3−3
なぜ、自分がこんなにハマったのかと言われたら明確に答えることはできない。
現代には娯楽が山のようにある。価値観も多様化し、自由を謳歌できる故に趣味趣向が幾重にも広がった。例に漏れずハルはさまざまなものが好きだった。観劇、読書、漫画、アニメ、小説。話の内容も戦記物、お伽話、近未来、ミステリーと多岐に渡っていた。
現実に浸りたくなくて、手を伸ばした娯楽で気を紛らわす。程度の差、方向性の差異はあれそれは誰もが行なっているストレス解消法だった。たまたまそれが、サブカルチャーに向いただけのことだ。
貪るように享楽に埋もれる、それが取り除かれたらまた現実がハルを喰う。その腸を突き破ってまた享楽に手を伸ばしてその繰り返し。
それ故だったのだろう。ハルは、それらの趣味を好んではいても、深く味わうことはなかった。
初めに、時代に惹かれた。昭和前期、大戦前後の時代はハルの目にいつも留まる時代だった。近くて遠い、曖昧な印象を与える時代設定にハルはジョーカーゲームというアニメを見ることを決意した。
そして、ハルは彼らと出会った。
真っ黒な孤独、誰も信じず青天井の自負心だけで世界を股に駆けるスパイ達、裏切られながらも軍に戻った陸軍中佐。
アニメを見終わり、原作を買うのに一日もかからなかった。読了するのには三日ほどかかったが、社会人の貴重な睡眠時間を削っての荒技だった。とにかく、ハルは突き動かされた。
──なに、これ。
胸の高揚は形容しがたかった。寝ても覚めても、彼らの生き様が頭から離れない。気付けば何度も小説を読み直し、そして最新話を待つ日々が続いた。
沼に落ちる、とハルの周りではジャンルにハマることを形容していたがまさにその状態だった。
「あー!意味わかんない、ほんと尊い、つらい、しんどい、すき」
陳腐な言葉を羅列して机に突っ伏して体をクネクネさせる。これを何度繰り返したかわからない。
いつの間にか部屋には原作だけではなく、アニメのグッズ、解説本がずらりと並んだ。並んだ戦利品を見て満足する日々は充実していた。
社会の重圧に日々押し潰され、近しい友人も遠方に住んでいるか同じように多忙な日々を送っている中、ハルは一人でこの楽園での時間を満喫していた。
戦利品の横の棚には、勢いで買った参考書も並んだ。昭和史を軸としたものがほとんどで、純粋に歴史を紐解きたい人間からすればなんと自分は汚れているのだろうとハルは自嘲した。
それでも、彼らの生きていた時代の外側を知らなければ、辿り着けないと思ったのだ。
知りたい。動機としてはもしかするとそんな単純なものだったかもしれない。
一等プライドが高く、それに見合った技量も兼ね備えた男達。誰も信じず、己の意思だけを頼りに生きるその生き様がハルに与えた影響は計り知れない。
なぜ、そんなことができるのか。人としての感情の処理の仕方はどうしているのか。なにを思って生き、そしてーー死んでいったのか。
考えても考えても、物語の世界の彼らを知ることはできない。所詮は空想の世界。作者ではないハルがそれを知る術は存在しなかった。
ただ、ハルはひとつだけ己の想像から導き出した。
虚構を生き
現実を欺き
己だけを信じても、それでも─
──人はひとりでは生きていけない。
道行く人々が驚き振り返る。それだけ、自分は今、必死に走っている。髪が乱れようと、着物がはだけようと知ったことではない。今、大切なのはただ走って、走って、早くあの場所へ辿り着くことだ。籠の中の野菜たちが振動に悲鳴をあげても構わない。鼻緒が指間に食い込んで肌に擦れて痛みを生じさせても、ハルは走った。
しかし、早く辿り着きたくて、形振り構わずに真っ直ぐに走った足がふと止まった。目に留まった光景に身体が自然とそちらを向く。
とくんと心臓がひとつ大きく鳴った。
鮮やかな桃色の桜の木の下、風が凪いで木々が鳴く。花弁がわっと空へと踊り、その中を突っ切ってくる人間。行軍する軍人達がハルの横を通り過ぎた。
視界の真ん中で捉えたその光景にハルは無性に泣きそうになった。せり上がった感傷を呑み込むように肺のあたりに手を当てて握り締める。一歩一歩遠のく彼らの背を見つめながらハルはその場で唇を噛んだ。
脳裏に浮かんだのは、会ったことがない陸軍軍人の姿。そして、今会わなければいけないひとりの男の姿。
軍靴の足音が遠のく。
彼らの背に見える未来に、拳を握りしめて祈るように憂いの込もった瞳を閉じる。ひとつふたつ、騒めく心を落ち着かせると、意思の灯った瞳を開け、ハルは再び走り出した。
