氷青を溶かす花香

少年がこの宮廷に捕らわれて、幾日が過ぎ去っただろうか。
そういえば最近あの男が部屋に訪れる事がなくなった。
決して彼の心が晴れるわけではないが、それでも少しは落ち着ける時間が増えたというものだ。
来たばかりの頃は一日中見張りが出入り口で待機していたが、それも最近いなくなる時が増えてきた。
少年をこの城に迎え入れた本当の目的―――青龍七星士として成長させる為の動きが始まってきたという事なのだろう。
彼の意志などこの国には何の価値もない。
奪えるだけ、骨の髄まで奪い尽くし、そして何も与える事はない。
それがこの倶東国という国だ。
少しばかり冷静に思考を動かせるようになった少年は、数日前に訪れてきたあの皇女の事をふとした時に思い起こす時間が増えてきた。
強く拒絶した時より後に彼女が姿を見せる事はなかったが、あの皇女として相応しい高貴姿はよく覚えている。
自分と違って何もかも持っていて、身分も高く、きっと辛い思いとは今までもこれからも無縁の存在なのだろう。
そう思うと妬ましくて、憎らしくて、とても哀しかった。
自分や故郷をこれ程の目に逢わせた国の皇女が謝って何になると。
何の苦しみも痛みもしらないくせに、と。
だが今の彼の脳裏には、あの時己に謝罪した時のあの顔がやけに鮮明に映り出されていた。
━━━なんて辛そうな表情をしているのだろう。
恐らく普段は宝石のような光を放っているのであろう瞳は虚ろに揺れ、珊瑚色の唇は小刻みに震えていた。
そう、まるで……自分以上に現実を嘆いているようだった。
皇女である彼女をやはり拒絶する気持ちと同時、ぴりぴりとした罪悪感が胸中に表れた。
彼女が自分を案じてくれたのは、本心からだと思ったから。
それに母や幼馴染みと同じ、包み込むような暖かさを感じた。
とても懐かしい。嘗ての平和だった時を思い出すような。
母性、哀愁、温情
急にここ数日の負の感情と正反対の思いが堰を切ったように溢れだしてきた。
……皇女にもう一度、会ってみたい。
そう思うほどに。
陽の光が部屋に入り込んで少年を照らし、床には大きく伸びた影がある。
それは光が届かず暗い部屋の隅まで伸びており、まるで微かな生気を取り戻した少年に苛立つように、闇が揺らいで影を侵食した。
首から下げた青の真珠に見入る少年は気付かない。
彼の苦しみを最も望む者は惧東国ではない、それは今何よりも己の近くにいることに。


この場所は月藍が城内で最も好む場所だった。
宮殿内の中でも僻地と呼んでもおかしくない場所に位置する、一本の巨木が目印の庭園。
その木の周囲一面に咲いている花はとても芳しい香りを放ち、様々な色が咲き乱れる光景は誰をもなごませる。
月藍の故郷の植物であり、螢尓がここに植えた花。
唯一故郷の名残を残すこの庭が、螢尓と月藍の心休まる場所だったのだ。
息を深く吸い込んだ月藍の鼻孔に、冷たい空気と同時に甘い香りが入り込んだ。
この香りを胸一杯に吸うと、閉じた瞳の奥に母の笑顔が浮かんだ。
いつも母はこの香りを漂わせていた。
城にたくさん植わっていた花の香りは、母であり、故郷である。
「月藍様……」
瑞瑛もそう感じたのだろう、名を呼んだ声は僅かに詰まっていた。
しかし、侍女の思いはそれだけではない。
ここ数日連夜、月藍が受けた仕打ちを思うと、心の底から激情が込み上げてくる。
月藍自身が望んだことだった。
あの濱族の少年を救う為、皇女は自ら身体を差し出した。
螢尓様のみならず、娘の月藍様まで……!!
敵である筈の男に純潔を捧げ、思うがままに体を弄ばれる月藍の気持ちは一体どれだけだろうか。
月藍は何も言わないが、毎朝事が済んだ後に彼女の体を清める時、瑞瑛の腸は煮えくり返りそうになるのだ。
だが、瑞瑛が裏で暗躍してしまえば、月藍の決意と行動が全て無意味なものとなる。
それ故、彼女はただ見守るしかないのだ。
大木に身を預けて瞳を閉じる月藍の姿は、いつもより遥かに儚く今にも消えてしまいそうなほど、小さく瑞瑛には見えた。


