20.広がる傷跡

名前、どうかした?と友達に言われた午後の講義。何?と問い返したら、上の空だったと言われた。事実、上の空だったから曖昧に笑ったら、悩みがあるなら言いなよ?て。優しさが身に染みる。
色々なことが一気にきて、何だか現実を直視できない日々が続いていた。日々の生活とリンクしない非現実のような現実。どちらも現実なのに、一方はどこか遠い世界のことのようだった。
あの日以来、刀剣達に会うことを私は避けた。理由なんて特にない、なんて言ったら怒られるだろうか、誰にとは明言できないけれど。
私はただ、何も考えたくなかった。
唐突な喪失、突きつけられた真実は私にとって重過ぎた。真実を知らされていなかった事実は刀剣破壊という事態に拍車を掛けた。
遡行軍が元は刀剣なら、その主は?亡くなったの?寝返ったの?
私が指示を出して、合戦場に赴いて、彼らが狩っていた遡行軍は、あの靄はだってーー

「ッ、ーー」

込み上げた気持ち悪さに、ごめん、と友人に断って教室を抜け出してトイレに駆け込む。ぐるぐると巡るのは何だ、後悔でもしているの?私。ううん、後悔なんかじゃない。後悔なんてしない。後悔するってことは、つまりそう、

「無駄死になんかじゃ、ない」

笑いかけてくれたあの無垢な姿に意味がない訳ない。あるじさま、と消え入りそうな声音で消えたあの子の面影に泥を塗るようなことをしたくない、しちゃいけない。
ちゃんとしなきゃ。ちゃんと役目を果たして、役目を与えて、こなさないと私がやってきた彼らがやってきたことが全部無意味だなんて思いたくない。
よし、と死にそうな顔の鏡に向かって気合いを入れる。キャパオーバーならキャパを増やせばいい。
講義に戻って、友人に一言謝って「ごめん、大丈夫」と笑いかける。丁度今日は、近代史の講義。先生がホワイトボードに歴史を書いていく軌跡を追っていると、目を疑う文字が飛び込んできた。

(なんで…?)

歴史通りの事、史実、過去の事実。それは、変わらない、ものの筈なのに、おかしいな、

「名前?」
「……ねぇ、あれ違わない?」
「え?」
「いや、あれ」
「何が?違うってどういう意味?」

どくんと心臓が鳴った。怪訝そうな友人の顔に冷や汗が垂れる。だって、どうして?

「江戸の大火…て、なに?」

記されていたのは、知らない歴史だった。先生の描く軌跡を呆然と見ながら思案する。
江戸城の無血開城により戦火を逃れた江戸城下。歴史の分岐点とも言えるその偉業は勝海舟、西郷隆盛などの偉人の手によって成し遂げられた。これは、中学生でも知っている歴史的事実のはず、なのに、ま江戸城無血開城なんて言葉は存在しないと、白板は無情に告げていた。

「なに言ってんの、名前。うちらの時のセンターでも出てたじゃん」
「……センター…?」
「一緒に話したじゃん。あの問題は簡単すぎ、てさ。答案確認したでしょ?忘れたの?」

忘れたの?呆れる友人に返す言葉が見つからない。だって忘れてない、忘れたんじゃない、知らないんだ。そんな事実なんて、私は知らない。知らない歴史、知らない過去、考えられる可能性はひとつしかなくて、それは私しか知り得ない可能性。やけに心臓の音が耳について離れない。分かってる、わかりたくない。冷や汗が止まらない。

(歴史が動いた)

文字通り、動いてしまった。どこでどうしてと思案しても仕方がないけれど確実に動いてしまっている。
江戸城が無血開城ではなく、戦火を交えて開城されたのならそこでどれだけの命が落ちた?どれだけの犠牲が出た?今私の目の前にある改変はホワイトボードの言葉だけ。
でも、明確に何か変わるとしたら、それはつまりー

「……あ」

嫌な予感がした。


ーー


「有島?」

誰、それ。一言、友人のその怪訝な顔に予感が的中したと分かった。サァ、と血の気が引き目の前の現実が信じられなくなる。
サークルの時間、いつもの教室、主要メンバーの顔触れをひとりふたり確認している中で異変は起きていた。ひとり、足りない。足りない人間が確かにいて、顔も名前も思い出せるのに、誰もその子のことを覚えていなかった。否、私だけが覚えている。覚えているのは私だけで、其処に彼女がいた事実も現実もなかった。まるで私だけが夢を見ていたかのように、彼女の存在そのものが消えていた。

