「僕は祖国と友のためなら死ぬことを厭わない」

傍に立つ青年から発せられた言葉にドクンと波多野の心の臓が脈打った。走馬灯の様に走ってきた記憶に現在の彼が追いつき重なる。やはり彼は、アラン・レルニエなのだ。

「かつて、私が会った日本人の『友人』に言った言葉です」

アラン・レルニエは過去を追想する様に目を細めた。人の良さそうな相貌、しかし力強い瞳はかつて祖国解放のために奔走した彼と寸分も違わない。波多野が一瞬でも憧憬した彼は、やはり変わっていない。




楽しんでおられますか、と気まずい空気が流れていた2人の間に入ったのは、アランだった。
明朗な声が2人に届いた瞬間、パッ、と波多野の腕を千歳は離した。朗らかに笑む好青年に眼差しを向け、ちらりと波多野へ視線を走らせる。
視線が合わさる前に、再びアランに向けられた相貌は外行の顔となっていた。
止める間もなかった。ごゆっくり、と表面を繕い千歳はその場を離れた。
人の合間を縫ったその小柄な身体は、あっという間に人混みに飲まれて行った。

気を利かせたのか、居た堪れなくなったのかは分からない。御伽噺の妖精の如く、人間に見つかった途端に鮮やかにまるで其処に居なかったかのように彼女は消えていった。
残ったのは、頭を抱えた波多野と気まずそうな様子のアランだった。

「すみません…邪魔をしてしまったみたいで」
「いや、気にしないで下さい。彼女も私と2人きりより羽を伸ばしたいでしょう」

謝罪するアランに人の良い笑みを投げかける。今アラン・レルニエはフランスの外交官補佐だ。彼は、レジスタンスのリーダーであったアラン・レルニエではない。あの時、島野亮祐として出会った彼ではなく、また波多野も今島野亮祐ではない。
なんとも奇妙な感覚だと苦笑した。出会い、拳を交わし別れた仲だというのに自分達は今、初対面の人間として接している。
仮面を深く被り島野であった頃の波多野は闇へと沈んだ。彼の目に映る波多野は、島野の面影を見ることはない。



見ることはないはずだった。



「ひとつ質問してもいいですか」

千歳が逃げた方向に視線を向けながらアラン・レルニエは徐に訪ねた。

「彼女は貴方にとって何なのでしょうか、ミスターハタノ、いや」


「ミスターシマノ、の方がしっくりくるかな」



屈託無く笑うアランに波多野の貼りついていた笑みがピシリと固まった。仮面にヒビが入る。

しかし、逡巡したのはほんの一時だった。
貼り付けていた笑みを解き、波多野は挑戦的な瞳を彼に送った。

「いつから気付いていた?」
「最初会った時、直感じみたものがあったのさ。確かに服装も、髪型も、雰囲気も違うけれど、あぁシマノだ、て思ったんだよ」
「なんだよ、それ」

直感。そんな不確かな感覚によって自分を見破られたのかと思うと些か忸怩たる思いが芽生える。

「シマノじゃなくてハタノなんだな、君は」

ぼそりと呟かれた言葉にはえも言えぬ重みがあった。
あの日あの時、別れ際に交わした拳と互いの名前に嘘偽りはないと彼は信じていたのかもしれない。確かに波多野はあの時、島野亮祐、として仮面を被っていた。深々と被ったそれを引き剥がすことは決してなかった。

そうで在らなければいけなかった。

しかし、名前という個人を識別するためのただの呼称に対してそれ以上の価値を見出してはいなかった波多野が、紡がれた偽名を空虚に感じ交わした拳に侘しさを覚えたのも紛れも無い事実だった。


「……波多野亮祐。それが名前だ」
「今の、かい?」
「過去も今もないさ」
「はは、やっぱり君は君なんだな」
「どういうことだ?」
「相変わらず、とても興味深い日本人、てことだよ」
「なんだよそれ」

眉を顰めた波多野にアランは、そのままの意味さ、と手にしたワインに口付ける。この男は単純で分かりやすく、心の奥底まで見通せるような純真さがある。そう感じていた己の認識を波多野は修正した。

「なぁ、ハタノさっきの質問だ」

アランの瞳が波多野を見据えた。

「彼女は君のなんなんだい?」

見定めるような視線。ただの問いかけのはずがそれは含みを持たせていて、波多野はその声音に思わず言葉を濁す。

「ここに一緒にいる、そういうことだ」
「つまり?」

深淵を覗き込まれる居心地の悪さに目を逸らし、

「俺の嫁」

短く低く細い声音で波多野は答えた。
分かり切っていた答えというのに、そうか、とアランは千歳が逃げた方向を向いて目を細めた。その眼差しに映る心情が読めずに波多野は訝しむ。
無色透明で心のありようが手に取るようにわかっていた筈のかの男の奥底が読めない。

「なんなんだよ」

勃然とした面持ちで睨みを効かせれば、ハタノ、とやけに深妙な声が彼から漏れた。

「彼女は、ーーー」



ーーーー



夫婦とはどのようなものなのだろう。千歳は会場で歓談する列席者の合間を縫いながらぼんやりと思案した。
誰もが夫に寄り添い、妻としての矜持を保ちながら凛としている。傍に立つ夫もさり気なく妻に気配りする様が散見された。
カバーならば、いとも簡単にこなすだろう。D機関が畳まれた今でも千歳の化け物たる技能は衰えてはいない。


