夏に入る頃合いだった。緑が生い茂り、吹く風も南からの暖かいものへと変わっている。時折聞こえる油蝉の声に、いよいよ夏本番を迎えるのかと人々は肩を落とす。命を繋ぐために求愛する彼らの声は、残念ながら人にとっては暑さを助長させる材料にしかならない。

しかしながら、今の気候は比較的穏やかだ。
縁側でロッキングチェアに腰を下ろし、編み物をするには打って付けの時節だと、千歳は緩やかに過ぎ去る時間を感じていた。
広くはない自宅、そしてまだ先となる不自由な身体の為に波多野が購入した椅子は、陽の光を浴びて独特の杉の香りを漂わせている。

「精が出ることだな」

よっこらせ、と隣に腰を下ろした彼は千歳の手元を見つめた。

「お優しい旦那様が、家のことを片付けて下さいましたので」

ありがとうございます、と礼を述べれば気にすんなと笑みが返ってくる。合わさっていた視線が落とされ、それは千歳の腹部へと移った。
するりと手が伸びる。

「不思議なものだな」

細められた瞳に込められた慈愛の色に、千歳の中にも同様の色が芽生えた。暖かな色が浸透したことを、我が子が悟ったように胎動する。

「考えもしたことがなかった。自分の子どもができるだなんてな」
「私もです。だって、」

そ、と触れた己の腹。


「私は、母を知らないのに」


宿る我が子に千歳が込めたのは僅かながらの懺悔だった。

千歳は母を知らない。千歳にとって世界の始まりはあの冬の日だった。
しんしんと降る牡丹雪。寒空の下の銀世界がひどく鮮やかに映ったのは記憶している。擦り切れた草履と布切れを纏い、ただ歩いたその道が始まりだった。
戸が開き、暖かな灯りで陰った父となる人物の相貌は忘れることはないだろう。

しかし、朧げにも思い出されないのは肉親の顔。己の手を放し、己を切り捨てた存在。

「千歳」
「仕方のないことですけど、手放されたら流石に分かりません」

怨んではない。憎んでもない。それが、彼らの生存戦略であり、それがただひとつの道なのだったらそれを誰が攻めることができようか。
過去への羨望など、取るに足らないとかの魔王なら鼻で笑う。

ただ、と、胸に立ち込め始めた暗雲に千歳は苦笑した。

母の情とはどのようなものかといえば、答えることができる。それは知識として、この目で見てきた光景として記憶されている。

しかしながら、千歳は母を知らない。

「知らないのに、私が母親になるんですね」

決して受け取ることが叶わなかった母性を己は確かに与えることができるのか。
化け物になり損ない、人とろくでなしの狭間に生きる曖昧な存在の己が、確かな母としての情を伝えられるのか。

確実に、己が経験しなかった知りえなかったことは、それそのまま与えることは不可能だ。


それでも、愛しく健やかであれと撫でた己が腹に


「千歳」


乗せられたのは、ひとつ大きい掌。

「亮祐さん」
「1人じゃねぇんだから、勝手に考え込むな」
「…あ」
「俺と、お前の子どもだろ」

絡まる視線に込められているのは確かな父性で。胸に立ち込めていた暗雲を取り払うかのように、暖色が千歳と子に注がれていた。

千歳の瞳が瞬く。ひとつ目を閉じ、ゆっくりと開いた。


ーー本当に、この人で良かった。


「そうですね」


重ね合わせた掌に目尻を下げる。

足りないものは補い、触れ合いの中で探していけば良い。
何処までも、共にならば行ける。


その、微睡みの時間が流れていた時だった。
蝉の鳴き声に混じり、耳に届いたのはトントンと戸を叩く音。
休日の昼下がり、訪ねてくるといえば上司の宮永夫妻だろうかと腰を上げた千歳を制したのは波多野だった。いいから、と笑んだその横顔は何処か含みをもたせていて、小首を傾げながらも玄関へと足早に去る彼を千歳は見送る。
何なのだ、あの悪戯を思いついた子どものような笑みは、と訝しみながら、途中となっていた編み物に手をかけた時だった。



