• 3−2

      「──何処までほっつき歩く気ですか」

       ひどく呆れた声音にハルは意識を現実へと返した。狭い路地に入り数歩歩いた刹那、背後から声をかけたのは、三好だった。そうだ、彼は目付役として終始自分を見守っていたのだった。
       三好に振り返ったハルは気怠げに口元を歪めた。「ちゃんと帰りますよ」と自嘲を含めた声音を出すと、再びゆらりと歩き出す。
       どこへ行こうと詮無きことだ。どうせ、帰る場所は、帰らざるを得ない場所となっている。迷い子が行き着く先は、飼い主の元だけだ。
       ただ、今ここで、あの場所に戻りたくはなかった。脳裏に蘇る光景、情景、去りゆく背を見ることを拒む己がいた。
       ──どこへ行きたい?
       ──さあ、わからない。
       ──何をしたい?
       ──さあ、わからない。
       無意味で無感動な会話が脳内で交わされる。自問自答を繰り返しても自分が望む答えなど出ないというのに、ただ脳を消費させるために考える。
       空っぽな頭のまま、ただハルは前に進んだ。が、くん、とハルの身体は後方に引かれた。

      「まだ、時間はありますよね」

       振り返りながら、ハルは自分の腕を掴む三好に笑みを貼り付けた。
       三好は、ハルの瞳を見据えながら問う。

      「君は、何処にいるんだ」

       僅かに寄せられた眉が眉間に皺を作って、彼が今、上機嫌ではないことを表している。飄然と他者を見定める彼らしからぬ視線だと感じた。
       慇懃な口調が外れた彼に、ハルは答える。

      「さあ、何処でしょう」

       戯けた調子で宣えば、眉間の皺がさらに深くなった。
       そういえば、存外彼は感情を出してくれる機関員だった。ハルは、物語の中で見た彼の相貌と現在を重ねてふとこみ上げた笑みを噛み殺した。
       何処にいるのかなんて、知らない。
       そんなことはハル自身が聞きたかった。自分はいったい何処にいるのか。その次はなぜ、何のために、いつまで。際限なく浮かぶ疑問は、答えを一つとして持たない。
       無意味な思考遊びを繰り返したところで意味はなかった。

      「三好さんは、此処にいるんですね」

       己の腕を掴む彼の手に視線を落として、ハルはぽつりと呟いた。

      「ちゃんと、生きてる」

       陶器のような肌、男にしては赤い唇、少し癖のある髪。届くはずのなかった登場人物キャラクターが生きる世界になぜ、異物が混入したのだろうと幾度となく考えた。巡る思考に答えなどないというのに。

      「自分は生きていないと言いたいのか」
      「分かりません。生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない」
      「……生死を超越しているとでも? 神にでもなったつもりか」

       吐き捨てるように語気を強めた三好を無言で見つめ、ハルは乾いた笑いを漏らした。
       そんなことは、自分が一番よく思っている。

      「神だったら、良かったのに」

       深い自嘲が、言葉に乗せられる。地を見つめていた虚ろな瞳が、ゆっくりと三好に向けられた。

      「ねぇ、三好さん」

       ──私は、何なんですか。

       震える唇で、引きつった頬で、どこか縋るような声音で、ハルは紡いだ。
       この世界にとって自分は何なのか。
       どうあるべきかは示されていても、どうある存在なのかは不明瞭なままの、曖昧な現在いまがひどく不安だった。
       生きる術だけは多様にあっても、生きる意味が分からない。関わるべきではない完璧な物語の中で、自分の立ち位置を見失って、路頭に迷っている。
       なぜ、自分は此処にいて。
       なぜ、目の前に彼らがいるのか。
       逃げることが許されない現状に、激情がこみ上げる。せり上がった想いはしかし目の前の彼を前に霧散した。

      「……馬鹿なことを言ってすみません。戻りましょうか」

       聞いたところで意味などない。化け物たる彼らにとって、ハルの存在などあってないようなものだ。使える時に使う、それだけの凡人。凡人の戯言など右か左へ流す程度のものだろう。

      「試してみますか」

       そう思っていた矢先の三好の言葉は、ハルにとって思いがけないもので。
       虚ろな瞳で三好を見遣ったハルは、その鋭い視線に息を呑んだ。
       ハルを見据える彼の瞳は、異様なほどの冷たさをはらんでいた。氷点下の視線がハルに向けられている。その瞳だけで、心臓が止まりそうなほどに彼の視線は冷えていた。
       何を、と聞く間もなかった。

      「みよ、しさっ…」

       視界が反転した。と、認識した時には肺が既に酸素を取り込んでいなかった。首にかけられた三好の掌は暖かいというのに、指先は冷酷にハルの呼吸を絶っている。己を見下ろす瞳はひどく落ち着いているように見えた。

