• 2−3

       春の匂いがした。それは、嗅覚として知覚するものだけではない気配のようなものだった。土手沿いの桃色の桜、人々の装い、肌を撫ぜる風、溢れる人と物に色彩がある。今も昔も、ただ変わらない営みと季節がそこにあることにハルは胸が締め付けられた。

       人が、生きている。

       ハルは肌身に感じる世界に記憶を重ねた。
       昔からこの時代に関心があった。それはいつからかは定かではなかったが、生活するあらゆる場面で、この時代を表す物に目が留まった。本屋に行けば、歴史書と昭和史のコーナーで立ち止まり、テレビのドキュメンタリーで昭和初期から戦後までの特集が組まれれば自然と指は録画ボタンを押していた。視覚と聴覚で得る情報はハルのアーカイブに記録されていく。
       そうして、ハルはいつも記憶の片隅にこの時代のことを置いていた。
       視界いっぱいに広がる世界がリンクしたのは色の屈折を組み合わせた液晶画面。多くはモノクログレーの世界だったが、その中でも鮮やかな色を再現した番組もあったと回顧する。
       ハルにとってこの時代は、どこか近くて遠い世界だった。

      「呆けてるぞ」

       景色に没入していた思考を引き戻したのは波多野の声だった。はた、と一気に現実の喧騒に引き戻されたハルは横を通り過ぎた彼の背を見つめた。腕を上げて後頭部で交差させたその姿はハルのアーカイブでは随分と最新の記録だった。最新の記録にいる彼が今この場にいる。その事実が奇妙で、可笑しかった。
       明け方、朝餉の支度のために食堂へと来たハルに既に準備を始めていた福本が手渡してきたのは、一枚の葉書だった。楮の質感が特徴的な肌触りのそれに描かれていたのは、桜と花見をする人々。裏を捲れば、達筆の読みやすい字で要件が書かれていた。

       飛鳥山方面の桜が見頃。ただ身体だけ持つて来れば由。気象台の予報では上天気とのこと。午前九時までに協曾前に。朝寝は無用。

       満開の時期は過ぎてはいるがまだ花見をするにはもってこいの天候と気温だ。
       しかし、なるほど花見か楽しいだろう、と葉書の文面を真正面から受け取るほどハルは素直な性格ではない。

      (暇つぶし、じゃなくて様子見かなぁ)

       相手の思惑が分からない、なんてことは現代でもそう変わらない。相手の意図が見えずに空回りすることは往々してある。否、むしろそれはいつだって普通のことだ。
       逆に、ずばりと己が心内を言い当てられると途端に相手に怖気が立つ。身の内にある聖域サンクチュアリィに土足で踏み入れられるような不快感に襲われるのだ。ただひとつ、誰にも犯せない領域を超える行為は深くその人を傷つける。ナイフのように鋭利な言葉の切っ先が裂くのはきっとその人の自負心なるものだろう。

      (触れられたくないだろうな)

       言わない方が互いのため。
       小田切に刺された釘がハルの中には深くめり込んでいた。

       駅構内には日曜とあって人が溢れていた。浮き足立った男女アベックや親子連れが散見される中、波多野に連れられ切符を購入し、ホームで待つこと十数分で市電は到着した。乗り継ぎを繰り返して飛鳥山線に乗り込めば車内は一層混み合いを増す。押し合いへし合い、まるで通勤ラッシュの都電かと脳裏に蘇った現代の感触に眉を顰めた矢先に、車内に目的地の駅名が響いた。
       ようやっと降りられる。安堵したのもつかの間、今度は大勢の花見客に背を押されることになった。

      (ちょ、バランスッ)

       花は急がずとも逃げない、と叫びたくなったがその前にハルの身体はぐらりと揺れ、前傾になった。右足で身体を支えようとしたが、もつれた足に掠れた悲鳴が漏れた。
       ホームと顔面がご対面になるかと覚悟して、目を瞑った刹那、ハルの腕は掴まれ降車ドアの脇に身体が連れていかれた。

      「大丈夫か」
      「あ、りがとうございます」

       あまりにスマートな身のこなしにハルはゆっくり瞬いた。引かれた左腕を軸に反転した身体、腰に回された手はやけに大きく感じられる。
       至近距離で改めて認識する眠たげな眼と挑戦的な意思の灯る瞳、決して恵まれていない背丈でも筋骨量が多いことが伺える体躯。
       改めて、此処にいるのが彼なことを突きつけられた気がした。

