3−1
憂愁の色が濃いその瞳はいつも自分に向けられていた。視線が向けられていると気づき、交錯すると直ぐにその視線は避けられたが、それが己に向けられていたことは否が応でも分かった。
それに小田切が気づいたのは、あの遊戯ジョーカーゲームの最中さなかだった。卓を囲んで、目と耳と、五感をすべて使い探り合う。異様で異質なゲームにおいて、むしろ彼女の存在こそが異質であったかもしれない。
既知の光景を彼女は漫然と眺めていた。そこで何が行われているのか、を理解しながらしかしそれに混じるほどの技量は彼女にはない。それを知っている何人かが彼女に業とサインを送り、返ってこない反応に悟られぬよう口角を上げていた。流れる愉悦の空気に小田切は顔をしかめ、書物に落としていた視線を上げ、彼女を見遣った。
瞬間、小田切は硬直した。
彼女は、小田切と視線が合わさった刹那、瞳をわずかに見開いた。次いで、平静を取り繕っていた表層が歪んだ。見えたその瞳には、哀の色が滲んでいたが、小田切の視線に彼女は直ぐに顔を背けた。ぐっと結んだ唇が、ひどく物憂げで。
その姿に小田切の胸は騒ついた。
何故、と思案に走る間も無く彼女は「失礼します」と足早にその場を後にした。まるで、その場にいることを耐えられないかのような素ぶりだった。
(何故、彼女なんだろうな)
報告のための資料をまとめ終え、協曾の廊下をひとり歩きながら小田切は彼女の相貌を脳裏に描いた。
戸張ハルはただの凡人だった。訓練生の誰から見てもそれは明白でそれは彼女自身がよく自覚していた事実だった。語学に素養があれば国際電信を秘密回線を通じて傍受、これを聞き分ける仕事に就かせられたかもしれないし、外国公館出の手紙類の仕分け程度させられたかもしれない。医学薬学に精通していれば医療器具の調達、薬の調合を任せられたかもしれない。秀でた分野があればそれだけでこの学び舎では武器となる。
彼女はしかし、凡人だった。
しかしながら、訓練生もましてやあの魔王すら知り得ない先を知っていた。未来、という不確定な要素を彼女は知り得ていた。
それは首を捻る事態だった。
仮に神というものが存在しているのなら、何故彼女を此処に寄越したのだろう。全てを知り得る存在ならそれこそ作家本人、或いは歴史学者、を寄越すのが妥当だというのにやって来たのはただの女だった。先の出来事を知っているという点で、ただの女、と切り伏せるにはあまりに安易だが、それでも特筆すべき技能も知識もない。
ただ唯一、絶対的に彼女が主導権イニシアチブを握っているのは、彼女の存在そのものだった。
D機関の存在、各訓練生の任務先、成果、先の世の出来事、結果。
何が起こるのか、起こった結果何がもたらされるのか。その情報はスパイとしてこの先情報収集に当たる全機関員に少なからず衝撃を与えた。
自分達は神が定めた路レールの上を歩くだけの存在だとでもいうのか。物語の中で配置された駒として意思も行動も決められた人形ドールだというのか。己の存在も、意思も須らく己のものであるという、疑いようのない事実がここで覆されるような不快感は少なからずあの場にいた全員が抱いたものだった。
例に漏れず、小田切は彼女の物語を聞き即座に心に決めた。決して、先を聞くことはしない、と。
どれだけ彼女の瞳に憂いが見えても決して先の路に関して言葉を交わしてはいけないのだ。
ひと気のない廊下を進んでいると、資料室のドアが開いた。室内から出てきたのは、彼女だった。
「戸張」
その背に話しかければ、華奢な体躯がびくりと跳ねた。か細く震える体を捻り、彼女は小田切に視線を合わす。振り返ったその瞳は不安げに揺れ、下がった眉尻が彼女の心を表していた。
