人の性

坂田さん(+ワンコ)と別れた後、私はぐずぐずと鼻を鳴らしながらも店の奥へたまさんに連れられて行き、気付けば手に浴衣一式を持たされ風呂部屋の前に立っていた。

「ナマエ様のタオル等は後々中に置いておきます。他に何か入用ですか?」
「い、いえ、ここまでして頂けてとても嬉しいです…!」
「遠慮なさらないでください、困った時はお互い様ですから」

そう言うと、たまさんは私のパンパンに腫れた目元を見て花のような笑みを零した。それは決して嘲る類の物ではなく、気遣いに満ちたものであった。

「今日はお疲れでしょう。ゆっくりと湯に浸かって、身体を労わって下さいね」
「………はい、本当にありがとうございます」

また嗚咽が込み上げてきそうになり、これ以上みっともない所を見せられないと焦った私は、たまさんの顔も碌に見ずに風呂場へと足を踏み入れる。ちょっと冷たく見えてしまったかもしれないが、今の私にそれを気にしている余裕は正直ない。後で謝っておこう。

勝手知らぬ風呂場でセーラー服を脱ぎ、髪の毛を結いて、体を少し流した後湯のたっぷり張ってある風呂に浸かる。湯槽というのは不思議なもので、自分でも気付かぬ内に溜まっていたらしい疲れが段々と解されて行くのを感じた。

湯の中の掌を見つめてみる。確かに私はここに存在している、はずだ。私は今湯の熱を感じ、髪からは水を滴らせ、この目でこの掌を見つめている。
でも、それならここに来るまでの私はどうなったのだろうか。課題を終え眠りについたはずの私は、どうしてここに存在しているのだろうか。今ここにいる私は、一体何なのだろう。

「…ダメ、こりゃ哲学だ。私には難しすぎる」

掌を持ち上げ、ばしゃりと大きな音を立てながら温かい湯を顔に浴びせる。理由はどうであれ私がここにいるのは疑いようのない真実だ。断じてこれは夢ではない。
ならば、それを受け入れて行かなければ。現実逃避をしても事態は好転しない。頭ではとうに理解しているのだ。
でも、それでも。と、頭では理解していても、心はどうにもならない。自分の理解の範疇を超えた事態に、不安感が募る。
今ここで、涙を流しても良い事は起きない。それは分かっていても。

今は

今だけは。




自分の零す涙すら、暖かかった。







折角のお湯でまた泣いてしまったものの、しかし入る前よりは少し思考もクリアになっている。
いつもより時間をかけて体を洗い、もう一回湯船に浸かった後、やっと浴室から出た。たまさんが用意してくれたのであろう、ふわふわのバスタオルが置いてある。嗅ぎなれない柔軟剤の香りがして少しソワソワした。
髪の水気も大分取れてきて、さて着替えようとした時ナマエは気付いた。
いや、気付いてしまった。



この浴衣、裾が長すぎる…!!



悲しいかな、純日本人のナマエはここに住む誰よりも股下の長さが足りないのであった。
このままでは裾を引き摺ってしまう。端折ってみようとするも、サイズが大きすぎてすぎて一人ではそれもままならない。第一、風呂後はスウェットにジャージがテンプレだったナマエにとって、湯浴み後の浴衣は割と異文化だったのである。

どうしよう、どうしよう…!

一人冷や汗を垂らしていると、外からたまが呼び掛けてきた。今の私にとってそれは死刑宣告にも近しい。

「ナマエ様、入っても宜しいでしょうか」
「えっ!?あっ、あの、ちょっと待って下さ、」

ガラリと戸が開けられる。いやいや待って、まだ無理だって…!!!

