恩愛の継承
もう二度と、逢えないと思っていた。「アユル」
そう優しく笑って己の名を呼んでくれた、母以外で唯一の存在。
一族の中でも特に異質な出生のアユルは周囲からの冷たい眼差しに晒されていたが、そんな彼を支えてくれた掛け替えのないもう一人の存在。
「━━━ターリア」
アユルの口からその少女の声が漏れた。
信じられない、そんな気持ちが溢れんばかりに。
広い宮殿の中に幾つもある庭園の中でも特に広い一角へ案内された月藍とアユルを待ち構えていたのは、複数の護衛兵を従えた肖豈帝。
そして彼の隣にはもう一人、兵達によって拘束された異民族の少女がいた。
アユルと同じ金髪に青い瞳、美しい顔立ち。
それだけで察しがついた月藍はハッとして傍らのアユルを見ると予想通り、彼は驚きとそして喜びで顔を歪めていた。
少女の方もアユルを見た途端に、その表情を一変させていた。
間違いなく彼女は濱族の生き残り。
そしてアユルとは深い関わりがあったに違いない。
両者の互いを見る喜びの眼差しを見ればそれは一目瞭然。
深い安堵の気持ちが月藍にも生まれると同時、肖豈帝がこの少女を拘束し、更にアユルと何故この様な場所で再開を果たさせたのか、その疑問が浮かんでくる。
肖豈帝の方を睨む様にしてみると、不穏な気持ちを抱かせる嫌な笑みを浮かべており、月藍の胸にざわりとした不快感が走る。
「肖豈帝、これは一体……」
「やはり月藍も来たか。まあいい。この娘はその濱族の少年と同族の生き残り……どうやら娘の主張通り、昔馴染みの仲だという事は間違いないみたいだな」
皇帝の言い方は、明らかにアユルと少女にとっていい方向に転ばない雰囲気を含んでいる。
「肖豈帝!!一体どういうおつもりでこの様な場に彼等を……!!」
「月藍様」
不意に咎めるような声で名を呼ばれたかと思うと、月藍の体は強い力で横に引かれた。
一瞬の油断で、月藍は突如アユルから引き離され、体を護衛兵達によって拘束された。
「皇女様?!」
「無礼な!!一体何を……!!」
突然の事態に、アユルは思わず月藍へと手を伸ばすが、彼女の揺れた衣服に指先を掠める事も敵わず、月藍はアユルと離れた距離に移動させられてしまう。
幼馴染との再会が一挙に不穏な空気へと変わり、不安の色を見せ始めたアユルへ、肖豈帝が不気味なくらいの猫撫で声で語り掛けた。
心宿の体を貪ったあの夜と同じ声で。
「アユルよ、余はそちの青龍七星士としての力が見たい」
それは、母を殺めたあの力を今ここで、ターリアや月藍がいるこの場で出せという事だ。
未だアユルはあの力を使いこなせない。
もしまた暴走してしまったら、母と同じようにターリアを……そして月藍を殺してしまうかもしれない!!
そのアユルの心の動揺は既に彼の力を不安定揺るがせ始めていた。
額にうっすらと浮かび始めた、青い"心"の字。
体から溢れ出る凄まじい気を感じ取って抑えようとするも、一度動き始めてしまった力を抑圧する術がアユルには分からない。
苦しむ彼の様子に、月藍は必死の想いで肖豈帝へ懇願する。
「父上!!もうおやめ下さい、貴方と私の契約では……、」
「それはこの少年の"夜枷"に関してであろう?」
夜枷……?
苦しみながらも月藍と皇帝の会話に出てきた単語を聞き取ったアユルは、思わず月藍を見た。
彼女は彼女で、皇帝がアユルの前で例の取引の詳細を暴いた事に、焦燥を抱いて顔を俯かせる。
その様子を見て面白く思ったか、肖豈帝は態とアユルに聞こえるよう、ゆっくりと明快に話を続けていく。
「そなたはその少年を余の手から逃す代わりに己の肉体を捧げた。それほどまでにその少年に思い入れるのは、己の立場と似ているからか?」
━━━僕の代わりに自分に肉体を捧げた?
皇女と僕の立場が似ているとは、一体どういう事だろうか?
