01

 広大な敷地一面に咲き誇る花畑の中心で男女が寄りそい佇んでいた。二人は仲睦まじそうに笑いあい、そして口付けを交わす。表情までは伺えないが、二人は愛し合い幸せなのだとわかった。

「――様。 愛しています――」「あぁ。僕もだよ」と、愛の言葉を囁き合い、抱き合う二人――。

 朝日が差し込む眩しさで目を覚ました。まだ完全には覚醒しない頭で、しばらく無機質な白い天井を眺めていた。ふと目元に違和感を覚えたわたしは目元へと手を伸ばした。それはわたしの意思とは無関係な涙が一筋流れていた。

「またあの夢――」

 ここ何年も見なかった夢を久しぶりに見た。幸せな夢なのに目が覚めるとなぜかいつも涙を流しているのだ。涙で朝から気分が重い。あの夢を見ると必ず胸が締め付ける感覚があった。けれどわたしにはその正体がわからなかった。ただわかっているのはこれから起こるだろう災難の前兆だということだけだ。中学生時代には頻繁に見ていたその夢は、現実でも悲しく悔しく苦通な日々を送っていたわたしには到底いい思い出のないもので、気分は落ち込むばかりだった。

 ベッド横のサイドテーブルの上に静かに鎮座している目覚まし時計をぼんやりとした目で見た。時刻はまだ朝の六時だった。これから二度寝も十分出来る時間だったが、また例の夢を見るかもしれない。そう思ってのそりと身体をベッドから降ろし、重たい体を動かして身支度を始めた。

 今は六月。初夏のさわやかな風が吹き、新緑の木々たちがさわさわと揺れる。わたしはこの春、希望していた高校に無事に合格し、晴れて花の高校生になった。自宅からは遠い学校をわざわざ選んだわたしを両親は快く受け入れてくれた。本当は寮暮らしが理想だったが、あいにく定員がいっぱいで一人暮らしは心配だからと一昨年実家を出て、今は気ままな一人暮らしを堪能する姉の家で同居させてもらっている身だ。姉の住まいは幸い、通う高校からも近く徒歩十分といったところだった。近くにスーパーや駅もあり、なかなかの好立地だ。

 いつもより早く目覚めたわたしは早々と身支度を済ませ、日課の弁当づくりと朝食を作るためにキッチンへと向かった。毎日持参する弁当をせめてものお礼にとわたしは同じように姉の分まで作っている。昨晩下準備をしていたおかずを冷蔵庫から取り出してキッチンに並べる。いつも寝る前にタイマーセットしている炊飯器は、早炊きに切り替えて炊飯ボタンを押した。ピーという音が鳴って炊飯器はこうこうと音を鳴らした。ご飯が炊き上がるまで三十分弱といったところだろう。並べたおかずたちを彩りと栄養を考えながら女性用の小さい弁当箱に詰めていった。朝食はもっぱら洋食の姉のために目玉焼きとウインナー、心ばかりのサラダを添えて一つの皿に盛った。わたしはその日の気分で和食か洋食かを決めている。今日は和食の気分だ。決して大きくはない二人用のテーブルに完成した朝食と弁当を置いた。そうしているうちにピーピーと炊飯器がご飯の炊ける合図を奏でた。二人分の弁当にご飯を詰め、自分の茶碗に軽く盛って残りはタッパーに入れた。椅子に座って「いただきます」と手を合わせてゆっくりと朝食を味わった。歯を磨いて全身鏡で自分の姿を確認した。よし、と高校指定のバッグを肩にかけて、テーブルには姉宛ての弁当とメモを置き、夜遅くまで仕事に勤しんで疲れて眠っているだろう姉を起こさぬよう注意しながら靴を履いた。

「いってきます」と誰もいない廊下に小声で呟き、玄関のドアを押し開けた。初夏の陽気が気持ち良く早朝の澄んだ空気を身体に浴びてわたしは学校へと歩き出した。

 学校へと近づくにつれ、毎朝早くから練習に打ち込む野球部の活気の良い声が響いてきた。普段は通りかかる時刻には練習は終わっており、人一人いないがらんどうのグラウンドを横目に通り過ぎるだけだったが、今日は幾分か早くに家を出たため練習時間に間に合ったようだ。それならばせっかくなので見学しようとグラウンドを隔てたフェンスに近づき眺めた。――そういえば昔もこんな風に練習風景を眺めていたっけ。と、懐かしい思い出が蘇る。

 姉には親友と呼べる女の子がいる。その弟はわたしと同い年でシニアチームに所属していたので、その当時は頻繁に姉達と三人で応援に行っていたのだ。負けず嫌いで我が儘で、俺様な物言いのその子に散々振り回されていたわたしだったが、何故か嫌な気持ちなど微塵も湧かず毎日繰り返される中学での嫌がらせに曇っている心が彼のお陰で不思議と軽くなったのを覚えている。あの頃のわたしは彼の無邪気さに救われていたのだろう――。

