初秋の時節はまだ紅葉は深まりを見せていない。これから徐々に色づいていく樹々の葉を人々は待ち遠しく見上げ歩く。
木造平屋建ての一軒家。東京の郊外に建つ其処に響くのはひとつの家族の声だ。
「お母さん気を付けてね」
「ちゃんと帰ってきてよ」
「大丈夫。皆、留守番頼んだからね」
「哲兄さんが居るから平気」
「平気平気」
「こら、優馬も真昼もきちんとするんだからな!」
「兄さん怖いー」
「ねー」
「お前ら…」
肩口まである栗色の髪の少女と、丸い瞳が印象的な少年に、単発の青年は盛大なため息を漏らした。
「お兄ちゃんは大変ね」
くすりと溢した笑みに、彼はじとりと視線を寄越し、しかし再び嘆息する。
頭を抱えるその姿に、己の嫡子に千歳は苦笑した。
すっかり成長した我が子は、生き写しかと思うほど彼によく似ている。髪形、背格好は特徴があるものの、その纏う色の似通い具合はやはり、彼の背中を追った軌跡の織り成すものか。
自分の背丈をゆうに超えてしまったその成長に目尻を下げつつ、兄に頼り切ろうとする下2人に苦言を呈そうとすれば、
「哲にばかり負担を掛けるなよ」
すっかり父としての役割が板についた彼が現れた。
見慣れたスーツとハット。ボストンバッグを片手に2人を諌めたが、当の本人達は何食わぬ顔だ。
「私達だってきちんとするわ。ねぇ、優馬」
「ね、真昼」
ねー、と。二卵性の双子にも関わらず、息をぴったりと合わせる2人に父たる波多野は肩を落とす。
「誰に似たんだか、お前らは」
「哲がしっかりしているおかげでしょう」
「まぁ、違いないな」
「嬉しくないんだけど」
諦観する父母に嫡子は腰に手を当てて不満を露わにするが、直ぐに、同様の様相を見せた。
何を言っても、やはり下の子達は可愛いようで。それを理解している双子の彼らも、甘えつつも兄を立てることを覚えている。
(大丈夫)
自分達がいなくても良くできた子ども達だ。しばらく家を留守にしていても大した問題ではないだろう。
後ろ髪を引かれる想いがないわけではないが、それでも、外国への渡航制限が取り払われた今だからこそ行かねばならない地だった。
「千歳」
促す声に頷き、再度我が子達を抱き締める。
行ってきます、と伝えた声に、行ってらっしゃい、と涙に震えた声が返ってきた。
1964年。
戦後、一部の企業関係者、行政、留学生に限られていた海外渡航が大衆にも解禁された。
持ち出しの現金の制限はあったものの、大まかにはパスポートを申請すれば海外へと羽ばたけるようになった渡航元年。
その地は、秋空の中に冬の足音を感じさせていた。吹く風は凍てつき、身体に沁み渡る。空を見上げても曇天が広がるばかりで、続くと予想される寒さに千歳は身を震わせた。
「ようやく来たな」
ぼそりと、隣の波多野が呟く。何処か哀愁を秘めた低い声音に、千歳は答えた。
「ええ、」
ーーーようやく。
一歩踏み出す。
東西に分断された地、ドイツに2人は立っていた。
ーーー
プライドの高さが伺える挙動、決して恵まれない体格とそれを凌駕する技量。己と似ていた彼に、波多野が抱いていたものは近親感だったのかもしれない。
気になる男だった。己と似通ったその男はしかし圧倒的な自負心を保持していた。他の追随など許さない。徹底的なまでに前を行く男は、誰よりも暗い孤独の路を先に進んでいたように思う。
誰よりも魔王の背を追いかけ、誰よりも己を高めることに余念がなく、そして誰よりも、美しかった。
故に、彼は化け物として完成していた。
あの時代、結城中佐が片腕を失ったドイツでただ一人、魔王の子として暗躍した彼は紛れもなく、かの魔術師と呼ばれた男に酷似していたのだろう。
欺き、演じ、真木克彦という仮面を被りながらその生を全うした。
『感傷に浸っているな』
気が付けば、蒼天と地平線が広がっていた。
波多野がパチリと目を開ければ、視線の先に居たのは、
「三好……」
死した時ではない、ワインレッドのスーツを身に纏った彼は相変わらずの皮肉めいた笑みを浮かべて居た。
不思議なことに、この奇妙な状況が居心地が良い。そこに彼がいる現状がすとんと胸に落ちる。
『僕の幻想を見るほど、焦がれていたのか?』
くつくつと喉を鳴らす三好は矢張りあの時代の三好だ。戯けた調子で波多野に語りかけるその相貌に、波多野は妙に安堵する。
