冷え込みが一段と厳しくなる季節だった。身を震わせ肩を寄せ合い人々が足早に街を通り抜ける、冬の朝。
見慣れない東洋人が道端で佇んでいる姿に青目の人々らは不躾な視線を寄越した。上から下まで品定めするその眼差しを波多野は受け流す。一瞥もくれない姿は気味が悪いのか、遠巻きに見られていた視線がひとつひとつ消えていった。
ちらりと波多野は時計に目を落とした。
ーーそろそろか。
そう思った瞬間、その時は訪れた。
「待ったかい、ハタノ」
腕を上げ、眉尻を下げた好青年は波多野に穏やかな笑みを投げかける。肩を竦めた波多野に、すまない、と苦笑する姿は育ちの良さを伺わせた。
「じゃあ、早速行こうか」
後ろを付いてくるよう促す彼は矢張りあの時と変わらない彼で、頼もしいその背中を波多野は追った。
雑踏を抜けて行く。頭一つは高い背丈がひしめき合う中、アランを見失うことなく波多野は進む。
(……千歳)
耳に届く喧騒とエンジン音の中で、想いを馳せるのは置いてきた彼女だった。
流れ落ちた涙、苦悶に満ちた相貌、そして、
『みないで』
懇願する声音。思い出し、かぶりを振る。
思えば、昔からそうだったではないか。
波多野は更に過去へと記憶を振り返った。
人形として意志のない生を生きていた千歳が、命を吹き込まれ自分達を見つめるようになった。それは即ち、千歳自身を見る事ができるようになった、ということだ。
産まれる凡ゆる感情に戸惑いながら、彼女は自分達を見つめ続けた。見つめ、惑い、しかしひとつずつ産まれる感情を排除せずに抱き留める。
千歳の鮮やかな色は、皮肉なことに、灰色の自分達を通して産まれていった。
相手の中に自分を見つけることなく、産まれる感情に蓋をする。何も見ていない、何も聞いていない、其処には初めから何もない。
そうしたろくでなしとは一線を画した千歳の鮮やかな色は確かによく映えた。
しかし、波多野は思い浮かべる。
(見たことはないんだよ)
与えられる色は常に、暖かい。微睡みに誘うような深い暖色。哀を含んだ色もやがては暖かな色味へと変化した。
柔らかな笑みと、纏う暖色とは違う色。
『見ないで』
暴かれることを恐れる色。
それは、波多野に見せたことのない、奥底の情動なのだとしたら。
(千歳)
足元に向けていた視線を上向かせる。
冬の青は何処までも広く、波多野の心に澄み渡った。
ーーー
「千歳」
その音は小さな聖堂によく響いた。祭壇を見ていた千歳緩慢な動きで振り返る。
「何でしょう」
努めて柔らかな声音だった。
しかし、明らかな線が引いてある相貌だった。仄かな笑みは彼女であり、彼女ではない。表の面の裏側にしまい込まれた暖色が見えた。
予想はしていた。波多野はひとつ息を吐く。
だからこそ、伝えるべき事がある。
ゆっくりと歩み寄り、波多野は千歳の眼の前に立った。
「俺もお前も臆病だ、て昔言ったこと、覚えているか」
「……私が米国へ発つ前…でしたね」
「あぁ」
振り返るのは、大戦の始まる幾分か前の光景。
あの時、千歳が任務の為にアメリカに発つ前、一度限りの契りだと交わした情交。たった一度、その時だけに想いを乗せてそして置いていった感情があった。
今だけ、此処だけ。そう思い重ね合った身体と心情。
しかし、置いたはずの感情を拾い集め胸に納め、手放すことは叶わずに此処まで来た。
「お前も俺も、矢張り臆病なんだよな」
自嘲を吐き出せば、千歳は物言いたげに口開き、逡巡した後、俯いた。
パキリとその面にヒビが入る。
あの時と変わらない、波多野はその姿に苦笑した。
己の感情を不要と思いながら抱える、その煩悶する姿は彼女の美徳でもあり悪癖でもあった。産まれる感情に惑い、しかし受け入れ昇華する。それを繰り返すことで、彼女の世界は広がり鮮やかになっていた。
徐に、その頬に手を添える。
波多野さん?、と戸惑う姿は嘘か真か、それでも、
(俺は)
波多野はその全てを愛しく思っていた。
惑い、迷い、傷つき進む彼女を波多野は好いていた。だからこそ、波多野は己が心に刻んだ。
ろくでなしの己を保ちながら、化け物であり続けながらも千歳という人と化け物の狭間の存在を抱き留めると。
すり抜けた彼女を掴み、離さず歩むことを請い願うことで生まれた軌跡を、波多野は今一度誓わねばならなかった。
「千歳」
此処には、彼女の生みの親も、育ての親も誰もいない。
この誓約を見届ける者は誰もいない。
しかしながら、この古びた礼拝堂だからこそより一層濃くその誓いが反映されそうだと、己らしからぬ思考に波多野は苦笑した。
彼女の名を呼び、その左手を取る。
「!、っ、これ…」
震えた声で波多野の名を呼び、見開いた瞳で己を見つめる彼女に波多野はニヤリと笑った。
「目測にしてはサイズ合ってるだろ?」
左手薬指。光る銀色は千歳の白く細い指にたいそう映えた。
「……どうして」
困惑する千歳を髪を梳き、波多野はその身体を包み込む。じわりと、温もりが肌を伝わり心の臓まで届いた。
「俺もお前も、隠すことが上手くて臆病なんだよ。だからだ」
回す腕に力を込める。
以前の波多野なら見向きもしなかった品だ。ただの物に意味などない、この光る銀色に価値はない、と。
しかし波多野は知っている。
