政治的事件を担当する検事は、終戦までは司法省に区分されていた。
司法は行政と分離した一組織であった。にも関わらず、時にはその干渉を受け、またあろうことか、その行政を陥れるためのでっち上げの事件を起こすなど、凡そその公平公明性とはかけ離れた組織と成り果てていた。
検察ファッショ、などと非難された時期もあったことから、GHQ、米国の統治下に入って以降、その体制の見直しは急務とされた。
司法の公平性を確保と行政との分離。資本主義圏の米国にとって、共産主義的思想の排除と流入の阻止の為には、この国の中枢部の立て直しが喫緊の課題であった。
「フランスですか?」
「このご時世にな、全くありがたいこった」
紫煙を漂わせながらそう吐き捨てた上司は、波多野に押し付けた紙束を一瞥した。
波多野は膨大と言えるその紙束を捲っていく。中には、日本語だけではない、英語フランス語で書かれた、司法、に関する用語が散見された。
その意義、成り立ち、組織概略、多岐に渡るその情報を一読すると波多野は顔を上げた。
「海外視察なんて今のこの状況で行くことが出来るものなんですね」
苦笑した波多野に上司は肩を竦める。
「上からのお達しだ。俺たちは新しく設置予定の機関に配置されることになるらしいからな。その先進の国に視察に行けとさ」
「それで、部長もですか」
「迷惑な話だが、言われちゃあ仕方ねぇ。ただ、俺も大して言葉が分かるわけじゃねぇしな」
成る程、と波多野は苦笑した上司を見て納得した。
D機関でのあらゆる知識はいつ何時、どのような時世でもやはり無駄にはならないらしい。
「出立は3週間後だ。あっちは寒いらしいからな、身支度はしとけよ?」
ぶっきらぼうに、しかし丁寧に其処まで気遣うこの上司のことを波多野は嫌ってはいない。実直な、言うなればそうー
(あのお堅い陸軍軍人みたいな人間だな)
今頃、あの強面を破顔させているのだろう。ちらりと彼に思いを馳せつつ、波多野は柔和な笑みを返して礼を述べた。
用は済んだと、振り返って退室しようとした彼に、更に声がかかった。
「あとひとつ、言い忘れた」
ーーー
「日本人に海外視察をさせるなんて、よっぽど焦りがあるんですね」
「骨子を学ばせつつ、肉を付けるつもりだろ。まぁ、今まで上が馬鹿と阿呆の塊だったからな」
「烏合の衆だったのは、軍部だけではありませんでしたから」
どうぞ、と置かれた白湯に口を付け喉を潤す。波多野は事の経緯を千歳に説明していた。
「海外渡航が制限されている今、行くことが出来るのは恵まれていますよ」
羨ましい限りです、と柔らかな笑みを浮かべた千歳は流しへと足を進め夕餉の洗い物を再開する。
現在米国の統治下にあるこの国では海外渡航は禁じられている。何れ文化交流、企業振興の為に解禁はされるであろうが、その先、一般人が自由に行き来するにはこの先何十年かかるか分からない。
その様な中で、視察、という名目は有りながらも渡航出来ることは奇跡的な確率であった。
波多野は千歳の言葉に、確かに、と頷く。
次期設置予定の新たな官庁。そこに勤務する中でも指折りの面々に選ばれたということを、この渡航は表していた。
「検察なんてこの国にはあってないようなものだったからな。お勉強は必要だろ」
波多野は鼻で笑った。無論、その役割も意義も知識も波多野という元化物が知らない筈はない。
だからこそ、ある程度、出来る、と思われている自分にお呼びがかかったのだ。
勿論、視察場所は司法関係の役所など限定的ではあるがそれでも今のこの国の現状を鑑みれば御の字である。
「フランス船籍での渡航…では随分とこちらを留守にされますね」
千歳の目が僅かに伏せられた。
彼が懐古の念を抱く国に赴くことが出来るのは喜ばしいことではある。しかしながら、共に過ごすことを当たり前として来た日々が短期間ではあるが変わってしまう。
以前までなら、たった数カ月など待つに入らなかったが今はひと月、1週間でも寂寥を覚えてしまう。
眉尻を下げた千歳の声音には、若干の侘しさが含まれていた。
「何言ってるんだよ」
ぽすりと千歳の頭に乗せられた波多野の掌。幼子をあやすようにくしゃりと撫でられた髪に千歳が目を白黒させる。
「何って……」
「留守にするのは俺だけじゃないぞ」
「え?」
「お前も行くんだよ、一緒に」
『一応、接待、てことで学会へ招待されたそうだ。きちんと嫁に言っとけ』
一番重要な事柄をぶっきらぼうにそう言われ波多野は思わず苦笑した。
ーーどんだけ駄々こねたんだよこの人
たかだか日本人、ましてや米国支配下の国。会議の規模に関わらず、夫人同伴がマナーと捉えられる様な場に招待されることはまずあり得ない。
考えられる可能性は、強面の癖に愛妻家として有名な彼だった。大方、視察への同行に首を縦に振らなかったのだろう。
学会の出席が、建前、なのは明白だった。
しかしながら、上司のその、強面ににつかわぬ我儘に波多野は心から頭を下げた。
沈黙が流れる。サァ、と夜風が格子から時を運び千歳は、はっ、と思い出したように口を開いた。
「え、どういう事ですか」
「どうもこうも、上からのお達しだ。学会の出席もあるからな。」
「学会…?そんなこと、あるんですか」
「あるから言ってるんだろ?」
信じられない、と呆然と独りごつ千歳は珍しい。
「3週間できっちり準備しろよ?」
ニヤリと口角を上げれば、事態を受け止め切った千歳が、阿呆のような表情から一転破顔した。
離れなくて良いのだと、その一点が千歳の心に青空をもたらした。
軽快なステップを踏むように声が弾む。
「久しぶり過ぎて、上手く話すことができるか不安です」
「抜かせ。訛りまで完璧だろうが」
彼女が魔王と共に欧州を駆けたことは聞き及んでいる。地方毎の訛りさえもあの魔王は彼女に叩き込んだのだ。
肩を竦めた波多野に千歳は、口角を上げた。
「あら、うっかり記憶喪失になったら分かりませんよ」
千歳の口から飛び出した思わぬ発言に、波多野はピシリと固まる。黒く塗り潰された魔王の面影が脳裏を掠めた。
やられた。逐一、状況全てを報告されてたのかと、苦い思いを抱いた彼を見透かしたかのように、軽やかな声音が響いた。
「誤算の範囲内、でしょう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべた千歳の後ろで、魔王が可笑しそうに口元を歪めた。
―――
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