額縁の中の絵画は、どこまでも手に届かない。
 その、どうしようもない感情を常に抱えて生きてきた。周りに溶け込めないわけではない。人と会話をして、話を合わせることはできる。
 それでも、自分は友人を、仲間を、どこか俯瞰して眺めている気がした。紡がれた関係性を理解しつつ、けれど自分は他所者であるという認識が纏わりつく。ファインダー越しに見える景色に自分はおらず、常にいるのは大切な誰か。そこに自分が入ることはない。
 そんな感覚を、まさか見透かされるとは塵ほども思わなかった。

 ──会いたくないの?

 的確に、急所を突く問いは、晶の心の底に隠していた感情を暴く。
 彼のことを訊きながら、彼のことを案じながら、自分は今、望んで彼に会う道を選択しようとしていなかった。幼い日のきらきらした日常に固執して、今の彼を見ようとしていない。
 何が、人は多面的、だ。見えていなかった面が見えただけ、だ。
 自分の方がよっぽど、一面しか見ようとしていないじゃないか。
 説教を垂れて、それでいて自分は逃げるなんて、そんな恥ずかしいことをしたくない。

 ──俺は、俺のために泳ぐ。他人なんて関係ない。

 だから、一歩進もうと思った。かつて、掛け違えたボタンが、どのような未来を紡いでいるのかを知りたかった。


 歓声が、興奮が、会場の熱気をつくる。大会新、という激烈な情報が、人々を熱狂の渦に巻き込む。
 けれどその中で、晶の心はひどく、騒ついていた。
 眼下で泳ぐ彼の姿は、かつての面影とはかけ離れていて、けれど電光掲示板に表示される事実は現実を正しく伝える。
 圧倒的泳ぎで自分の友人らを引き離し、あまつさえ彼らをまるで見下すかのように目を細めた、その相貌。過去に、独りぼっちの晶に自ら歩み寄り、心を包んだあの快活な笑顔は、そこにはなかった。

「──楓」

 紡いだ名前は、熱狂に掻き消される。
 握りしめたミラーレスカメラに、この日は一枚も、何も刻まれなかった。

     *

 晩夏が過ぎ、街を行き交う人の装いが秋めいてきた季節の大学の定番行事といえば、学祭だ。各大学が学生でつくる実行委を結成し、有名アーティストや芸人を招いて祭りを盛り上げる。
 日和の通う霜学は、毎年、ライバル校の燈鷹と合同で学祭を開催しており、例年、水泳部は名物の牡蠣入りお好み焼きと巨大たこ焼きを中心とした露店の数店舗を担当している。

「遠野君! こっちのボール混ぜてくれ!」
「はい! ……て、君は変な物をお客さんに渡さないの!」
「変な物じゃない、タカポンストラップだ」
「世間的にはそれを変な物って言うんだよ」

 何を言っているんだ、と額に手を遣りながら、日和は目の前でストラップを見せつける遙の手を取り、「ほら店番交代して料理番に戻るよ」と調理ブースへと誘導する。忙しなく材料をかき混ぜたり、鉄板で焼いていた水泳部員たちが、「やっと解放される」と汗を拭って持ち場を離れた。

「そういえば、橘君は呼ばなかったの? 姿見えないけど」

 小麦粉をボールに入れて、卵を二つ割り入れた日和が隣の遙に問い掛ける。
 オフの日はニコイチで外へ出歩くことが多い彼らだ。当然、学祭に来ているものと思っていたが。

「一人だと来づらいから、晶を連れてくると言っていた」
「……そう」

 思いがけない名前が彼の口から聞かれて、日和は少しばかり黙してから相槌を打った。
 脳裏に浮かんだのは、大歓声が響く会場内で、不安げにレーンを見つめる彼女。興奮の熱気に包まれる観客の中で、ぽつんと佇む侘しげな姿だった。

