人は名前に特別な意味を授ける。長生き出来るように、心根が優しくなるように、正しい決断をするように、そこに込められるのは多種多様な願い。
人の想いが込められているからこそ、名前は個人とって唯一無二のものとなる。
しかしながら、それは対象が人である場合の話だ。
「林檎、蜜柑、梨、桃」
「……貴女にはセンスと言うものがないんですか」
「名前に意味はないと言ったのは三好さんですけれど」
「意味はなくとも限度があるでしょう…」
きょとんと小首を傾げた千歳に三好は頭を抱えた。
爽やかな晴天の下、千歳と三好は鳩舎の掃除に精を出していた。否、正確には精を出しているのは千歳だけだった。水や餌を入れ替え箒でゴミを掃き、てきぱきと仕事をこなす姿は流石日々雑務をこなすだけはあった。
そんな千歳と共にその任を与えられた三好は床を洗い流すための水をバケツに入れて運ぶと鳩舎の中に入ろうともせずに外からその姿を見守っていた。
「そこに立っているくらいなら中に戻られてはどうですか」
じとりと横目で彼を見遣った千歳に三好は涼し気な顔で宣う。
「一応仕事ですから、ここに居ないといけないんですよ」
三好の言葉に千歳は軽く肩を竦めると諦めたように掃除を再開した。
くるくると前髪を弄りながら、三好はその姿を観察する。
モンペ姿の彼女は大層珍しい。藍色と白地で菊があしらってあり、白い彼女の肌とよく合った。女性特有の艶やかな髪を1つに括り、うなじの見えるそこは薄っすらと汗ばんでいる。
普段は洋装か和服姿の彼女が汚れ仕事をする時だけ見せる庶民的な格好に、三好は少しばかりの優越感を感じていた。
滅多に見ることの出来ない姿を、目に焼き付ける。
「……どうして1人で不気味に笑われているんですか」
呆れ声を出しながら千歳が鳩舎から出てきた。三好の心臓が跳ね、僅かばかり動揺する。表情には出していなかったはずだ。
見開かれた目に気付いた千歳が眉尻を下げて苦笑する。
「三好さん、機嫌が良い時の顔は分かりやすいんですよ」
表情に出ていなくても雰囲気でわかります、と千歳は三好の持ってきたバケツの水を盛大に鳩舎の床にぶちまけた。
豪快なそのやり方に、文字通り、鳩は豆鉄砲を食ったように驚き、けたたましく羽音を鳴らした。
「あ」
「何をしているんですか貴女は…」
「やり過ぎました」
「まったく…」
僅かに眉尻を下げた千歳を見て三好は口元に笑みを浮かべた。
(随分と、貴女も分かりやすくなりましたよ)
そんな三好を他所に千歳は鳩舎に足を踏み入れると宥めるように数匹の後に話しかけ始めた。
笑みを浮かべていた三好は、その言葉に耳を疑うことになる。
「蜜柑、林檎、梨、桃。ごめん、落ち着いて」
それは鳩の名前なのかと三好は耳に入った信じられない名前に目を丸くして彼女を見つめた。
当の本人は、首を撫でられ落ち着いた様子の鳩に笑みを向けている。
これは自分に対する何かの暗号なのか、もはやそう思ってしまうほど彼は彼女の名付けのセンスに驚愕していた。
「千歳さん」
「はい?」
三好は鳩舎に入ると、腕に鳩を乗せてあやす千歳に問いかけた。
「それは、鳩の名前ですか?」
「そうですけど」
それが何か?と目を瞬かせる千歳に絶望に似た何かを三好は感じた。
(センスの欠片もない…)
そして今に至る。
「いいですか、幾ら名前というものが記号であり個人を呼称するための道具であるにしてもそこには名付ける個人の美的感覚が問われるわけで」
「人相手ならまだしも、この子たちは動物ですよ?」
「どちらだろうが関係ないでしょう…」
「美味しそうな名前だと愛着が湧くかもしれないじゃないですか」
「愛着が湧いても意味がないでしょう…」
