国破れて山河あり。復員列車の車窓から見える景色は、祖国の四季が如何に美しくそして尊ばれるものかを表していた。
頭を垂れる復員兵達の顔に生気はない。人の生気のなさと、生気に満ち溢れる雄大な自然の様は対照的だ。

佐久間は陰気臭い車内の空気に眉を顰めた。

ーー国が滅びたわけではないのだ。何を下を向くことがある。



昭和20年秋。佐久間は、満州から祖国へと帰還した。
彼は一個中隊の隊長として満州東部に位置する東安省鶏寧県で対ソ防衛の任に就いていた。
ソ連とは不可侵条約を結んでいる、侵攻はあり得ないと歌っていた軍部中枢の考えとは裏腹に、米国にこの国の統治を任せまいと、虎視眈々と利権を狙っていたかの国はあっさりとその条約を反故にした。
第5軍の下でソ連軍と交戦した佐久間だったが、現地に取り残された開拓団及び義勇軍の面々を援護しながら後退戦線を維持した。他軍と比べて被害が少なかったのは指揮官が有能だった賜物だろう。

しかしそれでも、少なからず犠牲は出たのだ。


佐久間は車窓越しに、視界いっぱいに広がる田園を眺めた。黄金の穂が風にたなびいている。それは揺れに合わせて煌びやかに色を放ち大地の息吹を感じさせた。
あの地に赴いた人間は皆、これを夢見ていたのだ。義勇軍の少年達も開拓団の家族らも、皆がその景色を夢見てそして突きつけられた、現実を。潰えた夢は幻と消え、残ったのは焦土と血と鉛の匂いだけだった。
誰もが絶望した、誰もが明日を諦めた。
しかし佐久間はそれを許されなかった。



『お前が率いて逃げ延びろ』



牡丹江省に取り残された無辜の民、その数は数千、数万、数えきれるものではなかった。どれ程の民が飢え、乾き、そしてこの先迎えるであろう凍てつく冬に耐えながら祖国の地を踏むことができるかなど分からない。
それでも、と佐久間に命は下された。

佐久間の率いる中隊を含めた幾つかの部隊は、ある時は満人の襲撃を避けある時は交戦しながら南下した。何度民草の命が大地に還ったか分からない。ただひたすらに前に進み続けたその先に、今があった。

舞鶴に寄港した復員船から列車へと乗り継ぎ今に至るまで、佐久間の頭の片隅には外地で共に戦った戦友と上官の面影がちらついていた。
戦線を後退しながら風の便りで届いたのは、この国が負けたとの報せだった。
敗残兵がどの様な処遇を下されるか、考えが至らないほど佐久間は愚かではない。苦い思いを抱きながら佐久間は此処まで帰り着いたのだ。


『もし、日本が戦争に負けたならばーー』


(あの言葉が現実となったな)


ふと、脳裏を過ぎったのはかつて自分が出入りしていた、奇妙な施設の住人達。恐ろしい程の自負心の塊、己の身を信奉する化物達。彼らが放った言葉はいつも奇天烈でそれでいて妙にストンと胸に落ちたのだ。
日本が戦争に負けたら、その言葉に当時は激昂しそして衝撃を受けたが、今となっては冷静に受け止めることが出来る。何せ、それが己が目の前に置かれた現実なのだから。

佐久間は不敵な笑みを浮かべる化物達に思いを馳せながら、その中で、異質さを放つ彼女を見つめた。
光を灯していなかった瞳に己を見ることが出来る様になってから、色を帯びていった彼女との最後の邂逅。


『終わりを迎えることを、当たり前と思わないで下さい』


舌に乗り紡がれた思いに苦笑したのを覚えている。ひどく真っ直ぐで強い意志の籠った言葉だった。

その言葉の通り佐久間が外地から帰郷出来たのは、その言の葉の所為か、



(或いは……)



ーーー


手紙が届いた。女は差出人が不明のそれを訝しみながらも手に取った。
手紙の中身を確認する。そこには達筆な字でただ一行だけ文章が綴ってあった。

女は眉間に彫られていた皺を緩め目を瞬かせた。そこに書いてある文章が真実かどうかも分からない、しかしその文は間違いなく暗雲立ち込めていた女の心に一筋の光をもたらした。

深く息を吸う。ゆっくりと早鐘を打つ心の臓を落ち着かせ女は文に再度視線を落とした。
真実かどうかは分からない。これが真実でなければ随分とタチの悪い悪戯だ。
しかし、それでも確かめなければいけない。

女は文を取る手に力を込めると前を向いた。



ーーーー



佐久間が品川に降り立ったのは陽が傾き茜色が空一面を覆っているそんな時間だった。雲一つない、この季節にしては珍しい空色だった。
復員列車は更に東へ向かう。汽笛の音と共に発車したそれを横目で見送り、佐久間は一歩踏み出した。
やけに己の軍靴の音が耳に響いた。喧騒が遠くに聞こえる。久方ぶりのこの地の感触を噛み締めながら、佐久間は一歩一歩進んだ。

歓喜の声が彼方此方で上がる。周りを見やれば、生気を失っていた筈の復員兵達はその顔をあの稲穂のように輝かせていた。
眉尻を下げ泣きじゃくる者がいた、静かに涙しながら我が子を抱き締める父がいた、其処には軍人としてではない、ひとりの人間としての男達がいた。生気を失っていた同じ顔の軍人達は、ひとりの人間としての生を取り戻したのだ。
国が滅びていれば、見ることのなかった光景だろう。佐久間は薄く口元を緩めた。