あまりにも彼女は、凡人だった。表層に見えるのは、必死に隠そうとする心内だった。
彼女には何一つとして伝えていないにも関わらず、彼女は知っている。カール・シュナイダーが死したことも、そしてこの先どのような結末をこの物語が迎えるかも知っている、故の心情が表れているのだとしたら。
そこまで考え、小田切は首を振った。意味のない思考だ。たとえ、この先の真っ黒な孤独がいかなる結末が導こうとも、小田切が揺り動かされることはない、あってはならないのだ。頑迷な男かもしれない。しかし、小田切の矜持は彼女に尋ねることを許しはしなかった。
しばし、二人は向かい合った。音の流れない空間に耐えかねたのか「小田切さん、あの」とハルが口を開いたが、次の言葉は出て来なかった。口ごもった彼女は視線を床に落とし、結んだ唇から必死に何かを発しようとしているのか、口元がまごつく。握りしめた拳は震えていた。
小田切は思わず手を伸ばした。
「……戸張」
頭こうべに掌を置き、二、三度優しく撫でる。一瞬、緊縮した彼女にかける言葉は見つからなかった。ただ、ひどく哀切の色を浮かべる彼女を置いていくこともできなかった。
「すまないな」
何に対して、と言えはしない。先を知らない小田切にそれを明言することはできない。が、言葉の意味を理解したのか、彼女は小さく首を振った。悄然とした姿は変わらない。
それ以上は、互いに何も言葉を交わすことはなかった。交わす時間もなく、彼女は廊下の端から姿を現した三好に呼ばれた。
「戸張さん、仕事ですよ」
仕事、とは買い出しのことだろう。三好の呼びかけに彼女は「今行きます」と憂いた表層を僅かにほころばせて応えた。そして、今一度小田切に頭を下げ、そのまま逃げるようにして彼の横を通り過ぎる。
その横顔には、暗い陰が落ちていた。
*
「着物の着方はもう分かりますね」
三好の質問にハルは無言で頷くと、ブラウスの釦に手を掛けた。一番上から、ひとつ、ふたつと開けていく。下へと手が伸びる過程で、腰回りに辿り着くと今度はスカートの留め金を外した。パサリと落ちた茜色のスカートが無造作に床に脱ぎ捨てられシワを作る。そうしてハルは残りの釦を外し終わると、惜しげも無く、その肌を露わにした。
三好は無言でその姿を見つめていた。しかし、彼の視線を意に介さずにハルは作業を進めていく。
肌襦袢を身に纏い、藍染の着物の袖に腕を通す。するりと通した腕で、まず腰の位置に共衿先、衿下を合わせる。着丈を決めて、下前、上前と被せていき腰紐を結んでいく。深紫の伊達締め、そして薄紅色の帯を二重太鼓で結べば、仕上がりは上々だった。
「及第点、ですかね」
ハルの着付けを一から眺めた三好は最後の仕上げに帯の位置を直した。「すみません」と謝るハルに三好は平坦な声で答える。
「別に怒っていませんから」
帯から手を離した三好は、ハルの姿を今一度眺めて首を縦に振ると、とんとんと自身の頰を指してハルに尋ねた。
「化粧はどうします?それに足しても良いですが」
三好の問いにハルは静かに首を振る。「結構です」と応えると、ハルは化粧台の前に立ち、鏡を見つめた。そのまま数秒、己が顔を確認するとそのまま三好に伝える。
「きちんとできてると思います…たぶん、傍目からは分からないかと」
鏡の中にいる自分の姿に、彼女は目を細めた。
化粧ひとつ、髪型ひとつで女は変わる。そこに、着るものが加われば、醸し出す雰囲気が一変する。
「行きますよ」
視線で付いてくるよう促した彼にハルは続いて協曾を出た。
決して交わらない双曲線上を歩いている。
