それでも言わずにはいられない

ゆらゆら。水中を漂うような感覚。



私なんて、所詮こんなものだ。



「…さん。起…て下さ…、…さん」
「………ん」
「あ、ナマエさん、起きました?」

揺蕩う意識を無理矢理浮上させ、目をこじ開けたら色黒のイケメンが至近距離にいた。
心臓止まるかと思った。色々な意味で。

「あ、むろさん」
「はい、安室ですよ。どこか痛かったりしますか?」
「…いえ。あ、あの、近い…」
「あぁ!すみません、心配だったものでつい…。ナマエさん、死体を見て吃驚したのか、いきなり倒れちゃったんですよ。覚えていますか?」

死体。

そう聞いて、私は意識を失う間際に見た男の姿を思い出した。両手で拳銃を握り、息絶えていた男の姿を。
漫画などの紙面上で見るだけならまだ大丈夫だった。アニメでも、やはり画面の向こう側なのだからリアルに感じる事は無かった。しかし、実際近くで見ると、視覚だけではなく嗅覚、聴覚すら嫌に冴え渡ってしまうものなのだと初めて知った。

そして私は、既に命のない彼に何て事を言ったのだろう。

(ごめんなさい、って。…有り得ない…)

結末を知りながらあまつさえ見殺しにしただけではなく、無責任に許しを請うのか、私は。いつからこんなにも汚い人間になってしまったのだろう。

それに。

「ナマエさん、本当に大丈夫ですか?何だか顔色が悪いですけど…」

正義と真実のために身を費やしているこの人達の傍では、尚更自分の情けなさが身に染みる。

「…えぇ、大丈夫です。吃驚しちゃって」
「当たり前ですよ、あんな物を見て驚かない人はいません。僕らなら兎も角、ナマエさんは普通の人間ですから、ね」
「……はい」

只々、苦しかった。



「では、私はここで」
「本当に部屋の前まで送らなくて大丈夫ですか?」
「ええ、殺人犯も流石に居ないでしょうし。ありがとうございます、毛利さん」

警察の事情聴取も終わり、毛利さん達は梶塚さんを自宅に送るという。皆で下に降りたところで、私はポアロの前で別れを告げた。
彼等はこれから樫塚さん、いや、浦川芹奈さんと共にアパートへ行き、そこで男の死体を見つけるのだろう。そして、本当の犯人に人質にされたコナンを助ける為、あの例の三人や阿笠博士、哀ちゃんが奮闘する事も、私は知っている。
だが、そこまで見届ける気力は今の私に無い。彼等も、私の顔色をしきりに心配してくれたのだから、相当酷い顔をしているのだろう。一応、ショックによる軽い貧血だろうと検討をつけていたが、翌日ちゃんと病院へ行くように注意された。

「ごめんね、ナマエお姉さん。僕が我儘を言ったりしたから…」
「いいえ、大丈夫ですよ。…コナンくんこそ、大丈夫?死体、見ちゃったらしいけど」
「うん、僕慣れてるから!」
「へ、へぇ〜…」

しかし、冷静になってくるとあの面子の中で私一人が倒れるだなんて情けないにも程がある。中身が高校生だとしても、小学生が耐えたものを、こんないい歳した奴が耐え切れなかったのが少し恥ずかしい。
周りの人達はそれが当然と言ってくれたし、目暮警部に至っては、「普通の感性だ。彼等が少し、いや、かなり現場に立ち合いすぎなんだよ」と言ってくれたから、それで自分を慰めるとしよう。

キィ、という音と共に、安室さんの車が目の前に止まった。白のRX-7。ファンの間じゃ有名なものだったな、としみじみと感じる。

「皆さんお揃いですね、それじゃあ行きましょう。…あ、ナマエはもう帰られるんですね」
「はい。すみません、ご迷惑をかけてばかりで」
「いえいえ、それじゃあ気をつけて。…あぁそう言えば」

皆が車に乗りこんだ後、何かを思い出したかのように安室さんが小走りで駆け寄ってきた。何だ。

「さっきの事件の事なんですが…」
「はい」
「ナマエさん、本当は最初から気付いていたんじゃありませんか?」
「……………え?」

いきなりの核心を突く質問に呆気にとられてしまう。安室さんは薄笑いの表情を変えずに淡々と話を進めた。

「いえ、事務所に入った時にやけにトイレの方をチラチラ見ておられましたし、実際その中で殺人が起きていましたからね。それに…」
「…………」
「貴方、倒れる直前に言ってたんですよ。『ごめんなさい』…ってね」

あぁ、聞かれていたのか。

「何か思う所でもあったんじゃないですか?」

微笑みは元は威嚇行為だと聞いたことがある。威嚇とは少し違うかもしれないが、笑っているのに蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。逃がす気は無いらしい。

「…そうですね。その言葉は身に覚えがありません。それに、チラチラ見ていたのも、トイレをお借りしたかったんですが初めて招かれた家で場所が分からなかったから、検討をつけてただけですよ」
「誰かに聞けばよかったのでは?」
「…蘭さんはお茶を入れていましたし、男性に聞くのは、恥ずかしかったので。それと」
「それと?」
「私に、人殺しなんてできませんよ」

これを自分の口で言うのも、皮肉なものである。殺人を肯定なんて一切しない。だが私は殺人どころか何のアクションも起こせない人間だ。ある意味、買い被りすぎなのである。

「…そうですよね。じゃあ僕の勘違いですね。ごめんなさい、変な事言ってしまって」
「いえ、大丈夫ですよ。それでは」
「ええ、それではまた。今度はちゃんと先生の推理をお見せしたいものです」

そう言い残すと、彼は今度こそ車を走らせて行ってしまった。既に真っ暗になった夜空の下、去ってゆく白い車体をぼんやり見送った後、隣のアパートへと向かう。

今はただ、まだ慣れていないベットの上で何も考えずに眠りたかった。