春の陽気に微睡む昼下がり。木造平屋建の質素な一軒家に降り注ぐ柔らかな陽の光に千歳は目を細めた。若草色の着物に身を包み、干し終えた洗濯物を一枚一枚丁寧に畳んで行く。
帰りが遅くなる、と出勤した彼は日付が回る前後の帰宅となるだろう。その様な時はいつも寝ている様に指示があるのだが、何如せん、染み付いたあの頃の生活習慣は中々消えず彼が帰ってくるまで起きていることが大半だった。
温めの効く吸い物と後はなにを用意しておこうかと早くも夕餉の品を思い浮かべていた。

トントンと音が聞こえてきたのはそんな穏やかな時間を過ごしていた時だった。
郵便か何かあったろうかと面を上げた千歳が足早に玄関へと走る。戸越しに見えた影は男性、そこまでを確認してガラリと玄関へと出た。

「お前、不用心にもほどがあるだろ」

開けたと同時に降ってきたのは、聞き慣れた声音とツバ付き帽子。己の頭に乗せられたそれを両の手に抱え直すと、口を窄めて宣う。

「そこらの殿方に簡単に襲われるほどヤワではありません」
「どうだか。俺を投げ飛ばした腕も鈍っているんじゃないのか?」
「試してみますか?」
「いや結構」

軽口を叩き合い瞳を合わせれば、どちらからともなく笑いが吹き出す。喉を鳴らす男に千歳は向き直ると目尻を下げた。


「お久しぶりです、神永さん」


微笑みを向けられた神永はD機関にいた頃と変わらぬ笑みで、おう、と返した。




「広い所に住んでいるんだな」

座卓の上にそっと置かれた湯呑みを手に取った神永は早速喉を潤した。くるりと辺りを見渡した神永に千歳が苦笑する。

「狭くはないですが、これといって広くもないでしょう」
「バラックの小屋に住んでる人間の方が多いんだ。広い方だろ?」
「それはそうですけど」

どうぞ、と差し出した仄かな柚子色が印象的な茶菓子に神永は目を丸くした。

「これ鶴屋の柚餅か?」
「よくご存知ですね」
「そりゃあのご時世でも生産が許されていた逸品だろ。よくこんなもの手に入ったな」
「私ではなく、りょ……波多野さんが頂いてきた物ですよ」
「名前で呼べよそこは」

大仰に口を開け中へと餅を落とした神永はケラケラと笑った。眉を顰めた千歳は頬を膨らませたが直ぐにひとつため息をつく。

「何だか神永さんの前で呼ぶのは癪に触りますね」
「お前本当に俺の扱い雑だよな」
「丁寧に扱えば、それはそれで気持ちが悪いでしょう?」
「まぁ、違いない」

肩を竦めた神永はまた一つ、餅に手を伸ばす。遠慮のない行為は相変わらずだが、所作の一つ一つから育ちの良さが滲み出ている。これもカバーか、と思案した千歳は首を振った。
それが何であれ、どうということもない。
巣は、もう畳まれているのだから。


開け放たれた窓から春風が駆けた。さらりと淡い栗色の髪が揺れ、神永が陽の気に目を細める。

ジジジ、と雑音が聞こえてきた。2人の視線が音の方角へと向けられる。
読み上げられる訴因、応える日本語。その場のざわめきとどよめきは四角い箱を通して鮮明に映し出された。
音から入る情報を、視覚に投影し、千歳は長く息を吐いた。


「千歳」


徐に呼ばれ、千歳は神永をしっかりと見据える。

「何ですか」

神永の深い茶の瞳が千歳に向けられ、視線が絡み合った。その先の彼を捉え、千歳はふと口元を緩めた。
巣が畳まれても変わらない彼がそこに居る。自信家で常に上を向き続けながら、しかし何処か迷い道を彷徨っている童を併せ持つ存在。

