水端
自分が立っているのかどうかも分からない、方向感覚を失わせる色のない世界。そこに浮き上がる月藍は脳に直接語り掛けてくる声に魘されていた。
耳を塞いでも遮る事は出来ない。
体を自由に動かす事もままならない。
自分でも知らない心の奥深くに潜む闇の感情を曝け出して来るその言葉は、月藍を狂わさんとばかりに耐えず突き刺さる。
ただひたすら、責めてくる。
何故殺さなかったのかと
何故自分の欲に素直にならないのかと
真っ白な紙に墨が滲みてじわじわとその色を染めていくが如く、苦しみを齎しながら月藍を闇が包み抱く。
お前の故郷を滅ぼした倶東を憎め
「……やめ、て」
あの少年を貶めた倶東を憎め
全ての元凶である皇帝を…この国を、否この世界の全てを忌め そして滅ぼせ
━━━我に従えば、貴女の苦しみを全て取り払う事が出来ましょう
月藍の身体を包んでいた闇が徐々に人の形へと変わっていく。
白く長い腕が背後からゆらりと伸び、少女の小さい体を抱き込む。
柔い力であるに関わらず、月藍には太い鎖によって縛められた様に感じた。
空間全てに至るほどの長い銀髪を周囲に流し、漆黒の衣を身に纏った男の姿が完全に形を為した。
人ではなく同時に神とも違う禍々しく邪悪な気を溢れ出す男。
酷く鋭利な金色の瞳に震える月藍を捕えたまま、彼女の耳元へと笑みを象った唇を近付ける。
態の良い獲物を見つけた獣の貪欲な色を含めて。
「ただ一言、"従う"と告げればいいのです。さすれば、貴女に真の願いを叶えられるだけの力を我が与えましょう」
誘うような手つきで、紫色の爪を備える指先で薄く開いた月藍の唇を撫でた。
「……ぁ、」
月藍の瞳から光が消えかけ、代わりに灰暗い色へと転じていく。
我を失って皇帝を殺さんとした時の瞳と同じだ。
男の言葉がぐるぐると脳内で旋回して灼き付いていく。
この人の言う通り。憎しみに身を任せて全て壊す事で、死んでいった者達の手向けになるのかもしれない。
アユルの苦しみを全て取り除けるのかもしれない。
このまま苦痛を味わっていくくらいなら、いっそ全てを……
冷たい男の腕に全てを委ねてしまおうかと瞳を閉じかけた時━━━
━━━月藍━━━
どこからか微かに響いてきた月藍を呼ぶ声。
「アユル?」
彼女が発した言葉に、男は目を見開いて月藍の身体に回していた腕の力を緩ませる。
同時、頭上から一筋の光が虚無の世界に降り注いで月藍を照らし出した。
より鮮明にアユルの声が月藍の鼓膜を震わせるように。
彼の声は堕ちかけた月藍の意識を取り戻させ、光を戻した彼女の瞳を見て男は苛立った様に眉間に皺を寄せた。
後もう少しで完全にこの娘を籠絡させる事が出来たものの……!!
だが月藍はするりと男の腕の中からすり抜け、普段の彼女らしい凛とした面持ちで男と向き直る。
男から溢れ出る吐き気を催す程の邪気にも、もう動じる事はない。
頭上の光を愛おしげに見ると、まるで月藍を護るように注ぐそれはより輝きを増し、そして徐々に月藍の体はその場から薄れていく。
「くっ……!!」
己とは正反対の輝きに目を眩ませる男へ月藍は口を開いた。
「確かに私は皇帝と国を憎んでいる。だがその厭悪に支配される事はない」
国を憎む心、全てを破壊してしまいたくなる衝動、それは確かに自分の中にある。
だが破壊衝動だけではない。
だって倶東やこの世界には、同時に護りたいと思う者達だっているのだから。
滅ぼした先に得る者は願いの成就ではなく、ただの混沌。
「人の負の心に取り入ってこの世界に破滅を齎さんとする邪悪な存在……お前は何物?!」
「━━━愚かな」
男がそう吐き捨てた途端、突風が空間に吹き荒れて月藍は思わず目を閉じた。
数秒で治まったが、開眼した時には既に男の姿は消えていた。
男を探して辺りを見回すも、光が眩く強くなるに連れて月藍の意識も白く薄れていってしまう。
朦朧とする彼女が完全に意識を失手放す直前、男の底冷えする声が脳内に響き渡った。
━━━ならば貴女に更なる絶望を、苦痛を与えて差し上げましょう。私の手を取らなかった事を後悔する日は、いつか必ず……━━━
鍵は全て我が手中にあるのだから……
そこで月藍の全ての感覚が途切れ、純白に染まる。
誰かの手に掬い上げられる様に、体が浮き上がっていく。