改札口から出ると空襲で被害を受けた爪痕は残りつつも、バラック小屋が散見され人の営みが戻りつつある現状を見ることができる。以前住んでいた時とは様変わりした景色に衝撃を受けつつ、しかし尚歩みを続ける民草の強かさに胸を打たれていた佐久間の耳に、



「佐久間さん」



届いたのは幻聴か。その声に惑った刹那、己が前に凛と佇む女が、彼女が現れた。茶がかった瞳と儚げな相貌が印象的なーー


「千歳……」
「はい、千歳です。お久しぶりです佐久間さん」


阿呆のようにぼそりとその名を呟けば、笑いを含みながら千歳は応えた。
幾分か年を重ねたことが分かる。少女のようだったその姿は、年頃の女性へと変わっていた。優婉に笑みを携えて彼女は佐久間と向き合った。

「8年、9年ですか。随分と長い間お会いしていませんでしたね」
「当たり前だろう。俺は」
「関東軍でしょう?知っていますよ」

さも当然と、さらりと流した千歳の言葉に佐久間は舌を巻いた。相変わらず、知らぬことなどない、と言わんばかりの情報網だ。
何処から仕入れていた、と口を開きかけた佐久間だが放たれようとした言葉を飲み込んだ。


『それを聞いて、貴様はどうする』


彼女の後ろに見えた幻影の凍てつく眼光が記憶を呼び起こす。何時か自分に向けられた言の葉だった。
あぁ、そうだと佐久間は思い直す。


(そんなことは問題じゃないな)


諦めたように彼女に笑みを向ければ、魔王の幻影は薄っすらと口元を歪めて消えていった。

「……昔のツテ、ですよ。」

佐久間の表情を確認した千歳は、何も問わない佐久間に答えると「行きましょう」とその手を取った。目を白黒させる彼に前へ進むよう促す。

「千歳、いったい」
「佐久間さん、覚えていますか」

振り向かず、進み続ける千歳は唐突にそう切り出した。


「君がため惜しからざりし命さえ長くもがなと思ひけるかな」


どくんと、佐久間の心臓が跳ねた。
澄んだ声音で届いたそれは、いく年か前、彼女から佐久間に送られた願いの歌だった。歌の意味を佐久間は忘れたわけではない。
千歳は佐久間を一瞥することなく、人の合間を縫っていく。

「あの時私は、この歌を佐久間さんに願いました。それで、貴方の生が続いていくようにと」
「千歳……」
「ねぇ、佐久間さん」

くるりと千歳が振り返った。
佐久間は、その相貌に息を飲む。

「これは私の思い違いかもしれない、勝手な推察かもしれない」

その言葉の意味はひどく曖昧で不完全で、一見無責任であるにも関わらず、


「けれど、私は」
「あの願いが、本当になったということを信じてやみません」


その言葉は、彼女の真の想いを表していた。
確信を持って放たれたその思いに佐久間は苦笑した。何処までも、彼女は化物になりきれない、しかし、それが彼女という人間の美しさなのだ。

佐久間は今一度、彼女に送られた歌を思い返した。

『君がため惜しからざりし命さえ長くもがなと思ひけるかな』


(逢瀬など遂げてはいないがな)


佐久間は思い返し苦笑する。
死ぬな、生きろ、殺すな。
D機関での教訓、そして目の前の彼女の言葉、それに加えて佐久間が帰郷することが出来た答え。それが叶うことはないだろうと、佐久間は考えていた。



「佐久間さん」



名を呼ばれ、佐久間は婉然と笑む千歳に視線を合わせた。

その先だった。



「……は、はは」



乾いた笑いが佐久間から漏れる。くしゃりと頭を抱えて尚笑い続ける佐久間のその声音に千歳の双眸が、慈愛に満ちたように細められた。


「こんなことがあると、誰が思うんだ…」
「佐久間さん」
「こんな、あり得ない現実があると…俺は、」
「佐久間さん」

千歳の言の葉に佐久間は面を上げた。
しかし、2人の視線は交錯しない。


「勘違いついでの、お節介なお膳立てです」


佐久間のその瞳に映るのは、彼女の先にいる、彼の願いその者だ。
胸が締め付けられる。稲穂のように嫋やかで、しかし今にも泣き出しそうに顔を歪める『彼女』に佐久間は堪えることは叶わなかった。

一歩、千歳が佐久間の隣を通り過ぎる。
それと同時に走り出したのは彼女だった。
地面に張り付いていた両足を、片足だけ動かした時には既にその身体は腕の中にあった。佐久間、と己が名を呼ぶその声音は間違いなく彼女だった。
佐久間は強く抱き締めてその温もりを感じた。己が名を呼ぶ彼女の声が心に染み渡る。
遂げることはないだろう。互いが内に秘めていた想いがあったと、佐久間はこの時漸く知った。


(敵わないな、本当に)


己が腕が包み込む温もりを感じながら、佐久間は、お節介、な彼女に思いを馳せた。





「幸せに、佐久間さん」

この先、彼に会うことはないだろう。
逢瀬を遂げた男女を遠目から見つめる女は、その光景に背を向け家路へと着いた。


―――


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