• 【番外編】波多野と失言

       埃っぽい資料室は外光が射さない地下にある。電灯を点ければ何年も変えていない電球がチカチカと力なく点灯した。手にしたメモを握りしめて室内に立ち入ったハルは数度咳をすると、書架に所狭しと並べられた専門書の背表紙を目で追う。英語、仏語、独語、中国語、どれもこれも自分の知識量では理解の追い付かない雲の上の書籍ばかりで、ただ、存外丁寧に書かれた資料メモのおかげでいつも見つけられないということはない。
      「イギリスの産業史、産業史…」
       産業史は確か一番奥の棚にあるはずだ。近くに他にも持っていくものはないか、メモに視線を落としながら歩き、目的の棚の前で立ち止まったハルは首を上げて「げ」と顔を顰めた。
      「んー…届くかなぁ…」
       棚の一番上の段は高い。背伸びをしてギリギリ手が届く場所でいつもは入り口にある椅子を使って取っている。が、また戻って椅子を持ってくるのが面倒くさいと思う程度にハルはものぐさだ。
       腕を、つま先を限界まで伸ばしてみる。うーん、と自然と声が絞り出るが特段意味はない。しいて言うなら取れそうな気をハルに与えてくれるだけだ。もう一押し、と今度はぴょんぴょん跳ねてみる。しかし、指先に背表紙が届いて「あ!」と顔を輝かせたのもつかの間、本はより奥に入ってしまった。
       嗚呼、やっぱり椅子を取ってくるしかないか。一人肩を落とした矢先、ぬっと背後から落ちた影に、ハルの心臓が大きく跳ねた。
       影の主はハルが先ほどまで取ろうとしていた本を手に取って、無言で彼女の手に置く。いつの間に、気配なんてなかった、言葉に出したいけれど口をパクパクさせるしかできないハルを見て、彼は──意地悪く笑った。

