宿星の邂逅

杜 螢尓が逝去して暫くが経つ。
月藍は異様な速度で学と芸を学び、武を嗜み始めた。
国の皇女が、ましてや最も不安定な地位にいる者が身に付ける必要のある量でも、内容でもなかった。
とやかく言う周りを黙らせたのは、月藍が全てを悉く吸収していったから。
彼女の能力と見識の高さは、今や有力と謂われる次期皇帝達を優に追い越す程まで伸び続け、留まる事を知らない。
みるみる賢く、凛々しく、なにより母に似て成長する月藍に肖豈帝は悦喜した。
勿論、宮中に星の数ほどいる皇帝の側室と子供達は面白くない。

―――卑しい身の上でありながら、なんと愚かしいこと。
あの不遜な女によく似た姿。忌々しいことこの上ない。
あのような汚らわしい存在は早く追放するべきだというのに、皇帝は何をお考えなのか。

そんな悪口罵詈を至る場所から浴びながらも、月藍は前を見据えたまま進んで行く。
瑞瑛は常に己の前を歩く彼女をずっと見守っていた。
―――華奢な背中。
自分よりずっと小さい体なのに、大人ですらまいってしまうであろう立場を、月藍はこれまで一度も嘆いたことがなかった。
成熟し過ぎている。そうならざるを得なかった、というのが正しいだろうか。
宮中という華やかでありながら、欲に満ちた残酷な世界で独り生きてい行くと決めたあの日から。
月藍は逸脱した存在にならねばならないという事を強要されたのだ。
どれほど冷ややかな目で見られようが、悪態を吐かれようが、諸悪の根源である肖豈帝の下に仕える事を。
頼れる者は誰もいない、孤独で過酷な革命の道。
しかし、そんな月藍の環境に一つの変化が訪れる。
それは螢尓の死からおよそ2年の月日が流れ、月藍が7歳になったある日のことだった。


「肖豈帝が濱族の村を襲った?」
瑞瑛の報告を聞いて月藍は眉を顰めた。
放浪の民である濱族を、倶東国の者達が疎ましく思っている事は知っていた。
この大陸で彼等だけが持つ美しい金髪と碧眼の瞳、謎に満ちた出生が倶東国住民達を不気味に感じさせていたのだ。
だが……、と月藍は読んでいた書物を閉じて、物憂げに傍らの窓から空を眺めた。
なんて美しく晴れた青空。
今この国で悲惨な出来事があったと思わせないほど、澄んで美しい。
まるで、あの日みたいだ。
皆殺しにする意味がどこにある?
解り合おうとも歩み寄ろうともせず、何故自分達と違う者を恐れて排他してしまう?
濱族の者達が辿った結末に己の国の滅亡が重なり、月藍は己の拳を強く握り締めて軋むような胸の痛みを誤魔化した。
そんな彼女の追い討ちをかける事を辛そうにしながら、瑞瑛は更なる情報を告げるべく口を開く。
「……実は、まだお話すべき事が」
次に瑞瑛から知らされた事実に、月藍は目を見開いた。


捕虜のような立場で宮殿に連れて来られた者にしてはやけに豪勢な部屋に、一人の少年がいた。
年の頃は十を少し過ぎたくらいだろうか。
太陽の光を全て集めて縒ったかの様な金色の髪に、深い海を思わせる青い瞳。
少女と見間違えるほど美しい面貌だが、酷くやつれて悲壮の色に染まっている。
彼の哀れさを表す粗末な衣服が、豪勢な調度品が揃うこの部屋には不釣り合いで、少年の癒えない心と体の傷を更に深く、抉るようにその身に沁み込ませていく。
「、母上……」
一昨日に起きた出来事は嫌でも思い起こされてしまう。
あの時━━━溢れ出た感情が形になり、周り全てを呑み込んだ。
唯一の、母親すら。
自分が恐ろしい。
この国が憎い。
母を殺めてしまったしまった宿る力が憎い。
自分が、憎い。
少年が持つとは思えない、どす黒い負の感情が次々と生まれてくる。
心を、染めようとしてくる。
未発達の小さい体には大き過ぎる柔らかな寝台に身を横たえ、敷布を涙で濡らしていた時だった。
木製の扉を叩く音がして、ハッと顔を上げて身構えた。
まず脳裏に浮かんだのは昨夜強要された行為。
そのせいで全身が硬直するほどの恐怖に襲われ、呼吸すらままならない程になってしまった。
木と木が擦れる鈍い摩擦音がやけに大きく響く。
扉の先の者が、その姿を現した。

閉ざされた空間に入って来た者は、思ったより小さい姿だった。
そう、自分と同年代くらいの少女だった。
一見すると異様なほどの美しさを持つ少女だ。
清楚ながらも身に纏う衣服の豪華さは、少年にもすぐに分かった。
何より高貴で気品に溢れた身のこなしや佇まいから、彼女は自分とは違う世界に住む者なのだと察せられる。
少女の付き人であろう女性も後ろにいて、少年はびくりと体を揺らしたが、不思議と少女には恐怖心を抱かなかった。
しかし、だからといって心を許せるのかといったら、そうではない。
「……誰?」
一言、青褪める唇から洩れた声には拒絶の色しかない。
それに悲痛そうに眉を寄せた少女だったが、少年は分からなかった。
感情のまま、己の身を守るように目の前の全ての者達を撥ね付ける。
それは仕方のない事だった。
なにせ彼はこの国に、全てを奪われてしまったのだから。
手負いの獣のような。否、もっと哀れで悲しい姿だ。
怯えた瞳で己を見据える少年に、月藍はただただ心を痛めるしかなかった。
想像以上の悲惨さに、自分がどれ程軽く見誤っていたのかを思い知らされる。
母の姿を見て、分かっていた筈なのに。
全てを失った者の孤独を。
絶望を。
しれに今の自分は、この少年からすれば畏怖の対象であるこの国の人間。
よくも易々と近づけたものだ、と自分を浅はかに思う。
だが月藍には抑えきれなかった訳があった。
どうしても伝えたい。
彼の気持ちを、絶望を察する身としては、皇女である自分がすべき行動ではない。
分かっている、これは彼を利用して自分の気持ちを晴らす為の、最悪な行動と言って過言ではないと。
だが、それでも。開く口を止める事は、出来なかった。

