• 1−1

       他人は自分の人生に責任なんてとってくれないというのに、人間はどうして他人がいないと生きていけないのだろう。社会というしがらみを厭いながら、それに縋らないと惨めに地を這いつくばることしかできなくなるなんて、ひどいじゃない。
       キーキーと猿のように喚く音が不快だ。目の前のこの男だって何の責任もとってくれやしないのにただ喚く。自分のミスを棚に上げて、自分の職務を放棄して、ありもしないミスをでっち上げて喚いて喚いて喚いて喚いて──

       ──嗚呼、なんかどうでも良くなっちゃった。

       ぷつんと張り詰めていた糸が切れた。いとも簡単に切れたそれは繋ぎ目が分からないほど細かった。
      白い目で見る他人も、人を貶す他人も、私と同じように死んだ目をしている他人も、世の中に存在する全ての他人という生き物達がどうでも良くなった。生きていても死んでいてもいい。彼らの命は私にとってなにひとつ価値がなくなった。
       誰かがこの手を引いて、道を示して、正解へと導いてくれたら、私は違った思考をできたろうか。
       深夜。終電間近まで残って書いたのは退職届。
       清々しい気分だった。爽快だった、じつに爽快だった。他人がいなくなる世界を私は待ちわびていた。厭世的な思考だと後ろ指を指されても構わない。私はただ、

       逃げたかった。





       無職一日目、無職という時間を謳歌する。
       無職二日目、無職という時間を謳歌する。
       無職三日目、無職という時間を見つめる。

       断捨離というほどではないけれど、無職になるにあたり物をかなり捨てた。勤めていた会社の痕跡を家に残したくなくて、多くの物を捨てた。あのマグカップは忘年会で貰ったもの、あのポーチは下卑たハゲ親父に握らされたもの、あれもこれも思えば私は会社という癌に随分と侵されていた。

      「疲れた」

       六畳ほどの畳に横になる。シミが目立つ天井が目に入った。嗚呼、まるで私みたい。綺麗な木目が侵される様に既視感を覚えた。勝手だけれど。
       コロンと今度は身体を横に向ける。
       あれだけ散らかっていた部屋にはもう何もなかった。脱ぎ散らかされた服も、洗面台に所狭しと積まれた食器も、ゴミ箱いっぱいの塵も、何もない、そして誰もいない。見渡しても何もなくて、清々しい気分に浸れる。嗚呼、自由だって。
       空っぽになったことで、自分の中の何かもぽっかりとなくなった気がする。アウトプットすることが多過ぎて許容オーバーしてた身体が喜びの声をあげているみたいだった。
       そもそも私は、できた人間じゃない。
       適当に大学まで行って、何かを極めたこともなく、卒論を書くときだけ少し勉強しただけ。バイリンガルとか芸術に秀でているとか研究者として活躍しているとか、そんなことは何もない。ただ、貼り付けた笑みと相手の顔色を伺って必要な言葉を引き出す能力だけは人並みにあったからこそ就職というステージには進めた。

       ──でも、そこまでだ。

       コミュ力が一番大切、だなんて嘘だ。それは就職するにあたって利点になっても、絶対条件じゃない。
       貼り付けた笑みで入社した会社。当たり前だけれど、社会って本当にいろんな人間がいる。仕事をしないのに口だけの人間、仕事はできても倫理観の欠如している人間、仕事も出来て人間としても成熟している人間。
       そんな人の波に押し潰されていた私は運の悪いことに、仕事をしないのに口だけの人間、に目を付けられた。貼り付けた笑みが気持ち悪いと、仕事ぶりが気にくわないと、取り柄がないと、もはや人格否定としか言えない罵詈雑言が投げかけられて私の中に蓄積していく。
       やり過ごせばいい、気にしなければいい。ランチタイムに同期は肩を叩き、直属の上司は心配するフリをするけれど、それ以上に何かはなかった。
       誰だって責任を取りたくない。誰だって面倒ごとに首を突っ込みたくない。隔絶された彼らと私のステージは交わることがない。
       悲しい、とか悔しいとか負の感情な今は沸いていない。
       だってもう、私のステージは外界とは違うところにある。ぽつんと小舟で荒波に乗り出して、海は今は穏やかだ。