扉に見張りが立っていない事を確認した少年は、おそるおそる部屋から抜け出してただ広い通路を一人歩んでいた。
この城に連れて来られてから一人で部屋を出た事はなく、向かう場所も皇帝の居室か湯浴、用足しくらいの時のみだ。
勿論、あの皇女の部屋など彼に分かる筈もない。
時折すれ違う従者や、国の衛兵達が怪訝そうに少年を見やる。
濱族の捕虜の噂は宮中の者全てに伝わっているらしく、少年の姿を確認して寸分後には、訝しむ視線が好奇と嘲りに変わって彼を射抜いた。
こんな空気で誰かに道を訪ねることなど出来る訳がない。
もう、諦めて戻ってしまおう。
出る前までやけに膨らんでいた意欲は既に萎みきり、歩んできた道を戻ろうと踵を返した彼の落ちた視界に、ふと大きな軍靴が入り込んだ。
「……お前は、」
思わず息を呑んだと同時、頭上からかけられた低い声。
おそるおそる靴から辿って顔を上げていけば、重々しい鎧に身を包んだ、背の高い屈強な男が少年を見下ろしていた。
その格好からこの国の軍人なのだと否応にも察せられる。
更にこの男が放つ風貌はそこかしこに立つ衛兵達とは明らかにかけ離れており、多くの人間の上に立つ人物なのだと誰もが分かるだろう。
威厳はかなりのもので、しかしこの国の兵達は少年からしたらトラウマの対象といっても過言ではないのだが、不思議とこの男性には恐怖は生まれなかった。
会ったこともない筈なのに、妙な近親感が掠める。不思議な感情が少年には生まれていた。
そして、それは彼と対峙する虎雄も同じだった。
少年の顔を見た途端、虎雄の中で顔立ちが、ある女性と被ったのだ。
━━━もしやと頭に過ぎった懸念を半ば強引に打ち払う。
そんな筈はない、濱族は皆同じ髪と瞳色をし、美しい顔立ちをしている。
そのせいで面影が重なって見えてしまっただけだ、と。
雑念を打ち払う為に虎雄は少年に再び話しかけ
た。
「此処で一体何を探している?」
責めるような声音でなかったこと、更に無骨そうで穏やかな瞳をしている虎雄に少年の萎縮が解け、円滑な受け答えを可能にした。
「皇女の……月藍皇女の部屋を、探していました」
「月藍公主の?」
何故この者が月藍公主を?
予想外な返答に一瞬戸惑ったが、そういえば瑞瑛から聞いていた話を思い出して流れが理解出来た。
月藍公主が濱族の少年の元を訪れ、真っ向から拒絶されたという話だ。
少年の気持ちを考えれば無理もない事で責める気持ちはないが、ならば何故彼は公主の部屋を訪れようとしているのだろうか。
噂では少年は生気が抜けた虚ろな瞳をして、ただただ己の悲劇を嘆いていただけだという。
だが今の彼はどうだ。
その眼は抜け殻ではなく微かに輝きを取り戻し、公主に会う為に自ら一人で部屋を抜け出している。
公主の想いが少しは届いたのだろうか。
あの方の想いはいつも誰に対しても、真っ直ぐで誠実だ。
その性質が仇となり此度の皇帝との取引に思い立ってしまったのだが、虎雄達が幾ら嘆いても彼女自身がそうする事はないだろう。
だからこそ少年が少しでも輝きを戻してくれただけで、月藍が報われるようで安堵が生まれた。
「わかった。あの方の元まで案内してやろう」
まさか案内までしてくれるとは思っていなかったのだろう。
少し固まった後に慌てて頭を下げた。
自分よりまだ遥かに小さい位置で金髪が揺れるのを見ながら、虎雄はふと問いかけた。
「そういえば……お前の名は?」
その問いに答えるのには少し口ごもってしまった。
数秒の後に少年の口から告げられた名は━━━、
「……心宿、といいます」
ここに来てすぐ、青龍七星士として与えられた名だった。
己の本名を告げる事はやはり出来なかった。
まだ心を許せたわけではないから。
そんな彼の心境に虎雄は気付きつつも特に何も言う事はなく、把握したというように頷いた。
「私は虎雄だ。心宿、いずれお前とはこの国の兵として共に歩んでいくことになるだろう。その名、よく覚えておこう」
それだけ言うと虎雄は歩き出し、その後ろを心宿が慌てて付いていく。