「…………」
「…………」

無言で見つめ合う二人。そのうち一人は下着に前を合わせただけの浴衣姿。傍から見れば何と滑稽なと笑うかもしれないが当の本人達、いや、たまの方は動揺が見えないが、ナマエからしてみれば恥ずかしい事この上ない。火照った顔に、更に熱が籠るのを感じた。
暫くして、凍りついた時を動かしたのはたまの方だった。

「申し訳ございません。かなりお時間が経っていたので、何かあったのではと思いまして」
「いや、あの、その…すみません。みっともない所を…」
「いえ、見た所浴衣の着付けに手間取っていたようですが、お手伝いいたしましょうか?」
「…………お願いします」

うわぁ恥ずかしい、恥ずかしい。やめてたまさん生暖かい目線を向けないで。

さっきまでのセンチメンタルな気分など何処へやら。ナマエは結局の所、たまに着付けをして貰いこの羞恥を乗り越える事が第一の課題であり、受け入れるべき現実だったのである。





「本当に、何から何まですみません…」
「いえ、それではお登勢様達の所へ参りましょう」

ほぼ初対面の女性に下着姿を晒してしまった私にもう怖いものは無い。
先程のハプニングで寧ろ心が強くなったナマエは、無事浴衣に着替えた後、たまに連れられてお登勢達の元へと向かった。


「ちょいと浴衣のサイズが大き過ぎたみたいだね…あとで新しいの持ってこようか」
「あ、大丈夫です。たまさんに端折って貰ったので…」
「マ、アンタノ足ガ短スギンノガ悪インダナ」

畳張りの部屋ではお登勢さんと、あの強烈な顔立ちをしたネコミミさんがお茶を入れて待っていてくれた。この世界に来てから初めて落ち着いて腰を下ろせる。二人が用意してくれたお茶は、湯冷めしかけた両手をほっこりと温めてくれた。

「あの、改めて本当にありがとうございます。皆さんが居なければ、私今頃…」
「銀時がしてくる拾い物はもうアンタで四つ目だ。今更驚きやしないよ…。しかもアイツから拾い物をしてくるなんて珍しい事さ」
「運ガ良カッタナ、ウロウロシテタラアットイウ間二連レ去ラレソウダシ、オ前」
「さ、先程から物凄く辛辣ですね…」
「フン、コノキャサリン様に口答エナンテ、百年早インダヨ!!」
「止めろアホ」

ドッゴォ!!

お登勢さんの盛大なチョップが物凄い音をたててキャサリンさんの頭にめり込んだ。い、痛そう。当のお登勢さんはというとケロッとしているし、たまさんもしれっとした顔でお茶のお代わりを注いで回っているから、通常運転と考えて、いいの、かな?
うん、そう思っておこう。

そこからはお登勢さん達にこの世界の事を詳しく教えて貰った。あの動物の頭を持った人達は天人、という宇宙人らしく、どうやらこの日本は私の知っている歴史から少し逸脱しているらしい。天人侵略、攘夷戦争、そして今。情報の渦に飲まれそうである。

気づいた頃には、湯呑みの中は空っぽだった。

「しっかし、どれだけの田舎娘かと思っていたが、まさか天人を知らないたぁ驚きだよ。それか、良い所の箱入り娘かい?何にせよ、さっきキャサリンが言ってた事はあながち間違いでもないかもねぇ」
「と、言いますと?」
「ぼけっとしてたらあっという間に連れ去られて、売り飛ばされてたかもしれないってことさ。気を付けな、この街には気の良い奴も多いが、悪どい奴もごまんといるんだからね」
「ひいぃ…」

そんな目に遭ったことが無い為実感は湧かないが、私は本当に幸運だったのだろう。

「それでナマエ様、これからどうなされるのですか?警察に行って保護してもらうというのは…」
「…すみませんが、それはちょっと。詳しくは言えないんですけど」
「取リ敢エズ、明日は坂田サン家二行ッテクレバイインジャネーノ」
「そうだね、その間に何か一つくらいは良い仕事見つけてきてやるよ。働かずにここに居るっていうのも気が引けるだろうしね」
「そ、そんな、良いんですか!?……ありがとうございます!!」