「お久しぶりです」



聴こえてきた柔らかな声音に、ピタリとその手は止まってしまった。



ーーー



「どうして教えて下さらなかったんですか」
「張り切って準備することが目に見えたからな」
「当たり前です」
「その身体で張り切られたら、あいつらもバツが悪いだろ」
「それは……」

ぐぬ、と言い淀んだ千歳に苦笑する波多野。
炊事場で白亜の陶器を片手に、紅茶を淹れる波多野はたいそう珍しい。客人用のティーカップが2つ並べられ、常なら千歳の仕事に勤しむ波多野を奥で見ていた彼らの談笑が聴こえた。

「何とも奇妙な光景ですね。似合わなさ過ぎて」
「森島殿、幾ら本当のことでも黙っておいた方が良いこともありますよ」
「おや、それもそうですね」
「……おいあいつらに茶を出す必要があるのか?」
「お客様ですから」

茶菓子を用意した千歳は丸テーブルに、それを2つぶん置く。そうして、懐古の念を込めた眼差しを目の前のふたりへと向けた。

「お久しぶりです、お元気でしたか?」
「健やかだから此処に来ているんですよ」
「森島殿」
「……えぇ、この通り五体満足ですよ」

じとり、と隣の彼女が諌めれば渋々森島、千歳の知る実井は言い直した。
相変わらず、自分に対しては辛辣な人だと千歳は苦笑する。
向けていた視線の先を、隣へと移せば仄かな笑みを携えた彼女もまたその視線を絡ませた。

「志乃さんもお元気そうでなによりです」
「ええ。この通り、健やかです。千歳さんと波多野さんも……いえ違いますね」

ちらり、と外した視線が行く先は千歳の腹部で。僅かばかりだが命が膨らんだその場所に志乃の視線は捉われる。

「お三方も、お元気なのですね」

目尻を下げた志乃の眼差しは慈愛に満ちていた。
その様が、原城志乃というあの学び舎で育った人間とはまた違っていて、何処か千歳は、ほっと胸をなでおろす。
憑き物が落ちた様が、彼女の軌跡を証明していた。

そして森島と名乗り、彼女と時を共にする彼もまた、実井、として過ごしたあの頃と纏う雰囲気が些か違う。2人とも、相変わらず化け物としての矜持は捨てていないのだろうけれど、それでもやはり

(柔らかくなった)

隣に得難い唯一の存在が居て世界を共にしている事実は、彼の、彼女の今と明日を暖かに照らしているのだろう。

歩む2人の足跡に、胸に広がる安堵感。

「あの千歳さん」

ふと、志乃が千歳を呼んだ。はい、と返せば彼女の視線は右往左往する。

「あの、その」
「何を迷っているんです?早く言えば良いでしょう」
「森島殿は黙っていてくださいっ、だってこれは、とても緊張してしまうんです、本当に」
「何を今更。家を出る前はあんなに楽しみだとはしゃいでいたじゃないですか」
「森島殿!」

新手の夫婦漫才か何かだろうかと、繰り広げられる2人の会話を黙って見ていた千歳は、ふと彼女の視線が向けられている先に気づいた。
おずおず、とその視線はある一点を見つめ、しかし逡巡しまた合わされる。

千歳は、はた、と思い出した。
原城志乃はとても、それはとても好奇心の強い女性だった。何事においても、知る、ということに最上の喜びを感じ、その知的探究心の高さは千歳もよくよく知っている。

