• 1−2

       戸張ハルはごく普通の社会人だった。秀でて何か技術があるわけでもない、何処にでもいる平凡な社会人。医学、薬学、物理学などの知識なんてものとは縁のない文系学生、ではあるがかといって語学が堪能なわけでも史学に通じているわけでも経済学に見識があるわけでもない。何処にでもいる、平凡でそして──  

       ──つまらない。

       これといった取り柄のない、人間だった。


       間髪入れずに向けられた冷眼にハルは下を向いた。この女は何を言っている。この女はこの期に及んで自分達を謀ろうとしているのか。そんなふたつの視線が肌に突き刺さって痛かった。当然の結果だ。自分が目の前に現れた人間にそんなことを言われたら同じように思う。
       けれど、どうしようもない事実だ。

      「頭のおかしい女だと思ってもらっても結構です。私は知っていることしか話せませんから」
      「なら君は未来から来たと?いや、世界が違うということは別の惑星から来たのか?これは傑作だな。君は小説家にでもなりたいのか」

       大仰に両手を上げて、劇調に尋ねる神永に構わずハルは続ける。

      「…情報勤務要員養成所設立準備事務室」
      「……お前、」
      「帝国陸軍内に設立されたスパイ養成学校、通称D機関。帝国陸軍、結城中佐の発案で昭和12年に設立された。訓練生の殆どは地方出身者で、医学、薬学、心理学など凡ゆる知識を此処で叩き込まれている。貴方の偽名は神永で貴方は──」
      「もういい」

       半ば自暴自棄に答えていたハルを遮ったのは三好だった。話を遮られ、言葉を詰まらせたハルは俯く。
       目を覚ましたら小説の世界でした。そんな夢のような話が現実にあるわけがない。ありえないのだ、ハルはこのような状況を知らない。二十数年生きてきた己の人生の中で、まだそのような技術は確立されていない。画面の向こうにいた彼らに会う術なんて、妄想空想の世界だけだ。
       それでも、目の前で息をしているのは陶器のような肌をした美青年で、丸く人懐っこい瞳を持った彼も確かにハルが液晶画面で捉えたあの男だった。
       彼らが状況を理解できないように、ハルもまた現状に困惑していた。現実として目の前にある事象を捉えていても、それを己の中に落とし込むには時間を要した。これは自分の現実逃避が生み出した幻影か、あと数分もすれば深層の意識が現実へと戻るのか、錯綜する思考に頭を抱える。
       何故こんなことに、何故自分が。
       視線は床に落とされて、瞳に光は灯っていない。理解不能な現実がハルはひどく怖かった。

      「……ひとまず落ち着きましょうか」

       しんとした声が響いた。落ち着いた、物腰柔らかな声音だった。その声ひとつだけで、騒ついていたハルの心が僅かだが和らいだ。呼吸を落ち着かせ、ゆっくりと目を閉じる。瞼の裏に暗闇を写し、大きく息を吸いながら前を見据えた。

      (取り乱しても意味がない)

       大丈夫、大丈夫と己に言い聞かせる。どうせ自分は世捨て人。失うものは何も、ない。
       ハルはようやく真っ直ぐ彼らを見つめた。

      「厚かましいと思いますが、お願いがあります」

       とにもかくにも必要なのは、今何を為すべきか、という問いへの答えをだすことだけだった。何故、どうして、と原因を考えることは現状最優先で取り組むべき問題ではない。会社と同じだ。問題が発生した時、真っ先に必要となるのは問題を如何に迅速に処理するべきかであって、何故そうなってしまったのかを話し合うことではない。
       ならば、ハルがとるべき行動はひとつに絞られていた。

      「結城中佐に会わせて頂けませんか」

        *

       設定資料でみた平面の世界よりやはり実物は広い。裸電球が仄暗い廊下を照らす。壁には小さなヒビがいくつか入っていて、年季が入っていることが伺えた。
       三つ分の靴音が反響してやけにそれが耳につく。ハルは生唾を呑みこんだ。