「そうかもな」
苦笑してみせれば、僅かに目を丸くした彼を拝めた。
神など信奉しない波多野だが、何処かで願っていたのかもしれない。この地へ再び来れば、彼女と足を運べば幻想に会えるかもしれないと。
『随分と殊勝なものだな。あの小生意気なお前が丸くなったものだ』
「何十年前の話をしているんだよ。もういい歳だ」
『……それもそうだな』
ふと笑んだ三好に微かに落ちる影。
そうだ、随分と時間が経った。波多野は改めてその時の流れに想いを馳せた。
彼の後任としてドイツの地を踏んだ。暗躍する中で、しかし唯一無二の存在のために手放した矜持。囚われ、捉え、腕の中で己の存在を赦した彼女に抱いたのは、機関員として決して抱くことはないだろうと思っていた感情だった。
波多野は、彼と決定的に違った選択に後悔はしていない。
風も吹かない、静寂の空間。
互いを見据えた視線に、口を開いたのは三好だ。
『随分と骨抜きにされたものだ』
歪められた口元、愉快そうな声音に含まれる呆れの色。
しかしそれは、嘲笑とは違う。
彼は心底、呆れていた。
波多野は肩を竦める。
「本当にな」
だが悪くはない、と続ければ、分かっていたように三好は更に笑みを深めた。
縮まらない距離が、心の距離を表しているようで面白い。三好はただ波多野を見据えて笑うだけだ。三好として、魔王の子として、灰色の存在としてただ笑う。
ーー嗚呼、そうだ。
「なぁ、三好」
この幻想は確かに、己の羨望の表れなのだ。
ひとつ息を吸い込み、波多野は口を開く。
「俺は、貴様を気に入っていたよ」
ニヤリと小生意気な笑みで、三好を見据えた。
「俺達の誰よりも化け物で、ろくでなしの、そのくせ」
そして、スゥと目を細めた。
「俺達の誰よりも、俺達に固執していた貴様のことを気に入っていた」
今度こそ三好の目が見開かれた。面食らったその相貌に波多野は歯を見せ笑う。
三好は誰よりも高みを目指し、そのプライドは一等高かった。
だからこそ、彼は認めていた。同期の能力を、その力を。その上を行くためには認めざるを得ない。
波多野にとって、その彼は、眩しかった。
己を高めることに余念がなく、しかし同期を認めていた彼を波多野は気に入っていた。
灰色の存在として確立しながら、彼は歪で美しかった。
「だからこそ、貴様があんな場所で死んだのが気に食わなかった」
吐き捨てた言葉に込められた不満に、三好が眉を顰める。
『幕引きは完璧にやったぞ』
「だからこそ、だ。不備があれば死体蹴りできるものを、貴様は完全な存在として死んだ。気にくわないのは当然だろう」
追うべき背が居なくなり、ぽかりと空いてしまった穴があった。その穴がひどく不愉快で、波多野は何度も埋めようとした。
不快だと、腕を組み、鼻を鳴らした波多野に三好は、だが、とひとつ声を低めた。
『死ぬな、殺すな、だ。波多野』
その相貌は真摯だった。波多野は三好を見つめる。
D機関における絶対の掟。その不文律こそが機関を機関たらしめる。
『結局僕は、その意味で貴様らに届かなかった』
噛み締めた想いに、三好が俯いた。影が落ちた表層に見える心情がある。
不慮の事故であった。にも関わらず、完全な幕引きで彼は生を演じ切った。
しかし、三好はD機関の掟をその一点において破ってしまった。
「三好…」
『後悔などしていない。我ながら完璧たったよ。それでも、この一点において僕は貴様達の誰よりも劣ってしまった』
言葉尻に滲むのは、彼の魔王に対する懺悔か、悔恨か。
抗うことのできなかったものは運命というものなのかと、波多野自身、彼が命果てた地で黄昏れた。
機関員の垂涎の的となっていた彼は死神に魅入られてしまった。
グッ、と込み上げる情動を抑え波多野は口を開く。
「それでも、貴様を俺は」
『波多野』
上げられた面に、波多野は言葉を詰まらせた。
波多野の言葉を遮った三好の声音は、ひどく柔らかだった。
絡まった視線には、もう化け物はいない。
『生きろよ』
息を呑んだ波多野に、三好は笑う。
『彼女と、生き抜け』
ーーこの世界を、明日を生きろ。
蒼天に相応しい笑みだった。
言葉の重みに軋む胸。
三好、と呟いた彼に三好は背を向ける。
追いかけようと一歩、踏み出した足だが、波多野はその場に留まった。
その背を憧憬していた。その存在を羨望した。