アユルの中で戸惑いと、そして多数の疑問が浮かんではしこりとして残っていく。
月藍は何も言わず、そして俯いたままな為にその表情は一切窺い知れない。
彼女に何かを問いかけようとしたのだが、その前に抑えていた力が遂に放出されそうになって、アユルの表情が苦しそうに歪んだ。
押し殺す様な苦痛の声に、月藍はハッとして顔を上げると、彼の元へ向かおうとしては両側から体を拘束する兵士達に押し留められる。
「アユル!!自分を信じて、気を静めなさい……!!」
「っ月藍、……っ!!」
縋るように彼の口から漏れた月藍の名。
敬称がなかった事に一体何人が気付いただろうか。
アユルの全身を青白い光が包み込むように纏い始める。
周囲の草木までもざわざわと呼応するように揺れ、彼の力の大きさをよく現している。
「後もう一押しだな……」
そう呟いた肖豈帝はターリアを拘束した兵達に何か指示を出した。
そしてそれに応えた兵士達がとった行動に━━━、月藍とアユルは絶句する事となる。
「肖豈帝、一体何を!!」
ここまで月藍が血相を変えたのは、恐らくこの宮殿で誰も見た事がないだろう。
しかしそれも無理もない。
なんと、兵士達は身動きがとれぬまま地面に膝を付かされたターリアに、刃の切っ先を真っ直ぐに向けていたのだ。
その光景は、アユルの瞳には母と重なって映る。
倶東国の兵士に今にも殺されそうになっている母親。
それをただ見ているだけしか出来ない自分。
そんな己の不甲斐無さ、兵達への憎しみが一気に高まり、感情を制御出来なくなったと同時に、あの力が━━━、
「肖豈帝!!貴方という人は……っ!!」
月藍の感情もこれ以上ない程怒りに支配されていた。
抑える兵の力をも勝る勢いで皇帝へと噛み付くその姿は、皇女とは思えぬ覇気を放っている。
だが皇帝への暴挙は、この国ではどんな些細な事でも立派な叛逆行為となる。
「月藍皇女、皇帝に言葉が過ぎますぞ!!」
「貴方は、我が国や父を滅ぼし、母を凌辱し尽くしても尚、更なる悲劇を作ろうというのか!!あれだけでは飽き足らず、尚も……!!」
「月藍皇女!!」
皇帝の側近が好機とばかりに月藍を窘める。
これを機に彼女を皇帝への叛逆者と見做して宮殿から追い払う魂胆だが、今の月藍はそれすら疎まない程の怒りを抱いていた。
誰も月藍の怒りを鎮めようとする者はいない。
このままでは奴等の策略に嵌ってしまう。
「大丈夫です!皇女様!!」
しかし意外な人物が、月藍の赤く染まった思考を元へ戻した。
月藍や側近達の視線が声の発生源へ向かう。
そこにはターリアがいた。
そう、兵士に剣を向けられても気丈な様子を保つターリアが、月藍に呼び掛けたのだ。
「大丈夫です。私も……それにアユルも」
そうして微笑む彼女は、この場にそぐわぬ聖女の様な輝きを放っている。
それは己の行く末を受け止め、そして残る者達へ希望を託す者が浮かべる表情だ。
前にもこの笑みを見た事がある。
螢尓だ。
母が死の間際、月藍に見せた微笑みと同じだった。
月藍が冷静さを取り戻した事を確認したターリアは、次いでアユルへとその視線を向ける。
━━━アユル……
大事な幼馴染。あの殺戮のせいで酷く傷ついただろうが、彼が未だ己の心を持っていてくれてどれだけ嬉しかった事か。
きっとそれは、あの皇女のお蔭なのだろう。
アユルが既に彼女に心を許している事は直ぐに分かった。
安心して彼を彼女に託す事が出来る。
「アユル」
そう呼んで微笑めば、泣きそうに歪むアユルの顔。
最早彼の力が放出されるのは時間の問題だ。
だがターリアからすれば、倶東国の者の手で殺されるよりはアユルの力で死ぬ方が何倍も良い。
アユルにとっては酷な話だが。
でも、彼は決して憎しみや力に全てを呑まれてしまう事はないと信じている。
アユルと、そしてあの皇女を━━━
「大丈夫よ、アユル」