大東亜文化協會に辿り着いたのは、昼を回る前だった。
玄関扉の前で息を整えて中へと入る。何処かにいる彼を探して、廊下を走り教室の扉を開け右へ左へ視線を動かす。出会った他の機関員が驚いた様子でハルを見遣ったが、ハルは真っ直ぐ彼を探した。
あちらこちら、協會内を走り回ってようやっと見つけた彼は、蒼天の下で一服を嗜んでいた。
「小田、切、さんっ…」
切らした息は彼の名を辿々しく呼ばせた。
名前を呼ばれた彼は大きく目を見開いてハルを見つめる。解けて風に揺れる髪、着崩れした着物にいったい何事かと向けられた双眼にハルは息を乱したまま叫ぶように紡いだ。
「やめないで、ください…っ!」
息を呑んだ彼が見えた。春風が二人の間を凪いで、空へと走っていく。時が止まったかのように彼は微動だにせずハルを見つめた。その瞳に己を映すようにハルはしっかりと彼を見据える。
伝えたかった想いがあった。
口にしたい願いがあった。
生きることに惑い、現実から目を背け、その願望は埋もれてしまいそうになっていた。
ハルが、ハルとして生きる意味。
ハルが、現実としてこの世界を認識する決意はその願望を伝えることで、為された。
「言わない方がお互いのためだと私も思ってました。私はこの世界の中で生きない方がいい。生きない方が、世界は物語として完成すると思っていました。だから、言いたくない、言わない方が良いと思ってて、でも、」
知っている。
彼が行く先の地で何が行われるのか。北支、銃弾飛び交う前線。例え、今、命が散らなくても、間違いなくあと数年、あの大戦が終わる時、大陸は逃げ場のない陸の孤島と化す。
知っている、から言わない選択は、もう捨てた。
息を吸って、想いを綴る。
「私は、望まない未来を座視していたく、ない」
まごうことなき我欲エゴだ。誰にも求められていない、誰も望んでいない。自分だけが知る未来において、自分だけが望まない結末。ただそれだけのために、自分は今、完成された物語に色を塗ろうとしている。自分だけの持つ色を塗りたくろうとしている。展示されている絵画に筆を乗せようとしている。
小田切は、ハルの言葉に瞳を揺らし、苦悶に染まった顔貌で紡いだ。
「……囚われた人間は此処にいることができない」
それは彼の決意だった。ハルは、鑑賞者としてその決意、或いは諦念を見てきた。それを受け入れた結城中佐を、そして最後にかけられた言葉を見てきた。
すべて、ハルは知っている。
その上で、その想いに、ハルは手を触れた。
「何にも囚われない人間なんているんですか…?」
眉尻を下げて、問い掛ける。胸に湧き上がる形容しがたい想いが、瞳を僅かに濡らした。
「私は皆さんに憧れていました。誰も信じず、一人で生きる。孤独と共に歩み死ぬ。自負心だけで生きて、世界を虚構とみなすその精神に惹かれました。とても、強い人達だと思いました」
憧れていた。現実で行き詰まっていたあの時、厭世的になり、斜に構えて世を見据えていた頃、確かに彼らの生き方はハルの羨望の対象だった。
それ故に、ハルは考えた。彼らを深く知りたいと物語の文字から彼らへと想いを馳せた。
そうして、ハル自身が感じた答えを彼に向ける。
「皆さんはとても優秀で、全てが空虚に見えるほど聡明かもしれません。けれど、紡いできた繋がりは断ち切ることはできないと思います。断ち切れないそれを呑み込んで、受け入れながらも皆さんは任務を遂行できるから、スパイ足り得るんだと私は感じました」
どれだけ孤独を歩もうと、辿ってきた己が軌跡をなくすことができるわけではない。人との思い出、繋がりを完全になかったことにはできないのだ。
「生きている限り、自分だけを拠り所にするなんて不可能です。繋がりを断ち切ることも、それをなかったことにもできない」
だからこそ、彼らは己が歩んできた人生、紡いできた繋がり、形成した人格、全てを理解し受け入れているのではないか。
行き着いた答えをぶつけたハルは真っ直ぐ小田切を見つめる。
「小田切さん」
そうして胸に畳んでいた想いを伝えるために口を開いた。
伝える言葉はひどく傲慢だ。
その言葉は最善ではないかもしれない。
望まない未来は変わらないかもしれない。
さまざまな引き返す思考が脳裏を巡り、しかしハルは首を振る。
舌に乗せてそれでも紡いだ。
「私は、貴方に生きて欲しい」
此処で、この場所で、暗闇から彼を引き抜いた魔王のもとで。
生きて。
活かされて。
行く先が真っ黒な孤独だとしても。
