常闇の中に居た。闇が何処までも何時迄も続く世界。自分の身体さえ覆われ、輪郭も分からないまま思考が呑まれていく。凡そ人としての体を保てて居なかった。
苦しい、苦しい。
同化する闇から離れようともがいた。


ふと、一筋の光が闇に落ちた。


淡く柔らかな光が照らす空間は常闇の終わりを告げる。身体の輪郭が光に照らされ浮かび上がった。
その光は、己を形作った。
光により、はっきりと輪郭を認識し自分という存在を確かめられる。
それは、闇と同化していた己を救う恵みだった。

徐に、救い主となった光に手を伸ばした。

すると、光の中から同じように出てきた手が闇の己を掴んだ。
煌々と輝く光は淡く儚い笑みを浮かべる。


ーーーあぁ、そうなんだ。


ストンと胸に落ちる。

求めあっていた、光と闇はそれだけでは成立し得ない。
それらを形作るのは、そのものだけではない。

光は闇を、闇は光を。

互いの存在を認識するために求めあった。


ーーー


初冬を少し過ぎた時節。欧州の冬は凍てつく風と共にある。寒波が連れてくるそれに人々は皆、己が身体を抱き締めた。

雪が降りそうだ。千歳は厚い雲が空の青を染めていく景色を見ながら身を震わせた。手を摩り、息を吹きかければ白い靄となる。

時刻は正午を過ぎていた。
パリ中心部、市街地の中は人が行き交い遅めの昼食を取る為か、店が立ち並ぶ通りは人の波で溢れていた。冬の風に煽られ、足早に店へと吸い込まれる人々と、吐き出される人々。ひゅるりと吹く一陣の風に時折悲鳴が聞こえる。

喧騒の中、肩を上げ、ぶるりと身震いした千歳の前にタクシーが止まった。
千歳は特に驚きもせずにタクシーを見ると、次いで時計塔に目を遣る。

ーー時間通り。

パリ市街地の交通網、混雑具合まで把握しているのかと苦笑した。
車のドアを開け出てきたのはドライバーではなくハット帽を被った彼。

「待ったか?」

淡白な声音は態とだろう。昨日の今日だ、仕様のないことだと納得する。
千歳が首を振ると彼、波多野は、そうか、と独り言つと彼女の手を取った。

「行くぞ」

何処へ、と千歳は聞かなかった。ただ、己の手を引く彼の手の温もりに目を細めた。





『正午過ぎに正面玄関で』

千歳が朝起きると共に居たはずの波多野が姿を消していた。代わりにテーブルに置いてあったのは、彼の殴り書きのメモだった。
寒さが沁みる冬の朝。腰の痛みが前夜の行為を物語りながら、しかし躰は身綺麗になっていた。
真白のシーツで身ひとつの身体を包み、メモを手に取る。
何処へ行ったのだろう、そう思うと同時に湧き上がったのは堪えようのない侘しさだった。肌を刺す寒さが心まで届いているように感じる。


彼が出て行ったことにも気付かなかった。眼を開け、彼の気配も温まりも感じられない空間に脳裏を過ぎったのは、アラン・レルニエの顔と島野亮祐としての彼だった。

スパイは時に、愛する人を作る。そしてある時、跡形もなく消え去る。

千歳は起きた瞬間、D機関に居た頃は当たり前のように理解していたそのことを思い出した。そして、心の臓が掴まれる感触を覚えた。明確な恐怖に即座に首を振る。

(嫌)

行かないで。
そう縋る思いで俯いた面をあげた先にあったのが、あのメモだった。



(……ひどい女)

くしゃりとメモを握り締める。
千歳はここ数日自嘲を繰り返していた。

言い知れぬ不安と鬱屈した感情。己はこんなに弱かったかと嫌気が差す。D機関で中佐の下で彼らの礎になっていた時の方がよっぽど己は強かであったと千歳は今になって自覚していた。

波多野を愛し、共に生き彼の全てを受け止めると誓ったあの日。あの時から、千歳は完全に『人』としての生を歩み始めた。この一年、色づいた世界と染まる己を感じながらそれでも彼との世界を享受していたのだ。

それは同時に、人としての負の部分も曝け出してしまうことになる。

千歳は人間だった。女だった。
しかし、聞き分けの良い良妻、醜い感情を隠し通す賢母になる様な女ではないと否応無く突きつけられた。


それでも、千歳は化け物だった。


(しっかりしろ)


洗面台へと足を運び、氷の様な冷水を顔面に浴びせる。ポタリポタリと前髪から雫が落ち、それだけで彼女の思考は冴えた。
その瞳に、暖かな色は映らない。

千歳は鏡に映る己を見据えた。
そこに映っていたのは、ひとりの化物だった。



ーーー



フランスはカトリックの長女とも言われている。キリスト教圏の欧州において、イギリス国教会、プロテスタント、ロシア正教会とその宗派が異なるが、カトリックが国の主流宗派となっているのがフランスだ。
しかし啓蒙思想の台頭と世俗化の進みにより、昨今は足繁く協会に通い信仰を実践する人間は少ないという。



「静かなところですね」

煉瓦造りの小聖堂。陽の光が僅かしか届かないそこは、ぼうと焔を灯す蝋燭の灯りが印象的な作りだった。荘厳な佇まいの教会群、煌びやかなステンドグラスと美術品としての価値も高い絵画や彫刻、そんなものとは無縁の空間。
富めるものに天の国は訪れない
富への執着を戒めたカトリックの在り方を体現しているのは、あの美麗な空間とは対岸にあるものなのかもしれない。

静かな祈りの場。千歳と波多野はフランス郊外の小さな町の一角にある教会に来ていた。

タクシーを降り、千歳の前を歩いた彼が行き着いた先は町の中心に立つ教会だった。
世俗的な都会の人間と違い、矢張り郊外の地域では敬虔なクリスチャンが多い。昼過ぎ、イエスキリストが十字架に架けられた午前3時の真反対の時間、丁度昼の3時に祈りを捧げる信仰者が散見された。
彼らは何を、どのような気持ちで祈り想うのだろうと、その光景に目を奪われていた千歳の腕を引いた波多野がやって来たのが、この煉瓦造りの小聖堂だった。
人々に開かれた教会には、聖職者が祈りを捧げる礼拝堂が設けられていることがある。此処もその1つだった。

何もなく、ただ己の心と向き合う空間。

千歳はひとつ目を閉じた。
イメージするのは千歳の中にいるカバーの『千歳』
なんてことはない、少し戻るだけだ。
あの頃の千歳に戻るだけだ。


整えた表層を貼り付けたその時だった。


「千歳」


徐に波多野が千歳を呼んだ。



ーーー



11
prev next
back


言葉の遊び リンク文字