ぼやけた視界が少しずつ鮮明になっていき、自分の顔を覗き込んでいる者の顔が理解出来るようになった。
宝石の様に綺麗な青い瞳に微かに涙を浮かばせ、憂いの中に安堵を含んだ笑みを浮かべた少年。
「……アユ、ル…?」
「月藍様!!」
名を呼ぶとアユルは喜色を隠さない声を上げ、それに反応して寝台へと駆け寄った瑞瑛も、目を開けている主を確認して歓喜の面持ちで息を吐いた。
そうして何か暖かい飲み物でも持って来ようと慌ただしく立ち去った。
月藍が周囲を見回せばよく見慣れた風景の部屋。
寝台の傍らにある小机には青銅で出来た香器が置かれ、そこから漂うのは気力を高めるとされる香木が焚かれる匂い。
鼻腔から脳まで通り抜け、思考を鮮明にするひんやりとした煙を吸い込んだ月藍は、アユルの両手が自分の手を握り締めていた事に気付く。
悪夢で体温を失っていた月藍の全身にまるで温みを分け与えるように。
実際に体温どころか冷えかけた心まで彼のお蔭で取り戻せた。
人間の心の闇を体現したといっても過言ではない虚無的な空間。
きっとあれは自分の奥深くにある負の領域だったのだろう。
自身すら認めたく醜い感情を引き出し、絡めとり、責め立てながらも甘い言葉で貶めようとしてきた男。
正体は分からぬが、彼の魔の手を取ろうとした彼女を食い止めたのはアユルだった。
彼に救われた。
「貴方が、助けてくれたのね」
月藍の夢の中での出来事だ。
勿論アユルには礼を言われる検討がつかない。
だが月藍に微笑まれるとそれだけで喜びが走った。
失いたくないと、改めて思う。
両者共に互いをかけがえのない存在だとの認識を確固なものと。
それは半ば依存にも近いかもしれない。
もしどちらかが欠けてしまえば、自我が壊れてしまうかもしれない、と懸念されても可笑しくないほどに。
━━━鍵は我の手中に……━━━
不意に鮮明に脳内で再生された声にびくりと肩を揺らす。
気遣わしげな様子を見せるアユルに微笑みかけながらも、男が消える直前に放った言葉が気に掛かる。
私を絶望に陥れる"鍵"とは一体なんの事なのか。
そしてあのこの世の物と思えぬ、異形の佇まいをしていたあの男は一体何者なのか。
「月藍様」
ハッとした月藍の眼前にあったのはアユルの顔。
一途に己を見る彼の表情を見て何かを伝えようとしている事を察した。
「貴女の話を、瑞瑛様から聞きました」
同じようにこの国に故郷を滅ぼされた事、亡き母の意志を受け継ぐ為に奔走している事。
そして、皇帝との取引の事。
「貴女は、僕の為にあの男と……」
アユルの為……勿論、彼を救いたかったという気持ちもある。
しかしそれだけではない。
浅はかで愚かしい行動だったろうが、自分の意志でもあった。
感謝されるほど賢明でも、大層な判断でもない。
倶東の犠牲を増やさないと決意しながら何も出来ない無力な自分を、少しでも肯定したかっただけなのだ。
愚直過ぎるにも程がある。
そう自嘲する月藍の心情を打ち消す言葉をアユルは続けた。
「例え貴女の周りが何と言おうと、月藍様自身がどう思っていても、僕にとって貴女は、何よりも尊い存在です」
部屋を温かく照らしていた提燈の火が月藍の動揺を表すかの様にゆらゆら揺れる。
アユルは寝台に座っている彼女の足許で恭しく跪くと、頭を垂れて心に宿す敬意を全身で表した。
驚きも露わにして立ち上がらせようとした月藍の動きを抑制してしまう程、その熱意は溢れ出ている。
「月藍皇女、貴女に絶対の忠誠を。貴女を護り、貴女の志への道を切り開く力となってみせます」
「アユル……」
「僕は月藍様の為にこの力を使います。この国で誰よりも強くなり、必ず貴女を護り抜いて見せる」
そう誓う少年に以前の怯えや迷いは皆無だ。
眩さすら感じる直向きな想い。
受け留めない事など、出来るわけがない。
誓願の言葉を深く胸へと刻み込むと、今度は自分が彼へ応える番だ。
寝衣を翻らせてゆっくりと立ち上がる。
白く質素で目立った飾りも紋様も無いに関わらず、正絹で誂えられたそれがアユルには天女が身に付ける衣の様に美しく見えた。
彼女から溢れる気品も、全て。
「ならば私も主として貴方を失望させる事がないよう、私の全てを懸けて努めましょう。これ以上、この世に禍根を積み重ねぬ様に」