気の放出で揺れる彼の衣服から飛び出している青い真珠。
それにふと目をやって、アユルへと小さく頷いた。
倶東国……肖豈帝には必ずその身に報いが訪れる。
そして貴方を愛し、護ってくれる人は、もう貴方のすぐ傍に。
貴方は孤独じゃない━━━
アユルには、ちゃんと伝わっただろうか。
儚く笑うターリアの頭上に兵士の剣が振り翳される。
月藍が息を呑む声。
そして……
「あぁああああぁぁああ!!」
幼馴染の苦悶の絶叫と共に視界一杯に広がった青白い光に身を焼かれつつ、それでも微笑みながらターリアは瞳をゆっくりと閉ざしていった。
━━━アユルを、お願いします。皇女様━━━
先程聞こえたターリアの声は空耳だろうか。
それにしてはやけにはっきりと月藍の鼓膜に響いて、彼女の脳にその言葉を刻み込ませた。
アユルから放たれた白い気は周囲を見たし、凄まじい暴風が辺り一面を荒らした。
今では嘘のように静まっており、風に身を晒していた者達は堪えていた力を緩め、恐る恐る辺りを見回す。
美しく整っていた庭は大分その成りを変えていた。
植えられている花は乱れ、木に生えていた葉が殆ど全て空へと飛ばされたか、地面に無残に落葉している。
そしてもう一つ違う事が……兵士に拘束されていたターリアが、その姿を跡形も無く消していたのだ。
肉片の欠片も、衣服の僅かな破片も一切残さず、その存在が亡くなっていた。
地面に両の掌を付いて荒い呼吸を繰り返すアユルの額から汗が流れ、そして幾つも滴となって刈られた芝生へと落ちていく。
それは汗だけではないのかもしれない。
彼にかける言葉もなく、ただ呆然と立ち尽くす月藍と反し、皇帝は興奮しきった様子で口を開く。
「素晴らしい……!!予想以上の力だ!!」
これで青龍を呼び出せる日も近い。
倶東が四正国を制覇し、この世の全てがこの肖豈帝の手に。
狂喜する男を、月藍は軽蔑しきって眺めていた。
欲深い人間の本質を見事に顕している、この男への憎悪が止まない。
周りで同じように笑う他の者達も同じだ。
この宮廷は腐っている、なにもかも。
人を人と思わぬ非道な行いの数々、それを甘受して目先の利益や権力にしがみつく愚かな人間達。
皆生きる価値すらない!!
憎い、憎い、恨み言が堰を切って溢れ出てくる。
━━ならば、全て壊してしまえ……━━
そんな囁きが、月藍の意識の奥深くから。微かにだが聞こえてきた。
憎しみに身を委ね、全て消してしまえばいい。
さすればお前もあの少年の苦痛も消える。
そして死んでいった故郷や両親の餞にもなろう……
月藍が絆される毎に囁きは大きくはっきりと脳内で木霊する。
刷り込ませるように訴える事で、彼女の意識を蝕んでいく。
━━そうだ、何も躊躇う事はない。
あの男達を殺してしまえば、全てが終わるのだから。
その瞳は剣呑な色に支配されていた。
懐に常備している短剣を抜くと、袖の中に隠し持ってゆっくりと肖豈帝へとその歩みを進めていく。
「皇女殿下、お止めを!!」
突如響いた逞しい怒声に月藍はその動きを止めた。
意外な人物の登場に、皇帝も驚きの声をあげる。
「魏虎雄!!そなた何故ここに?!」
皇帝へ一礼した後は彼に目も呉れず、魏虎雄は真っ直ぐに月藍へ近付くと短剣を握る手首を掴み上げた。
「御母上との誓いを踏み躙るおつもりか?!貴女は憎しみに己を失うような脆弱な方ではない筈だ!」
この国の全ての兵を率いる男の一喝は獣の咆哮たる貫禄があり、その場の者全てを萎縮させた。
虎雄の言葉で短剣を持つ手から力が抜け、己がなそうとしていた事を自覚して、体を小刻みに震わせた。
「わ、私は……」
「"復讐は新たな不幸の火種にしかならない。真の救いをこの国に齎す"。それが螢尓様の願いで、貴女は確かにその意志を告いだ筈でしょう」
「……は、はう…え……」
私は…母との誓いを破って、この手で人の命を殺めようとした━━━?