「──なぁ、晶は何かあったのか」

 瞼を僅かに伏せていた日和の目が、見開かれる。
 視線は、合わさずに、「なんで?」と逆に問い返せば、少しばかり逡巡するような間を開けて、遙は返した。

「何となく、日本選抜が終わった後に話しかけた時、なぜだか哀しそうだった。何かあったのかと思ったんだが」
「……君、割と人の感情に敏感だよね」

 乾いた笑いが漏れた。七瀬遙は澄ました顔をしているくせに、存外、人のことを気に掛けている。何も知らない彼に、心の奥底の罪悪感が刺激された。
 焚き付けたのは自分だった。会えないのかと尋ねて、そのまま会いに来ない性格でもないだろうと。
 ただ、彼女が見てきた金城楓の姿が、どれだけ彼女に影響を与えていたのかを、想像するべきだった。
 日本選抜の後、幾度か話す機会はあったが、日和は結局、彼女と彼の過去を深く聞けていない。大会を見にきていたことを指摘すれば「見られちゃってたかぁ」なんてはぐらかすから、いつもの嫌味混じりの言葉も出てこなかった。
 触れられたくない部分を暴かれる痛みは、よく知っている。

「きっと、僕らじゃどうしようもないことなんだよ」
「……そうか」
「意外とあっさりしてるね」
「俺に、何かを言える権利もないからな」
「権利?」

 ボールの中身をかき混ぜていた手が止まる。視線を向けたが、遙のそれとは交錯しない。

「昔、晶を突き放したことがある。俺を心配したあいつに、関係ない、と言い放った」

 淡々と、抑揚のない声音だが口調には後悔が滲み出ていた。
 郁弥と話したい、と日和に迫ったあの時と同じように。

「どれだけその後に関係を紡ぎ直しても、綻んだ事実は消えないんだ」

 だから、踏み込む権利もないと。向こうから話すまで口を出す立場ではない、と。
 存外、彼らは互いを舐め合うような関係ではなく、一定の距離を保っている──否、距離を置かれている、と言うのが適切か。

「ねえ、白崎さんってどんな感じだったの」

 ふと、湧出した疑問を口にすると、遙の視線が日和に移った。「どうした、急に」と目を丸くする遙に「別に。ちょっと聞いてみただけだよ」と戯けた調子で肩を竦める。事実だ。彼が知る白崎晶の輪郭に少しだけ興味が湧いた。それだけだ。
 唐突な日和の質問に、遙はぽつりぽつりと話し始めた。

「晶は、あまり他人に踏み込まない性格だった。必要以上に干渉しないし、関わらない。けど突き放すこともしないから、自然とあいつの周りには人が寄って行った」

 日和が知らない、彼女の姿。七瀬遙から見えた彼女の一面を聞く。中学、高校と歩んだ軌跡を、聞いて。

「自分のことを話そうともしなくて、思えばそれが心地よかったんだろうけど、ただ、そうだな」

 ぴたりと、彼のボールをかき混ぜる手が、止まった。

「たぶん、リレーにすごくこだわりがあるんだと、思う」
「リレー……?」
「誰かと一つの目標に向かう姿が好きだと、以前聞いたことがある。個人種目も好きだが、特にリレーを撮影する時は気合が入っていた」

 在りし日の思い出を追想する瞳が、細められた。
 
「時々、ひどく哀しそうに泳ぎを見つめるから、過去に何かあったことは分かる。けど、俺も真琴も深くは聞けてない。晶自身が話そうとしない限り、無理に聞くのもおかしな話だろ」
「……そうだね」

 彼の口から語られる白崎晶に、日和は自分が聞いた過去を照らし合わせた。
 積極的に他人に干渉せず、けれど自分にできる範囲で手を伸ばす。何かできないかと模索して、そして突き放されて、一歩引いて。他人と一線を引きながら、自分の立ち位置を確認する。
 臆病な子どものような──
 
