幸か不幸か君が決めろ

私のお隣さんは探偵事務所だ。
いや、正確に言えば隣は喫茶店と探偵事務所が入ったビルなのだが、その事務所の探偵というのがあの有名な毛利小五郎なのである。
「眠りの小五郎」とは、今ではもう世間に良く知られた名前だ。眠りながら事件を解決する姿が由来で、しかもその推理は百発百中と言っても過言では無いらしい。


しかし、私はそのカラクリを知っている。


彼が本当は、まぁある意味へっぽこ探偵なのも、何故眠るような形で事件を解決しているのかも、その全てのカラクリを私は知っている。
だけど、私はその全ての原因である小学生探偵に接近する気はない。例え私の隣に薬で幼児化した元高校生探偵が住んでいても、トリプルフェイスを使い分ける金髪のイケメンが働いていても、色黒の関西弁を話す高校生が来ていても、それは私には全く関係の無い事である。
全ては、私自身の保身の為。


そう、ミョウジナマエは次元を超えて「名探偵コナン」の世界に転がり込んだ人間である。
気が付いたら、毛利探偵事務所と喫茶ポアロの入ったビルの右隣にあるアパートの一室に座り込んでいた。どうやら私はこの春から一企業に勤めている極一般的なOLであり、気になる両親は死別扱い。天涯孤独だそうだが、戸籍にあった私の両親の名前は記憶しているものとは全く違った。彼氏は居らず、自分の趣味に余った財産を適度に注ぎ込んでいる普通の女性なようだ。


しかし、私の最後の記憶はそんな普通のものでは無い。

私はこの世界に来る直前まで、夜道をひたすら逃げ惑っていた。
前の世界でもこれまた極一般的なOLだった私だが、親元を離れ一人暮らししていたアパートは表通りに面してはいるものの、夜になれば人通りの少ない閑散とした地域にあった。
花の金曜日。友人といつもの様に飲みに行き、適度な酔いに心地良く身を委ねながら帰路に着いていた。酔っていた、といっても足元が覚束無くなるほどではない。社会人として数年過ごしてきて、自分の限界は流石にちゃんと把握していた。

しかし、程度はどうであれ酔いは酔い。酒は人の五感を鈍くする。

カツカツ、と自分のパンプスの鳴らす音に、いつの間にか男の重く引き摺るような足音が混ざり始めていたのに私は気付けなかった。

自宅マンションの近くまで来てやっと気付いたがもう遅い。このまま家まで誘導するわけにはいかないと、まだ完全に酒の抜けきらない思考回路が辛うじて命令を下す。


そこからは長かった。


「ハァッ、ハァッ……!!」

走っても走っても同じ速度で後ろをついてくる。楽しんでさえ、いたのだろう。カラカラと男の持っているバットのようなものが引き摺られる音が不安を駆り立てる。
角を曲がり、建物の陰に隠れしゃがみ込み息を潜める。否が応でも上がってしまう呼吸を止め、顔を俯かせる。このままやり過ごせることを願った。

永遠にも感じられる静寂。


我慢出来ずに閉じていた目を開けると、そこには下卑た笑みを浮かべる黒ずくめの男の姿があった。


振り下ろされる何かに反応できないままの私を最後に、記憶は無い。


覚醒した最初は混乱で気が狂いそうだった。
だが、ここが前の世界で愛読していた漫画の中の世界だと気付いた時の混乱はそれ以上のものであった。しかも、舞台はミステリー漫画である。読む分には楽しめていたが、いざ自分がとなると、怖すぎて主要人物に近付くなど考えられない。
何せ私は感情がモロに顔に出やすい。何とか隠そうとはしているものの、最近では無駄な足掻きだと理解しつつある。
そんな私が、あの異次元な程に冴え渡った頭脳を持つ彼らの前に出るなどしてみた日にはどうなってしまうのか。私はまだ死にたくない。

だから、私は自分のミーハー根性を宥めつけ、絶品と評判のハムサンドを食べに行くのも我慢しながら、慣れない生活に四苦八苦しながらも平穏な日々を得るべく行動してきた。

のだが。

何故私の目の前には、只今近づきたくない人ナンバーワンに君臨する詐欺小学生探偵がいるのだろうか。隣にはこれまた金髪のベビーフェイスがいる。止めてくれ、こちらを見ないでくれ。角を曲がって出会い頭にぶつかって転ぶとか漫画じゃないんだからやめ…あ、これ漫画だったわ。

「お姉さん、大丈夫!?」
「お怪我はありませんか?」

大丈夫じゃないです、主に貴方達のせいで。