      「波多野さんって、背が高いんですね」
       ──意外と。
       そんな失言をかましたのはつい先日だった。何気ない日々を過ごす中、たまたま、本当にたまたま彼女が彼と二人並んで夕食後の食器を洗っている最中のことだった。他の面々は、夕食中の者、ゲームに勤しむ者、本を読む者──とはいえ、全員が参加者(プレイヤー)ではあったのだが、とにもかくにも各々が好き勝手にしていた時だった。
       炊事洗濯の手伝いは各人自由にやればよい制度だ。波多野が善意でそこに立ったのか、プレイヤーとしてそこが良かったのかは定かではないが、ハルが洗った食器を拭きながらなにがしかのサインを送っていたのだろう。
       凡人の自分には関係ない。繰り広げられる頭脳戦を尻目に、黙々と皿洗いに集中していたハルはしかしふと、隣の彼に視線を移して気づいたのだ。
       意外と、背が高い。
       波多野というキャラクターはD機関の中で一番背が低いキャラクターだ。低そうな実井の方が実際は背が高く、機関員同士で並ぶとその差は明らかだった。見慣れている光景が大の男達の背中のため、必然的にハルの中でも無意識に彼は小さい≠ニ認識されていて。
       だからこそ、隣に立った彼に何気なく呟いてしまったのだ。無意識に感じていた印象を。
       やばい。直感的にそう感じたのは、明らかに場の空気が凍ったからだ。誰も彼もが好き勝手過ごす中、その光景は変わらないというのに意識だけが僅かにこちらにズレたのはハルでも理解できた。
       しかし、ハルは思い直す。彼らは優秀だ、非常に優秀だ。身長の話など気にするはずもない。そもそも彼は男性の平均身長のはずだ。さらにいえば、身長が小さいならば逆手に取った諜報活動だってあるはずで、コンプレックスに思うはずなどミリ単位もない。
      「……意外と、ねぇ?」
       あ、これ失敗した。やばいやつだった。
       含意が多分に含まれた声音を出しながらハルに視線を合わせようとした波多野に、彼女は思いっきり顔を前へ向けた。私は今、食器洗いに忙しい。そんな言い訳を脳内で述べるが隣の視線は逃してはくれない。
      「いつも誰と比べてたんだろうな? 戸張」
      「比べるなんて、そんなそんな」
      「比べているから、意外、なんて単語が出てくるんだろ?」
      「そ、うなんですかねぇ? いやぁ、自分の考えていることって意外と自覚できてないものですねぇ!」
       苦し紛れの言い訳にテーブルから吹き出す音が漏れる。「神永っ、馬鹿野郎」「中瀬だって限界だったろ」そんな声に、頼むから黙っていてくれ、と心中で叫んだハルは、三十六計逃げるに如かずと残り一つのカップを洗い終えてその場を離脱しようとした。
      「戸張さん、これもお願いします」
       しかしながら、そんな浅慮などお見通しと実井が飲み終わったティーカップを押し付けてきたため大人しく受け取らざるをえず、にこりと笑って方向転換すると元いた場所へ戻る。満面の笑みに若干の殺意が湧いた。
       気まずいどころの話じゃない。今すぐ部屋に逃げたい。元は自分の失言とはいえ、面白いオモチャを見つけた彼らの底意地の悪さはよくよく理解している。
       先手必勝か、何か口に出した方がいいか、無言は耐えられない、しかし失言を重ねるのは避けたい。
       ぐるぐると無意味に思考を錯綜させたハルが口にする。
      「あの、アレですアレ。意外とね、その…ほら、男らしい? というか、そんな感じで」
      「墓穴掘ってるぞ」
      「あ…違う! 違うんです! 誤解なんです!」
      「誤解の意味を調べ直してはどうですか?」
      「三好さん黙って!」
       頭の回転が遅い自分が口を開くのは得策じゃない。そんなことは百も承知というのに失言を重ねてしまい、神永や三好がくっくと肩を震わす。面白いオモチャを見つけた彼らは更にハルを追い詰めた。
      「この前さ、出会ったご婦人が言ってたなぁ、背の低い男は嫌、と」
      「自分より低い男にダンスに誘われるのは嫌だろうね」
      「それこそまさに、男らしさ、てことか」
      「意外とそういった部分は大事になってくるからなぁ」
       逃げたい。なんだこの性格捻くれた男達は。
       しかし、その捻くれた男達に敵うはずもないというのに思わずハルも口を出してしまった。
      「せ、背が高けりゃいいってもんじゃないですよ! それに低身長が好きな人だっています!」
      「なら、戸張の好みはどっちだ?」
      「は?」
       厭らしく口元を歪めた神永が、ぐるりと食堂に集った面々を見渡した後にハルに目を細める。
      「高い奴と低い奴、どちらに声かけられた方が気分が上がるのか」
       愉悦を隠しもしない男達の顔がハルに向けられた。
      「嗚呼、俺達≠フ中で誰が一番か、でもいいぞ?」
      「っ、」
       朱に一瞬で染まった顔を隠すようにハルは下を向いた。
       考えたことはもちろんある。キャラクターの好みは誰かなんて、オタクなら当たり前のように考えることだ。物語の中でどの登場人物が自分の好みか。それは至極当然の思考で。
       けれど、いざ目の前のキャラクター達の前でそれを発言できる猛者がどこにいる。しかも、確実にそれを理解している≠フだ、彼らは。面がハルに割れていたと知っているのなら、考えたことくらいあるだろう、と。それでいてハルの対応を楽しんでいる。
       逡巡した後、ハルは顔を上げたが、視線を絶妙に逸らして答えた。
      「ご想像にお任せします」
       言うや否や、実井から受け取ったティーカップを洗い終えた彼女はそそくさとその場から退散した。愉悦を隠さない視線がグサグサと刺さったが気にすることなく走り抜ける。
       その後ろ姿を隠微に見つめる双眸に気付かずに。