━━━……なかご、心宿……

やけにその名は虎雄の中で幾度も繰り返された。
まるでこの少年は己に深く関わる人物なのだと、本能が警鐘を鳴らしているかのように。
無意識に虎雄の手は、鎧の下にある首飾りを握り締めようとしていた。


部屋に戻った月藍と瑞瑛は、扉の前に立っている者を見て歩みを止めた。
「虎雄殿?」
呼び掛けに応じて一礼する虎雄の後ろから姿を見せたもう一人の人物に、二人は驚いて声を失った。
今だ怯えた様な立ち居振る舞いは変わらないが、様子は以前と比べて遥かに落ち着いて見える。
なぜなら今彼ははっきりと月藍の姿をとらえていたから。
逆に月藍の方が視線を反らしてしまった。
「では、私はこれで」
心宿を一瞥し、月藍達にそう告げると虎雄はその場を去った。
どうやら彼をここまで案内してきたらしい。
恐らく彼は自分の意志で此処まで来たのだろうと、そう思った月藍は微かに笑むと扉の前まで歩みを進めた。
侍女が扉を開けて中まで進むと、心宿に振り返る。
「どうぞ中へ。私に何か話があるのでしょう?」
「……あ、」
心宿は暫しの空白の後、はいと小さく肯定した。
そして月藍に連られ、中へと姿を消していった。
皇女の部屋は己の部屋と大分雰囲気が違っており、思わず心宿は興味深げに辺りを見回してまう。
月藍の部屋は他の皇族達と比べて狭く質素なものだったが、それでも心宿にとっては今まで目にした事がないような高価な物がで揃っている。
なにより彼は部屋を満たす、甘い花のような優しい香りが気になっていた。
正体は知らないが何処かで嗅いだ事がある。
そうだ、確か皇女が以前に自分の部屋に来た時にも彼女から同じ香りがした。

月藍は居室の奥にある椅子に座ると、心宿にも机を挟んで対面する位置の席に座るよう促す。
固そうな木製の椅子は座布団が敷いてあり、座り心地は良かった。
しかし座してすぐに、心宿は月藍が声を発するよりも早く口を開いた。
「貴女に謝りたくて……」
心宿の唐突な言葉は、月藍を酷く驚かせた。
「そんな、貴方が私に謝罪することなど。以前の件なら、それは、」
「でも、僕は皇女様に対して……!!」
必死なその様子は、心宿の後悔の念を月藍に伝えるのには十分だった。
……憎いであろう人間を配慮して、わざわざこうして来てくれたのか。
彼は本来とても心優しい少年なのだろう。
そうでなければこんな行動は起こせない。
己への自責の念で震えながら俯いてしまった少年に微笑みながら、月藍は彼に顔を上げるよう促す。
あまりに優しい声に心宿は信じられない心境で顔を上げ、月藍の笑みを見て胸がとくりと小さく鳴ったのを感じた。
今までずっと大人びた表情しか見せなかった月藍が初めて年相応の少女に見えたのだ。
「この国に受けた仕打ちを思えば、貴方の気持ちは当然です。それなのに他の者を思いやれるなんて。貴方はとても優しくて強い方なのですね」
優しくて強い……
心宿は母に言われた言葉を思い出す。
優しく強い男に成長しなさい、と生前に言われていた。
何故彼女と母はここまで重なるのだろうか。
「……僕は強くない。本当に強ければ、母さんを」
「強いのは貴方の心」
武芸に秀でるでもなく、術に長けるでもなく、本当に大切なのはその奥にある芯だ。
容易に己の負の心に捕らわれてしまっては、どれ程の能力でもその先にあるものは哀しい結末だけだ。
「貴方のその力を憎まないで下さい。そして己自身を責めないで。きっと貴方はその力を正しく使いこなし、多くの人々を救う事が出来るでしょう」
月藍の言葉には不思議な説得力があった。
心宿の胸中に巣食っていた倶東国への憎悪を霞ませてしまうほどの。
墨でべっとりと塗られたかのような心を、白く浄化されていくのは酷く清々しかった。