「遠野は、どうしてあいつのことが気になるんだ」

 思惟に浸っていた脳にわずかな衝撃が加えられる。心臓がドキリと跳ねて、けれど悟られないように澄ました声で返した。

「気にしてるように見える?」
「しているから、訊いたんじゃないのか」
「……別に、そんなんじゃないよ」

 何を馬鹿な、と鼻で嗤って。
 けれど心の底から否定できない自分自身に、下唇をきつく噛んだ。

     *

 あいつの視線の先には、いつも強い奴がいた。羨望と期待の眼差しを向ける誰かがいて。
 そして、その視線が自分に向くことはないと、分かっていた。
 勝利への渇望、強者への反骨精神に支配されていなかった幼い時分に抱いていたのは、純粋な希望だった。もう一度、一緒に泳ぎたい。あわよくばリレーができればなんて素敵だろう。
 だから、再会した時の高揚は計り知れないものだった。ようやく会えた。一緒に泳げる。あの日、夕暮れ時に公園まで走った自分と心が重なって、思い切って話しかけた。

 ──けれど、あいつの目に、あの時の自分はいなかった。

 強い奴には、強い奴が必要だ。そして強い奴は、強いチームにしか入らない。上位の人間は同じレベルの人間達で切磋琢磨し、下位の人間は下からその勇姿を指を咥えて眺めるしかできない。
 だから、馴れ合いをやめた。
 高みを目指せば、いつかきっと──

『君じゃ、七瀬君には勝てない』

 だけど、障害はいつも目の前に立ち塞がる。
 桐嶋郁弥も、七瀬遙も敵ではない。馴れ合いを捨て、己の力一つで勝ち上がり、強者を喰ってきた自分こそ、強い奴の隣には相応しい。
 だから、黙らせた。圧倒的な泳ぎを見せつけた。他者を踏み潰すような荒々しい、暴力的なまでの泳ぎを以って他を下した。世界大会への切符を掴み、華々しい結果を残した。
 けれど、それでも──

「クソが」

 過去は、どこまでも追い縋る。
 視界を開いた先、天井を暫く眺めて、徐に手が胸元へ。冷たい感触を掌に閉じ込めて、視線はゆらりと自室の棚へと向けられた。
 数々の賞、トロフィー。栄光を飾った棚にはしかし、かつてのチームメイトの写真などはない。自身の結果だけを求めてきた金城楓という男の性状をよく表していた。
 その中で、唯一、異質さを放っている一つの写真に、視線が留まる。自分より十歳以上年上の親類と自分の写真。地元で開かれた大会に県外から駆け付けた彼と一緒に写ったそれは──

『笑って、楓』

 屈託ない笑顔で、小柄な体躯には不釣り合いなカメラを手にしたあいつ≠ェ撮った、一枚。
 水泳のことなんて分からないくせに、練習に付いてきて写真を撮って。けれど、時折不安そうに、迷惑じゃないかとこちらを伺って。自分の側にいつもいた、あいつ≠フ。

「っ、」

 上体を勢いよく起こし、深く息を吐く。錯綜する思考をクリアにするように、瞑目して深呼吸をした。
 過去の亡霊に囚われている暇はない。そんなものはとうに捨てた。強さだけが、自分が求める唯一無二のものだ。
 鬱屈した気分に嫌気が差して、服を着替えて外へと出る。快晴ではない、分厚い灰色に覆われた空は自分の心内を表しているようで気分が悪かった。

『七瀬君と泳げば分かるよ』

 反芻される言葉に奥歯を噛み締める。
 自分は、ずっと見てきた。あいつが誰を見ているのか、どこを見ているのかを知りながら、けれど一番高く正確にその泳ぎを評価してきた。事実、あいつは速くて、伸びやかな泳ぎをしていた。桐嶋郁弥に毒される前は、速くて、確かに憧れを抱いていた筈だ。

「──もう一度、見たい景色があるんだ」

 それでも、その視線は自分と交錯することはない。
 今日は合同の学祭だと知っていた。だからというわけではない。ただなんとなく足が向いて、そして再び顔を合わせた。
 いつも通り、軽口を叩きながらその泳ぎきちんと正確に評価した。事実を事実のまま、彼に伝えて。
 けれど返ってきたのは、理解が及ばない言葉だった。