それが、ハルが望んだ選択だった。
心臓の鼓動は速いというのに、不思議と場の空気はしんと静まり返っていた。静謐な空間に春風が流れてさわさわと髪がなびく。
抜けるような青空の下、陽光が降り注いでいる彼の瞳に光が反射して揺らめいた。渋面に込められている想いを汲み取る術を今のハルは持たない。
小田切はハルから一旦視線を外すと徐に空を見上げた。どこまでも碧が広がる天を仰いで、物思いに耽るようにそのままの姿勢を保つ。精悍な横顔には物憂げな影が落ちていた。
ハルは視線を落としてひとつ目を閉じた。暗闇の中で己を省みる。
物語を知る立場、まるで神のような立ち位置。
行く先を知り、結末を透視する存在として己が認識されているのなら、これはひどく、
──傲慢ね。
暗闇の中で、もう一人の自分が嘲笑する。
これから、ハルは多くを語る。己が知る歴史も、物語もすべてを語った上で選びとられる選択が、この世界の未来を紡いでいくだろう。
それでも、決めたのだ。
暗闇を振り払い、瞼を上げて光を見る。そうして、小田切と同じように空を見上げた。
もし、神がいるとしたなら──
──見ていろ。
泥水を啜っても、地べたを這いずりまわっても。
生きて、生きて、活かされて──
──生き抜いてやる。
挑戦的な視線が空を射抜いた。
*
漆黒の瞳が向けられていた。
その瞳はほんの数日前までは澱み、くすんでいた。迷走する思考により、最善を選択できずに憂いを帯びていた。常にその瞳に映るのは世界でありながら、そこには世界の本質が何ひとつ映っていなかった。
此処にいる、しかし何処にもいない。
どこかすべて他人事で、すべての事象は己と隔絶された場所で起きている。そんなこの世ならざる者の瞳だった。厭世的とも違う。ただその瞳は、世界を見つめながらしかし己を見つめることを拒絶していた。
神のひとり子、神に愛された人間。
瞳を持った、戸張ハルという存在はそのように形容されそうな、人ならざる力を持った人間だというのに、中身はただの凡人だった。
凡人は凡人としてしか生きられない。
凡人は神にはなり得ない。
当たり前の事実を身に染みて彼女は理解し、そして口を噤んだ。放り出された嵐の海で為すすべもなく揺蕩うように、ただ現実を漫然と受け入れていた彼女の瞳はくすみ、やがて光さえも失われるような印象を受けた。
その瞳に、灯りが宿ったのだ。漆黒の瞳から伸ばされた視線は力強く、小田切を捉えて離さなかった。決意の焔が灯った瞳というのは、逃げられないものだと小田切は肌身で感じた。
大東亜文化協會の一角に位置する部屋の前で小田切は立ち止まる。早鐘を打っていた胸の鼓動は異様に静まり返っていた。
ひとつ瞬き、瞼の裏に映し出したのは過去の情景だった。
──チヅねえ。
柔らかな陽光を背に己に微笑みを向けた彼女の姿が小田切の心の片隅には常にしまってあった。箪笥の隅にシミひとつ着いていないハンケチでくるんだ写真のように、後生大事にしまってあった。
想い出は鮮明で、だからこそ羨望の眼差しを向けてしまう。過去を美化してしまうのは人の性質で、それに囚われてしまっている己はやはり化け物ではなく人なのだと小田切はこの任務を充てがわれたことで自省することができた。
たった一人、小田切が好み焦がれ寄添いを求めた幻。神格化された幻想に焦がれてしまった失態に小田切は耐えることなどできなかった。
しかし、これで良い、これが最善と頷き踏み出そうとした足を止めた彼女もまた、幻のように眩かった。
ふたつの幻が重なり合って小田切に笑いかける。その唇が形作った言の葉に小田切は瞳を開いた。
ひろちゃん、と微笑む過去の記憶は、過去だからこそ神格化されているのだ。
小田切はひとつ大きく息を吐くと、ドアノブを回した。
*
春は門出の季節だ。別れと出会い、旅立つ人々は新しい場所で土を踏みしめながら芽吹いていく。期待と不安を半々ずつ胸に抱いて歩く雛鳥達を祝福する満開の桜は、いつどの時代であっても変わることがない。
この日、門出を迎えたのは彼ではなく彼女だった。
未来を見据え、現実を踏みしめた彼女の物語が幕を開ける。
彼女を囲むのは、ひとりの魔王の下に参じた化け物たち。
物語の行く末は誰にも分からない。
その日の夕方、大東亜文化協會の食堂で化け物たちは木枯らし吹く秋口に出会った時と同じ人数で、誰一人欠けることなく卓に着いた。
*