      「…もう一度読み直そうかな」

       ふと目に入ったのは、一冊の本。手を伸ばして、パラパラ捲ってみる。

      「……機関員みたいな才能があったら」

       何か変わったのだろうか。物語の世界に想いを馳せる。
       唯一の心の癒しだった。アニメや漫画、ゲーム、本は私を別世界へ連れて行ってくれる。現実から逃避して物語の世界にのめり込んで、そうして今を生きてきた。
       昭和十二年、戦前のあの時代に暗躍するスパイを描いた小説。戦争の匂いを漂わせながら、しかし日常を生きるそんな時代の中で己の才と圧倒的な自負心を胸に世界を股にかけた男達。
       医学、薬学、金庫破りの技術から尾行、女の口説き方、ありとあらゆる技術を体得してスパイとして生きる彼らがものすごくかっこよかった。
       自分にはないものだった。私には彼らのような自負心もないし実力もない。世界を相手に喧嘩を売るようなマネもできない。
       他人を信じず、己だけを信じ、時にその己すら欺く芯の強さは私の憧れだった。
       きっと彼らなら、どの時代でも強かに生きていくだろうと思う。

      「……ないものをねだっても、仕方…ない、ね…」

       彼らに憧憬の眼差しを向けても、その時代が羨ましいとはチリほども思わない。だって、彼らが、結城中佐が暗躍しても先の世の出来事はひどく無情だから。
       ないものねだりなんて、意味がない。
       うとうとと、陽光が微睡みに誘う。揺蕩う意識が深層に沈んで、私は眠りに落ちた。





       ──何が起こっている。

       三好は片眉を釣り上げた。常に平静を装う表情筋がぴくりぴくりと揺れ動く。
       昼下がり、気象台の予報では、ここ数日の雨から打って変わって晴れ間が広がるということだった。久方振りの晴れ間、といえば訓練生が思い浮かべたのは─

      『洗濯をするか』

       鶴の一声を放ったのは神永だった。
       桶を片手に水を汲みに行く面々を尻目に、三好はここ最近洗うことのできていなかったシーツを剥いで来いと指示を受けた。指図をするなと尖った視線を向けながらも渋々足を進める。食堂から階段を上がり、昼でも薄暗い廊下を歩いた先、簡素な寝台が連なる部屋へと入った。
       瞬間、三好の端正な顔が歪んだ。
       己の寝台に、何かが居た。否、正確には女がいた。
       三好は咄嗟に視線を左右へと走らせた。次いで、己が今開けた扉を静かに閉める。
       窓は開いていない。開けられた形跡もない。各々の物品が入れられた棚も今朝のままだ。ひとつひとつの物の配置をつぶさに確認していく。素早く確認し終えた三好は詰めていた息をひとつ吐いた。
       この部屋は三好達が後にしてから、なひひとつとして変わってはいない。
       奇妙な状況に三好は困惑した。困惑しつつも足音を消して寝台に近づく。
       すやりすやり、気持ちいいほどの寝息を立てている女は起きる気配のけの字も見当たらない。三好は首を捻る。
       妙なのだ。仮にこの女がスパイだとして、今現在こうして盛大に眠りに落ちているというのは腑に落ちない。さらに言えば、侵入された痕跡がひとつとしてない。勿論、他国の諜報機関には優秀なスパイがいるが、目の前の女がそれに該当するとは俄かに信じ難い。
       部屋へと戻り一分と経っていないが、三好は現状から見て取れる情報を総合した。

      (そんな馬鹿な話があるか)

       妖か幽霊の類、などという荒唐無稽な可能性を弾き出した己の頭を叱責する。いるかいないか分からないようなものを想定するほど、三好は空想家ではない。
       とはいえ、状況を打開するにはこの眠り姫に起きてもらわなければ話にならない。
       三好は呼吸を整えた。
       自分は今、三好、だ。三好ならこの状況に狼狽しない。紳士的にしかし怜悧な笑みを浮かべて、スマートな身のこなしと喋り口で女性に語りかける、それが『三好』だ。
       三好は彼女の肩を揺すった。

      「……起きて下さい」
      「ん…ん」

       閉じられていた瞼が薄っすらと上がる。

      「おやすみのところをすみませんが、少々お話をよろしいですか?」

       開いた彼女のまなこに己を写して三好は柔和に微笑んだ。警戒心を抱かせないように、完璧な表情を繕った─

       ──筈だった。

      「……ッ?!」

       己を写した彼女はひとつふたつ間を置いた後、大きく目を見開いて三好を凝視した。と思えば、忙しなく辺りを見渡し、次いで己を触る。なんでどうして、とか細く呟きながら彼女は視線を右往左往させた。
       まるで、この状況が理解できないと言わんばかりに彼女はひどく狼狽していた。