       ──怖い。

       生死に対するものではない。これから目にするであろう、暗闇への恐怖。
       結城中佐への面会を申し出たハルに顔を歪めたのは神永だった。精悍な顔に刻まれた不信感にハルはたじろいだが、隣の三好はしばし考えるそぶりを見せると頷いた。
       「先に話しておく」そう言って部屋を後にした三好が帰ってくるのに時間はかからなかった。ものの五分かそこらだが、ハルにはいやに長く感じられた。
       二人の背を追いながらハルは思案していた。
       漆黒の魔王を前に自分はどう在ることができるだろうか。鋭利な視線、感情の読めない瞳と顔貌、どれもハルが現実では体感したことのないものだ。尊敬、畏怖、彼を前にしてハルは己がどのように彼に見られるのかを危惧していた。
       ハル自身、己が如何に有用かを説くことができるかと言われれば首を横に振る。秀でた能力があるわけではない。絶世の美女でもない。優れた技能を持っているわけでもない。
       凡人。
       一言でいえばハルはただの凡人であった。
       唯一ハルが持つ特異なものと言えばこの場所そのものの存在だ。
       D機関、陸軍内部に秘密裏に組織された諜報機関。機関員の構成、そして──

       ──今後の、未来。

       未来なんて言葉が適切かは分からない。正確には、この世界は自分のいた世界ではない。紙に書かれた文字、液晶画面で映された、物語の世界。事実を基にしたとはいえ、現実の時間軸にはない人間、作りだされた存在だ。単純なタイムスリップなら空間と時間を越えた場所にある─もちろん、そんなこともそうそうあり得ることではない─が、この事象はそれとはまさに次元が違う話だ。
       本の世界に迷い込んだ。おとぎ話、ファンタジーの世界だ。

       ──でも、これが現実なら…

       手に確かに通う血潮の感触が物語るのは、現実。ハルは拳を握った。
       ハルは未来を知っていることになる。

      「着きましたよ」

       三好の声にハルの瞳は不安げに揺れた。
       重苦しい音を立てて扉が開く。視線で先へ行くことを促されたがハルは僅かに足踏みをした。床に張り付いた足は震えている。その震えが全身を巡り、心臓がキュッと締め付けられた。呼吸は荒く、冷や汗が止まらない。
       怖い。恐怖がハルを支配する。
       それでも、踏み出さなければ始まらない。
       ハルは静かに吸った息を時間をかけて吐くと、一歩を踏み出した。
      「結城中佐、彼女です」

       外光が入っているというのに、室内はがらんと冷たい。息をつめて前に踏み出した足は震えていた。視線を上向かせることができずに、つま先を見て歩く。襲い来るであろう圧迫感に心臓は破裂しそうなほど波打っていた。
       顔を上げろと神永に小声で促され、ハルは面を上げた。刹那、その姿に目を瞠る。
       それはまさに影を纏った魔王だった。外光を背にした姿は黒く、相貌は伺えない。表情がひとつとして読めない彼は、結城中佐は執務室のデスクの横に佇んでいた。
       解けない緊張の糸が更に張りつめられる。化け物、魔王、魔術師、あらゆる彼を形作る言葉が浮かんでは消えていく。目の前で息をする彼にハルは圧倒された。
       額縁の中の絵画がこちらを見つめている。触れることのできないそれに射竦められる。そんな気分だった。

      「あの…」

       何から話せばいい、何を口にすればいい。掠れた声しか出ない現実が恐ろしかった。
       ぬらりと、影が動いた。

      「……怖がらせて、すまなかったね」

       動いた影から発せられた言葉に、ハルは固まった。

      「……え?」
      「ウチの連中が君に不躾な物言いをしたろう?そんなに怖がらなくても大丈夫だ、お嬢さん」

       穏やかな声だ。
       一歩二歩と近づいてきた影の顔貌がようやく伺え、ハルは再び目を瞠った。
       気味の悪い笑みだった。
       貼りつけられた笑み、引き上げられた口の端がハルに向けられている。おそらく、知らぬ人間が見れば柔和で品の良い紳士(ジェントルマン)だろうが、あいにくと、ハルは彼のそのような姿は、演技、でしかしらない。ハルの知る彼は、底知れない闇を抱えて、何者にも囚われない、光を映さない人間だ。ハルの知る彼が本来の彼である保証はどこにもない、が少なくとも──