一九四一年一二月某日。リメンバーパールハーバーと後に呼ばれるその戦いによりアメリカと日本の戦いの火蓋は切って落とされる。燻っていた戦争の火種は鎮火できない程に大きく燃え上がり、人々の思惑と国の利害が絡み合い後戻りできない戦いへと日本は飲み込まれていく。
戦争勃発当初は破竹の勢いで連合国軍が所有していた東南亜細亜地域の植民地を占領した日本軍。大東亜共栄圏、亜細亜民族の独立と謳ってはいたが真の目的は其処にあらず。要は軍資金─石油─の調達だ。
北支、満州と領土を拡大したことでアメリカが抱いた日本に対する一種の危機感。増長したそれにより、大陸の利権を手に入れようとする日本への牽制が石油の輸出制限だった。
日米の貿易は重工業の比重がアメリカ、そして絹の輸出を日本が行いバランスを保っていたが、その均衡は後に崩れる。アメリカ国内で開発された安価なナイロンが絹の代替品となりアメリカにとって日本は重要な貿易相手国ではなくなった。パワーバランスは傾き、日本は一方的にアメリカに石油を依存するようになった中で、更なる問題が浮上した。
苦境に立たされた日本経済に加えて追い討ちをかけたのは、大陸、支那において勢力を拡大していた蒋介石だった。対日抗争のために、是が非でも日本を同盟国ドイツと同じく開戦へと舵を切らせたい大陸の思惑が大国を動かした。
ドイツとの戦争にアメリカを参戦させることを狙っていたイギリス、チャーチルへ秘密電報を蒋介石は送った。
両国の利害は一致していた。互いに自国のために、アメリカと日本を突き合わせることを望んでいた。
戦争は、起こるべくして起こった、否、"起こる"のだ。
開戦から数年後、転機となったのは、ミッドウェーでの海戦だ。多数の空母を失った日本海軍は、制空権、制海権を次々と失って行く。
戦争において制海権及び空母の保有数は絶対的な勝利条件となる。戦闘機の補給を担う空母を叩けなければ、いくら属艦を潰したところで大した成果とは言えなかった。
一九四五年以降、硫黄島を奪取された日本軍は本土爆撃の足掛かりを持たせてしまう。アメリカの最新式戦闘機B29は大量の焼夷弾を積載し、本土を爆撃。空襲回数は数え切れず、日本民族の戦意喪失を目的に攻撃対象は軍施設のみならず、一般施設にまで及んだ。
動くものはすべて撃て。
それが、アメリカ空軍のパイロットに与えられた命題だった。
そして一九四五年八月、茹だるような猛暑と抜けるような蒼天が印象的なその日。その三日後、落とされた新型爆弾によりその日の内に万単位の人間が死亡。後遺症に苦しむ者は、七十年後の未来でもいる。
そうして、二発目の新型爆弾が落とされた七日後。日本は、終戦を迎える。
これが、日本が進む未来だった。
大連へと向かうと列車内から、車窓の外を眺める。黄昏時の景色は彼方まで続く大地に闇と光が混ざり合う独特の色合いを落としていた。
この世とあの世の境目だと信じられていた光景に、結城の脳裏にふと浮かんだ記憶があった。その存在そのものが、不確かなひとりの女の相貌だ。
女がこの世に顕現してからふた月ほどが過ぎていた。
結城は先日、その女から『物語』を聞いた。女は小説家でもなく、劇作家でもないただの凡人であったが、まるでそれが本当に起こりうるかのようにその物語を語った。
(存外、覚えているものだ)
秀でた何かがある女ではなかった、がその物語を語る時はやけに舌が滑らかに回っているようだった。饒舌な口振りを問うと、女は気恥ずかし気に瞼を伏せてか細く答えた。
『昔から興味があった分野だったのと、それに関連する書籍などを齧っていたので』
七十年後の未来からやって来たという女は、ある日を境に紡ぎ出した。己の言葉で、己の知る事象を語るその姿は、この世に落とされた時とは違い、生気が込もっていた。
あくまで『物語』ではあるが、事の概要を聞いたことは結城にとって収穫ではあった。詳細に欠けるものの、大きな流れとしては結城の予想を見事に体現している。事実、この物語通りに行くと仮定すると、現在の世界情勢と経済状況、そして参謀本部の意向は見事にこの先の未来と合致していた。
概要を聞けば、なるほど理解ができる。
しかしながら、物語通りに行くということはすなわち──
「……書き換えが必要か」
面白い。
煙草を一本取り出した結城は緩慢にそれを吸うと、口元を歪めた。
物語を紡ぐのは、神ではない。
神のひとり子でもない。
それを紡ぐのは、ただの人間で。
故に、それは為されなければならないのだ。
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