 なんで、どうして。
 どうしてお前は、いつもそうやって。
 俺の知らない場所で──


「──ハル、遠野君。椎名君が追加の買い出しを……」


 新しいつながりを、見つけるんだ。

     *

 真琴に頼まれて合同学祭に来たものの、途中、学部の友人と鉢合わせて分かれたのが三十分ほど前。先に旭や郁弥、貴澄が受け持つ露店で、クレープ、という名の甘味の暴力に耐えた後のことだった。
 材料が足りなくなったと追加の買い出し部隊として遙と日和にお呼びがかかり、けれど店番で動けない三人に代わって、呼び出し係を買って出た。部員に聞いて、裏門にゴミ出しに行ったと判明し、小走りで要件を伝えに行った。
 それだけのはずだった。

 ──なんで。

 足が、自然と止まる、視線も、外すことは叶わなかった。三人の元に行こうとした両脚は、その場に張り付いたようにぴたりと動かなくなった。
 なんで、どうして。
 どうしてここに──彼がいるのか。

「晶?」

 掛けられた声に、大袈裟なほど肩が跳ねる。釘付けになった視線をぱっと外して、不審げに眉を顰める遙にへらりと笑った。

「あ、えっと、部長さん達が呼んでる。材料足りなくなったから買いに行ってほしいって」

 自然と視線が遙から、前にいる彼に、金城楓に移る。けれど、ばちん、と己のそれと彼の視線が交錯した瞬間、意識的に遙に視線を戻した。
 どうして。なんで。
 いや、それよりもどうしよう。
 この場から逃げ出したい。真琴と一緒に学内を回ろうか。

「ほら、さっさと行くよ」
「え、ちょ。遠野君?」
「押すな」
「あ、まって……」

 そんな晶の打算などお見通しといった風に、日和はズンズンと、彼らを回れ右させて背中を押した。
 待って、と腕を伸ばした晶は、しかし空を切る。あまりに素早い対応に一言も発せず、晶はその場を足速に離れた三つの背中を見送った。
 嘘、どうしよう。
 気まずい、どころの話ではない。強制的に作られた場に状況把握は追いつかない。
 それでも、脳裏を掠めた彼との幼い日の情景に、及び腰になっていた気持ちが少しだけ動いた。
 くるりと、恐る恐る振り返る。少しだけ視線を外しながら、近づいて、面を上げた。

「えっと、久しぶり」
「……おう」

 私のこと覚えてる?、と聞けば良かったか、と思いつつ、きちんと応えた彼に少しだけ胸を撫で下ろし、改めて、目の前の体躯を見つめた。
 背丈はゆうに自分を超えてて、百八十センチはあるだろうか。昔は大して変わらなかったのに、たった十年足らずで男の子ではなく男性へと成長している。精悍な顔つきは歳月を感じさせるが、猫のような釣り目も、色素が薄い髪の毛もあの頃と変わらない。

「元気だった?、て聞くのも野暮か。活躍してるね」
「……おう」
「すごいね。時代の寵児とか、未来のエースとか、いろいろ聞いたよ。あと、この前の大会もすごかった。日本記録を塗りかえて一位って凄い、ね……」

 言葉にして、けれど蘇ったあの日の彼の相貌に、声に翳りが混じる。他者を寄せ付けない泳ぎ、他者を軽んじる視線、絶対的な自負心の奥底に見えた、勝利への異様な渇望。
 誰かと、最高の景色を分かち合うあの日の面影は、どこにも無くて。