       ──此処では違う。

      「……大丈夫です」

       その姿にハルはどこか冷静になれた。思考の余裕が生まれたことで、ハルは今一度その願望を拝んだ。
       穏やかな老紳士。慈悲深い瞳がハルに注がれている理由は探る必要もないほど、露骨なものだ。背後に控える化け物の、押し殺した愉悦が、この茶番を物語っている。
       ハルは、最上級の微笑を携えた。

      「大丈夫ですから」
      「本当かい? 可哀想に、震えていたじゃないか」
      「ええ。本当に大丈夫です。だから、大丈夫ですよ──」

       ──結城中佐。

       ハッキリと口にした名前に影は揺らがない。目尻を緩めた老紳士のままハルを見下ろしている。背後の化け物達がどのような顔をしているのか見てやりたかった。
       足りないか。ハルは思案しながら更に口を動かした。

      「私が何者か、何故ここを知っているのかをお話しします。その情報が有益かどうかは分かりませんが、嘘はつきません。つくこともできません。信用されなくてもけっこうです。だから、大丈夫です」

       ハルは口の端を吊り上げた。
       信用、など彼には縁がない言葉だろう。初めから信用するつもりなど毛頭もないことは分かり切っている。
       それでも言葉にすることには意味があった。己の意思を伝え、その上で判断するのは貴方だと。真かどうか、それだけを見極めればいい。
       この場、陸軍内に秘密裏に設立されたスパイ養成学校において、柔和な仮面を被る必要はない。
       一言、一言に己が意思を込めたハルに影はひとつ呼吸を置いた。

      「……いいだろう」

       地を這うような声が響いた。穏やかな声からの落差に思わずハルは息を呑んだ。品の良い初老の紳士はナリを潜めて、代わりに出てきたのは漆黒の魔王だった。剥がれた仮面から鋭い眼光が覗いている。
       視線を外すことができず、はしりとその瞳に囚われていたハルに、結城中佐は踵を返すと椅子に腰かけた。

      「まずは、お前の素性から話せ」

       嗚呼、彼だ。漆黒の魔王、魔術師、稀代のスパイ。彼の素性は、読み手であったハルにさえなにひとつとして分からない。分かることはない。その彼が、目の前で己に話しかけている。
       ハルは背筋を伸ばした。


       ひとつ、自分はこの世界の人間ではない。
       ひとつ、この世界は自分にとって物語の世界である。
       ひとつ、それは実際の歴史を基にした物語である。

       ひとつひとつ、ハルは説明をしていった。自分がいた世界のことを。
       結城中佐は、およそ荒唐無稽と思える話を黙って聞いていた。ハルを静かに見据えながらしかし口を開くことなく、話のてっぺんからつま先まで余すことなくすべてを聞いた。背後に控える二人も、音を発することはなかった。

      「──以上が、私の素性と知り得る内容です」

       短く息を吐いたハルは、場の空気を肌で感じていた。
       結城中佐は身じろぎもせず、じっとハルを見下ろしている。射殺すような視線ではないが、それでも無言の圧が室内にはあった。のしかかる重みに片膝をつきたくなる衝動を耐える。
       ハルの話した内容は、ハルが知っていることだけだ。物語の世界でハルが見てきた事象を羅列しただけで、ハル自身にあの時代の詳細な知識はない。いつどこで、どのような出来事が起こるのか、曖昧な記憶を辿ることはできてもその中身は詳細さに欠ける。
       己が見ていたのは、ただの情報であって生身の現実ではない。
       そのような、不確定且つ不正確な情報を彼はどう捉えるのだろうか。
       ハルは光の映らない魔王の瞳に問いかけた。