四月の風は、まだ少しひんやりと冬の名残があった。桜も満開を過ぎ、後は花弁を散らしていくだけとなる時節だった。通りを行き交う人が名残惜しそうに空を見上げて目を細める。散る花弁の中を走る童子達は桃色の雨にはしゃぎ踊り、春の景色を人々が彩っていた。
たった半月しか居ないというのに、もう季節の移ろいが感じられる。喧騒を背に、ハルは足を進めた。
カランカランと下駄がなる。藍色着物は春の色に良く映えて、暖気が混じる春風に裾が揺れた。
ゆったりと歩いた先、ハルが辿り着いたのは、下町の商店街だった。昼前の賑わいが通りを埋める。活気が空気を伝わり、あちらこちらで呼び声が響いた。
「いらっしゃい」と快活な声でハルを呼び込んだ八百屋の店主にハルはにこりと笑みを向ける。よく来る八百屋だが、店主はきっと今のハルを 知らない=B顔を塗り替えられたハルの姿は、素人目では分からないだろう。
店頭に並べられた野菜をひとつひとつ眺めて品定めをする。
「からし菜と人参、みずなと…あ、でも筍もあるのね。うーん…でもなあ」
選ぶ素振りを見せて、うんと悩んでみせる。人懐っこい笑みでちらりと店主を見ると、豪快に歯を見せて彼が笑った。
「ははは! 筍も買ってくれたら、もうひとつ何かつけてあげるよ」
「ふふ、お上手ですね。ありがとうございます」
目尻を下げて嫋やかに微笑めば、店主は気を良くしたように口元をこれでもかというほど緩めた。藍染のガマ口財布から硬貨を取り出したハルに「別嬪さんには負けるね」と、店主は品物を渡す。それらを籠に入れたハルはもう一度、華のような笑顔を見せた。
「また来ます」
人の良い顔だった。その顔のまま店主に会釈し、瞳を伏せて躰を店の外に向ける。
「待ってるよ」という店主の声を背に来た道を引き返す相貌は、既に笑っていなかった。
──今日は、四月十一日だ。
物憂い日々が続いていた。ただ、漫然と過ぎる一日、一日が疎ましかった。満開だった桜が散り、春風が街を凪いで時間さえも連れ去っていくような感覚に陥る。ただ進んでいく時が無情で、止まってほしいなんて意味のない稚拙な願いを口にしたくなった。
「いやなのに、なぁ」
帰路についていた足は真っ直ぐ協會に帰らなかった。木造家屋が密集する住宅街を歩いて、ただあてもなく歩いて。何処へ行きたいとか、そんなことを考えることもなく歩いた。籠の中にある野菜のことも、頭にはなかった。
中瀬に現実を認識させられた日から、ハルは訓練生との接触を極力避けた。顔を背け、雑務だけをこなし、口を噤んだ。ぎこちない笑みを貼り付けた自分はきっとひどく歪だったろう。
──自信が、なかった。
曖昧な笑みですべてをかわして、夢のような世界で現実を想う。
それが、ハルの対処法だった。
それが、ハルの選んだ生き方だった。
そうでもしないと、耐えられる自信がなかった。
はじめは必死だった。堕とされたその瞬間は、ただ目の前の事象を噛み砕き咀嚼し情報を統合して最適解を導き出すことに思考を集中させた。己が価値を客観視し、己が立ち位置を俯瞰し、最大限に知る立場を利用した。
生きる、ためだと思った。
それでも、知る立場がもたらすのは葛藤以外のなにものでもなかった。
望まない未来のために事象を捻じ曲げる罪悪感はハルの口を閉ざした。何も見なければ、何も言わなければ、完璧な物語は侵されることはない。それが、正しい、それが最善だと思っていた。だからこそ、ハルは小田切の言葉に頷いたのだ。
言わない方が幸せなのだと。
知らない方が幸せなのだと。
そう、信じたかった。
それを覆そうとする、あの瞳が、ひどく、
恐ろしかった。
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