変わらない、変わることのない化け物としての彼が秘めていた、人としての己を千歳は知っている。

神永という男は、たいそう優秀であり、化け物であり、そして、人間なのだ。

千歳の双眸に神永は口を開いた。



「この裁判に、意味はあると思うか」



紡がれた言の葉の意味が分からぬほど、彼女は世に疎いわけではない。
ひとつ目を閉じ、千歳は久しく離れていた俗世へと思いを馳せた。



市ヶ谷、旧陸軍省の大講堂で開かれている極東国際軍事裁判は一年が過ぎようとしていた。長期戦となっている裁判においての争点は、軍内部における指導者達の犯罪のあり方について。
ラヂオから聞こえる情報は、裁判にかけられている被告人達の声と意志、そして裁く側の判事達による罪状を届けた。

結果として、裁判が長引くのは当然だと千歳は感じていた。

そもそも、一枚岩ではない判事達と、通例の戦争犯罪の外から唐突に現れた新たな法による裁判など、意見が割れることは目に見えていたはずだ。

それは、裁判の正当性に関わる根幹にも関わらず、その定義は揺らぎ法の僕たる判事の一部を悩ませているだろう。


千歳は薄く目を開き、視線を落とした。

「前提として、あそこには、正義も悪も、公正も不正もありはしません」

ふむ、と神永が唸った。

何もないのだあの場には。揺らぐことのない、正義たる法がない矛盾した空間。
そもそも、どこにそんなものがあったというのだ、あの戦いに。どこにあるというのだ国同士の殺し合いに。
利害の一致、外交の在り方。
あれは、起こるべくして起きた事象であり、そこにあるのは感情をそぎ落とした国家間の無慈悲なイデオロギー対立だ。

そこには何もない、なにも。

「なら、意味はないのか。これは、ただの復讐か?」

嘲笑を含んだ声音に垣間見えたのは、遣る瀬無さ。
知らぬふりをして千歳は答える。

「いいえ、そうではありません」
「……というと?」
「意味は、あるんです」
「正義などないのにか」
「ええ、あります、そして」

落としていた視線が上がり、神永と絡まった。


「あらなくてはならないんです」


見開かれた瞳を捉える。千歳の言葉は、強い意志と願いだった。


意味のないことなどないのだ。
全ての理は何かの意味を必ず持つ。例え一片の事象だとしても、たとえそこに意味を見いだせずとも。
そこに一欠片だけでもいい。他に何かを与える事柄があるのなら、それは無価値でも無意味でもない。

この世が人の世である限り無価値も無意味も存在することはできないのだ。

「あの場所に正義はありません。法もありません。あそこにあったのは、政治的駆け引きのみです」

そこにある意志がどのようなものであっても。


「それでも、あの場所で裁判が行われていることそのものに意味はあるんです」


人が織りなす全ては、愚かであり尊くあると願う。
削ぎ落とされた感情、国家間のパワーゲーム、手段として用いられた、戦争。無機質な其処にはしかし確かに人が介在した。
過ちから学び、進み続けてきたのが人ならば、その過ちすら物語の過程となるのではないか。


「……随分と壮大な考えだな」

苦笑した神永の声音は、柔らかさを含んでいた。からりとした口調は矢張り彼で、薄く浮かべた笑みに答えた相貌は陽の色を纏っていた。

「意味のないことなどはない、か」
「無意味だと認識してしまうほど、悲しいことはありませんから」
「昔のお前なら考えられない思考だな」
「あら、そうでしょうか」
「身体に変化があったからか?その思考は」

