心を殺す方法

コナンくんと一緒に探偵事務所の階段を上りながら、事件の内容を聞く。どうやら、コロンボというレストランで待ち合わせしていた依頼人が、待ち合わせ時間を過ぎても来なかったらしい。不審に思った彼らは、もしかしたら事務所の方に来ているのかもしれないと考え今に至るのだ。と、未だに手を離そうとしない、むず痒そうな表情をしたコナンくんが説明してくれる。

その話を聞きながら、私は自分の顔が強ばっていくのを感じた。


ロッカーの鍵。コロンボ。探偵事務所。


これ、あれだ。原作で読んだあの事件だ。
という事はつまり、この扉の向こう、もっと言ってしまえばこの事務所のトイレには今頃。


今私には二つの選択肢がある。
一つは、原作に忠実に、彼らと同じく行動して一つの死体を増やす物。
もう一つは、鍵が空いたら何も言わずに一直線にトイレに行き、拳銃を奪い取って殺人を阻止する物。
人道的な観念から見れば、後者を選ぶに違いない。そうだ、私だって本当は後者を選びたい。

でも、でもそれでもし、未来が変わってしまったら。

拳銃を奪いきれずに撃たれてしまったら。
その弾が、私じゃなくて安室さんやコナンくん達に当たったりでも、した、ら。

人の命は何よりも尊い。救える命が側にあるのに、この足はピクリとも動かない。

でも、それでも私は。

隣に居る小さな彼なら、同じ状況下でも直ぐにあの男性を救う為に動き出すのだろう。それだけの力も頭脳も持っているのだ。
でも私にはそれが無い。コナンくんのような明晰な頭脳も、安室さんや蘭ちゃん、小五郎さんのような相手を止められる武術も、何一つ持たない非力な女。どう足掻いても私はその程度の人間だった。
そんな私に何が出来る?より事態を悪化させてしまうかもしれないリスクを、今この場で背負うことができるのか?

いや、どれもこれも言い訳だ。

結局私はーーー。


「……ナマエさん?大丈夫?」
「……っあ、あ……」

手をクイクイと引っ張られ、ハッと我に返る。気付けば、私はコナンくんの手を固く握りしめてしまっていた。

「ご、ごめんね…!痛くなかった?」
「ううん、大丈夫だよ……。それよりも、本当にどうしたの、ナマエさん。顔色悪いよ?」
「……ごめんなさい、緊張してしまって。情けないですね、気にしないでください」

そういって今出来る目一杯の笑顔を向けたつもりだったが、先程とは違う、どちらかと言えば不審そうな表情を向けられてしまい、思わず目を背ける。
今は、彼の真っ直ぐな瞳を直視できない。私が持てない、その光が、辛い。


探偵事務所内は、紙面やテレビで見たものと何ら遜色なく存在した。いつもならあちこちと見回ってしまうだろうが、今はそんな気分になれず、チラチラとトイレに続く扉を見てしまう。

「で、誰も待ってねぇし?」
「本当だぁ」

部屋に入ってすぐ手を離したコナンくんは机の上の灰皿を気にしている。そういえば、安室さんも事務所に入る前にドアノブを気にする素振りをしていた。事前に知っているからこそ分かる事ではあったが、一体彼等は常日頃からどれだけ気を張って生きているのだろう。

「一応最初のメールアドレスに、直ぐ戻るってメールを出したんだがなぁ…」
「じゃあ、その内返事が来るんじゃない?…紅茶でも飲んで待ってる?」
「いいよぉ、コロンボで珈琲飲み過ぎた…ちとトイレ」
「あぁ、蘭さん。紅茶入れるなら手伝いますよ」
「あ…私もお手伝いを」
「いえ、ナマエさんはお客さんみたいなもんなんですから、ゆっくり座っててください!」
「いえ、そんな……。そうですか、すみません」

小五郎さんがトイレに向かい、安室さんと蘭ちゃんは紅茶を入れに行った。私だけ手持ち無沙汰なのも申し訳ないが、小五郎さんがトイレに一歩近付いていく度に心臓の動きが大きく早くなり、とても他の事に手をつけられる状態では無かった。