 思い出に一人遠くを見て微笑んでいたわたしは、練習が既に終わってしまっている事に気づけなかった。視線を感じ顔を向けるとそこには数人の野球部員達がこちらに目を向け立ち止まりわたしを見ていた。その中には同じクラスの友人、沢村栄純もいて彼はわたしを見つけると駆け寄ってきた。

「おはよーッス! 雛早いな!」と彼は言った。

「おはよう、栄純君。朝から元気だね」とわたしも返事をした。栄純は「それだけが取り柄なもんで!」と叫んでいる。相変わらず底抜けに明るい。そんな彼、栄純は入学から一週間経った教室での自信溢れる宣言が印象的だった。「いずれ俺は野球部のエースナンバーを背負う男だ!! よーく覚えとけ!!」と叫んだ栄純に呆気にとられたクラスメイト達は、一瞬の間をあけて「何言ってんだこいつ〜」「俺たちに宣言してどーすんだよ」と、どっと教室中が彼を馬鹿にした笑いが起きた。けれどわたしはそんな彼の気持ちの強さに憧れ、人見知りな事も忘れて「友達になって欲しい」とお願いした程だった。そして優しい栄純はすんなりとそれを受け入れたのだ。栄純の天性の人懐こさも加わり、わりとすぐに下の名前で呼び合う程度に仲良くなった――。



 相変わらず元気発剌な彼につられてわたしも自然と笑顔になる。栄純と話すといつもそうなってしまうのだ。笑いあい談笑するわたしたちを傍らで見ていた部員の一人が栄純のお尻に突然蹴りかかった。蹴られた栄純は衝撃で数歩先まで飛ばされてしまった。「痛ってー!!」と涙目で叫び尻を押さえ悶絶している彼に「だ、大丈夫?」とわたしは駆け寄り背中に手を置いた。

「なにすんだよ!」と栄純が振り向き言うと、「お? タメ口か?」と蹴りかかった彼は挑発していながら近づき「……すいやせん」と萎む栄純の耳を引っ掴んで立たせた彼はわたしに向き直った。蹴りかかった彼は倉持という先輩で、栄純は日々心身ともに鍛えられているのだと言っていた。

「いててて、痛い、痛いです!」と言う栄純に気の毒そうな目線を送った。(わたしでは止められそうもない。ごめん栄純君)と心の中で謝って目の前で繰り広げられる出来事に驚いていると、次は栄純の首を腕で絞め上げている張本人から不意にわたしに声が掛けられた。

「このバカ連れてくんで、また観に来てやってください!」と親指を立てキメ顔で言う彼にはわたしも「はい……」と答えるしか出来なかった。彼に連れられ引き摺られる栄純が「また後でな!!」と首根っこを掴まれながらも必死で手を振り叫んでいるのに対し、わたしも手を振り返した。怒涛の出来事にしばらくその場に立ち止まっていた。気づけば遠くで見ていた部員達もいつの間にか誰一人として居なくなっていた。しばらくして気を取り戻したわたしは教室へと足を進めたのだった。

 教室へ到着したわたしはまだ誰もいないその場所が物悲しく静かな為、少し感傷に浸り、今朝見た夢も相まって切ない言いようのない気持ちが胸の奥から込み上げた。先程の騒がしさがもう既に懐かしくなっている。一人いつもの自身の席に座ってセンチメンタルに陥っていると、廊下から賑やかな話し声が聞こえてきた。時間になり生徒たちが続々と登校してきているようだった。酷く落ち込んだ顔を誰にも見せたくなかったわたしは、いつも持参している小説本を鞄から取り出した。きっと文章に集中はできないだろうが、何もせずにいるよりはいいと思ったからだった。やはり内容などは全く頭に入ってこなかった。

 教室内が徐々に騒がしくなってきた頃、小説本を持ち、ぼんやりとしていたわたしに「おはよー!」とかかる声があった。声をかけた彼女はわたしの友人で、なにかと面倒見が良く心配性な女の子だ。青道高校に入って初めて出来た友人だった。「おはよう雛。ぼーっとしてどうしたの?」と、椅子に座るわたしの目線に合わせて机の前に屈み小説本を閉じて置いたわたしの顔を覗くように見つめてきた。

「ううん。夢見が悪くて気分が下がってるだけだよ」 と声をかけてきた彼女に言って「大丈夫だから」と心配をかけまいとにこりと笑顔を見せた。彼女は「それなら良かった!」と安心したように笑って立ち上がり、持ったままの重たい鞄を自身の机に置いた後でまたわたしの前の席にやってきた。今度は椅子を引き出して座った彼女と喋るのは毎朝のことだった。誰にでも分け隔てなく接する彼女は男女共に友人が多く、栄純も例外ではなかった。わたしは過去の苦い思い出で人付き合いが苦手なのだ。言うならば少し人間不信である。それは中学二年の時、一部の非情な女子達により血も涙もない仕打ちを受けたからだった。昔から男の子からの頻繁な呼び出しを受け、告白をされていた。はっきりと断りを入れるのだが中には諦めの悪い人もいて、付き纏われて怖い思いをした事も多々あった。その中に好きな彼がいたクラスのリーダー的立場の女子がわたしを逆恨みしてそれは段々とエスカレートして行ったのだった。――そんな経験が重なりそれらの出来事はわたしを人間不信に陥らせるのには容易かった。「そう言えば今日って空いてる?」唐突に彼女が言った。特に予定もないわたしは「空いてるよ」と答えた。何故だと問えば学校終わりに他校の生徒との約束があるらしく、一緒に行くはずの友人が熱を出してしまい、今日は生憎学校を欠席しているということだった。だからわたしに一緒に来て欲しいと言うことらしい。先述でも述べたように人間不信で人見知りなわたしには合コンなどの類が苦手だとわかるはずなのだが、わたしが断っても彼女は「どうしてもお願い」と、食い下がったのだ。断っても断っても諦めない彼女に根負けしたわたしは渋々ながらに了承をしたのだった。