「お前、あいつらと知り合いなのか」

 ふと、向けられた問いに沈んでいた思考が浮上する。
 彼を見るが、視線は交錯しない。

「え、うん。引っ越したの岩鳶だったから、中学の時からハルや真琴とは一緒」
「へえ……なら、あいつらの泳ぎを見てきたわけか」

 呟かれた一言に、晶の心臓が僅かに弾んだ。
 別れてからの軌跡はお互い知らないから、だから問われたということは、少しは興味を持たれたということで。
 緊張が少しだけ解れ、晶は脳裏に甦る鮮やかな記憶を舌に乗せる。

「うん、高校まで一緒だったから、部活は違ったけど見学したりしてたよ」

 大切な仲間と過ごした記憶。寄り添って、ぶつかって、高め合った彼らの自由な泳ぎに思いを馳せて。

「ハルと真琴はずっと一緒に過ごしてきて、高校の時には一年下の後輩と四人でリレーをしてたの。二年の時にはいろいろあって別の高校の友達と泳いだんだけど、その時のリレーがすっごく素敵だったんだ。あ、写真も撮ってね! すごくいい表情撮れたんだよ! まるで、」
「仲良しこよしで楽しくやってたんだな」

 自らの思い出を紡いでいた刹那。
 冷や水を浴びせるような、嬉しい気持ちを切り伏せるような一言が、晶の言葉を遮った。
 上がったままの口角が、だんだんと下がる。

「……なに、それ」
「そのまんまの意味。良かったな、ぬるいお仲間とごっこ遊びができて」

 嘲笑混じりの声音で、金城は晶に続けた。

「甘っちょろい仲間意識持った奴らにお似合いだよ、お前。お仲間をせいぜい応援しとけ、どうせ意味ないけどな」

 相手を見下すように細められた瞳に、唖然としていた晶が我に帰る。

「……なんで、そんなこと言うの」

 かつての彼との思い出が、中高と友人らと見た最高の景色が、まるで何の価値もないように扱われたことが悲しくて。昂る感情のまま、半ば叫んだ。

「楓もリレー泳いでたじゃん! あんなに楽しそうに泳いで、みんなと笑ってたのに、なんで、なんで楓がそんなこと」
「分かった風な口、聞いてんじゃねえよ!」

 悲痛な叫びは、しかしより上をいく怒声に切り伏せられた。

「泳いだことも、競ったこともないお前が、俺の何を知ってんだよ! お前なんかに何が……っ、」

 言いさして、けれど口を噤む。罰が悪そうに顔を逸らした彼に、晶は何も返すことができなかった。
 激昂と共に吐き出された言葉は、きっと本心だ。
 ぶつけられた言葉達を晶は脳内で反芻する。明確な隔意、拒絶、知ったような口を聞くなと露わにされた怒りに、ずきんと、胸が痛んだ。
 自分が見てきた金城楓は、今の彼にとっては過去の残像過ぎないのかと。それが、ただ──

「っ、」

 ひどく、哀しくて。
 苦しい、いたいと、叫ぶ心を押さえつけて、全身を駆け巡る激情が、晶を駆り立てた。

「楓なんてっ、だいっきらい!」

 初めて明確な拒絶を示したことを後悔する間も無かった。
 気付いたら、晶は逃げるようにその場から走り去っていた。なんで、どうして。考えようとしても何もまとまらない。
 両目に貼った薄い皮膜が虹彩モニターを歪ませる。揺らぐ視界のせいで自分が一体どこにいるのか定かではなくて、けれど脳は、ひたすら両脚に走り続けろと指令を出した。
 現実から逃げるようにただ、無心で足を動かして。息が上がっても、鼻の奥にツンと痛みを感じても、ただただ走り続けた。どこへ行くでもないのに、それでもどこかへ逃げたかった。
 走って、逃げて、けれど──