      「──下らない」

       一言、彼が零した言葉は辛辣だった。ハルは肩を落とす。
       当たり前だ。下らない世迷言だと言われてもおかしくはない。出来の悪い三文小説の中身を聞かされたとでも感じたのだろう。

      「お前の話によると、この世界そのものが物語(フィクション)の世界であり、お前は読者の一人であったということなのだな」
      「……はい」
      「お前は、時間退行をしたわけでもなく存在しない世界に放り込まれたと」
      「……はい…」
      「下らないな」

       二度三度言われずとも分かっている。この下らない話を冴えない女が話しているのだ。信用性が薄いことは重々承知している。目覚めた時からハルのそばで懐疑の目を向けて来た彼らからもそのことは感じられた。

       ──追い出されたらどこに行こう。

       この期に及んで、この世界で次を見ることを考えているのかとハルは自嘲した。

      「だが、──興味深い」

       落胆の色を見せたハルは思わぬ言葉に伏せていた顔を上げた。見上げ先の魔王の顔貌を間抜けな顔で見つめてしまった。「なんだ、その顔は」とニヒルに歪められた口元に、目を瞬かせる。

      「いえ、その、あの…私の話は下らないって」
      「話そのものは下らないが、お前自身の存在は興味深い」
      「はぁ…」

       頭の回転の早い人間の言うことはむつかしい。
       話は下らない、ということは話を信用しているわけではないとは思うが、それならなぜ、自分の存在が興味深いのか。彼の顔貌を見つめたところで答えなど出るはずもない。にも関わらず、やはりじっと見つめてしまう。
       思考を回転させても、目の前の彼からは何の情報も得られなかった。

      「三好、神永」

       首を捻って、必死に彼の意図を掴もうとしていたハルを他所に、結城中佐は扉のそばに控えていた二人を呼んだ。

      「扱いは貴様らに任せる。好きにしろ」
      (扱い…)

       犬猫の世話でも任せるような物言いに頬がひくつきながらも、ハルは内心胸をなでおろしていた。
       ひとまず、今晩くらいは寝床がありそうだ。
      「付いて来てください」と三好の言葉にハルは頷くと、執務室を後にした。



      「お優しいことですね」

       神永が、彼女が去った扉を見つめながら、含み笑いを殺した声でそう言った。言に応えない結城中佐に視線を流し、肩を竦める。

      「子犬のように震える彼女のためだったのでしょう、あの演技は」

       あれはあからさまなフリだった。神永は結城中佐の茶番に肩を震わせていたが、あれは何も彼女を試すためのはったり(ブラフ)などではない。
       そもそも、試す必要などなかった。三好と神永が彼女を彼の前に差し出している時点で、ある程度は洗われている。

      「怯えていては話すことも話せませんからね」

       おどけた調子の神永に、魔王は一瞥も寄越しはしなかった。
       彼女が本当に結城中佐の存在を知り得ているのならば、あの張り付いた笑みにさぞ拍子抜けしたことだろう。そして、三好と神永に不安に駆られながらも中佐のもとへ連れて行ってくれと頼む程度の気概はある女なら、あそこで話を終わらせることはない。
       試したのでもなく、ましてや疑いの眼差しを向けていたわけでない。ただ、ステージに上がらせただけだ。
       紙の上を、ペンが走る音がぱたりと途絶えた。

      「貴様の失態だろう」
      「……それは、まあそうですね」
      「恐怖を与えたところで意味はない。それは、スパイだろうが凡人だろうが変わりはないことは貴様らに教えたはずだ」

       眼光が鈍く光る。神永は背筋の寒気に身震いした。一度叩き込まれたことは、違えてはならない。

      「わかっていますよ」

       神永は肩を竦めた。
       スパイに次はない。ましてや、父親が尻拭いをすることなど可能性の入る隙間もない。

      (上手くやるさ)

       執務室を後にした神永は、女の姿を脳裏に思い浮かべた。




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