       三好はハルの首に手をかけて、息の根を止めるようにその細い指先に力を込めていた。

       狭い路地裏で、昼間といえどもひと気はない。塀に押し付けられた身体がずるりと地に落ちる。それでも、三好と手の力は緩められない。

       くるしい。くるしい。

       脳が、身体が悲鳴をあげる。拒絶反応が全身から吹き出て、首に掛けられた手を引き剥がそうともがいた。捕食者に捕らえられた生き物のように、足掻いて。
       そうして、彼の瞳を見つめた時、何故だかふと、ハルの身体から力が抜けた。

       苦しい、くるしい。
       でも、これで──

       ──終わる。

       脳が身体が麻痺していく。
       脳裏に浮かぶあの哀切に満ちた顔貌も
       先に待ち受ける凄惨な未来も
       語ることの許されない虚構の世界も
       何もかもが夢であって、そして
       もしかしたら、あの場所に。
       もしかしたら、これで─

       細りゆく意識が甘い毒を吐いた時、


       ──死はすべての終わりだ。


       霞みがかった思考の中で、ひどく冷たい声が響いた。

       無意識だった。
       声が響いた刹那、ハルは首に掛けられた三好の手を掴むと、渾身の力を込めて己の体を右へ傾けた。必然的に、ハルに覆い被さっていた三好の身体も傾き、拍子に腕の力が緩む。そのまま、二人の視界は反転した。

      「……っ、ハッ、あっ、…」

       一刹那の身体の反応に、ハルは驚きを禁じ得なかった。現実に意識を戻した時には、自分が三好の上で彼のスーツの襟を鷲掴み、馬乗りになっていた。
       ──しまった。
       状況を俯瞰し、ハルは慌てて彼から降りた。

      「す、みませんっ! 私、つい、その」

       なんてことをしているんだ。
       彼の身体を押し倒している自分を叱責したかった。
       しかし、青ざめたハルに対して三好の反応は平坦だった。

      「何を謝罪しているんですか」

       上体を上げると、スーツのシワを直して土埃を払う。あくまで平静なその反応がかえって居た堪れない気持ちを沸き起こさせ、ハルは再度三好に頭を下げた。ハルの謝罪に三好は嘆息する。

      「あのまま死にたかったんですか」

       侮蔑を僅かに含んだ声音だ。三好の問いにハルは身体を硬直させた。
       死ぬ。その言葉を彼から聞いたことが、無性に堪えた。そして、自分の行動を顧みた。
       死にたかったわけではない。

      「ちが、います。私は、」

       それでも、そう。自分は、

      「見つけたかったんです、私を。そうして、私は」

       此処ではない場所にいるかもしれない自分を見つけて─

      「逃げ、たかった」

       絞り出した音に乗せたのは、切願と懺悔。己の胸を掴んで、はっきりと綴ったのは痛いほど感じる胸の内だった。
       逃げて、逃げて、現実逃避のために逃げた物語の世界から、今度は自分の本当の物語へ。
       ただ、苦しいところから逃げたかった。
       どこにいるのか分からないのに、どこかに逃げたい。ままならない現実はいつだって外の世界への逃避を誘う。
       あの時も、今も、ハルはどこかに行きたかった。社会から逃げて、彼らから逃げて、無力な己から逃げて、そんな自身を見たくなかった。
       認識してしまえば取るに足らない理由だった。凡人ならではの願望は稚拙だ。
       自身の矮小さに下唇を噛んだハルに、三好が問いかける。

      「戸張ハル」

       ゆっくりと面を上げたハルは、彼の顔貌に目を瞠った。
       これは、見たことがあった。この顔は、知っている。
       冬の寒さが肌を刺す地で、彼がかの国で暗躍していたスパイに見せた顔。それは紙面の上でしか見たことのない言葉として、ハルが知る彼の相貌プロフィールだった。言葉から伝わる彼の顔は、決して彼の、三好の仮面カバーではない。

      「君が此処をどう認識するかは、君の勝手だ。が、ひとつだけ聞かせろ」

       これは、本当の彼なのかと言う問いが浮かび、そして消えた。

       ──その瞳が、本当か嘘か。
       ──その言葉が、虚構か否か。

       そんなことは、とても小さなことだった。
       彼の瞳は真っ直ぐで、彼の言葉は力強く、ハルを鼓舞した。


      「君は、生きたいか」


       彼の口から発せられたその問いは、確かに、ハルに届いた。その一言が、ハルの胸に染み渡る。

       ──ああ、そうだ。

       勃然とした波多野の相貌、詰め寄った中瀬、生死の欲を問うた三好。
       何もかも、ひとつの問いに行き着いていた。
       生きたいか、それは生の消費だけを意味しない。
       生きて、いく意味。
       それは、ハルが現実で捨てた棘のようなものだった。
       現実を憂いて、社会の圧に押し潰されて、何もかもが虚無となった世界でハルはその意味を失っていた。どこにいても、誰といても、もはや自己を喪失したハルにとって全てが毒だった。