「白崎さん!!」

 唐突に、自身の名前が聞こえた刹那、左手首が強い力で引っ張られた。

     *

 立ち聞きをするつもりはなかった。けれど結果的には、日和は自らの持ち場に帰らず、遙に仕事を押し付けて彼女と彼の元へと戻ってしまい、そして彼らの諍いを目にしてしまった。
 周りを俯瞰して、常に一歩引いて、声を荒げた姿なんて見たことのない彼女の声は悲壮に満ちていて。互いがすれ違い、理解が及ばず、そして放たれた金城からの拒絶に彼女は一瞬、身を竦ませた。
 弾かれたようにその場から逃げ出した彼女は、日和のことなど視界に入ってないように傍を通り抜けた。
 刹那、日和の目は彼女の目尻に光の粒を捉える。それが何かを判断した瞬間、彼女を追いかけるより先に脚は数メートル先の彼へ向かった。

「なんでっ、お前がそうなんだよ!」

 自分が耳にしてきた二人の思い出が思い起こされて。怒りのメーターが振り切れたまま、その胸倉を掴む。

「白崎さんがどれだけ! どれだけお前のことで悩んでいると思ってる!? お前を忘れずに、ずっとっ! なのに、お前はっ──」

 けれど、日和はその先を紡ぐことはできなかった。
 睨め付けた先、常に他者を軽んじていた金城楓の相貌が、そこにはなくて。口をついて出かけた怒声が喉奥に引っ込む。
 揺らぐ水晶体が彼の心を如実に表していた。日和が目の前にいるにも関わらず、日和が視界に入っていない。動揺の二文字を顔に貼り付けた、常の金城楓とは違う側面。日和が知らない金城の一面が、表情に表れている。
 なんで、お前がそんな顔をするんだよ。
 やりきれない感情が押し寄せて、息が詰まった。何かを言いたくても言えない。言う資格なんてないけれど、それでも彼女の横顔を脳裏に浮かべたら苛立ちは止まらなくて。
 結果、日和はそれ以上何も言うことができず、彼女が去った方向へ走った。見知らぬ土地で闇雲に走っていった彼女を探し回る。途中、怪訝な顔をした郁弥や旭と出くわしたから、彼女を見ていないかを聞いて、情報を集めて探し回って、そして見つけた。

「……遠野君?」

 学内と外を仕切るフェンスの近く、ひと気のないその場所で、彼女は丸い目を更に見開いて、日和を見つめた。どうしてここにいる、と言外に視線が伝える。
 ぱちりと瞼を一つ下ろせば目尻から一粒、雫が落ちた。胸元にシミを作ったそれに彼女はハッとして、慌てて右手で目元を拭う。

「ごめん、えっと……何でもないから」

 僅かに俯いて、数秒してから上げた面はひどく不恰好だった。無理矢理釣り上げた口の端が痛々しい。

「やっぱり久々に会うと他人みたいなものなんだよね。勝手に距離感間違えちゃったというか、なんか一人で思い出に浸ってた感じ。懐古厨ってやつかな。ほんと、笑っちゃうよね」

 なんとかして取り繕おうとする彼女に、何故だか苛立ちが募る。笑える状況じゃないことは明白なのに、無理に笑顔を作って相手を安心させようとする姿がかつての自分と重なった。
 悲しい感情を糊塗して、困ったように眉尻を下げられるのは、気分が悪い。
 なんで、そうやって笑うのか。
 なんで、誤魔化そうとするのか。

「遠野く、」

 ん、と。言い終わる前に掴んでいた腕を引く。
 自分でも驚くぐらい強引に、日和は彼女の体躯を腕の中に収めた。腹の底に渦巻く不快感を覆い隠すように、彼女の後頭部に手を当てて、自身の胸元に押し付ける。

「笑わなくていい」

 涙を笑顔の仮面で覆い隠した姿なんて、いらない。

「無理に笑う顔なんて、見たくない」

 ぴくりと、肩が震える。柔らかな彼女の髪が指先に絡まった。
 数秒後には啜り声が耳朶を打って、ごめん、と一言。
 嗚咽を内に閉じ込めながら、それでも日和の胸元にはじわりとシミが広がる。ごめん、ごめん、と譫言のように呟く彼女に、日和は何も答えずに回した腕に力を込めた。
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