めく日差しを受けて目一杯泳いだリレー、四人で紡いだ一夏の、思い出。忘れられない、忘れ去ろうとしても消えなかった、自分の中の大切な記憶。
 思い出して、図らずも頬が緩む。「うん、懐かしいね」と、彼女も微笑んだ。
 破顔した相貌は、やはり昔と変わっていない。真っ直ぐ人を見つめて、決して他人を軽んじない。一本の太い芯を持った、それでいて年相応の幼さもある女の子。

「……ねえ、白崎さん。その写真、俺に送ってよ」

 ふと、過去を追想する二人の間に日和の声が入り、意識は彼へと向かう。「え?」と小首を傾げた彼女に、日和はスマートフォンを取り出した。

「連絡先交換してくれない? で、写真を送ってほしい。郁弥にも後で送ってあげるね」
「あ、うん」
「え……でもなら桐嶋君の番号」
「いいから、ね?」

 ずい、と。スマホを差し出す日和の笑顔はどこか有無を言わせない圧があって、彼女は大人しくスマートフォンを取り出す。携帯端末同士を突き合わせてアドレスを登録し合い確認を終えると、日和は、「ありがと。じゃ、そろそろ行こうか」とバッグを持って立ち上がった。

「積もる話はあるだろうけど、部長たち呼んでるから。ほら、行くよ郁弥」
「え。わっ、ちょっと押さないでよ日和!」

 性急にぐいぐいと背中を押す日和にどこか違和感を抱きながら、けれど郁弥にそれを確認する余裕もなく。「またね」と手を振る彼女に、自分の手を振り返すことしかできなかった。

     *

「桐嶋君、昔のまんまだったなぁ」

 ベッドの上で一人、晶は仰向けになって感慨に浸った。
 遠野日和の妨害で会えなかった分、会うことそのものに多少の抵抗があったような三人も、会えば意外とすんなりしていた。昔のように会話をして笑い合って。
 もちろん、遙と泳いだ影響は多分にあるとは思う。遙と泳いだからこそ、以前のように会話ができたのは理解しつつ、けれど桐嶋郁弥の本質は晶には変わっていないように見えた。
 人は確かに、誰かのために自分を変化させることができる。けれど、その本質は変わらない。変わったと見えるなら、知らない面が見えただけ。

「……変わらない、か」

 ぽつりと呟いた独り言は、誰に聞かれるでもなく部屋の中に消えた。
 一人きりになると、つい考える時間が多くなってしまう。一人で黙考して、答えのない問題を延々と解くのだ。
 自分の中に色褪せることなく残る幼い日の記憶を思い出したかのように、晶はふと、起き上がってテーブルの上に置いてある手帳を手に取る。一番最後のページに挟み込んだ写真は、中学の時から手帳を替える度に、ずっとそこに挟んできた。
 そこにいるのは、少しブレているけど、けれど至極楽しげに笑う自分の姿。その時の光景を、晶は脳裏に浮かべる。
 あの時の自分の前には、笑っている彼がいた。
 水泳が好きで、仲間を信頼した彼が、確かにいた。
 自分に自信を持って、未来をきらきした目で見据えた彼が──

「ばかみたい」
 
 物思いに耽っていた思考に首を振る。
 いったいいつまで、自分は過去に囚われるのか。
 無意識に手帳を握りしめていたが、唐突に耳朶を打った電子音に指の力が緩んだ。
 ローテーブルに置いたスマートフォンの液晶画面をタップすれば、メッセージが一件。

「……遠野君?」

 思わぬ相手からの通知に眉を顰めたが、開いたメッセージの内容に、さらに晶は目を瞠った。


 東京に来てからというもの、人の波とか大学生活とか、とにかく日常に慣れることに精一杯で、ゆっくりどこかお気に入りの喫茶店でお茶を飲むとか、そんな都会の大学生らしいことは何一つしていなかった。暇があれば撮影のためにさまざまな場所に繰り出していたため、友人とゆっくりカフェで談笑、なんて晶にとっては初めての機会で。