「私は、倶東国第7皇女、月藍と申します」
その言葉に少年は瞳を大きく開いて、息を呑む。
倶東国の、この国の皇女。
昨夜自分を汚したあの男の娘?
無遠慮に素肌を這う固い手の感触が不意に蘇り、腹から喉を通って何か熱いものが込み上げてきた。
「ぐ……っ!!う、」
「‼大丈夫ですか?!」
嘔吐し出した少年に、月藍は慌てて駆け寄ろうとした。
少年は苦しみの中でもその気配を感じ取る。
……来るな!!!!
「っ、く、るな……!!」
少年の体から瞬時に放たれ始めた強い気に、月藍は伸ばしかけた手を引いた。
「月藍様‼」
異変に気付いた瑞瑛は月藍の腕を引いて下がらせる。
それほど部屋の空気は一変して張り詰めたものになっていたのだ。
月藍は自身を襲う冷たい気に、動く事が出来なかった。
乱れた金髪の隙間から、刃のような鋭い眼差しがそんな月藍を貫いている。
冷や汗に濡れた青白い額に浮かぶ青い痣、
……"心"……

青龍、七星士

月藍は辛そうに瞳を閉じ、少ししてから再び開くと真っ直ぐに少年を見た。
逃げてはいけない、気圧されたはいけない。
この国の宮中で生きていくと決めた日から、全てを負うと決めた筈なのだから。
決意を露わにした月藍を纏う空気は豹変した。
高貴で威厳に満ち、それでいて包み込むような優しさを感じる。
その凛とした瞳の中に在りし日の母の温かみを感じ、少年はドクリとした胸の高鳴りを覚える。
「私が言える立場ではない事は重々承知です。
でもどうしても貴方に伝えたい……」

本当に、ごめんなさい。

何も知らず、何もする事が出来ず、加害者である私のこんな言葉が貴方の傷を癒すとは思っていません。
でも、それでも、私は……謝らなければ胸が張り裂けてしまいそうだった。
全てに耐えられなくなってしまいそうだった。
「本当に、本当に……申し訳ありませんでした……」
瑞瑛が思わず止めるのも気にせず、月藍は少年に頭を下げて許しを乞うた。
一国の皇女でもある彼女が平民に平伏すなどあり得ない事だが、それほど月藍はこれ以上なく追い詰められていたのだ。
「何故、君が謝るの……?」
「━━━私が、貴方の一族を滅ぼしたも同じです」
国の罪は、曲りなりにも皇族である自分の自分の罪でもある。
ましてや皇帝達の企みに気付かなかった等、余計に罪深い。
もう二度と自分と同じ思いをする子供は増やさない、そう母の墓前で誓ったのに。
絶望で満たされている少年は、月藍の謝罪を真に受けた。
自分が滅ぼしたも同然……この子も、倶東国の皇女だという彼女も、母や幼馴染を自分から奪い取った一人なのだと。
そう確信し、拒絶心は膨れ上がった。
「……帰って」
「っ、」
「帰ってよ……!!出て、行け……出て行けっ!!」
まるで血を吐くような、聞いている方が苦しくなる叫びだった。
ますます月藍の精神を抉り取っていく。
大粒の涙を流しながらも憎しみの色だけは消さない青い色に、その奥に触れようなど今は到底出来ない……出来る筈がない。
「……ごめん、なさい」
伸ばしていた腕をだらりと降ろし、最後に消え失せそうな声でそう呟いて、月藍は静かに背を向けた。
控えていた侍女も酷く辛そうな表情のまま、月藍に次いで去って行く。
扉が閉まれば部屋は先程までと同じ、少年一人だけの空間になった。

「ははうえ、はは、うえっ……!!」
母から最期に押し付けられた青藍の真珠を握り締める。
悲劇の少年の慟哭が響く。
その嘆きは大きい。
まるでこの国全てを、呑み込んでしまいそうなほど。

扉の奥から微かに聞こえてくる泣き声を、月藍は辛そうに聞いていた。
「……月藍様、」
瑞瑛の労わりの呼び掛けに、月藍はその場から歩み始める事で返した。
この皇女が泣いた姿は母君が死んでから一度も見ていない。
いつも瑞瑛を頼もしく導いてきた後ろ姿。
そんな彼女の背中が、今はとても寂しそうに揺れている。
少年の姿にかつての自分を重ねたか、自分と同じ境遇の者が出来てしまった事か、或いはその両方か。
何故幼い子供達が、こんなにも傷付かなければならないのだろう。
「神よ……」
青龍神よ、貴方が本当にこの国の守護神だというのなら、どうかこの国を……彼女を、悲しみと苦しみからお救い下さい━━━
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Honey