「それもそうですね」
淡々と返す千歳に対して三好はぐったりとした様子で頭を抱えた。精神的な疲労がこの短時間に一気に彼を襲った。
名前というのはただの記号だ。個人を呼称する為の道具であり究極的には何であっても構わない。
いっそのこと数字記号の方が良かったのではないかと顔を歪めた三好に、千歳が珍しく拗ねた顔を見せた。
「なら、三好さんは何と名付けますか?」
彼女は、林檎、と呼んでいた鳩をずいと三好の前に差し出す。
三好はじっとその鳩を見つめた後、したり顔を浮かべて口を開いた。
「マリア」
「………」
「この首の曲線が他の鳥より美しいですからね、気性も荒くない。聖書では鳩はたびたび平和の象徴として描かれますし、これ以上の名はないでしょう」
どうだ?と流し目を彼が千歳に向ければ目が合った瞬間彼女は俯いた。
しかし直ぐに、その肩を震わせ堪えきれないように、
「ふ、ふふ、あははははは」
笑い始めた。
「鳩にっ、マリアって…三好さんらしいというか、でも、おかしっ、何ですかそれっ、ふふ」
三好はその姿に面食らった。
(こんな風に笑えるのか)
目の前で笑う彼女は、まるでその辺にいるただの女性だった。全ての物事を淡々とこなす彼女は、激情に駆られようとも、その心の内を曝け出すことも悟られることもない。感情に蓋をしてただ与えられた仕事をこなす、そんな彼女が任務でも訓練でもない、ただの日常会話でここまで笑ったのだ。
ぽかんと阿呆のように口を開けていた三好は、はっと我に返った。
「貴女のセンスない名前よりよほどマシでしょう」
「いいえ、これなら私の方が良いです」
「これだから美的感覚のないお嬢さんは」
「これだから気取っただけのお坊ちゃんは」
ジロリ、と反目し合う。2人揃って、らしくない無意味な応酬を繰り広げる。
その互いが一歩も譲らない何とも奇妙な空気を気の抜けた声が切り裂いた。
ーーニャー
ピクリと肩を震わせたのは三好だった。真後ろから聞こえた鳴き声に首を捻り視線を向ける。
「お前は…」
真っ黒なつぶらな瞳。しかし何処か強かさを備えた黒猫がいた。
一歩、三好は黒猫から遠ざかる。
「いけないっ」
その三好の脇を千歳がすり抜けた。
突然のことに身体が反応せず棒立ちになっていた三好の目の前で、千歳は鳩舎の外へ出ると勢いよく扉を閉め、鍵を掛けた。
流れるような動作に立ち竦んでいた三好が、弾かれたように扉を掴む。
(ちょっとまて!)
「な、何やってるんですか」
「この子よく鳩を狙って来るんです。開けてたら食べられちゃうので」
「ならそいつを何処かへやってさっさとこの扉を開けて下さい」
柵越しに焦ったように捲したてる三好を千歳は見遣る。
(っ、この人は……!)
三好はその表情に、やられた、と顔を歪めた。
くすりと、微笑を浮かべた少女がそこにいた。
「より多くの時間をその子たちと過ごせば、センスの良い三好さんですから素晴らしい名前を考案してもらえますよね?」
彼を見上げるその瞳には悪戯っ子の様な純真さが垣間見える。
「ただ見ているだけの掃除もつまらないでしょうから、後はお願いします」
そう言うと彼女は足元に擦り寄っていた黒猫を抱き抱えた。
まるで、仕返しだと言わんばかりの子どもじみた行動に三好は苦い顔をした。
(まったく)
呆れた様に三好は肩を竦めた。
しかし己の中に湧き上がる感情にも苦笑する。
三好は改めて、黒猫を抱きあやす彼女を見つめた。
(悪くない)
眼前で朗らかに笑む彼女をもう少し見ていよう。三好ではない誰かが囁いた。
ーーー
昼下がりの攻防
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