• 2−4

       重い足を動かしてハルは協曾へと帰り着いた。
       愛国婦人会の木札が掛けられた玄関を通り抜けて廊下を進む。波多野からの葉書を受け取った朝、福本には本日の買い物は行かなくて良いと言われていたため、せめて夕餉の支度をしようと食堂へと足を向けたハルは自分の格好を見て首を振った。ウエストを絞った流行りの洋服は以前甘利に買い与えられたものだった。
       汚してはいけない。ハルの足はいったん食堂を通り過ぎて自室へと向かった。廊下に響くのは1人分の足音だけで、他の訓練生は外出でもしているのだろうかと考えを巡らせながら歩いていた時だった。

      「戸張」

       階段を上り、角を曲がったと同時に名前を呼ばれ、ハルはびくりと肩を震わせた。気配など感じることができるわけではないが、それでもしんと静まり返っていた協曾内で突如掛けられた声に内心どきりと心臓が大きく脈打った。
       自室の手前で壁に背を預けて立っていたのは中瀬だった。

      「中瀬さん、どうされたんです?」

       あくまで平静を装いハルは中瀬に薄っすらと笑みを向けた。中瀬は彼女の薄笑にくつりと笑みを漏らすとそんなハルの姿を下から上までじっとりと眺めた。

      「波多野との逢引は楽しかったか?」
      「あい……別にそんな心浮くようなお話はありませんよ」
      「そうか?いつもより粧しこんでいるし、ああ、その香水は甘利が持っていたものだな」
      「よくご存知で……」

       意味深長な視線を送る中瀬にハルはこの場を早く立ち去りたい気持ちに駆られた。
       中瀬は、知らない顔だ。
       ハルの知る、顔と名前の一致する彼らの中にいない存在。それは、話の上、、、では正統な存在でありむしろあるべき姿のスパイだった。映像化されていなければ、三好も、波多野も、神永もあの場にいる誰もが顔の見えない灰色の男達グレイマン。
       それゆえか、ハルにとって中瀬と葛西は訓練生の中でもとりわけ思考の読めないタイプだった。無論、誰もがカバーストーリーを生きている現状で個人の人格を読むことなどハルにできるはずもないが、それでも映像の中で生きていた姿すら知らないというのは予想以上に彼らの輪郭をよりいっそう不明瞭にさせた。霞みがかっているような人格がひどく畏怖を抱かせる。
       口調の軽い話し振りをする人格かと思えば、議論を交わす時には激しく相手を駁する時もある。中瀬という男は感情を表に出しながらどこか捉えどころのない男だった。
       そんな彼がいったい自分に何用だろう。
       構えたハルの様子に中瀬は肩を震わせた。

      「別にお前を取って食うほど女に飢えてはいないさ」

       腕を組み、皮肉を込めた視線を寄越した中瀬にハルは面食らったように声を荒げた。

      「そんなこと思っていません!」
      「お、期待したか?」
      「していません!」

      ──調子が、崩れる。
       口元を歪める中瀬にハルはわざとらしくため息を吐いた。

      「それで、何のご用ですか」
      「なに、ちょっと付き合ってもらいたいだけさ。その格好でな」
      「今から夕餉の支度なんですけど…」
      「今日の晩飯は不要だと福本には伝えてある。お前の身体を借り受けることも了承済みだ」
       既に根回し済みならば拒否権などないではないか。
       睨め付けたハルを中瀬は涼しい顔でかわす。何を言おうと柳に風の状態だろう。愉悦を匂わせる視線に反抗心は薄れていった。

      「六時に協會前に集合だ」

      ──逃げるなよ?

       去り際に耳元で囁かれた一言にハルは顔をしかめた。
       逃げるなんて笑わせる。

      「逃げませんよ」

       ぼそりと去り行く彼に背中を向けて吐き出した言葉に皮肉が込められた。
       逃げたところで待ち構えているくせに。逃げ道すら提示しないくせに。真一文字に結んだ口をそっと緩める。
       存外、自分も感情的になっている。狂わされる調子にハルは小さく鼻を鳴らした。


       午後六時。陽があと僅かで西の彼方に姿をくらます時間帯だった。夜と昼の境目、黄昏時の景色はどこか神秘的でしかし畏れを感じさせる。藍の色が茜色と混じり、そして徐々に暖色を侵食して行く様はひどく美しかった。
       昼の世界がなりを潜めて夜の住人達が闊歩するのもこの時間の特徴だった。
       中瀬の背を追いながら、ハルは人混みを抜けて行く。香りの高い香水を全身から匂わせる女達がカフェーの前で客と戯れている。
       この時代のカフェー、喫茶店は東京だけでも飽和状態なほど数があるため他店との差別化で女学生や見目の良い女を夜の仕事で雇っていると、書籍で見たことを思い出す。昼の姿とは一変するであろう女達は、魔時になれば身に宿す『女』の深層を武器として稼ぐのだろう。
       横目で彼女達を見ながら歩くハルに中瀬がおかしそうに喉を鳴らした。

      「あれも生きる手だぞ」

       顎でしゃくった先の女達が、中瀬と視線が交錯した途端、彼に向けて熱視線を送った。蠱惑的な瞳が中瀬を誘おうとするが、口元を歪めた彼はさっさと視線を逸らすとハルの肩を抱く。寄せられた手を撥ねることはせずとも、ハルは渋面を見せた。