      「──取りたかったの、それだろ」
       数日前の回想を数秒で脳内で終えたハルは、本棚を背にし、目の前でニコリと不気味に笑んだ彼におそるおそる問い掛けた。
      「…波多野さん、怒ってます?」
      「何に?」
      「…この前の背の話」
      「別に」
      「う、嘘だ! 絶対に怒ってる!」
      「なんでだよ」
      「だって、あの後からこれ見よがしに背が高いアピールしてくるじゃないですか! 高いところの物とったり、取ってこいって言ったり」
      「た か が、背のことを気にするわけないだろ?」
      「ほら怒ってる!」
       吠えるハルに波多野は取り合うことなく、ただ薄く笑むだけだった。
       ハルの失言以降、波多野は目に見えて彼女で遊ぶ回数が増えた。ハルが食堂で背伸びをして棚のカップを取ろうとすれば横から掠め取り、資料としてとってこいとわざと書架の高い位置の本を取ってこさせる。やたらと隣に立ち、ハルを見下ろす姿はどこをどう見ても先日の失言を根に持っているとしかハルには見えなかった。
       あり得ない。背が低いなど気にする人間ではないじゃないか。少なくとも機関員としてなら、そんなことを気にする素振りすら見せない方が自然だというのにやたら突っかかる波多野をハルは無意識に避けた。仕事上の付き合いは仕方ないにせよ、食事や学習の際に極力波多野と遭遇することを回避していた。
       怯えつつも睨め付けるハルに、波多野は肩を竦めた。
      「本気で腹を立てているなら、そもそもお前に話しかけたりしないだろ」
      「ムカつくから話さないなんて、そんな子どもじみたことしないでしょう、皆さん」
      「男は存外、子どもじみてるんだよ。背が高かろうが低かろうがな」
      「も…もう、その話はいいですからっ」
       勘弁してくれ、とハルは頭を抱えた。蘇るのは神永のニヤついた相貌で、その際の問いかけは未だに脳裏にこびり付いている。
       誰が、一番か。
      「ただ、そうだなあ。他の奴らと比べられて、何かしらで劣っていると判断されていたのは、気分が良い話ではないよな?」
       含意のある声音にハルの視線が揺れる。「劣っている、とかでは、なく」と尻切れ蜻蛉に声が小さくなり、波多野と視線は交錯しない。冷や汗を流し、必死に状況に耐えている彼女に、波多野がくっくと喉を鳴らした。
      「怯えるなよ。むしろ面白いと思ったくらいだ」
      「…面白い?」
      「あぁ…例えば、なぁ──」

       ハル。

       耳元で、そっと囁かれた己の名前。いつもは苗字でしか呼ばれないというのに唐突に呼ばれた名前にぴくりとハルが肩を鳴らし、波多野を見上げた時だった。
      「──っ! んっ、ぅ」
       あり得ない感触に、思考がフリーズする。
       キスをされたのは、確か二度目だ。一度目は、彼と花見へ出かけた日。不満そうに唇を奪われたことは記憶に新しい。
       けれど、これはいったい、なんだ。
       手にした本が、床に落ちる。腰に手を回され、後頭部は固定され、厚い舌は唇の間を押し入って咥内を犯す。腰を引こうにも回された手が引く以上の力で躰を固定して、むしろ彼の方へ引き寄せる。胸板を押し返す力も男に対してはあまりにも無力だ。舌が吸われ、唾液が混じり合う音に脳がクラクラする。麻薬のような口付けにもはや腰が砕けそうだった。
      「──っ、はっ、なっ、なんなんです、かっ!」
       ようやく唇が離された時には二人の間に唾液が繋がっていて。口元を押さえて抗議するハルに、波多野は「別に?」と涼しい顔を返した。
      「ただのキスだろ? 生娘じゃあるまいし」
      「です、けど! やる意味! 何なんですか!」
      「なに、下手だったか?」
      「下手じゃ、なっ、いけど! 違うのっ! そうじゃないんです!」
       話が噛み合わないにもほどがある。挨拶に濃厚なキスをお見舞いする人種がいてたまるか。何かの訓練か。生娘を本気にさせるジゴロの訓練でもしているのか。自分相手にそれしても意味がなくないか。
       思考がまとまらず、黙考してしまったハルはしかし自分が置かれた状況を俯瞰してハッと気付く。躰は変わらず固定され、顔を上げれば端正な相貌が目の前にあるのだ。
      「は、離れて下さい!」と、ぐぐっと胸板を押すハルだったが、波多野は黙然としたまま彼女を離そうとはせず、と思えば、唐突に愉快げに喉を鳴らした。「お前…ふっ、はは」と肩を震わす波多野にハルは眉を顰める。何がおかしい、と不満が胸中に渦巻き始めたハルはもう一度離れろと波多野に口を開いた。