足の力が抜け、崩れ落ちそうになった体を虎雄を受け止めるも、彼女は既に意識を失っていた。
今まで堪えてきた感情が爆発して、精神的に大きな負荷がかかったのだろう。
無理もない、彼女が抱える物は余りに巨大過ぎる。
虎雄は月藍を抱えると、今度は蹲ったままでありながら不安気に様子を見ていたアユルへと足を向けた。
「月藍皇女は……?」
「ただ気を失われただけだ、命に別状はない」
その言葉を受けて憔悴しきった表情に微かな安堵の色が浮かんだ。
虎雄はそんな様子を無言で見つめる。
否、正確には彼の首元に下がっている青い真珠だ。
「……お前は、」
何かを言い掛けたが思い止まった様に口を噤むと、アユルに一言「付いて来い」と告げると宮殿内部へと足を向けた。
「こ、こら待て魏虎雄!!」
「何か?」
慌てて制止の声をかけた張氏の言葉に、振り向かずも応えた。
「何を勝手な行動を……!!大体、皇女は先程陛下へ危害を加えようとしていたではないのか?!これは立派な反逆罪として、皇女の取り調べを……」
「しかし、貴方や兵が行った皇女への仕打ちも、決して見逃せるものではありませんが?」
張氏の言葉を遮った虎雄の声は冷酷そのものだった。
そこで初めて張氏は、肌に刺さる様な殺気が虎雄から発されている事に気付いて息を呑む。
一回り以上も小さい張氏を横目で見下ろすその様は、どちらが高位なのか分からなくなる。
「亡くなられたとはいえ、列記としたご側室の息女であられる方をあの様な形で拘束するとは」
「っ、しかし!月藍公主の行為は余りに……!!」
「もうよい」
張氏を止めたのは他でもない、肖豈帝だった。
魏虎雄は皇帝直属の護衛兵を除く、この国のほぞ全ての兵士を掌握している。
彼の機嫌を損ねる事は、皇帝にとって余り望ましくないのだ。
納得いかない、と言わんばかりに皇帝を振り返った張氏だったが、皇帝が不問と決めたなら彼にはどうしようもない。
悔しそうにその場から立ち去っていく虎雄とアユル、そして月藍を睨んで見送るしかなかった。
虎雄に連れて来られた月藍を見て、兵士に見張られて部屋の前から身動きが出来なかった瑞瑛の取り乱しようは凄まじかった。
恐らく虎雄がいなければ、それこそ彼女が皇帝の元へ乗り込みに行ってしまっていたかもしれない。
とにかく寝台へと運ばれた月藍には瑞瑛がつきっきりで看護にあたり、そしてその隣にもう一人。
アユルだ。
月藍の目が覚めるまで傍にいたい、という彼の申し出に驚いたものの、瑞瑛はそれを受け入れた。
そして今、一通りの処置を終えた二人は、月藍の様子を窺いながら神妙な面持ちで話をしている。
内容は月藍の過去についてだった。
瑞瑛から聞かされた内容にアユルは言葉を失っていた。
初めての逢瀬の時、己が月藍に吐き捨てた言葉が蘇る。
何も知らずに自分は、彼女になんて事を。
自責に陥るアユルを瑞瑛が慰めた。
「貴方の境遇を考えれば当然だと、月藍様も仰っていました。自己嫌悪する必要はありません」
「でも、僕は……」
辛い境遇の彼女にこの国と、皇帝と同じだと吐き捨ててしまった。
どれだけ心を痛めただろうか。
それにもう一つ、アユルには知りたい事……否、知らねばならぬと思う事があった。
「月藍皇女が、僕を助ける変わりに皇帝と、」
その言葉を口にした途端。
穏やかだった瑞瑛の顔が一気に強張る。
その反応でやはり真実だったのだという事を悟り、アユルは怒涛に迫る痛嘆の想いに胸を痛ませながら月藍の寝顔へ視線を向けた。
無防備に眠るその表情にはあどけなさが残っており、余計に彼女の覚悟との不釣り合いさが目立つ。
「……月藍様らしからぬ早計過ぎた行動でした。ある夜に貴方と皇帝が共にいる場面を見て、それから居ても立ってもいられなかったのでしょう」
もし自分や虎雄が彼女の意図を察していれれば、何がなんでも止めていただろうにと後悔すると同時、アユルが救われたと言う事実もある分、第三者は何とも言えないのが本当のところだ。
月藍とアユルの歩み寄りは喜ばしい事には違いないのだから。
短時間の間で彼等は既に、親愛に近い思いを互いへ懐いている。
見ている方にもはっきりと伝わるほどに。
アユルは寝台脇に跪くと、毛布から出ている月藍の手をそっと握った。
アユルよりも小さく細い体。
だというのに彼女の心は誰よりも大きく、そして他者を包み込んでいく。
きっと彼女がいなければ、アユルは今アユルではない。
耐えず囁かれた憎しみの甘い誘いに手を伸ばし、その身を復讐の道へ投じていただろう。
その自分の手を引き戻してくれたのは、月藍だ。
身を挺して護ってくれていた月藍。
ならば次は自分が、彼女の助けになりたい。
━━━強くなりたい。
この国の為ではない、尊い存在である皇女を護る為に。
そして彼女が歩む道を共に進んで行きたい。
例えどんな蛇の道だろうと。
月藍に立ちはだかる障害を退けられる存在になりたいと、そう思う。
もう二度と何も失いたくない。
アユルの中で月藍はなくてはならない存在になっていた。
「月藍様……」
アユルの呼び掛けに応えるように、月藍の指先がぴくりと動いた。