「何かあったの?」

翌朝、ガラス張りの空間には惜しみなく朝陽が注がれる、ホテル内のレストラン。朝食を摂ろうと降りてきた先に見えたのは波多野の上司、宮永と妻の佳子だった。丁度良かった、ご一緒してもよろしい?、と朝から優麗に微笑む夫人は千歳と波多野が快諾すると更に笑みを深めた。
夫2人が連れ立って料理を取る為に席を離れ、2人きりの空間となったところで佳子はそう切り出したのだ。

「え?」
「千歳さん、時々不安そうな瞳をしていたのだけれど、今は」

そう言って、佳子が千歳の瞳をじっと見つめる。黒味の深い水晶体の中にいる自分はなるほど、確かに。
千歳は給仕が運んだカップを手に取った。

「憑き物が取れたみたい。もしかして、その指輪のお陰?」

モーニングコーヒーに口を付けようとしていた千歳の動きが止まる。絡まった視線の中には佳子の喜色が込められていて、羞恥の心にそろりと視線を逸らした。
魔王の下で研鑽を重ねた自分が、たったひとつの心情の変化を読み取られ、動揺している。かの魔王が見れば、馬鹿か、と鼻で笑われるだろう。
それでも、今の千歳は佳子のその言葉に対して頬に熱を貯めるほどには人間だった。
千歳の反応を見た佳子は、

「良かった」

と、安堵の色を浮かべて彼女を見つめる。何のことだろう、と小首を傾げる千歳に佳子は続けた。

「夫も気にしていたの。貴方達夫婦は、お互いのことを考えて何も言えていないんじゃないか、て」

思わぬ言葉に、千歳は目を瞠った。
聡いと認識していた彼らだが、自分達すら持て余していた感情を悟っていたとは思ってもみなかった。

(あぁ、でも)

驚き、しかし同時に、千歳は合点し苦笑する。
あの波多野が不本意ながらも認めた上司、認めた人間。つまりはそこの一点尽きることだ。

だから良かった、と佳子が浮かべた安堵の色。下がった目尻から見える慈愛の眼差しを直接受け取り、千歳は芯の暖かさを感じた。



日常では味わうことのない料理に舌鼓を打ち、ロビーで談笑していた4人の元へ精悍な好青年が姿を現した。

「やぁ、ハタノ」
「おう」

相変わらず、邪気のない笑みを浮かべる人だと千歳は彼、アラン・レルニエに会釈する。この裏も表もない、ただ人を真っ直ぐ見つめる彼だからこそ、波多野は彼を振り払いはしないのだろう。
アランが現れると同時に、若い者たちで楽しめ、と宮永夫妻がその場を後にする。
チェックアウトの時間まであと2時間ほど。その後は、再び鉄道に乗りマルセイユの港へ陸路の旅路に赴き、そして横浜港へ向かうマルセイエーズ号へと乗り換える。花の都、パリとは今日でお別れだ、それはつまり、彼とも。

「世話になったな」

ぼそり、と低く波多野が呟いた。逸らされた視線から見て取れるのは、彼なりの感謝の意。そして自身にある強烈な自負心と気恥ずかしさの葛藤か。形容しがたいその感情はアランにも伝わったようで、彼は肩を竦めた。

「どうってことはないさ。それに、良いものになったみたいだしね」

アランの視線が千歳の指元にそしてその相貌へと移される。
彼が導いた軌跡だったのか、と千歳は波多野の横顔を見上げれば、合わさった視線。

「何だ」
「……いいえ?」

随分と愛されていることだ。なんてことはない、と平然を装う彼はしかし何処か人の懐に入る才がある。それはD機関に居た頃から千歳が感じていたものだ。人の思わぬ一面、素顔と呼ばれる一瞬を切り取る事に長けている。小生意気な態度と愛嬌のある憎めない言動に、あの三好ですらその感情を露わにしたことが度々あった。
機関が畳まれて以降の生活の中でもそれは体感することができた。

そして、取るに足らない社会という虚構の中で、彼は今、人として人と共に生活を送っている。
彼は化け物であり、人であり、千歳にとっての唯一の存在だ。

左手薬指の銀色にそっと触れる。

「アランさん」

精悍な顔つきの彼に、千歳は微笑んだ。


「お世話になりました」


その一言に千歳ら全てを込めた。
波多野だけではない。千歳もまた、彼のこの機転により認識することができたのだ。波多野という唯一性と、千歳という『人』の在り方を。

心の在り方に惑い続けた先を示してくれたのは間違いなく、この好青年だった。

アランは目を丸くし、次いでその柔和な相貌を破顔させた。

「良かった」

本当に良かったよ、と続けた彼は意味ありげに波多野を見た後、その視線を千歳に移す。
アランさん?と千歳は小首を傾げた。

「千歳、君が」

一呼吸置き、暖かな瞳で、彼は矢張り笑った。


「君が、ハタノの最愛の人であって良かった、僕は心の底からそう思う」



ーーありがとう。



感謝を述べるのは、此方ではないのか、と至極当然の考えが頭の隅を掠め、しかし千歳の思考は隣の彼に持っていかれる。

「本人の目の前で言う言葉か?それ」

水を差す波多野の言葉も中にある色は、しかし明らかな動揺で、明後日の方向を向く視線は彼の『人』を表しているようだった。
本当に素直じゃない、と苦笑した千歳に吊られてアランも笑みを零す。

全身全霊の祝福だ。アラン・レルニエの、友として、の言葉に千歳は人として、彼を愛する者として、この上のない喜びを感じ、最上の笑顔を見せて応えた。




1946年、始まりを告げた日から1年余りの冬。
フランスの地での邂逅が新たな旅立ちをもたらした。



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