嗚呼、そういうことか、と千歳はくすりと笑みを零す。

「ねぇ、志乃さん」

すくりと千歳は立ちあがり志乃の前に正座する。ぴくりと肩を震わせた彼女に、口元を緩めて努めて柔らかな声音を出した。


「触ってみられませんか」


そう言いながら摩ったのは己が腹。丁度、見計らった様にトンと振動が伝わった。

志乃の目が見開かれる。

「良いのですか?」
「えぇ、もちろん」

さぁ、と志乃の手を取れば彼女はごくりと喉を鳴らす。何をそこまで緊張するのかと、吹き出しそうな笑いを堪え千歳はその手をそ、と腹部へ当てる。

「……あ」
「ふふ、お姉さんが来てくれて嬉しいのかもしれないですね」

腹の中にいる子に外界が分かるはずもない。にも関わらず、幼い命はまるで挨拶をする様に胎動した。

「あ、の千歳さんっ」
「はい」
「凄いです。これが赤ん坊なのですか?いえ、分かってはいます。分かってはいるのですが…」

目を白黒させて、童の様にはしゃぎながらしかし知らぬ世界に驚いている様はたいそう微笑ましく、釣られて千歳の頬も緩んでしまう。

「私も初めて動いた時はびっくりしました」
「えぇ…これは、その、……すみません。どう表現したら良いか」

そう言い、口籠る志乃は言葉を探しているようで。知識という、広大な言葉の海から適切な単語を見つけ出そうとする彼女の姿に、千歳はくすりと笑む。

「不思議ですよね。自分の中に、命があるんです」

改めて、その命の胎動を、生を感じるように千歳は志乃の手と共に己が腹を摩る。
其処に在る、確かで幼い命。

「これから、たくさんの世界を見る命があるだなんて」

不思議、不可思議。人が連綿と紡いできた命の営みが確かに己の中に息づいている事実に、千歳は感慨深い想いを抱いていた。

確かに、己もこの様にして母の中で育ち外へと飛び出し、そして命を繋げてきた。紡ぎ繋ぎ、綴られる個々の物語を今も生きている。
それは、千歳も目の前の彼女も、呆れた視線でしかし目尻を下げている彼も、背越しにこの会話を聞いている愛する人も。そしてここにいる人間だけではない、千歳の知る、敬愛する魔王、忘れ得ない機関員達、名も知らぬ多くの生きる人々も。
生きとし生けるものが、振り向けば長い軌跡を生きて、前を向けば真白の雪が視界を占める。それは、己が踏み締めていく新たな足跡となる。

誰もが生まれ、誰もが死ぬ、その単純で当たり前の事実は、確かに尊ばれるものだと、今更ながら千歳は感じていた。


「千歳さん」

志乃が千歳を呼んだ。彼女に視線を向ければ、志乃は眼差しを千歳の腹部へと向け、そして空いていた片手も、そっとその場所に添える。
目を瞬かせた千歳に志乃は滔々と紡いだ。

「私、今すごく嬉しいです」
「志乃さん…」
「千歳さんの中にあるこの命が嬉しい。だって、ーー」

かちりと合わさった視線に、息を飲んだのは千歳だった。
それは何色でもない、しかし限りなく、


「この命を愛しく思う貴女の眼差しは」


喜色に溢れた、『志乃』という人そのものの瞳だった。



「母親なんです、千歳さん」



言葉が心を溶かす。志乃の口から紡がれた、母、という単語に千歳の胸は締め付けられた。

「志乃さん…」
「千歳さんは紛れもなくこの子の母親なんです。千歳さんが産むからだけではありません、貴女の心のありようがもう、母なんです、千歳さん」

母親なんだと、母を知らない己が、母なのだと。しきりに、志乃はそう口にした。


誰もが産まれ、誰もが死ぬ。
そして誰もが産まれたのは矢張り、母という存在からだ。


(母を知らない私も、でも矢張り母から生まれている)


なんという矛盾であろうと、苦笑する千歳はしかし、その事実を尊ぶ。


「志乃さん」


母なのだ、と。己は、母なのだと千歳はその重みと愛しさを噛み締めた。



「ありがとうございます」



朗らかな微笑に志乃も同じ笑みで応える。

茶葉の香りが鼻孔を擽る。ひゅるりと吹いた風と陽気に微睡みながら、休日の茶会は続いた。



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