一介の皇女の室で誰にも見られず、ひっそりと行われた主従の誓い。
この二人の絆が倶東どころか、これから起こる全てに大きく左右する事になると、一体誰が予想できただろうか。
それは良き方にも、悪き方にも。
だが今は、何も考えずに祝福すべきだろう。
例え如何なる事象が生じるとしても、現在の彼等は等しく救済され、何にも替え難い大切な拠り所が出来たのだから。
そういえば。
瑞瑛が熱そうに湯気を立てる生姜湯を持って来てから、安静にと寝台に座らされた月藍は、傍らで様子を見守っているアユルにふと思い立って話しかけた。
「やはり私を月藍とは呼んでは、くれないですよね?」
気恥ずかしそうに掛けられた問いにアユルは呆ける。
「その……あの時、私の事を"月藍"、と……」
一瞬の沈黙の後、アユルも思い出した。
あの時
七星士の力を抑え込もうと必死になっていたアユルを月藍が励ましてくれた時だ。
必死だった自分は何も考えられずに、ただ縋る様に月藍の名を呼んでしまっていた。
必死とはいえ、皇女の名を呼び捨てで。
血の気が引くとはまさにこの事だろう。
焦りの色を見るからに浮かべるアユルを月藍は宥めた。
その表情に怒った様子はなく、頬を赤らめて何やら緊張している様子だ。
「月藍様?」
「っ、その……私を月藍と、呼んでくれませんか?」
い、嫌なら良いのです!!二人きりの時にだけでも、もしアユルさえよければ……
早口で、そう捲し立てる月藍の顔は今や果実の様に赤い。
自分しか見た事がないのでは、と思うほど挙動不審な彼女が、酷く可愛らしい。
忘れがちになってしまうが、元はといえば自分より若齢なのだ。
朱に染まる頬に触れたいと思う衝動を必死に抑えた。
「私、主従としての関係だけでなく、貴方と……友人になりたいのです」
「━━━え?」
予想外の言葉に思考が一瞬止まってしまう。
そして次に、陽だまりに覆われた時と同じ温もりがアユルを満たす。
故郷の村でも疎まれる存在だったアユルはターリアだけが唯一の友人だった。
故に初めてだった。
あんなに、真剣に友達になりたいと言われた事は。
嗚呼、この人は、なんて……
そんなアユルの顔を見れず、酷く火照っている頬を押さえて月藍は俯いてしまった。
やはり踏み込み過ぎた願いだっただろうか。
緊張と不安がぐるぐると脳内を掻き回して、月藍の動悸を激しくする要因となっている。
彼女にとって同年代の人間とここまで親密になれたのは生まれて初めて。
友人など、この国では手の届かぬ存在。
それにアユルとは対等な存在でいたかった。
皇女とその部下という立場だけでなく、同じ道を共に並んで進んで行く同志として。
ふと頭に乗った重み、そして優しく撫でられる感触に月藍はびくりと体を揺らして顔を上げた。
母に撫でられた時を思わず思い出してしまった。
だが目の前にいるのは、金色の髪を揺らす美しい少年だ。
青い目に慈しみを宿したアユルは、笑みの形に刻んだ唇をゆっくり動かした。
そこから漏れた声音は酷く優しく━━━
「月藍」
アユルの返答をどんな言葉よりも正直に表している。
たった一張りの提燈のみを灯りとする薄暗い空間に佇むのは、この国の将軍、魏虎雄だ。
手の中にある小さな球を見つめるその顔は、悲哀と遣る瀬無さが入り混じった非情に複雑な想いが浮かんでいた。
数歩先すら見えない夜闇の中でありながら、青い輝きを放って視覚を刺激する真珠。
これを見ていると、濱族の少年が首から下げていた物が思い起こされる。
確かアユル……といったか。
「……マトゥタ」
彼が呟いたのは脳裏に浮かんでいる女の名。
あの少年とよく似た容姿をした美しい女性。
嘗て、否今も虎雄が愛するたった一人の。
初めてアユルと出会った時に感じた、虎雄の推測はどうも正しかったらしい。
つまり、あの少年は虎雄の……
なんという因果だろうか。
忌むべき邂逅となってしまうだろうか。
だが皇女の力でアユルがこの国への憎悪で満たされる事はなかった。
もし彼女が彼の傍に付いていてくれるなら。
きっと虎雄にとって忌避すべき事態には陥らないだろう。
虎雄が真珠を握り締めた同時に提燈が鎮火した。
それは彼の懸念を途切らせるようでもあり、また煽るようでもあった。