しかし波多野は、此処にいる。
違った道を、違った世界を生きている。
ーー此処までだな。
「三好」
またな、と語り掛けた背に彼が笑みを深めた気がした。
「起きられましたか?」
視界が開ければ、仄かな笑みを浮かべた彼女が居た。ガタンゴトン、と揺れる列車の車窓から見える風景に現実を感じる。
列車旅は長くはなかった。目的地に着いた列車は次の旅路へと旅客を誘う。
ーーーー
凍てつくような寒さと曇天から一転、快晴に恵まれたベルリンは秋晴れとなっていた。久方振りの晴れ間なのか、顔に青空を覗かせた住民が意気揚々と手にしているのは洗濯籠。彼方此方で見られる日常の一幕に千歳は笑みを零した。
ベルリン郊外。共同墓地の一画。
ひっそりと立つ慰霊碑に刻まれた刻は、あの日あの時、彼が化け物として死したあの時だ。
そ、と千歳は白百合の花を置く。
ーーーようやくだ。
「ようやく来れました、三好さん」
此処に僕は居ませんけど、とニヒルに笑む彼が見えた気がした。
それでも、千歳は続ける。
「此処に貴方が居たという事実はなくて、三好という人間が生きた証も今に残ってはいません。けれど、」
ツゥ、と慰霊碑を伝った指先が、震えた。
「確かに私の前で生きていた貴方を、私は知っています。だから、此処に来ました」
三好さん、と指先に続いて震えた声音を覆い隠す様に微笑する。
しかし溢れる想いに隠すことは叶わない。
あの日、千歳は全ての情動を殺した。涙は出なかった。
「三好さん」
滲む視界、ぽたりと落ちた雫。ようやく、此処まで来られたと安堵する。
伝えたかった想いがあった。伝えたい今があった。
「私、あの波多野さんと夫婦になったんです。それで、今は子どもが3人もいるんですよ。不思議ですよね、機関にいた頃は考えられないことでした。私、お母さんになったんですよ」
滔々と紡ぎ出したのは己と、そして彼らの軌跡だ。
「他の皆さんも良き日を過ごしている様です。特に神永さんはお忙しいようですよ。嗚呼、三好さんがおられたらきっと仕事がもう少し減っていたでしょうね」
風の噂で聞く彼らのその後は、やはり彼らであった。
戦前、戦中、戦後と生き抜いて来た筈の彼らはそこに悲哀を感じさせないほど悠々と、生を生きていた。
皆、今を生きている。
あの時と同じように、自由に、今を生きている。
千歳は、過去の情景を振り返った。
自分は、彼は、彼らは何処までも自由だった。どれだけの制約とどれだけの不自由があったとしても、己が選び紡いだ明日は間違いなく自分で掴み取った未来だった。
そこに介在した己の意思が、信念がその選択の正しさを証明している。
そこにあったのは限りない自由だったと。
「三好さん」
その自由の中で、魅入られた死神に後悔はなくとも、千歳は伝えた。
「私は貴方に生きて欲しかった」
あの日伝えられなかった想いを。
「後悔がなくても、スパイとして完璧でも、私は貴方に生きて欲しかった。貴方の明日を見てみたかった」
殺した涙を内に秘め、抱き続けた想いが吐露される。涙とともに、それは届けられた。
「だから、ね。三好さん」
ひとつ、千歳は目を閉じた。
記憶の中の彼は笑っていた。その中に見えたのは虚構なのか真実なのか定かではない。
しかし、確かに居た三好という男の前に立ち、千歳はゆっくりと瞼を上げた。
「私、うんと長く生きます。生きて生きて、この世界の果てまで、沢山のものを目に焼き付けます。貴方が見ることのなかった世界を、明日を見続けます」
だから、当分お会いすることはできません、と苦笑した時にはもう、視界は滲んでいなかった。
どこまでも自由に、どこまでも彼と共に
歩み、走り、駆け抜ける世界の思い出話を土産にしよう。遅い、とぼやかれても知ったことではない。
彼も自由にしたのだ。
ならば、自由に生きて何が悪い。
風が吹く。立ち上がった隣に立つ最愛の人が笑み、促し、彼は墓前に背を向けた。
その背に遣った視線を戻し、千歳は墓前に笑みを投げた。
「いってきます、ね」
『 』
置かれた花束が、白百合の花が風に揺られる。
鼻孔を擽る仄かな香りに、ワインレッドの笑みが見えた気がした。
ーーーー
完
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