毒林檎を食べた白雪姫は王子の口付けで目覚めた。閉じ込められたシンデレラは魔法使い達の助けで王子と結ばれた。呪いで眠ってしまった眠り姫も、やはり王子の手で救い出される。
寓話で好まれるのは、真っ白な女性だ。彼女達は純白の心を纏い決して妬まず驕らず求めず、だからこそ王子の心を射止めて結ばれる。
誰もその他の女に見向きはしない。
妬んだ魔女も、卑しい姑も、驕った姉妹も皆誰の目にも留まらない。それらは、悪の化身として物語のスパイスとなるだけだ。誰も彼女達の背景に心を砕くことはない。
求められる女性は常に純白なのだ。
そして、そこに自分が当て嵌まることは決してない。
千歳は己の身を顧み、汚れた身体に自嘲した。まとう衣装をどれだけ真白に染め重ね合わせても剥いでいけば見えて来るのはどす黒い自身だった。
欲しい欲しい。浅ましい欲望が全身を支配する。
その時間を、想いを、何処までも手を伸ばす己を千歳は無自覚に認識はしていたのだ。意識の最下層に置いた童のような欲求は千歳に笑いかける。
これは、違う。
これは、しまい込むべき忌子だ。
曝け出してしまってはいけない強欲だ。
大丈夫です、と笑んだ先、アランの表情が歪んだ。
仮面を見破られていても構わない。ただ、醜い己を覆い隠すことができればそれで良いのだ。
今自分の顔には何が貼り付いているだろうか。ぼんやりと千歳は他人事のように考えた。
「千歳さ、」
「何やってんだ」
空気が張りつめた。
ひどく腹の底から苛立ったそんな声音に千歳とアランは背筋を震わせた。ピンと張りつめた空気は穏やかな空間を押し退け、息の詰まる空気に支配された場に彼は現れた。
革靴を鳴らして近づく一等重い気配。これはいけないと警報が鳴り響くにも関わらず千歳の足は彼女をそこに縫い付けた。
「波多野さん…」
「もう直ぐお開きだ、戻るぞ」
「あ、」
彼にしては粗野な動作だった。溢れる鬱屈した思いを体現するように千歳の手首を掴み強く握りしめてその身体を引いて行く。思わず前のめりになりながら彼に半ば強引に千歳は連れられた。
彼が放つ苛立ちに言葉を発することは憚られた。
ぎちりと音がしそうなほどの力に千歳の顔が歪む。
「いっ、」
「待ってくれ、シマノ!」
「え」
ーーーシマノ?
聞くはずのない名前がアランから漏れた。シマノ、島野亮祐。確かに波多野が被った仮面の名前だ。
しかし、彼から漏れるはずがない名前だった。
瞠目した千歳が波多野を見遣る。視線の先の彼は苦虫を噛み潰した様な面持ちを浮かべたが、流石元D機関の一員だ、波紋が浮かんだその表層を一瞬で鎮めた。
「アランさん」
彼は向き直ることはせず、背越しにアランに言い放った。
「シマノ、とは誰のことでしょうか」
ひどく低く秘めた憤怒の炎を理性で鎮めているそんな声音。見える波多野の横顔は恐ろしいほど淡白でしかしながら瞳に灯る怒気に千歳は口を開くことを許されはしなかった。
しんと沈黙が流れる。
「……すみませんでした、ミスターハタノ。知人と呼び違えた様です」
それを破ったのは、アランの押し黙るような声だった。 有無を言わさぬ波多野の声音にそれ以上の言葉の応酬は断ち切られた。
では、と波多野が足を進める。拳を握り締め顔を歪めるアランの苦渋に満ちたまなこに後ろ髪を引かれながら千歳は波多野と雑踏へと戻っていった。
ーーー
万事上手く行くなんてことはD機関に居た時代からさしてあることではなかった。物事は盤上の駒のようにはいかない。常に横槍が入り、誤算が生じしかしそれすら組み込んで駒を進めていかなければいけない。
紆余曲折しながらも結果を導き出すことに関しては波多野も、そして他の機関員も遜色なくこなすことはできていた。
それを思えば、千歳と過ごして来た日々は些か出来すぎていた。
あの頃のように長期に渡り離れることはない。勤めが遅くなろうとも帰る場所があり待つ相手が居る。木造平屋建ての住宅の扉を潜れば、ヒビ割れた壁と裸電球が揺れる寂れた宿舎ではなく、人の温もりがあった。
随分と、人間らしくなったのだ。
だからこそ、なのか心の機微に鈍感になっていたのかもしれない。
ーーーあの時
「彼女は、」
神妙な面持ちで口を開いたアランはしかし直ぐにそれを噤んだ。訝しむ波多野が、何だよ、と先を促してもアランは噤んだ口を開こうとはせず、代わりに一段重い空気と沈黙が返された。