「このドリンクが此処のお薦めだけど、どうする? なにか他に頼みたい物ある?」
「あ、いや……それでいい、です」
「そう? じゃ、俺はこっちにしようかな」

 すみません、と店員を呼び止める目の前の彼を見て、次いでくるりと辺りを見渡す。パソコンを持ち込んでコーヒー片手に仕事をするビジネスマン。自分と同い年くらいの女性二人。子連れのお母さん。木目調の室内に流れるのはヒーリングミュージック。長閑な一日を演出する街角のカフェは、晶にとってどこかそわそわとする空間だった。
 聞けば、彼、遠野日和の趣味はカフェ巡りならしい。オフの日には静かなカフェで本を読むのが至福だとか。なんとなく、一人が好きそうな彼の趣味としては、なるほど、と晶は妙に納得した。
 しかし、そんな彼と自分が今、そのお洒落なカフェにいるのは何とも奇妙な心地だった。

「この前の写真、ありがとう。ちゃんと郁弥にも送っといたよ」
「え……あ、あぁ。そっか。うん、どういたしまして」

 二人の記念写真やら、結局消さなかった写真やら、そして郁弥が遙に抱きついた写真やら、いろいろと送ったが全て本人にも送られたらしい。
 今度会う時、何か言われそうだな。
 苦笑した晶の前に、「お待たせしました」と店員がドリンクを持ってくる。カップの底の部分が七色に輝き、微炭酸がシュワシュワと気泡を作っていた。女性が好きそうな見た目だが、これが彼のお気に入りというのだから、もしかすると自分以上に女子力が高いのかもしれない。
「いただきます」とストローに口を付けて一口含めば、口一杯に甘酸っぱい味が広がる。フルーティでけれど甘すぎない絶妙な甘味に、思わず口許が緩んだ。「にやけすぎ」と鮮やかなライトグリーンのメロンソーダを飲んだ日和が苦笑する。
 側から見たら、大学生カップルのデートみたいなものだろう。「美味しいからいいの」と頬を膨らませて。
 けれど、口火を切ったのは、彼だった。

「聞きたいことがあるんだけどさ」

 カップルデートもどきのために、わざわざ彼が自分を呼び出すとは思わなかった。そんな仲でもない。

「白崎さんと金城は、どんな関係なの?」

 ああ、やっぱりその話か。
 すとん、と納得して、彼を見遣る。晶の視線を受けた彼はまっすぐ彼女を見つめていた。興味本位とか揶揄い半分とか、そんな邪推するような目ではない。
 だから、自然と話し始めた。

「……幼馴染、みたいな感じなのかな」

 視線を少しだけ外して、過去を追想する。蓋をしていた、懐古の念を覚える思い出が鮮やかに蘇る。

「小学生の時、家が近所なこともあってよく遊んでたの。引っ越ししたばかりの私に初めて話しかけてくれた同年代の子が楓で、そこから楓の水泳の練習を見に行くようになってね」

 あの頃は、何のしがらみもなかった。思春期特有の気恥ずかしさ、漠然とした焦燥、未来への不安。そんな煩わしい感情なんて何一つなくて、ただその時を、今を生きていた。
 幼い日々のきらきらした日常を話す。帰り道の撮影会、練習を飽きもせずに見に行った放課後、夕焼けに包まれて歩いた家路。
 そして、きらきら輝く日々の中で、彼の口からたびたび聞かれた、その名前のことも。

「遠野君のことも時々聞いてた。一緒に泳ぎたい相手がいるってずっと言ってたから、だから覚えてたんだ」

 目の前にいない好敵手を見据える力強い瞳が鮮明に思い出される。
 その瞳が目指す先を知ることはないまま時は過ぎて。けれど今、自分の目の前には彼がいる。
 外していた視線が自然と前を向いた。

「だから、遠野君の名前聞いた時にびっくりした。楓が泳ぎたいって言ってた相手は今も水泳を続けてるって分かって……それで居ても立っても居られなくなって、真琴との勝負に押しかけちゃった」