      「大丈夫ですか?」
      「ヒッ、は、い…っ!」

       三好が声をかければ、大きく肩を震わせ、上擦った声で答えた。どこをどう見ても大丈夫などではないのだが、彼女はしきりに大丈夫と答えた。

      「大丈夫です、大丈夫…あの、ここはその…あの、いえ…いやでも聞いても…」
      「お嬢さん、取り敢えず落ち着いて─」
      「三好、いつまでシーツをはぐって…」

       部屋のドアが開いたと同時に聞こえたのは神永の声だった。不満気な顔が室内に入り、三好を視界に入れる。そのまま、三好の前にいる彼女へと視線を移し、さらに視線を三好に戻した。

      「……貴様、女を連れ込んでいるのなら先に言え」
      「連れ…ッ」
      「冗談はよせ、神永」
      「ジョークじゃないなら、そこの彼女は一体なんなんだ。そこは貴様の寝床だろう」

       指差された寝台に、彼女はまたもやひどく狼狽した。所在なさ気にシーツを握り、顔色はみるみる悪くなっていく。
      せっかくの洗濯日和にとんだ地雷を踏んだものだと三好は嘆息する。
       ドアを開けたら己の寝台に女が寝ているなど不可解極まりない出来事だ。まだ彼女が、何処かのスパイ、という方が良かった。
       しかし、三好の目から見た彼女はお世辞にもセックススパイのような色香があるわけでもなく、かと言って三好達と同じ匂いを放つわけでもない。
       まるで、知らない世界に放り込まれたキャラクターのような印象を受けた。
       三好は暫し思案する。

      「彼女自身、今のこの状況が分かっていない様子だ。中佐に引き合わすのが最善だろう」

       中佐、という単語に彼女が僅かに反応した。

      (中佐を知っているのか)

       ぴくりと揺れ動いた目元に神永も気付いたのか、その目が細められる。陽の空気を取り払った彼の瞳は冷たい色を帯びていた。

      「ねぇ、君さどうして此処にいるのかな」
      「……っ、あ、の」
      「というより、……どうやって此処に入った」

       突き刺さるような眼光と鋭利な声音が彼女に突きつけられる。
       凡人でも分かるほどの敵意を神永は彼女に向けていた。

      「神永」
      「回りくどく尋ねる必要はないだろう。此処にいるという意味を彼女自身分かっているようだからな」

       なぁ、お嬢さん、と付け加えた神永に彼女は視線を合わさなかった。真一文字に結ばれた口元と否定をしない素ぶりが、神永の問いの真実性を物語っている。
       一片の慈悲もなく当てられる敵意にシーツを握る手は震えていた。常人ならばごく普通の反応、しかし自分達と同じ化物の類なら日常から浴びるもの。
       やはりどう見ても、スパイとは考えにくい。三好は短く唸った。
       断言するほどの確証がない限り、その可能性を切り捨てることはできないが、心証としてはシロ。物証としては、

      (灰色といったところか)

       限りなく白を混ぜた、灰色だ。

      「……どうやって入ったか、という質問ですがー」

       唐突に、彼女が声を発した。
       緩慢に顔を上げ、不安な揺れる瞳が神永に向けられる。

      「分かりません…」
      「分からない?」
      「私は自分の部屋で寝ていたんです。それで、急に揺さぶられて起きたら此処にいて…だから、此処にどうやって入ったかは分かりません」

       すみません、と消え入りそうな声で彼女は答えた。

       呆気にとられていたのは三好だけではない。視線を移せば神永も目を瞬かせていた。

       ──この女は何を言っている。

       率直な感想を顔面に出せば、彼女はそれを読み取ったのか更に口を開く。

      「意味が分からないことは承知しています。それでも、私もわけがわからないというか…此処にどうして私がいることができるのかが不明で…」
      「─待って下さい」

       制止を促した三好は首を傾げた彼女に問いかけた。

      「私が『いることができる』とはどういう意味です?」
      「……あ」
      「だから言ったろ? 此処の存在を知っている人間だ、彼女は」
      「それでも、できる、なんて表現は不自然だろう」

       まるで、己の存在そのものが不可思議だと言わんばかりの物言いだった。此処にいるのが不思議、ではない、居ることができる、という表現に三好は引っかかっていた。
       言葉選びの問題といえばそれまでかもしれない。気が動転している彼女が不自然な日本語を口走っただけかもしれない。
       三好は答えを促すように彼女を見つめた。

      「……何から話せばいいか言いたいことがまとまりませんが、最初にお伝えします」

       彼女はゆっくりと息を吸って吐くと、ひとつ瞬いて三好を見据えた。


      「私はこの時代の、…この世界の人間ではありません」


       真摯な瞳とは別に、ひどく馬鹿げた返しだった。




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