波多野の知るアラン・レルニエは明朗快活な好青年だった。実直を絵に描いたような人柄はその相貌に現れ出ていて、歯切れの良い言葉と裏のない表情で常に前を向いていた。祖国を憂いていたにも関わらず、彼という個人には悲嘆も悲哀も見当たらない。其処にあったのはただ明日へと地に足をつけて進み続ける太陽のような存在だった。
羨望の眼差しを向けていなかったと言えば嘘になる。
波多野にとって国とはただのシステムだ。祖国を憂うなどという瑣末な感情に左右されるなど愚の骨頂でしかない。全ては己の矜持を保ち続けるためのツールでしかない。
しかし、そんな波多野が羨望するほど彼は燦然と輝いていた。
厭世的に斜に構えて世の中を見ていた、大衆を欺く指導者も右に倣えの民衆にも倦んでいた。
たいそう飽いていたのだ波多野は、人間という存在に。
アラン・レルニエは人間を信じていたのかもしれない。波多野が諦め、手放したものを彼は信じていたのかもしれない。
対照的なアランという存在に波多野は一筋の光を見出してしまった。
そして信じるというアランのそれは、何にも変えがたい彼の強みとなっていた。人を真摯に見てきたからこそ、そして痛みを知ったからこそ、彼はその心を読み解くのに長けているのだ。
波多野は彼に遣っていた視線を離した。
(……気に入らない)
彼もそして自分も。
愚かしいほど澄んでいて実直なこの男も、その男に見透かされてしまう己も気に入らなかった。
そして、ーー
『波多野さん』
己が袖を引き、愁眉に染めた面を向けた彼女が見えた気がした。
「なぁ、ハタノ」
渋面を露わにしていた波多野にアランがぼそりと呟いた。
「難しいと思わないか、感情というのは」
「……何言ってんだよ」
じとりと視線を向けた波多野に、アランは苦笑した。
「目に見えないようで、でもそれは確かに其処にあるものだ。だからこそ見落として、時に踏み潰してしまってそれに気づかずに忘れてしまう」
自嘲に歪んだ口元が彼の心中を物語っていた。
「悲しいとは思わないか」
『大切にしてやれよ』
数時間前の宮永の言葉が思い出される。波多野は苦虫を噛み潰したように歪んだ顔をうつむかせた。
渦巻く黒煙が全身に行き渡る。理解していても納得し難い感情だ。
つぶさに見てきたのは自分の筈だった。その感情は己が分かっている筈だった。
よっぽど、他人の方が見えているではないか。
感情に蓋をすることに躊躇しない互いの心をこうも読み解かれている。その事実が波多野に与えたのは納得し難い感情。
妬み嫉みなど浅はかな感情だ。
それは、屈辱的だった。
ーーー
「何を話していた」
渦巻く感情の処理の仕方を波多野は知らない。
足早に会場を後にし、ホテルの自室へと戻った波多野は千歳を壁へと縫い付けた。
アランと話していた彼女を見つけその優婉な相貌に己が心はちくりと針を刺されたようだった。悩ましげに伏せられた瞳と哀愁漂う頼りない笑みが何より胸に刺さった。
決して彼女は己に弱さは見せない。愁眉に染まる相貌も、不安に揺れる瞳も常にそれは波多野を案じて彼に向けられる感情だった。
彼女自身が抱く負の感情と渦巻く痛みは決して波多野に見せられない。
常に見てきたのは、真白で透明な感情だった。
(ガキか俺は)
つまらない瑣末な、それは明らかな妬みだった。
理解しているようで理解していない、彼女のその心の奥底にある鈍色の感情を知りたかった。
「何も…話していません」
千歳が僅かに震える声音で答えた。
「波多野さんのことも何も、D機関のことも話していません」
「そういうことじゃない」
「なら、何を聞きたいんですか」
訝しむ瞳が波多野を射抜く。
「貴方が危惧するようなことは何も起きていません」
そう言った彼女の相貌は、D機関にいた時のそれだった。不測の事態に陥ってはいない。何も知られてはいない。
違う、と波多野は唇を噛みしめる。
「そんなことを聞きたいんじゃない」
「ならっ」
「何を話していたか、だ。随分と話し込んでいたろ」
「……何でもないんです」
「千歳」
「波多野さんにはっ、」
ーー関係ありませんから。
隠される鈍色と遠ざかる彼女に、波多野の矜持が刃を向けた。
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