この皇女は、なんて不思議な人なのだろう。
心宿は己の中で月藍への憧憬の念が生まれてきているのを自覚した。
本当に彼女はこの国の人間なのだろうか。
あの強欲で利己的な皇帝の血を引いているとは到底思えない。
この腐った宮中の中で彼女だけが、異質なほど輝いていると、心宿にはそう見えるようになっていた。
青龍七星士としてこれから成長していかなければならないのなら、この力を使っていくのなら……
それは国の為ではなく、彼女の為に……
「……アユル」
「え?」
「僕の名前です」
青龍七星士としての名ではなく、己の本来の名を彼はこの国に来て初めて告げた。
月藍には呼んで欲しかった、月藍には知っていて欲しかった。
心宿としてではなく、アユルとして彼女と関わり、彼女の事を知りたいと思ったのだ。
すると不意に机上にあった手が温もりに包まれてハッと視線を落とすと、月藍の白い手が重なっていた。
皇女に触れられたという事実と、同年代の少女に触れられたという事実━━━その両方が心宿の心拍数を一気に上げた。
「あ、あの……!」
「ではアユルと、そう呼ばせていただきますね」
しかし月藍のいたく嬉しそうな笑みを見てしまっては、指摘する事など出来るわけもない。
この高鳴る心臓を抑えようと躍起になるのと比例し、顔には熱が集まってくる。
この宮殿に来て初めて蒼白かった心宿の顔色に赤みが差して、その表情もかなり豊かになってきているように見える。
それもまた、月藍にとっては喜ばしい事である。

それから少しずつぎこちなかった会話は変化していく。
お互いに嘗ての平和だった時が蘇ったかのような心持ちになっていた。
家族や幼馴染と過ごしていた時間。
不思議なほどに安らぎを感じられるのだ。
それは二人が似た境遇を持つからだろうか。
この因縁渦巻く宮廷内で滅多に感じる事が出来ないであろう、優しく穏やかな時がずっと続けばいいと、そう思った。
だがそれは、瑞瑛の切羽詰まった声によって遮られることとなる。