      「離れるなよ」

       そう言って手首を掴み波多野は歩き出す。掌から伝わるのは確かに人間の熱で、その温もりになぜか無性に堪えた。

       花見客で溢れる園内を散策する。はらりはらりと散る花弁をぼんやりと眺めながらハルと波多野は無言で歩いた。何を話すでもなく、何を語るでもなく、ただ時の流れに任せて足も進む。喧騒が遠くに感じられる中、ふと手首に感じる温もりに力が込められた。

      「珍しいのか」
      「え」
      「人と景色に随分と目移りしているようだからな」

       波多野は問いかけながらも、その言葉は確信じみていた。さすがというべきか、きっと彼は自分と朝待ち合わせたその時から表情から何まで、一挙一投足を観察していたのだろう。眠たげな眼まなこの奥で常に思考している。
       問いに応えようとしたハルは、もう一度手首を見つめた。じわりと広がる人の熱が現実を伝えていた。

      「昔からこの時代のことに興味があって、本を読んだり関連のテレビ番組を見ていたので、目の前にその光景があるのが少し、違和感があって」
      「違和感ね。自分が此処にいることに対してか」
      「それもありますけど、どちらかというと逆、なんです」
      「逆?」

       眉をひそめた波多野をよそに、ハルは行き交う人々に視線を移して目を細めた。

      「私が此処にいる、じゃなくて、どうして私の前にこの世界があるんだろう、て」

       世界があるから人があるのか、人があるから世界が作られるのか。そんな哲学的な問いを持ち出したところで建設的な答えは出てこない。世界はそこにあり、人も然り。ただそれだけだというのに、無意味にハルは思考してしまった。
       これは、近くて遠い現実だ。春の匂いがする現実はこんなにも、眼前に世界が広がっているというのに、ハルの存在そのものは現実から遠く離れていた。
       世界を俯瞰して、進む路の先を知って、見て、立ち尽くす。目の前に広げられた世界はハルの知っている世界であるのに、 しかしハル自らが体感したことではない。
       その事実にハルは立ち止まり、胸を掠める焦燥に俯くのだ。
       此処にいるのに、何処かにいるようで。

      「ふわふわ、しているんです」
      「ふわふわ?」
      「地に足がついていないというか、確かに私はこの世界にいて、私の前に世界はあるのにどこか見ているのは」

      ──夢みたいで。

       言葉にして想いを口にしたところで、改めて周りの景色にハルは意識を遣った。
       人が生きていて、肌で感じる季節の温度も人の息遣いも世界の音も何もかも確かにそこにある。それをハルは認識している。
       ただ、この現実はあまりに夢のようだった。
       夢ならば、いつまでこれはハルの前に在り続けるのだろうか。

      (マトリックスみたい)

       幼い頃観た映画をハルは思い出した。
       実存在を疑う内容だった。現実だと思っていた世界は仮想空間で、本物の体は培養カプセルの中にあったという設定は子どもの自分には衝撃だった。
       『目に見える世界が、本当に現実リアルなのか』
       映画は世界の存在そのものについて鑑賞者に問いかけてきた。
       知覚される感覚は神経を伝わり脳へと送られるのなら、脳がそれを認識してしまえばそこになくとも現実ということになる。夢か現実か、その区別を『人間自身』ができると誰が保証する、人間の認識の外にある事象だというのに。
      (温もりも、音も何もかも──)
       どこか遠くの夢のような感覚にハルは陥っていた。
       手の温もりすら、或いは─


      「──なら、俺達の存在はいったい何だ」


       ツンとした声音だった。喧騒の中で、やけにその声は響いた。尖った声にハルは目を見開いた。
       視線をスライドさせ、彼に向ける。
       刹那、一迅の風が吹いた。地面に桃色のカーテンを作っていた花弁達が舞い上がり、彼方此方で悲鳴に似た歓声が上がる。巻き上がった桃色が2人の間にも割って入り、ハルは思わず目を閉じた。

      「これも全てお前の夢か」

       これ、とは。
       何のことだろうと薄っすらと目を開いたハルの眼前に迫ったのは端整な顔立ちだった。男にしては長い睫毛、重たげな瞼、ハルを見据える真っ直ぐな瞳。思考する間も無く、息を呑んだ次には唇に温かな感触が感じられた。
       何年振りのキスだろう。
       喧騒が遠くに聞こえる。己の心音がひどく耳について、唇に伝わる感触の現実性を象徴しているようだった。
       触れるだけのそれは、ハルの意識を奪うには十分だった。