      「不満そうにするなよ、美人が台無しだ」
      「心にもないことを言わないでください」
      「つれないな。こんな風に波多野にもなびかなかったのか」
      「……どういう意味ですか」
      「帰ってきたときのアイツはたいそう機嫌が悪かったからな」

       至極愉快なのか、歪められた口元からくつくつと声が漏れた。中瀬の言葉を聞き、ハルは波多野の相貌を思い浮かべる。

      『気に食わないんだよ、お前』

       確かに機嫌を損ねたのは事実だろう。しかしどこが彼の不興を買ってしまったのか定かではない。答えに窮したことか、ハルの態度か、いやそもそもー存在そのもの、かもしれない。

      「なびくなびかないなんてどうだって良いでしょう、みなさん」

       肩に乗せられた中瀬の手を払い、ハルは彼を見上げた。

      「そんな瑣末ごとで機嫌が悪くなるほど、小さい男じゃないはず─」

      ですよね?と、優婉に微笑んで見せたハルは数歩先を歩くとくるりと中瀬に振り返った。悪戯っぽく弧を描いた口元に加えて、誘うように細められた眼が中瀬を挑発する。後ろ手に組んだ指を擦り合わせると、首を傾けて上目遣いで彼を見やった。
      「お好みなら、してみせましょうか?」

       なにも道化になれるのは、彼らだけではない。
       現代でもよくあることだった。
       相手に合わせて顔を付け替える、人格を植え付けることは、スパイの特権などではない。人によって話し方を、表情を作り浮かべて対応することは誰しもが無意識のレベルで行う対人スキルだ。
       特に、女として生きるにおいてハルが付けた仮面は実に理に叶っていた。女を軽視するものには猛りを見せ、女を好むものには極上の笑みを向けてやった。議論の場に登壇し、合理的な策を提示することも、下町の飲み屋で何も知らないフリをすることもハルにとってさほど困難なことではなかった。
       それは、ただの演技だ。実のない人間でもできる、空っぽの劇を演じるだけだ。それは医学も薬学も文学も何の学も必要としない。女である限りどこの誰でも可能な手法だった。

      ──簡単よ。

      僅かに目を瞠った中瀬にどこか胸がスッとした。


      《私は、彼を深く愛していました》

       高く響いた声に会場が震えた。スポットライトの下で演者は声高らかに愛を叫び、悲嘆にくれ、その姿に観客達は時折涙を忍ばせた。
       壇上で台詞を述べる演者にハルは覚えがある。

      (野上百合子と安原ミヨコ)

       2人の女を見つめながら、脳裏に浮かんだのはドイツ人記者、及び二重スパイであるカール・シュナイダーと顔に影を落とした小田切の相貌だった。
       この場にハルを連れてきた張本人を横目で確認しても、当の本人は舞台に視線を合わせるだけだ。
       満員御礼、割れんばかりの拍手を受け幕を閉じた舞台。賛辞が惜しみなく壇上に注がれる。
       その喧騒がハルにはひどく耳障りだった。


      「どうして、此処に、連れて来たんですか」

       拳が握りしめられた。言葉を区切り、一音一音はっきりと問うたハルの声は、震えていた。
       劇場を後にし、人気のない通りまで足早に歩いたハルは背を見せる中瀬に問いただした。

      「理由が必要か?」
      「……ッ、貴方は!」

       カッと目を見開き、中瀬を睨みつけようとしたハルは彼へと顔を向けた刹那、言葉を失った。

      「戸張」

       見定めるような視線だった。細められた目から鋭い視線がハルに伸びている。獲物を捕らえる前、その獲物を探る捕食者の瞳がハルに向けられていた。
       音を発しようとした口からは何も出なかった。蛇に睨まれた蛙のようにハルは口を噤み、その瞳に囚われた。

      「お前はこの物語の結末を知っているだろう」

       この物語、が意味するところがわからないほど、ハルは鈍くない。知識も何一つない、ただの女だといのに、それが分かる程度に聡いことが今はひどく恨めしかった。
       ハルは地面に向けて紡いだ。

      「……今、どこまで進んでいるんですか」

       聞きたくない。思いとは裏腹に、答えは直ぐに返ってきた。

      「つい先日、会議が開かれて奴が経過報告をしたところだ。監視対象マトに死なれた、とな」

       ただ事実を告げた中瀬の言葉に嘲りでも含まれていれば、まだ救われたかもしれない。色を載せない物言いにハルは頭を垂れた。
       変わらない、なにも。
       変わってはいけない、なにも。
       これで良かったはずなのに、その事実は胸にこたえた。

      ──痛い。痛い。痛い。

       あの時言えば、とありもしない選択に自己嫌悪に陥りそうになった。
       浅く呼吸を繰り返し、胸の痛みを堪えるようにハルは両手のひらを胸に押し当てた。
       苦しい、と自分の深層が叫んでいる気がした。

      「……小田切はお前にとってそこまで重要な人間なのか」

       徐に中瀬がハルに尋ねた。それは純粋な問いだった。素朴な疑問だったのだろう。

      「お前が此処に来てからというものお前はやたらと小田切に懐いた。それは、これが理由か」

       物語の結末を、知っている。
       神が人の思考、行動、結果を理解しているかの如く人の結末が運命づけられるように。

      「お前は─」

      ──どうしたいんだ。

      中瀬の問いに、ハルは顔を上げた。




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