気付いて。そのまま、お願い、気付いて。

そんな願いも虚しく、携帯に入ったメールに小五郎さんは足を止めてしまった。
どうやらコロンボに着いた、という旨のメールが入ったらしい。そのタイミングの良さに、小さな探偵は眉をひそめていた。

「じゃあ、僕もついて行くからちょっと待ってて。先にトイレ済ませちゃうから」
「チッ…んぉ」

小五郎さんの携帯がまた着信音を奏でた。催促を促すメールが届いたようで、まるで見計らったかのようなそのメールに皆が不信感を募らせる。コナンくんは確信したかのように顔を硬くした。斯く言う私も、焦りでいよいよ顔が真っ白になっているのが分かる。

まだ、今ならまだ。
間に合う、のに。


「ではまた皆で、コロンボに行きましょう」
「えっ」
「さぁさ、皆さん急いで」
「ほら、早くしないと依頼人さんが待ちくたびれちゃうよ」
「そうですよ。ね、ナマエさんもそれで構わないですよね?」

安室さんはこちらに笑顔を向けてくる。これから先、何が起こるのか知らない、普通の人の顔だ。

「……………はい」

私は、促されるがままに、探偵事務所の外に出た。

「あれ、ナマエさん大丈夫ですか?顔色悪いですけど…」
「う、うん、大丈夫」

ドアを閉め、小五郎さんが階下へと向かいかけ、蘭ちゃんが体調の悪そうな私に声をかけてくれた。私は、声を掛けられても尚、未練がましくその場から動こうとしなかった。そんな中、安室さんが皆に静かにするよう声をかける。
そこから、安室さんとコナンくんが自身の推理を、まるで答え合わせをするかのように披露していく。
こじ開けられた痕跡、濡れたティーカップ、消えた吸殻のゴミ、タイミングの良すぎるメール。
彼等の見事な推理も私の耳には入ってこない。それは、とうの昔に知っていた事だった。そして、それを知っていながらも黙っている自分が、今ここにいる。

「で、でも何でそんな事を…。コインロッカを探して貰いに来ただけなのに」
「そのロッカーに、トンデモねぇものが入ってんじゃ…」
「さぁ、それは…」

そう言うと、安室さんはドアを開けた。

「本人に聞いてみましょうか」
「ほ、本人って…」
「まさか…」

驚愕の声を上げる二人の背後で、私は世界の音が自分から遮断されているような感覚に陥っていた。
何か、何かしないと、あの男の人が死んでしまう…!
思考の渦が頭の中でとぐろを巻く。しかし、そんな私に誰も気付くことなく、物語は進んでいく。

いや、進んでしまった。

「そう…恐らくその誰かは、何らかの理由で依頼人を連れ込み、まだ隠れているんですよ」


ああ、私は結局、臆病者のままか。


「っ、待って……!」
「…あのトイレの中にね!」

バァンッ!!

乾いた音が鳴り響く。
それは、生命の切れ落ちる音だった。

コナンくんがいち早く反応し、トイレのドアを開ける。少し遅れて安室さん、小五郎さんが続いた。三人とも驚愕の表情を浮かべている。
気付くと、私の足もふらふらと同じ方へ進んでいった。

見たくない。見たくない。見たくない。

水の中を漂うような思考は、只々『見たくない』とタダをこねていたが、私には分かっていた。

私は、この光景を、焼き付けていかなくてはならない。

「と、取り敢えず警察を呼びましょう!」
「あぁ……。ん、ちょ、ちょとナマエさん、来ない方が…!」
「………」

小五郎さんが焦って私の視界を遮ろうとするが、もう遅い。私の目は、ちゃんとその凄惨な光景を捉えていた。

縛られた女性、そして開いたドアの奥に見える便座の上には。


拳銃を自分に向け、上向きに口をパカリと開けた状態で息絶えた男の姿があった。

「…ごめ、な…」
「え、ナマエさん?と、取り敢えずここから離れて…」
「…………………ごめんなさい」
「……え?おい、ナマエさん?お、…い、………さん!」


遠くから皆の声が聞こえてくる。じわじわと広がっていく死の匂いを前に、私は意識を沈めていった。