      (怒って…るのかな)
       帰路に着く頃には鴉が夕焼け空に歌っていた。雲ひとつない茜色が空を覆い、建物群を染め上げる。それは現代と変わらない光景だった。
       協曾への道すがら、ハルは波多野と一言も言葉を交わしていない。無言でハルの前を歩く姿に彼が何を心中で考えているのかは見当もつかなかった。
       しかし、あの尖った声だけはハルの耳に残っていた。
       人が疎らとなった路で、小柄なその背を見つめながらハルは両手を前に突き出した。親指と人差し指の間に九十度の空間を作り、双方の指先を突き合わせる。指で作られた長方形の空間越しに彼を捉える。

      「何やってるんだ」

       ハルの足音が止まった為か、波多野が振り返った。ハルのポーズに眉根を寄せて腰に腕を当てた波多野に、ハルは眉尻を下げた。

      「すみません、何でもないです」

       すぐさま、手を離して後ろ手に組んだ。曖昧に笑って貼り付けた面が自分でも気持ちが悪いと思ったが、咄嗟にその顔が出てしまった。取り繕うその顔はハルがこちらに来るまでに被っていたものだった。何か、自分の心を突くような問い、視線、仕草に対して条件反射のようにその顔が出てくる。まるで、予防線を張るような曖昧な笑み。無難な表情をするのは、何ということはない、隠す為だ。
       何でもなくはなかった。
       彼を捉えても彼はそこに居る。そこに居る彼を証明するのは自分だけなのに、自分が見ている世界を自分が保証できない。
      ここは何処だろう。自分は何処にいるのだろう。
       現実から逃げるためにのめり込んだ物語の世界が、眼前に現れた今、自分は一体何処にいるのだろう。
       触れた感触は確かにあるのに、彼を捉えることはできなかった。

      「何でもない、ね」

       低く呟いた波多野の眼光が、鋭くなった。ぞくりとハルの背筋に怖気が走る。瞳の奥に見えたのは、ひどく畏怖の念を覚える化け物だった。
       それは、まるであの小説の一節に出てきた─

      (魔王…)

       鋭利な視線に緊縮したハルに波多野は大股で近づくと、路地裏へと彼女の身体を引きずり込んだ。

      「なっ、ちょ…っと、ンッ」

       抗議の声を上げようとしたハルの声は彼の口の中に飲み込まれた。
       それだけではない。

      「ンッ、─ンンッ」

       脚間に脚を入れられ、押さえ付けられた身体が悲鳴をあげる。口腔を掻き回す舌が歯列をなぞり、絡め合い、嚥下できない唾液が口端から流れ出て顎まで伝った。生易しい口付けではない、ただ犯すようなそれにハルは蹂躙された。
       息継ぎする間もなく、その余裕さえ与えられずに過ぎた時間は分からない。キスなどしたこともない生娘でもないというのに、上気する頬が恨めしかった。力無く彼のスーツを掴んでも僅かに皺が寄るだけで、殆ど彼にとって無抵抗のような抵抗というように、波多野はハルにより深く口付けた。
      熱が内に篭る。外へ出す算段がつかない。

      (あつ、い)

       思考と視界が揺らめいた。

      「──ッ、はっ、アッ」

       意識すら混濁するかと思われたーその瞬間、見計らったかのように波多野はハルを解放した。突如、口から流れ込んだ酸素が一気に肺へと行き渡りハルは思わず咳き込んだ。身体が外気を吸い込んで、熱が放出される。むせたせいか目尻に涙が浮かんでいて、手の平でそれを乱雑に拭うと、何をするんだとハルは波多野を見上げた。
       しかし、見上げた先の相貌に目を瞠った。

      「気に食わないんだよ、お前」

       見下ろした彼の視線は、冷たかった。
       一言、ハルに向けて吐き捨てられた言葉は明らかな彼の心情だった。眉をひそめ、目を細めたその瞳の奥の闇の深さにハルは心臓を掴まれたような感覚に陥った。その瞳に反射的に思考する。
       何か言わなければ、と声を発しようにも喉から出るのは掠れた息だけで音を紡ぐことは叶わない。口を開いて、息を吸って、それでも伝えたい言葉も分からない。
       気にくわない。
       明確な嫌悪の言葉だった。

      (いったい何を言う?)

       一瞬、ハルは躊躇した。
       その一瞬だけで波多野にとっては十分だったらしい。
       逡巡した彼女を視界から外すと、波多野は踵を返してその場を去った。離れる背中はまるで己を拒絶しているように思えた。
       遠ざかる背に目を細めて、ハルは徐に口元を押さえた。感じた熱、上がる息、眼前にあった存在は確かにそこに現実があることを証明していた。此処に在る世界を確かにハルは感じていた。
       それでも、ハルは言い淀んだ。
       そして、考えてしまった。



      ──あのまま、意識をやっていたら。




      「……戻れていたのかな」




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