       それでも、ハルはきっと─


      「生きたい、です」


       その言葉を口にしたかった。

       自分の意思を表に出して、自分の存在を認めて、人を感じて、ただ生きたい。
       どれだけ逃げても、どれだけ憂いても、結局最後に行き着くのはただそれだけだった。
       口にして、初めてハルは自分の気持ちを確認できた気がした。

      「なら、いい」

       ハルの答えに三好は薄く笑った。その相貌に目を瞠ったハルは、それでも三好の微笑を好ましく感じた。
       現実も虚構も関係がない。そこに確かにある表層は本当だ。
       己を見つめるハルに、三好は徐に口を開いた。

      「先日、小田切に言いました『これは貴様の任務だ』と」

       ハルの心臓が大きく波打った。三好の顔を見つめながら、ハルは記憶の中の彼らの邂逅を思い起こす。
       知っている。彼がその言葉を小田切に言い放つその瞬間をハルは見たことがある。
       しかし、なぜそれを自分に?
       硬直したハルを見かねたのか、三好は態とらしくため息を吐くと彼女の手首を掴むと身体を引き上げながら続けた。

      「生きたいと願うなら、君が決めろ」

       投げやりな言葉に、なぜか胸に込み上げるものがあった。

      「君は神でも悪魔でもない。僕達の目の前で生きている、人間だ。なら、この先の選択も結果も、君自身のものだ」

       至極当たり前で、それでも、ハルにはひどく困難だった、ただ己の意思で先を掴み取る行為。
       赦されないと思っていた。
       自分の存在も選択も間違っていると認識していた中で、それは当然の考えだった。
       しかし、変えてしまう恐怖と苦しみから逃げたハルは、ここにはもういない。
       戸張ハルは、彼の目の前にいる。

      「最終報告はヒトサンマルマルだ」

       とんと背中を押され、前のめりになった身体を立て直して振り返ると、肩をすくめた三好がしっしとハルを手で追い払った。要は済んだと言わんばかりの扱いだったが、ハルにとっては充分だった。

       来た道を引き返すために、ハルは一歩踏み出す。が、はたっと目を開いて思案顔をすると、もう一度彼に向き直った。

      「三好さん」

       これ以上なんだ、と訝しげな顔を向ける三好に、ハルは朗らかに笑った。

      「ありがとうございます」

       曖昧で無難な笑みではない。心の底から、彼に対しての感謝の言葉を舌に乗せて紡いだ。言葉と顔貌に、三好は僅かだが目を瞠った。
       伝えるだけ伝えると、ハルは走り出した。純度の高い青空、抜けるような蒼天の下を彼女はまっすぐに走った。

           *

       女の後姿を見送った三好は彼女から受け取った言葉を反芻した。

      「……ありがとう、か」

       掌にはまだ人肌の温もりが残っている。手をかけようとした、その首の血潮の巡りまで指先にまだ感じられた。
       もとより、殺す気などなかった。死ぬな、殺すな。死はいつでも人々の最大の関心ごとだ。ましてや、身元不明の女の死体など不審極まりない。殺す、などという行為に手を染めるほど三好も、他の訓練生も愚かではなかった。
       ただ、その気は込めた。頚動脈に指をかけ、血流を止めれば脳に血液が行き渡らなくなり人間は簡単に死ぬ。締めることによる死を連想させるために、躊躇なく三好は彼女の首に手をかけた。命が消えていく、生が薄れ行くその冷たい感触を指先に込めて無感動な瞳で彼女を見下ろした。抵抗などあってないようなもので、赤子の手をひねるほど造作もない行為に彼女はその生を手放しかけた。
       虚ろな瞳から完全に光がなくなる、刹那だった。
       ──存外、丈夫じゃないか。
       乱れたネクタイを締め直しながら、三好はくつりと笑みを溢した。
       神でも悪魔でもない。世の理の外側から来た異人は、ただの人間だった。ただの凡人、ただの女。
       しかしながら、感情的で独善に酔い易い女という生き物にしては欲望をよく理解している。
       欲を制限する人間は信用ならない。利己性を拒絶する人間は、己が欲望の前に暴走する傾向がある。己が欲を理解し、腹に落とし込み、その上で行動に移す過程プロセスを踏む人間というのは、先が読み易かった。
       日陰となっていた路地を歩きながら、三好は彼女の相貌を思い浮かべる。

       彼女の欲望は解き放たれた。
       物語はようやく、進展する。

      「存分に踊ってくれよ」

       陽光が射す通りへ出て、大東亜文化協曾へと明日を進める道すがら、仮面の下の己が、愉悦に口元を歪めた。




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