え、と千歳が聞き返す前に神永は笑った。


「子を宿したら、女は母親になるって言うだろ」


神永の視線が千歳の腹部に注がれる。まさか気付いているとは思わず、千歳は視線を泳がせた後に嘆息した。

「気づかれていたんですね」
「歩き方を見ていれば分かるさ」

戯けた調子の神永に肩を竦め、千歳はそっと己が腹に手を添えた。

胎動する命は確かにここにある。その生は、厳然たる事実は、決して無価値ではない。そうあって欲しくはない。

「子ができたからこそ、意味を求めるのかもな」

顔つきも変わった、とケラケラ笑う神永に千歳は片眉を上げて神永に睨みを効かせる。
しかし、変わらぬ彼の表層に口元を緩めた。

神永という男は、強い意志と矜持を持ち、その実力を遺憾なく発揮する化け物だ。その能力は結城中佐も認めていた。
神永ならば、と。

しかし彼は、人間だ。
人の心を見ないふりをしながら、しかしそれを一蹴しない、それをあるがまま認識できる人間だった。

だからこそ、千歳は確信していた。

「矢張り、神永さんなんですね」

ぼそりと溢された言葉に神永が千歳を見つめる。

神永は、漆黒の魔王とは似ても似つかぬ相貌を携えていた。常に笑い、演じ、闇に溶け込む。
しかし、絶対的に魔王と同じ部分があった。

「神永さんは、いつだって周りを見ることができるんです。そして妥協もしない、全てを呑み込みながら前に進むことができる」

滔々と語り出す千歳の言の葉に神永は口を開かなかった。代わりに、深い茶の色が千歳を捉えて、その深淵を覗き込む。
嗚呼、その瞳だ。千歳は眉尻を下げた。

神永は、背負うことのできる人間なのだ。

「だからこそ、なんでしょうね」

重なる魔王の口元が歪んだ。


「中佐の跡を引き継ぐのは、貴方しかいない」


そして、神永の口元も歪んだ。



D機関が畳まれた後も各地で暗躍していた元D機関員達。彼らの情報を千歳は度々受け取っていた。
連合国軍の占領下でその内部に潜入する者、独立の兆しを見せる東南アジア諸国に赴く者、戦火の残り火のある欧州に残る者、彼らは彼らの矜持を保ちながら矢張り世界を股にかける。
そんなスパイが動く為には、上にいるスパイマスターが糸を引かなければいけない。それは不可視の糸であり、しかし先の行動は可視化される。
目に見えない糸を操り、暗闇でニタリと笑う魔王。
いったい誰がその任を負っているのか。

神永は優秀だった。
それが全てを物語っていた。


「次期魔王様がこんな所で油を売っていて良いんですか」
「誰が次期魔王だ」
「あら、国権を回復した後に新しく機関を作る予定でしょう?」
「さぁな」

千歳の問いかけに神永は頷かない、が代わりに否定もしなかった。
十分だ、と千歳は口角を上げた。


千歳のまなこに映る神永は、幾年前より歳を重ねたもののその面影はあの頃のままだった。変わらぬ彼は、しかしその立場を一つ上へと上らせた。


きっと、これが最後だ。


会えただけでも御の字かもしれないが、そこに侘しさがないといったら嘘になる。感じるその哀の情は、おそらく

「千歳」

とんと神永は立ち上がった。揺れた栗色が光に反射し煌めく。

「行かれますか」
「ああ」

その笑みも声音も変わらない。イギリスへと旅立った時と同じ、彼はまるで散歩にでも行くような声音で振り返らない。

「なぁ、千歳」

玄関先、燦々と柔らかに降り注ぐ陽の光がハットの下の神永の表層を隠した。
くるりと振り返った彼の顔は伺えない。

「何でしょう」

しかしそれで良いのだろうと、千歳は小首を傾げる。

「また、はもうない」

はっきりと、神永は告げた。敢えて言葉にしたその意味を問うこともなく、千歳は瞳を閉じてこくりと頷く。

「だからこそ、言っておこうと思ってな」

わしゃりと千歳の頂に暖かな掌が乗せられる。

視線の先、陽の声を纏った色が見えた。



「ありがとうな、千歳」



それは、化け物の中に垣間見えた人間だった。
記憶に残された、神永という化け物が、その存在が思い起こされ千歳はくしゃりと笑った。

たいそう優秀で、たいそうプライドが高く、しかし、一等人間だった男。
また、はない。もう見つめることは、ない。


「神永さん」


だからこそ、歩き続けるその道を、軌跡をただ願う。



「さようなら」



この生が続く限り、途絶えることのないように。



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