 ごめんね、と謝罪すれば、別に、と素っ気ない声が返ってくる。思案するように伏せられた彼の瞳は一体何を見ているのか。

「ねえ、私も聞いていい?」

 かつて彼が憧れた存在に、晶もまた尋ねる。「どうぞ」と、恬淡な声色に少し安心して、小さく胸に秘めていた疑問を投げ掛けた。

「遠野君にとって、楓はどんな存在?」

     *

 ひどく好戦的な双眸と、口を開けば他者への挑発が飛び出す性格は、はっきり言って日和の得意とする人種ではない。遠野日和は物静かで、オフの日には読書をするのが好きな落ち着いた人間だ。だから、郁弥のようにストイックに自分を追い込むが、他者との触れ合いを過度にしない人種を好む。

「へえ? 日和、タイム少し落ちたんじゃねーの?」

 そんな日和の前に、度々彼は現れた。苦手意識を持っていた日和にお構いなしに、彼は練習試合の度に日和の泳ぎを評してきた。
 だが、その評価やアドバイスが的確なところが、日和にとって痛いところだった。フォームの乱れを逐一指摘され、けれど改善点をセットで述べてくる。嫌味混じりだが、それでも最終的には日和の泳ぎを肯定するので、貶したいのか褒めたいのか、よく分からない相手だった。
 わざわざ他校の自分のところまで会いにくる妙な律儀さに、日和は肩を竦めた。

「少し調子が悪かっただけ。というか、他人に構う前に自分のチームの心配しなよ。君以外、僕にタイムは及んでいないでしょ」

 個人もリレーも、彼以外の選手は日和に比肩しない。郁弥は帰国したばかりで公式大会には出場していないが、参加すれば金城のタイムを抜いていくだろう。須田東は水泳の強豪校だが、頭ひとつ抜けているのは金城だけで、他は日和から言わせれば普通<激xルだった。

「弱え奴らに、構ってる暇なんてねえよ」

 呆れた調子で返した日和だったが、耳朶を打った声にぴくりと肩を揺らした。ひどく不快さを滲ませた声色に思わず彼を見遣る。
 煩わしい感情に苛立つような、その瞳。

「なに苛ついてるの?」
「あ?」
「……いや、なんでもない」

 横暴で他人を寄せ付けず、小馬鹿にするような態度を取る彼にしては随分と見ない顔だった。誰かに振り回されるタイプでもないだろうに、いったい何にそこまで苛立っているのか。
 疑問に思いながら、けれど尋ねるほど日和もお人好しではなく、結局、彼が抱いた疑問は解消されることはなかった。

 ──もしかしたら、なんて考えるのは野暮か。
 一年ほど前の記憶を振り返りながら、日和は目の前の彼女に向き合った。
 自分にとって、金城楓はどんな存在か。
 縋るような瞳に、少しだけ言葉が詰まる。
 ただの知り合い、と以前は返した。けれど、それでも敢えて彼女が尋ねたのはきっと、認めたくないからだ。そんなはずはない。きっと違う。──否、違ってほしい、と訴えるように、声が震えている。
 
「知り合い……てのは違うかな。まぁ、友達って括りだとは思うよ」

 だから、日和は逡巡して、結局少しだけその不安な気持ちに寄り添う形を取ってしまった。友達。その二文字に少しだけ居心地が悪くなった日和は視線を逸らす。

「僕の親は転勤族で、小学生の時も何回か転校してたんだ。金城と会ったのは五年生の時かな。地区予選の大会で話しかけられたけど、試合もあるから直ぐに別れてさ。その後も何度か会ってたけど、僕は中学からアメリカに移ったんだ」

 ふと、眉尻を下げて、苦笑を浮かべる。

「高校で再会したけどなんかやたら当たり強くてさ。突っ掛かってくるのが鬱陶しかったけど、でも分かりにくいアドバイスもしてくるから、何がしたいのかよく分からなかったんだよね」
「……そう、なんだ」
「他人を寄せ付けないというか、自分の強さ以外興味がない感じだったよ。だから、白崎さんの話を聞いて少し驚いてる。あいつにも可愛らしい時期があったんだね」