ここまでして貰いながら、ふと疑問に思った。なぜこの三人はここまで私に優しくしてくれるのだろう。
だっておかしいじゃないか。あちらからしてみれば、私は上に住んでいる住人が勝手に連れてきた得体の知れない女で、良くしてやるメリットなんてどこにも無い。だというのに、彼女達は私に風呂を貸すどころか、寝床や仕事も提供してくれるという。
一見只の我儘な家出娘な私に、どうしてここまで。
無償の行動は時に不安感を催す。段々と溜まった疑念は、私の口から言葉となって漏れ出た。

「………どうしてですか」
「ん?」
「……どうしてここまで、私、事情も満足に説明できなくて、何も知らなくて、なのに、皆どうして。おかし…」
「そんなに可笑しい事かい?」

あっけらかんとした声に目を見張る。たまさんがお登勢さんに変わって私に話しかける。

「メリットデメリットだけで動く人間は、実はそう居ないのですよ、ナマエ様。皆さん何かしらの事情を抱えているものですし、この街は腹に一物抱えた者達の巣窟です。斯く言う私もその一人ですから」

それに、とたまさんは言葉を続けた。

「話したくない事は話さなくても大丈夫ですし、警察に行きたくないというならば行かなくても大丈夫です。ですが、それで途方に暮れているというなら、暖かい場所を提供するくらいはさせて下さい。それが人間というもの性ではないかと、機械の身分ながら私は思うのです」
「そうさね、このネコミミクソババァなんて腹どころか顔にも一物抱えてんだ。ナマエ、アンタの方が数十倍マシだよ」
「アンタニダケハ言ワレタクネェンダヨ!!」

目の前で繰り広げられ始めた言い合いも気にはなるが、それ以上に聞き逃せない言葉が聞こえた気がする。

「た、たまさん。機械とは、一体…?」
「あれ、お伝えしておりませんでしたか?私、発明家の林流山によって製造された、からくり家政婦でございます」
「か、からくり!?」

え、まってからくりって、あのからくり?機械ってこんなに人間に似せて作れるものなの?違和感が無さすぎる。
でも、そう言われてみれば、肌の質感や瞳の虹彩が機械じみている気もしなくは無い。

「とは言っても、うちの看板娘は天才によって作られた、ちゃんと感情を持ったからくりだよ。人間と大差ないね」
「はい、からくりであることに誇りは持っておりますが、人として接していただければ幸いです。まだまだ成長途中ですが、よろしくお願いします」
「……正直、びっくりしました。でも、それだけで、はい。からくりだからといって、何かが変わるわけでもありませんよね」

そこまで言ってみて、ふとスナックお登勢の面子を冷静に見てみた。
親切なママに、ネコミミに、からくり。
濃すぎる。濃厚過ぎる。

「ふ、ふふ…」
「ナニ笑ッテンダヨ?」
「い、いえ、だって私の知ってた常識とは随分かけ離れていて…。とても、楽しそうなお店だなぁって思って…ふふ」

失礼とは分かっていても、笑いが止まらない。くすくすと笑っている私を見て、三人もつい照れ臭そうな笑みを零した。

「…笑うだけの余裕が出てきたのは良い事だね。ほら、子供はさっさと寝な。寝床は用意してやったから、たま、連れてってやりな。キャサリンはアタシと一緒に最後の後片付けだよ」
「はい、お登勢様」
「あ、すみません、ありがとうございます!」

どうやら片付けが終わっていた訳ではなく、私の為に時間を割いてくれていたらしい。
表に出さない優しさに顔が緩む。机の上に置いてあった盆に、全員分の湯呑みを置いてキャサリンさんに手渡した。

「ありがとうございました、とても美味しかったです」
「オウ。早ク寝ロヨクソ餓鬼」
「はい。…あの、お登勢さん、キャサリンさん」

店の方へと立ち去りかけていた二人へ声をかける。待ってくれているたまさんには申し訳ないが、これだけは言っておかなくてはならない。
一人で過ごしていたかもしれない夜を、暖かく彩ってくれた方々に、この言葉を。


「おやすみなさい、また明日」
「……ああ、おやすみ」
「イイ夢見ロヨ」


その日、私は夢を見た。
内容はよく覚えていないが、酷く哀しくて、苦しくて、そして愛おしい記憶だったように思う。