人には大なり小なり癖というものがある。
無論、此処D機関に身を置く人間ならばそんなものはあってないようなものだ。彼らはあらゆる人間の癖を理解し演技することができる。ついうっかり、自分の癖が出る、なんてことはない。
彼らは灰色の存在なのだ。彼らは何者にもなることができるが、何者にもならない。
初夏の訪れを告げる、7月上旬。昼夜の温度差がなくなり、過ごしやすい季節から、蒸し暑く夜も暑さの残る時期となりつつある。
そんなとある日の夜、洗い物を終え一仕事を終えた千歳は、読書に勤しんでいた。
グラスに半分ほど注がれた水をお供に、一定の時間にページを捲る音が耳に届く。
静かな夜だった。
ふと千歳は顔を上げた。静寂が支配していた建物に聞こえたのは、カタンカタンと近づいてくる靴音だ。随分と自己主張するように歩いてくると感じつつ、千歳は本に目を落とした。
同時に食堂の扉が開く。
千歳はちらりと目も遣らずに納得した。
(神永さんか)
近づいてくる足音、気配で予想の着くその姿に視線を遣る必要もない。
ペラリとページを捲ったその先を読む前に、目の前から本が消えた。
「辛気臭い本読んでるな」
「辛気臭い顔をした人に言われても」
同じ言葉を返せば、神永はじとりと千歳に視線を遣った。
「レ・ミゼラブル。誰もかれもが考えなしの物語だろ」
「一応根底には愛がある物語ですよ」
「変わらない誠実な愛だったっけ?」
馬鹿馬鹿しいと一蹴した神永を千歳は呆れた目で見つめた。たかが小説に何を求めているのかこの男はと。
神永はそんな千歳の視線にニヤリと笑みを浮かべた。
「なんだ、千歳はそういった愛を求めてんの?」
小馬鹿にしたような声音に千歳は眉一つ動かさずに目を細め、一つため息をついた。
下らない問いに答えない代わりに逆に問い返す。
「それで、誠実な愛を理解できない神永さんは女性を何人引っ掛けてきたんですか」
神永が手にした本を、同じようにひょいと掴んで座り直すと、再び視線を落とした。
ばれてたかと肩を竦める神永に目もくれず、黙々と読み進める。
神永は千歳の隣に腰掛けると、まるで武勇伝のように語り始めた。
「当たりから外れまで色々いたけど、やっぱ愛想の良い美人は最高だな。まぁ、最後は大ハズレだったけど」
「どんな方でしたか」
「妙にプライド高い奴。大した家でも学もねぇくせに、女性とは!、て語りだすんだぜ?」
馬鹿馬鹿しいと端整なその顔を歪める神永だが、そもそも引っ掛けたのはお前だろうと千歳は内心毒づいた。
「人数は」
「今日だけで、5、6か?」
「随分な愛ですね」
読み進めている、誠実な愛、の物語に彼が出てくれば読者からのクレームの嵐に晒されるだろうと内心苦笑した。
愛という感情は彼らには不必要だ。誠実という言葉も、自らの首を絞める狂気にしかならない。
D機関に在籍するものは、それらに価値を見出さない。そんな下らないものと道端の石ころのように、それらは彼らの心を掠めもしないのだ。
千歳は目線を、軽薄な言動を嬉々として語る神永に合わせた。
「嫌なことでもありましたか」
ぴしりと神永の顔が、笑顔のまま固まった。
自分は今至極楽しそうに女を引っ掛けたことを語っていたはずだと顔に出ているその姿に、小さく息を吐く。
――わかりやすい人
D機関に在籍する人間は、癖などいうものがないように見える。
しかし実際には、ないように演じているだけだ。人間である限り、感情や癖、など個人を形成せしめる諸要素は存在しないはずはない。
あの結城中佐でさえそれは存在する。
ただ人より少しばかり、隠すのが上手なだけだ。
千歳から見た神永という男は、軽薄そうな言動に似合わず面倒見の良い男だ。
機関員の仕切り役を買って出るのは、決まって彼か三好だが、三好は気障な皮肉屋を装っている風に見えて、任務に対して酷く真面目なため、意外と融通の利かない面がある。
普通の人間ならば気づかない些細な面だ。
対して神永は、軽薄そうな言動の中に他者に対する面倒見の良さを見て取れる。どの機関員相手でも、いつもの調子で、それこそ自分を曲げてでもフォローに回ることができるのだ。
そんな彼らを見てきた千歳が気づいた神永という男。
「波多野さんに柔術で負けた日、ゲームで皆さんに嵌められて有り金を巻き上げられた日、年下の田崎さんに目上の女性をとられた日」
「……お前よく知ってるな」
「そういう日は決まって、より多くの女性を引っ掛けるんですよ、神永さん」
「……よく見てるな」
「普通ですよ」
千歳は彼から目を逸らしさらりとページを撫ぜた。
小説の主人公、ジャンバルジャンは誠実な男だった。たった一度の過ちから更生し、正しさを信じて苦難を乗り越え、ただ一人の娘を愛し続けた。
考えなしなところも多くあるが、そこがひどく人間的なのだ。
根底にあるのは、神に誓った正しさなのかはたまた娘への愛なのか、ただ言えることは彼は彼の信じる者のために走り続けたということだ。
千歳にとって彼らもこの主人公と同じだった。ひどく人間的なのだ。
彼らもまた自分の信じる己の為に走り続けている。他者を拠り所としないため、バケモノ、と佐久間は呼んだが千歳はそうは思わなかった。
彼らは人だ。感情が、心がきちんとある。彼らに、癖など人間的な部分はあってないようなものだが、ないわけではない。
けれど、それすらカバーにしていくのだろう。
(あの主人公と同じだなんて言ったら怒りそう)
そう、内心苦笑する。
相変わらず表情を変えない千歳に、神永は一歩近づいた。
「ならさ、千歳が相手してくれる?」
さらりと髪が梳かれる。千歳が彼を見上げれば、不敵な笑みを浮かべた好青年がいた。
「嫌なことがあった日には、千歳が俺の愛を受け止めてくれるか」
そう言って、頬に触れかけた神永の手を千歳はとった。
片手で持っていた本をテーブルに置き、緩慢な動作で立ち上がる。手に取っていた神永の手を引いた。
「そんなの、貴方のプライドが許さないでしょう?」
神永の唇にそっと指を立て、見定めるような視線を投げかける。
神永はその姿に満足そうに口角を上げた。
「さぁ、どうかな?」
一歩下がり曖昧な返事を返す。
煙に巻くような雰囲気を纏う彼に千歳は口元に薄く笑みを作った。
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愛情談義
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