陰鬱な面持ちの彼に底知れぬ不安を感じて思わず手を伸ばした。掴まれた腕を振り払うことはせず、しかし彼は何も言わず代わりに掛けられたのは低く邪険する言葉だった、何でもない、と。
彼の機嫌を損ねたのは自身が先にその言葉を彼に投げたからだった。
何でもない、関係ない、即ち

『貴方の知るところではない』

決してそんな意味を込めていないにも関わらず、その言葉は常に2人の間に壁を作った。
大したことではない、何でもない。

アラン・レルニエが現れた時、千歳咄嗟に彼を掴んでいた腕を離した。
何でもないと突き離された想いと、アラン・レルニエという旧懐の友との再会を天秤にかければ傾く前に取る行動は決まっていた。

思い合うだけでは夫婦と言えないなら何が夫婦となる鍵になるのだろう。戸籍上は一緒だ、想いを寄せているのは厳然たる事実だ、しかし共に生きると誓ったあの日からずっと千歳の心を蝕む黒煙があった。

パーティホールを逃げる様に後にし、千歳はベンチに腰掛けた。何も喉を通らない。絡みつく鬱屈とした思いが胸を締め付ける。

彼と過ごして一年余り。共に過ごしてきた日々は千歳とって尊く鮮やかな色彩を放っていた。
傍に立つだけで、彼を愛することが出来るだけでそれだけで至上の幸福なのだ。想いを殺し双方向の感情の糸を燃やしてしまったあの時に比べて、彼への情動を伝えることを『許される』この今は人としての生の中で一等の幸福なのだろう。

(なのに)

何処までも、人間とは欲深い。
何でもない、関係ない。その言葉が交わされるたびに断絶する想い。
そしてその度に彼女の中の欲望がニタリと笑った。



「千歳さん」

思考の波に飲まれていた中、名を呼ばれた千歳は気難しくしていた顔を瞬時に切り替えた。朗らかな笑みを貼り付けて相手を向く。

「アランさん」
「どうかされましたか?」
「いえ、少し人混みに酔ってしまったのでこうして休憩させて頂いてたんです」

申し訳なさそうに眉尻を下げれば、何を思ったのかアランは温色を携えながら千歳の隣に座った。

「アランさん…?」
「僕も疲れてしまったのでご一緒させて頂いても宜しいですか?」

苦笑するアランに千歳は目を瞬かせたが、すぐに、どうぞ、と身体をずらして席を作る。
2人きりの閉鎖空間で沈黙を続けるのはよろしくはない。さて、何の話題を振ればいいのかと思案した千歳に先に口を開いたのはアランだった。

「人混みにいるとどうも考え事をしてしまいますね」

交錯した視線に息を飲んだ。

表情に出さないなど以前の千歳なら容易だった。何が起きても能面を貼り付けてケースにあった表層に入れ替える。それは、D機関にいるものならばすべからく可能な、もはや呼吸に等しい行為。
しかしながら、含みをもたせたアランの声音と眼差しに僅かな動揺の色を浮かべてしまった。
実直な人間ほど人の想いに敏感なものだ。そしてその真っ直ぐな瞳というのは何にも勝る武器になる。
かつて波多野が僅かながらも彼に魅入ったその理由を千歳は理解できたような気がした。


あぁ矢張り彼は、と千歳はひとつ目を伏せ、次に浮かべたのは、余所行きではない『千歳』の笑み。

「本当に…余計なことを沢山考えてしまいます」

吐かれた言葉に想いが載せられる。
すみません、と前置いたアランが続けた。

「彼と貴女が離れた時、貴女の背がひどく佗しげに見えたので少し気になったんです」
「……アランさんはよく気がつかれる方ですね」
「そんなことないですよ。僕も人の心に気付かずに過ちを犯してしまったことはありました」

哀愁漂う視線に千歳は波多野が結城中佐に提出したレポートを思い出した。
彼は祖国想いだった。その愚直すぎる心根の故に正しさを求め過ぎた。
信頼に足る友だと思っていた残りの2人の思惑に気付くことが出来ずに終わってしまった彼らの友情。
祖国と友の為なら死ぬ事を厭わない。
ならば、どちらかしか選べないとしたら?

「人の心は、むつかしいですから」

人は紆余曲折しながら前へと進む。
だからこそ、正しさだけでは生きてはいけない。
浮き沈みする様々な想いに翻弄されるのは、自分が人間になったからと千歳は自嘲した。


「千歳さん」


柔らかな声音に彼と視線を合わせれば真摯な瞳が千歳を捉えた。

「想いというものは、内に秘めれば秘めるほど己を蝕みます」
「……アランさん」
「僕はかつて、友に心を打ち明けてもらえずに彼らを追い詰めました。彼らを蝕む罪の意識と苦しみに気づくことができなかった」

だから千歳さん、とアランは眉尻を下げて千歳に笑んだ。


「心を隠しすぎないで下さい。それはいずれ、あなたの心を」


ーー殺します。


真に迫った言の葉は、彼が体験した喪失故だろう。胸が締め付けられる声音に息を呑んだ。

パーティーホールの音が遠くに聞こえる。喧騒が届く筈の耳に伝わるのは己の息遣いだけだった。

千歳はひとつ目を閉じた。暗闇の中で揺らめく己の姿はひどくやつれて、悲壮感が漂い手を伸ばした途端、それは口角を釣り上げた。


(こんな私をさらけ出せる?)


「アランさん」


かぶりを振った千歳は笑みを貼り付けた。




「大丈夫です」




ーーー



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