「ほんとーにありがとう! こういうの苦手なのにごめんね」と手を合わせる彼女にわたしも「カレンがいてくれるから大丈夫だよ。でもきっと盛り上げられないと思うの。ごめんね」と先に謝っておいた。

「何言ってんのよ。雛が来てくれるだけで嬉しいんだから」と彼女は言う。こういった誘いは今まで幾度かあったが、頑なに断っていた。わたしも思春期盛りで恋愛話に興味がないわけではなかったが、何しろ今まで好きになってくれた人達には悪いが誰に対しても好意を持てなかったのだから仕方がない。

 目の前ではしゃぐ彼女はもちろん可愛いと思う。恋をすると人はこんなにもきらきらするのかと恋のチカラは偉大だと思った。

 「実はね、今日来る人の中にわたしの好きな人がいるんだ」と彼女は嬉しそうに言った。「どんな人なの?」と、しばし彼女の想い人の話で盛り上がっていたそんな折、登校してきた栄純が近づき声を掛けてきた。

「よう! 何の話してんだ?」とわたしたちに言った栄純に、彼女は「内緒!」と言ってわたしに向かって目配せをした。あぁこれは話を合わせてという合図かなと思って、わたしも彼女に賛同した。そんな私たちの様子に彼が素直に引き下がるわけもなかった。

「なぜ教えてくれない」と悔しそうに過熱している。そんな彼にわたしは申し訳なくて「ごめんね」と言った。

「いや、別にいいけどよ。気になるじゃねーかー」と肩を落とした栄純を励まそうと考えたが、うまい言葉が出てこなかった。その間も二人のやりとりは続いていて、彼女が他の友人に呼ばれたところで話は途切れたのだった。

「じゃあ今日の放課後ね」とわたしに言い残して彼女は足早に呼ばれた友人の元へと行ってしまった。その後ろ姿を二人で見送り一拍おいて顔を見合わせて笑いあった。

「台風みたいなやつだな」

「そうだね。カレンといると飽きなくて面白いよ」

「確かに飽きねーよな」

 二人でひとしきり笑い終わると彼が突然真剣な表情をして、机に手をついて勢いよく頭を下げた。何事かと目をぱちぱちと瞬かせていたら、彼はまた勢いよく顔を上げた。

「頼む。倉持先輩がどうしても雛と会いたい、てか会わせろって聞かねーんだ! ――だからこの通り! 一回でいいから会ってくんねーか。 もちろん雛が人見知りでそーゆー事は苦手だってわかってんだ。俺を助けると思ってここはひとつ!」

 そう言ってまた頭を下げた。わたしの目の前には彼の旋毛が見えて、わたしよりも背の高い彼の初めて見たそれはなんだか可愛いななんて思った。

「わ、わかったから、栄純君頭を上げて。みんな見てるし……」

 視線を感じたわたしは慌てて彼に言った。

「あ、すまん」

 彼は机上での土下座のような格好を解いてわたしに向き直った。

「栄純君が紹介してくれるんでしょ?」わたしが言った。

「も、もちろん!」と彼は頷きながら言った。

「じゃあ大丈夫。いつも栄純君にはお世話になってるしそれくらいはさせてよ」

「――本当か!? マジで助かるよ!」

 見上げた彼の顔は喜びで満ち溢れていた。

「これでタイキックから逃れられた……」

「――タイキック?」

「おー、紹介できなかったらタイキックだっつって脅してきたもんだからさ。あれ痛てーんだよなー」

 さも当たり前の事のように彼が言うので普段から先程のように痛めつけられているのがわかって、「よかったよかった!」と喜ぶ彼がわたしは不憫でならなかった。

「じゃあ近いうち紹介するな」と、ニカっと歯を見せ太陽のように眩しい笑顔を浮かべて彼は親指を立たせている。

「うん、楽しみにしてるね」

「おう!」そう言って彼は自身の席に帰って行った。帰った先にはクラスメイトがいて頭を小突かれながらじゃれついていた。

(本当、どこにいても人気者だな)と、その光景を羨まく見つめた。少しして朝のSHR開始のチャイムが鳴った。ざわざわと賑やかだった教室は次第に静けさを取り戻していった。




prev top next

ALICE+