かつて自分達は、赤い布袋に想いを込めた。再開したあの陽の降り注ぐ礼拝堂で互いが持ち合わせたそれは紛れもなく、願いを込めた品だった。
物に価値と意味を付加し、それが時に先の未来への希望となるのが、人なのだ。
「改めてお前に言う、千歳」
だからこそ、波多野はその力と共に伝えるべきだった。
視線を合わせ、薬指に手を添えながら、言葉を舌に乗せた。
内に秘める心に押し潰される前に、抱え込む前に。
ヒビ割れた面を、取り払う。
「俺はお前の全てを、愛している」
千歳の瞳が揺らいだ。
『私は、貴方の全てを愛しています』
波多野が、千歳と共に生まれたあの日、彼女から波多野へ捧げられた祝福。
かつて彼女が、波多野の全てを受け入れ溶かしたように波多野もまた彼女を欲した。
「ずるいです……」
上擦った声と共に、ガラガラと面が剥がれ落ちる。裏側に潜んでいた彼女が彼の前に現れた。
顔を歪ませた千歳の瞳から大粒の雫が落ちる。
「…そんな、そんなこと言われたら…」
「千歳」
「堪え切れないじゃないですか。折角、綺麗なままでいようと思ったのにっ。どうして、」
露わになる感情に戸惑い、狼狽する千歳に波多野は苦笑する。
「それで良いんだよ。隠すな」
千歳の頬を落ちる涙を指先で掬うと、ぴくりと小さな肩が震えた。そのまま頬に手を添えれば、涙に濡れた瞳が波多野に向けられる。
視線を交錯させた彼女は、水気を含む相貌を隠すようにその身を彼の胸に収めた。
「波多野さん」
遠慮がちに腕が回される。強張る身体を抱き締めれば、徐々に力が抜けていった。
「……何処にも行かないで。」
ぽつり、と千歳から言葉が漏れる。
一言発すれば、滔々と彼女は紡ぎ始めた。
「一緒に来れただけでも嬉しいのに、貴方ともっと居たい。いつも一緒にいるのに、…それなのに」
ひとつ、間を置いた千歳が吐き捨てる。
「寂しいだなんて、馬鹿みたいじゃないですか」
震える声音で自嘲は重ねられた。
吐露する心情は、しかし本物で、まぎれもない彼女の姿だった。
もっと共にありたい、共有する時間を長く。果てのないその欲求を彼女は蔑視していた。
懺悔の言葉が綴られていく。
「浅ましい欲求です。こんなの醜い女の強欲なんです。貴方を縛ってどんどん欲しくなることなんて嫌なんです、だって、そんなの」
ーー醜いでしょう?
静寂の中に消え入りそうな声音。拝めないその相貌は容易に想像がつく。
波多野はD機関に居た頃の千歳を思い浮かべた。
常に礎となり、何も言わず何も求めず矛盾を孕む心内を受け入れながら彼女は歩んでいた。
物言わぬ色のない人形から、色味を帯びた存在となり、しかし決して己から欲しはしない。
その千歳が欲した。求めた。己が欲を、己だけの欲を吐露した。
波多野はひとつ息を吐いた。
千歳が秘めてきた感情は、なんてことはなかった。
「馬鹿なの?お前」
「……ばかって…」
「今更だろ」
「え」
そう、今更、だった。
視線を合わせる。ひやりとした聖堂内の澄んだ空気を吸い、深くため息を吐く。
頬を伝う雫を拭い、不安に揺れる瞳を見つめた。
「俺は、お前の全てが見たい」
奥底の感情も、表に出る感動も、見たことのない情動も、ありとあらゆる全てを。アラン・レルニエに見せていた朗らかな心も、今、目の前で吐露する人間としての感情も。かつて波多野が、取るに足らない、浅ましい、そう一蹴したものさえ。
「見せたくないとか、見せたらいけないとか、お前が決めることじゃないし。隠されるなんざ気に食わない」
見たくないものなど何ひとつない。
かつて自分達が過ごしてきた虚構の巣での顔も、波多野と過ごした中で生まれた、人としての感情も欲望も、それが、
「全部俺に見せろ、隠すな」
千歳という、唯一無二の存在からの感情ならば、それを取るに足らないものと捨て去る道理は何処にもない。
「不安ならそう言え、負担になるとかも考えるな。お前が自分の感情をどう思おうが、俺は…」
淡々と紡がれていた彼女への言の葉は、その彼女自身によって阻まれた。
「やっぱり……ずるいです」
波多野の口に手を当て、彼とはしりと視線を合わせた千歳の眼差しに、もはや哀の色は浮かんでいなかった。
眉尻を下げて、仄かに笑む姿に波多野は頬を緩める。
「私の考えをいつも通り越して、いつだって貴方は全部受け入れて。馬鹿なんですか」
「……おまえなぁ」
馬鹿とはなんだと片眉を上げた波多野に、千歳は続ける。
「でも、……だから私は、貴方に救われた」
目尻を下げて波多野を見つめる千歳の瞳は慈愛に満ちていて、波多野は、かつて彼女が己を受け入れた日のことを思い浮かべた。
嗚呼、本当にーー
「千歳」
愛しいと感じる、その感情をこの上ない幸だと感じる今という時を、波多野は享受した。
一筋の光が降りた。
千歳が小さく息を吸い、吐き出した。
「亮祐さん」
凛とした声が響く。鮮やかな色を含んだその声音が質素で厳かな聖堂に彩を与えた。
名を紡いだ千歳が、喜色に溢れた微笑みと共に波多野を抱き締めた。
「愛しています、亮祐さん」
「あぁ」
俺もだと、回した腕に想いを込め波多野はこの時を受け入れた。
ーーー
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