 一人、くっくと笑みを溢したけれど、目の前の彼女の相貌には影が落ちている。
 何か深く考え込むような顔に、日和は一つ瞑目して問いかけた。

「会いたくないの?」
「え」
「金城に」

 大きな目が見開かれる。瞠目して、言葉に詰まった彼女に日和は続けた。

「今度の日本選抜に金城も出る。会おうと思えば、会えるんじゃないの」
「それは、そう、だけど」
「気になるなら会えばいいでしょ。それとも、会えない理由でもあるの?」

 少しだけ意地悪だと思う。分かっているのだ。会いたくない、会えない理由があるから、過去の思い出しか彼女も話せないのだと。
 理解しながら尋ねる日和に、彼女はそれでも律儀に返す。

「……私は、会う理由がないから」
「昔の友達でしょ? 郁弥に会おうとした七瀬君達と何が違うの? 自分は駄目な理由がある?」
「それはっ! みんなは仲間、だから……」

 少しだけ語気を強めて、けれど日和と交錯した視線が罰が悪そうに下に落ちた。そのまま眉をハの字にして黙したと思えば、目の前の微炭酸のドリンクを口に含む。炭酸なんて抜け切って、美味しくないだろうそれを、所在なさげに口にして。

「白崎さんってさ、なんか人と、一線引いてるよね」

 ふと、その姿に本音が漏れた。ぱちりと、目を見開いた彼女を見据える。
 彼女のことを知悉しているわけではない。七瀬遙や橘真琴の方がもちろん、彼女との時間を長く過ごしている。だからこれは、日和の薄っぺらい所感に過ぎないかもしれない。
 
 けれど、どことなく似ている≠フだ。
 
「どういう意味?」と眉を顰めた彼女に「そのままの意味だよ」と肩を竦める。

「誰とでも話せるし感情的にもならないけど、自分は蚊帳の外、みたいに外から関係性を眺めてる感じがする。関係ない外野です、てアピールしてるみたい」

 かつて、イイ子でいようとして、他人との距離を置いてきた自分が、少しだけ重なった。
 害意を持って接する日和にさえ臆することなく話すほど懐の広い彼女だが、どこか、彼らの関係を外から眺めている。額縁の外から、絵画を眺めているような違和感を覚えていた。
 感情の制御というのは、一歩引いて、外から眺めているからできることだ。当事者となればなるほど、自分の感情に自分自身が振り回される。
 評した日和に、彼女はぱちぱちと瞬くと、呆然と呟いた。

「……驚いた。遠野君って、そういうことを人に言わないタイプだと思ってた」
「僕も君にいろいろと言われたからね。多少は言い返してもバチ当たらないでしょ」

 不満げな態度を隠しもせず、そっぽ向いてフンっと鼻を鳴らす。意趣返しでもないが、どこか見透かされてきた過去を振り払うように。
 けれど、そんな日和に彼女は唐突に吹き出すと、くすくすと笑みを溢した。

「……なに?」
「いや、ごめん。遠野君、ほんといい性格してて面白い」
「喧嘩売られてる?」
「褒めてるんだよ」

 似たような会話をした気がする。喧嘩を売ってるのかと思うような真っ直ぐな言葉に片眉を上げつつ、けれど彼女はからりと笑った。

「こんなにはっきりと言われたことなかったから、ちょっと驚いた。たぶん、ハルや真琴も思うところはあっても、そっとしておいてくれてたんだろうな、て」

 憂いを含んでいた表情が、晴れる。淡く微笑んだ相貌が、日和に向けられた。

「ありがと、遠野君。話を聞いてくれて」

 愁眉を開いた表情は、感情を糊塗した笑顔よりも晴れやかで。どこか胸がスッとした。
 ──まだ、どうして彼女が彼のことで思い悩むのかは分からない。
 けれど、一歩引いて、何も語らない彼女の解像度が、少しだけ上がった気がした。
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