「突然何の用だというのです?!!」
扉の先から聞こえてきた瑞瑛の声。
普段声を荒げることのない彼女の剣幕に、只ならない様子を感じた月藍は心宿との会話を中断して扉を見た。
瑞瑛が誰かと激しく言い争っている。
またどこかの公主が嫌がらせに来たのかと思ったが、どうも事はそんな些細な事ではなさそうだ。
心宿も状況を察し、不安そうに月藍と扉を見比べる。
「瑞瑛、何があったの?」
月藍が呼び掛けると廊下の喧騒が一瞬静まった。
しかし月藍の問いに答えたのは瑞瑛ではなかった。
「月藍公主、失礼致します」
義務的な口調でそう告げた後、許可もなく扉が開かれ、無遠慮に数人の男達が部屋の中へと雪崩れ込んできた。
何処か尊大な様子で一礼をする先頭の男性を見て月藍の眼差しは一気に鋭くなり、緊張が走る。
「貴方は、」
男は常に皇帝に付き従う側近だった。
そして彼の後ろで待機する兵達は、皇帝の護衛兵達。
皇帝一派の彼等が、ほぼ対立する位置にいる月藍に一体何の用だというのか。
厭らしい側近の笑みに胸騒ぎは増すばかり。
「突然のご訪問、無礼は承知でございます。しかしこれは皇帝のご命令ゆえ、どうかご容赦を」
「皇帝陛下が?」
皇帝という言葉を聞いて後ろにいる心宿が脅えたように息を呑み、すがる様に月藍の背後に移動した。
それを感じた月藍も彼を庇い一歩前へと踏み出す。
「皇帝陛下が私にこの様な無礼を働いてまで早急に伝えたい命とは、一体どんなものでしょう?」
「いえ、貴女様では御座いませんよ」
そこで側近の眼差しは後ろの心宿へと向けられた。
にんまりとした顔は、まるで人を化かす狐の如きあざとさ。
「貴女の後ろにいる、濱族の捕虜で御座います」
「な……!!」
月藍と心宿の声が重なった。
月藍との取引では、心宿にもう無体は働かないという約束の筈だ。
なのにいきなり彼を呼び出したその真意は一体何なのか。
だが側近が彼女に素直に詳細を話すわけがない。
その周囲で控える護衛兵も同じだ。
皆が皆、月藍と心宿を取り囲み、まるで獣が得物を追い詰めて甚振り愉しんでいるようだ。
「いくら皇女といえど、皇帝陛下の命に従えぬというのは列記とした反逆行為になります。どうかご理解を」
確かに彼の言う事は正しい。
皇女が国の主の言葉に物申すなど、あり得ないこと。
だが月藍には怯える心宿を差し出す気になど到底ならなかった。
「私と皇帝が交わした契約の内容では、もう彼を傷つけるような事はしないと……」
「それは濱族の少年としてであって、青龍七星士の彼ではありません」
「……何ですって?」
一気に月藍の表情が強張った。
同時に彼女から威圧が放たれ始め、初めて目にする心宿はまるで全身に電撃が走ったかのような衝撃を感じた。
人へ敬意を抱かせるだけでなく、憧憬や畏れも感じさせる。
彼女を軽んじるなど不敬以上のなにものでもないと。
それは鎧で身を固め、槍を携える兵士達も同じで、気圧されるように一歩後退った。
「皇帝と私の契約は正式に交わされたもの。ならばこの少年が関わっている以上、私にも知る権利があるはず。話しなさい、張氏」
すると張氏と呼ばれた男は、まるで月藍のその要求を待っていたと言わんばかりに笑みを深くした。
そして満足そうにこう告げる。
「ならば月藍公主、貴女にも御同行をお願い致しましょう」
心宿と、開いたままの扉で様子を窺っていた瑞瑛の声が今度は重なった。
「肖豈帝はもし皇女が少年を差し出さないようなら、共に連れて来るように、と」
「分かりました」
「月藍様?!!」
非難する瑞瑛を視線で制し、月藍は張氏を睨むように見つめたままその要求を呑んだ。
そして後ろで茫然と成り行きを眺めていた心宿に優しく笑う。

大丈夫、貴方を皇帝に黙って差し出すような事はしない。
貴方は一人ではない、私が傍にいる。

その気持ちが少しでも伝わり、彼が安心出来るように。
「……皇女様」
思わず月藍の服の裾を掴んでいた心宿の手をそっと包むと、その優しさと反して己等を促す張氏を睨み据えた。
「良いでしょう、私達を案内しなさい。張氏」
「では、此方に」
二人は前後左右を兵士達に包囲され、まるで罪人を連れ出すような重々しさで移動を始めた。
その光景は嫌が応にも目立つ。
月藍と表面上捕虜の立場である心宿が共に連行されている、というのも周囲の興味を引く大きな要因だった。
やはりその眼差しは人を見るには余りにも冷たく、蔑んだもので。
少しでも避ける為に俯いた心宿は、柔らかく声をかけられて思わず隣を見た。
「アユル、大丈夫です」
そこには月藍の笑顔が。
彼女と目が合うだけで不思議なほど動悸は治まっていく。
あれほど恐れていた皇帝への謁見だというのに、彼女がいるなら大丈夫だと。
何があっても己を失わずにいれると、そう思える程の安心感が与えられるのだ。
月藍は移動の間ずっと心宿の手を離さなかった。
そして心宿もまた、彼女の手を握る力を緩む事は一度もなかった。
前へ - 戻る - 次へ
Honey