(……なんで)

そんなの決まっているのに、立ち尽くす。
過程が変われば結果だって変わる。分かっているけど分かりたくない。だって、こんなの。
友人の心配そうな声が耳に届いてでも心には届かなくて、錯雑する感情が行き場をなくす。泣きたいような、叫びたいような、どうしようもない現実が痛かった。

江戸の大火。そんなものが本当に起きている世界なら必然的にそこにあるのは、死、だ。人が消えた、大勢消えた。その影響はどこにあるかといえば、この今、現代。
いなくなった、存在しなくなったということはつまりその消えた中にいたのだ。初めからそこには誰もいなかった事になる現実が物語るのは今に対する恐怖だった。
歴史が変わって、人の存在そのものがなかったことにされていて、更にそれに違和感を感じない人々。
私だってそこにいた。今まで私はそこにいた。教科書通りの歴史と認識できる人間関係すらもしかしたら幻かもしれないと気付いたら、もう何も考えることなんてできなかった。
心ここに在らずな状態の私は、ごめん、と一言告げると心の在り処へと走った。


「こんのすけ、出てきて」

息を切らして扉を開けた先、本丸の自室の真ん中でデータを開いていたこんのすけが私に振り向く。

「どうされましたか」

からりと何事もないような声音。その声音にすら私は噛み付く。

「歴史が変わったのに、随分と普通なんだ」

違う。こんな言い方しても意味がない。こんのすけが悪いわけではないのに、感情の読めない双眼がひどく煩わしくて。
どうすれば良かったの、どうすれば変わらなかったの。そんなの決まってる。あの黒い靄を払って、切って捨てて、それを繰り返せば良かったのだ。

成れ果てとなった、彼らをー

「……理解しておられるでしょう、審神者様」

こんのすけの正しい言葉が突き刺さる。顔を上げて何かを言い返そうとしても何も出てこない。
分かってる。私も、こんのすけも。

「これが現実です」
「……ッ。でも、こんなの…歴史がこんな簡単に」
「変わります。成れ果てが増えればそれだけ大きく歴史が動く可能性があります。改変された歴史に関わる人間が多いほど後の世の人間に影響が出ることは避けられません」

こんのすけの言葉が痛い。
改竄され、動き続けるものが歴史だったというのなら、そんなのー

「……遡行軍は、己が見てきた歴史を受け止めきれず思いが先行した結果、壊れたものたちです。そして彼らは思ってしまった。歴史は正さねばならないと」
「なら、歴史は今までも…」
「大局的にはさほど変わってはおりません、が在るべき人間の存在そのものがなくなったことは幾度もあります」

在るべき人間がいなくなっても、そもそもいなかった人間として扱われこの戦いの闇の中に埋もれてしまう。数多の人間がきっといたんだ。
こんのすけは話していてと顔色ひとつ変わらない。この子が淡々としているのは多分、今までもこんなことはいくらでもあった。他の審神者もそんなこと知っていてその上で戦ってるんだ。
残酷で、ひどい泥沼の戦い。

「歴史は人の手によって作られます。変えられた歴史は正さなければいけない。ーー彼らを討たねばいけません」
「……彼ら…」

時間遡行軍は落ちた刀の成れの果て。人型で心を持ったために行き着く可能性。

「審神者様」

歴史は彼らとの戦いによって作り変えられていく。人の手によって変えられ正されるというなら、でもー

「我らの使命は、歴史を守り後の世の犠牲を減らすところにあります」
「こんのすけ…」
「お考え下さい。貴方が為すべきことを貴方自身で」

笑い合っていた現実と今剣の泣きそうな顔が交錯する。こんのすけの言葉は的確で、突き刺さる。

ーー歴史を変えては何故いけないの?
ーー歴史は正さなければいけません。

想いも願いも心に痛くて、でも現実がなくなる無情も辛かった。
答えなんてひとつなのに、答えを出すことができない。

私は、

ーー何の為に戦える?