命の芽吹きとは古今東西神秘的でそれは美の頂点に君臨するとも言われた。草木が芽吹く様は大地の躍動を感じさせ、雪の間から見える小さき命には愛憐の情が湧き上がる。目に見える煌きは人々の心を震わせ、踊らせ、掴んできた。
踏み締める道には残雪が見られた。新雪のような処女性のない踏み固められた残り物。
煌めく世界の足音が聞こえ始める。春色を拝むにはまだ少し先の弥生の終わりの頃の路をひたりひたりと千歳は歩いた。ぼうとした視線は下を向き、心ここに在らずと言わんばかりの足取りでゆったりと帰路に着く。
道脇に視線を移せばひょこりと芽吹いている草花が見られた。黄色いそれは春を象徴していて、嗚呼もう冬が終わったのだと妙に感慨深く思い千歳はふと笑った。
感傷的に、情緒的になっているのは仕方のないことだと己に言い聞かせた。
心の臓が常より早く鼓動を刻む。ふぅと息を吐き宥めようとしても構うことなく刻まれる。
ただの帰り路、家路へと向かうだけの歩み。
昼下がりの通りがやけに鮮やかに映った。
カチコチ、時を刻むのは檜の置き時計。長針が指し示すのは頂だ。鈍く深みのある音が鳴ると同じ頃、玄関から聞こえてきたのは引き戸の開閉音と彼の声だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
手渡された厚手のコートとハットを掛ける。腹減が減った、と溢す波多野を千歳はじっと見つめた。
何気ないいつもの光景だ。こうして、帰りを待ち共に過ごし、朝になれば送り出す。休日は外へ出かけ物見遊山。どんよりとした雨模様だと屋内で、しかし共に在る時間だ。
その何時もの姿に、千歳はこれまでにない程、緊張していた。
「あの、」
ん、と振り返ったその瞳に千歳は一瞬躊躇する。
視線を下げ、惑ったのはそれを口にして良いのかを思案した為だ。
戻れない、戻ることが許されないその選択を背負うことになる。
昼下がりの、春を誘う陽気の下感じた愛の情は己だけの感覚で、それを共有することは果たして許されるのかと一抹の不安が過ぎった。
真っ暗な孤独を生き、全てを捨て去る矜持を崩してしまう。
自分1人で完結する物語ならば何も不安要素などありはしない。それは己だけの軌跡だ。
責任というものはかくも恐ろしいものなのかと、らしくもない思考に千歳は苦笑した。
「千歳」
ふわり、と鼻孔を抜けたのは彼の匂いだった。
髪を梳くその掌は間違いなく彼で。
「言ってみろよ、千歳」
それは安定しない心とえも言われぬ恐怖を溶かす声音だった。
届いた声音にじわりと心の臓が動き出し鼓動が聞こえる。血潮の通う、そんな波多野の腕の中で千歳はひとつ目を閉じた。
ーー嗚呼、大丈夫。
そう己に微笑んだ。
「亮祐さん」
心地良い彼の腕を掴むと、千歳はゆっくりと、己が今最も愛おしむ部分に触れさせた。
「もうすぐ、ふた月になるそうです」
視線の先、
息を呑んだ彼が見えた。
子ができた。それは人としてはありふれた行為だ。仲睦まじい男女が交われば自ずとやって来る。それ自体は何も珍しくもない。
それを、妊娠というひとつの事象として処理することは可能だ。
しかしながら、感情を削ぎ落とし感傷に浸ることなくそれを伝えることは、波多野と時を過ごした千歳には出来なかった。
医者から告げられた祝福に湧かなかった実感が遅れてやって来る。告げた言の葉によってまだ芽生えたばかりの命が胎動した気がした。
「千歳」
僅かに震えた声音で名を呼ばれた。同時に、彼の腕の中に再度収められ、遠慮がちにしかし力のある抱擁がなされる。
通う熱が心地良い。温かな、確かな温もりに目を細め千歳は彼の名を呼んだ。
「亮祐さん」
「……悪い、なんて言ったらいいかわかんないけどさ」
逡巡した瞳は、直ぐに合わさり目尻を下げた彼はひどく柔らかに笑んだ。
「ありがとう、千歳」
化け物と称され人であることを放棄し、ろくでなしとなっていた。そんな彼が見せたのは、『人』としての情だった。
「……名前、どうしましょうね」
「…早すぎるだろ」
「それはそうですけど、考えたくなってしまうんです」
「何だよ、それ」
そうして2人して笑い合う。
生命の芽吹きを感じる。
胎動する幼い生に、世界に新たな色彩がもたらされた。
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