落花の記憶
倶東国皇帝の側室にして正二品の位を持つ九嬪の一人、杜 螢尓妃は危篤に陥っていた。病に伏せった母は息も絶え絶えながら、かつて一国の正妃だったという事実を過去のものと感じさせない威厳を保ったまま、枕元で見守る娘に静かに語った。
決して忘れてはならない。
父や民を、国を失ったあの忌まわしき日のことを。
忘れず、しかし憎しみに心を呑まれ、己を見失ってはならない。
私や貴女のような者をもう二度と、作り出してはならない。あの悲劇を繰り返さぬよう、争いに満ちたこの国を変える。
それが苦しみを知る、貴女の役目。
月藍……―――
一瞬、杜妃の瞳に弱さが翳る。
彼女の脳裏には安穏だった頃の記憶が映し出されていた。
走馬灯のように次々と、浮かんでは消えた。
今は亡き伴侶の景武帝と彼の横に持する自身の姿に、屈託のない無邪気な笑顔を浮かべるたった一人の大事な世継ぎ。
「月藍……」
意識を微かに現実へと戻せば、記憶より少し大人びた娘が覗き込んでいたが、弱り切った杜妃の瞳はほとんど機能をなしておらず、全てが霞み揺れていた。
くすんだ瞳から、涙が一筋頬を伝う。
「ごめんなさい、私が、私が……」
ここに来て初めて見る母の弱り切った姿に、月藍は必死な思いで手を握り締めたが、果たして慰めになっただろうか。
杜妃はずっと悔いていた。
祖国が倶東国の襲撃を受けたのは、属国になれとの要求に応じなかったからだけではない。
好色な皇帝が、杜妃の美しさに目をつけて彼女を奪おうとしたからだ。
どれほど、己を恨んだことか。
「月藍、どうか……どうか景武帝と国の無念を、」
最後の気力でそう振り絞った杜妃は、暗闇に染まる視界の中で月藍が涙を流しながらもしっかりと頷いた姿を収め、儚く微笑んだ。
倶東国の領地より僅か南の位置に、瑪泪国という小国があった。
皇帝である景武帝と皇后の螢尓、そして皇女の月藍公主が収めるこの国は、小国ながらも武や芸が他の大国に負けず劣らず、豊かで発展した国だった。
いつまでも続くと思われる平和な日々。
国民の誰からも崇敬の念を抱かれる皇帝に、慈母と謳われる美貌の皇后。
その二人から誕生した、数多の可能性を秘める世継ぎの皇女。
年々進化を遂げていく瑪泪国は、いずれ他の四大国に匹敵する国家に成長するだろうと思われた。
しかし、そんな国を欲深い肖豈帝が治める国、倶東国が見逃すわけがなかった。
瑪泪国の豊かな富と技術、更には神秘的な美しさを誇っていた螢尓に目をつけた肖豈帝は、皮肉なほど美しい青空が広がっていたある日、地獄を起こした。
なんの宣告もなく領土全方位を倶東国兵に取り囲まれた瑪泪国の民は、逃げ場もなく命乞いすら聞き入れられず、その命を次々と奪われていった。
老若男女問わず。
美しい外観に覆われていた国は、一日にして惨たらしい殺戮の場となったのだった。
眼前で景武帝を失った螢尓皇后と月藍公主は捕虜として、また唯一の生存者として倶東国へと連行された。
そこには生きた地獄といっても過言ではない、酷な環境が母娘に待ち構えていた。
螢尓は肖豈帝の側室として後宮に上げら
れ、娘の月藍も倶東国第7皇女としてその身分を変えられてしまったのだ。
いっそ国と共に滅ぼされた方がどれだけ良かったことか。
祖国の敵である男の側室になるなど、小国とはいえ国の皇后だった女からすれば屈辱以外の何物でもない。
ましてや淫奔な肖豈帝は螢尓の美しさをいたく気に入り、毎晩のように彼女に夜伽を強制させたのだ。
更に他の妃達から浴びせられる罵倒や蔑みの眼差し。
いくら側室や皇女の身分を与えられているとはいえ、宮中の者達からすれば螢尓や月藍は敗国からの戦利品という認識でしかない。
皇族や使用人問わず、二人は侮蔑の対象とされていたのだ。
―――それでも、螢尓はかつての気品と揺るぎない信念を損なわなかった。
どれほど蔑まされようと、良いように扱われようと。
唯一の生き残りである自分達が悲劇に呑まれてしまっては、滅びた祖国が報われないとの一心で。
何より彼女は月藍に蛇の道となる使命を背負わせるのは避けたかった。
しかし螢尓の願いは報われない。
彼女の命は、もう長くなかったのだ。
祖国の滅亡を己が招いたも当然だと、最後の最後まで悔やみ続けた貞淑な無き瑪泪国の元王妃、杜 螢尓は娘である月藍とその次女の瑞瑛に見守られる中、静かに息を引き取った。
彼女の死を知った倶東皇帝 肖豈帝は悲嘆した。
しかしそれは己の側室の"螢尓"を失った事への嘆きではない。
「あの女は類い稀にみる美しさだったであるに……最早あの体をいかように扱えない事が悔やんでならん」
側室として、あまつさえ人としてですらなく、体のいい愛玩具として螢尓は扱われていた事が、皇帝の発言から分かるだろう。
落ちぶれたとはいえ嘗ては王妃だった身分の者の死に対して、この言いようは侮辱しているにもほどがある。
このことを瑪泪国からの唯一の付き添いである侍女の瑞瑛から聞いた7歳の月藍は悲嘆にくれながらも、その拳は怒りに震えていたという。
遂に母君すらも失ってたった一人、孤独な道を歩む事となった主の行く末に茨しか見い出せず、ただ見守るしか出来ない無力な己を瑞瑛は歯痒く思った。
誰もが予想していた通り、螢尓の死を皮切りに権力を武器とする宮中の者達は、総出で月藍の市民降格を要求し始めたが、皇帝はそれを是としなかった。
螢尓の面影を持つ月藍をみすみす手放したくはなかったのだろうが、意外に月藍自身も宮中に留まる事を強く望んだという。
それをよく思わない者は数知れない。
特に螢尓を疎ましく思っていた後宮の側室達とその子供達、側近達は身に余る権力にしがみ付く愚か者だと酷く罵った。
だが、月藍をよく知るほんの一部の者達は、彼女の真の狙いに気付いていた。
気付いていたからこそ、やるせなさを感じてならない。
まだ年端もいかない女子が、到底背負いきれない重荷を受け止めたという事実に。
誰もが避けるだろう、過酷で途方もない戦いの道。
月藍は躊躇いもなく進み始めた。
どんなに辛かろうと、命が尽きようと。
最期まで孤独だと思っていた。
傷つくのが自分だけで済むなら、寧ろ独りで構わないとすら。
しかし事態はある日を境に大きな変化を迎えることとなる。
皮肉にも月藍が最も恐れていた事件が起きた事によって、彼女の人生は大きく変わる。
ある一人の、少年との巡り合いで―――