      「お前、可愛いなあ」

       が、その前に波多野が口にした言葉に、間抜けな顔をして固まってしまう。可愛い、カワイイ。
      「は…はぁ?!」
      「誰が一番、なんてどうだって良かったが、興味が湧いた」
      「なっ、そのことっ…! もう、性格悪い! 離れて下さい!」
      「やだね」
      「やっ、波多野さ…んんっ」
       もう一度ならず、二度三度、今度は唇だけでなく首筋や耳朶を喰まれ、ハルは完全に縮こまってしまった。何のために、なんてもはやどうでも良くて、早くこのよく分からない時間が過ぎ去ってくれと願う。勘違いなど間違ってもする気はないが、こうも触れられると気の迷いを起こしそうになって。
      「波多野さん、もうっ」と見上げて懇願すれば、彼の双眸が愉悦に満ちていた。
      「お前もちゃんと女なんだ、て思わせてくれる目、嫌いじゃないよ、俺は」
       スリ、と頬を撫でられたハルは理性を総動員させて波多野を睨め付ける。
      「さいあく…波多野さんいつもこんなことして女の人落としてるんですか。本当にタチ悪い」
      「なんなら俺は最後までしても構わないけど」
      「けっこうです!」
       ピシャリと峻拒し、猫のように毛を逆立てれば波多野はあっさりとハルを解放した。両手を上げた彼から距離を取り、床に落ちた本を拾い上げたハルは、悠然と自分を見つめる彼に対峙した。
      「つれないなぁ、お前は」
      「遊ぶなら他を当たって下さい。私、それどころじゃないんで」
      「本気だ、つったらどうするんだよ」
       ぴくりとハルの片眉が上がる。先程までの愉悦を湛えた様相から一転、真っ直ぐ深淵を見つめる瞳を受けて、ハルは一瞬、言葉に詰まった。
       いやらしい、質問だ。本当に、いやらしい。
       しかし、彼女は逡巡した後にひとつ瞬いて、笑った。
      「ひどい男、て泣き喚いてあげます」
      「じゃ、さようなら」と、手を振って、波多野の顔も見ずに出入り口に向かう。戸口を勢いに任せて開け、真っ直ぐ自分の部屋まで走って飛び込み、後ろ手に鍵をかけた。無言で室内を進み、ベッドに倒れ込む。
      「……さいてい、ほんと」
       自嘲に口元を歪めた相貌には、一抹の侘しさが滲んでいた。

           *

       走り去る背中を見送った後、波多野はまだ温かさの残る掌を見つめた。
       ただの暇潰しだった。面白そうだと感じただけだった。彼女が自身で失言と捉えたそれは大したことではなく、むしろ彼女が失言と認識してくれているおかげで面白いオモチャとなったわけだ。
       自分達を知る、ただの女。何の変哲もなく、秀でたところもない凡人。
       それでも、弁えることだけは、心得ている。
      「──覗き見か、三好」
       資料室を出た波多野の視界に、扉の横で壁に背を預けていた三好が入る。「そんな趣味が悪いことをするか」と一蹴した三好に、波多野は「どうだか」と肩を竦めた。
      「懐かせてどうするんだ」
       前を通り過ぎようとした波多野に三好の硬い声が掛けられる。戯けた調子が似合う男にしてはやけに真摯な声音で、そこが逆に可笑しくて口元が緩んだ。
      「懐かないさ。少なくとも、今はな。ちゃんと立場を俯瞰して自分を律する程度には賢い」
      「ならそのままにしておけばいいものを」
      「それでも良かったが、存外面白くてな」
       そう、面白いのだ。彼女は非常に興味深い。
       現実を見ようとせず、逃げ続けていた女がようやく世界を認識したと思えば、認識している故にどこか一歩引いている。なんて不器用で、なんて生きづらい。哀れで、愉快な生き物だ。
       身を任せれば、楽に生きられるものを。
      「…火遊びもほどほどにしておけよ。加減を間違えたら面倒なことになるぞ」
       忠告を残して三好は波多野に背を向けた。去る背中を見つめて、波多野はひとりごつ。
      「加減、ね」
       真っ黒な孤独、仮面を付けた生活、役者を演じ続け、偽りを見せ続ける自分達にとって人身掌握は基本となる。他人の感情を理解してこそ利用ができる。
      「まぁ、上手くやるさ」
       自分を睨め付けた女の横顔を思い出して、波多野は嗤った。




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